九月半ば、直義から和議の使者が届いたが、二十日も経たずして決裂した。十月、直義が越前国から姿を消した直後、尊氏は近江で兵を整え、鎌倉へ進軍を始めた。
直義が鎌倉に姿を現すことを疑ってはいなかった。策を巡らせる余裕は与えない。速さこそが、直義を戦場へ立たせるために必要なことだった。尾張国を通り過ぎ、遠江国の馬引(現在の浜松市)に辿り着いた時、直義が鎌倉に迎え入れられたとの報せが届いた。
気づくと、水の音が響いていた。
天竜川だ。川幅は広く、流れも速い。水辺に立った尊氏は、背後に整列する三千の兵の視線を受け、片手で水を掬い上げた。凍るような冷たさだった。かつて、後醍醐帝と雌雄を決するため、十万余の兵を率いてこの川を渡ったのも、冬の最中だった。あの時は新田義貞や楠木正成が待ち構える京を目指して進軍し、背後からは当時最強の敵だった北畠顕家が迫っていた。
それでも、急流を越えて征くことができたのは、右に高師直が、左に足利直義が控えていたからだ。今や、そのどちらもいない。掬い上げたわずかな水を呑み干し、尊氏は笑った。
「だが、冷たさも味も、あの頃と変わらぬな」
人が変わろうとも、天地は変わらぬ。国破れて山河ありと詠んだのは、唐の杜甫だが、それはこの国でも変わらぬことらしい。
振り返り、尊氏を見つめる兵たちに向き直った。三千の兵が左右に広がり、尊氏の下知を待っている。砂利を踏みしめる音が徐々に落ち着き、静寂が広がった。
「征こうか」
そう語りかけ、尊氏は一人岸に用意された小舟に乗りこんだ。川渡しの童が、汗を流しながら櫂を漕ぐ。静寂のままの天地に、尊氏は刀を抜き放ち、切っ先を天に向けた。ゆっくりと、東の空へと向ける。直後、背後から喊声が轟いた。駆け出す足音が、天地を揺るがしている。左右から、無数の小舟が尊氏を追い越していった。
遠江国の掛川に布陣したのは、十一月二十六日の夕暮れ時だった。
鎌倉から、五万の大軍が動き出した。黒草衆の報せに、一つ頷いた。やはり、直義は京を脱した時から、関東で兵を募ることを考えていたのだ。その周到さも仇になった形だ。直義は出陣することを渋ったようだが、上杉憲顕や石塔頼房、山名時氏らが、三千のみの尊氏を討つことを強引に主張し、直義も引きずられるようにして出陣したのだという。
直義が、伊豆国府に本陣を置いたという報せを受け、尊氏もまた駿河国の由比山に陣を移した。南に広がる薩埵山を越えれば、直義のいる伊豆国府まで遮るものの無い平地が広がっている。
「道誉は、上手くやったようだが」
十二月に入り、由比山に翻る旗は、日に日に多くなっていた。甲斐の武田信武や、駿河の今川範国、貞世父子、下総の千葉氏胤を始めとした関東の武士が続々と集結し、色とりどりの旗が、山野に溢れる光景が広がっていた。
「……直義は、何をしておる」
どこか、おかしい。集い続ける麾下の軍勢を見て、尊氏は拭いきれない不快さを感じた。すでに関東に入っているのだ。道誉の調略があったとはいえ、関東武士の集まり方が、嫌に順調すぎていた。
直義の妨害を考えていた尊氏の心づもりでは、この半数にも満たないはずだったのだ。
「四万を超え、いまだ各地から集まってきております」
厳めしい表情をする今川範国が、跪きそう伝えてきた。
心の中の不快さを範国に見せることはせず、尊氏は無言で頷いた。
髪と繋がるほどの髯を持ち、眉間には深く皺が刻み込まれている。高師直の指揮の下、範国は各地を転戦してきた。範国にしてみれば、仇討のようにも考えているはずだ。
「下野国の宇都宮殿も、三万の兵を集め、南下を始めたとのこと。大樹の兵がいきなり膨れ上がったことで、伊豆国府に構える敵軍にも動揺が走っているようです。逃げ出す兵も多く、すでに四万を切るほどになっているとも」
「戦いの趨勢次第で、余の軍にも起きうることだな」
「まさか」
そう言いかけた範国が、口をつぐんだ。高師直が死んだ戦を思い出したのだろう。
ふと頭によぎった名があった。
「ふむ、今川直貞という男を知っておるか?」
「……凶徒にございます」
「ほう」
「かつて、今川の家督を奪おうと画策し、追放された者です。燃え盛る炎の中で死んだと思っておりましたが、どうやら生き延びて恥を晒しているようでございます」
「なかなかの才気を、今川は失ったな」
「いずれ、我が子貞世が討ちましょう」
そう言って、範国がちらりと背後を見た先には、端整な顔つきの武士が頭を伏していた。
「いずれ、京にやってくる。その機を逃すでないぞ」
短く気合を発した今川親子を含めた全軍に出陣を命じたのは、十二月十日のことだった。兵が減り続けることを恐れた直義方が、伊豆国府から突如出陣してきた。三万の兵を率いるのは上杉憲顕と石塔頼房。当の直義は、伊豆国府を動いていないようだった。
敵は南北二手に分かれ、内房と蒲原に進んでいる。
「愚かだな。少ない兵を二分したか」
日が昇る前に、尊氏は全軍を下山させ、蒲原へ進んだ。
「音など気にするな。疾く、進むがよかろう」
駿河湾の虚空は、夜明け前の紫色に染まっている。騎上の尊氏は、四万の前衛で富士の平原を駆けた。尊氏の行く手に、軍勢が現れたのは水平線上に朝陽が顔を見せた時だった。
澄みきった平原を、透明な光が照らしている。
左右に大きく広がるように進んでいるのは、上杉軍の兵だ。報せでは、その数は二万ほど。由比山の尊氏を攻めるつもりだったのだろうが、平地に現れた尊氏の姿と、倍の大軍を見てか、行軍を止めた。
白鳥の、人を嘲笑うようなけたたましい鳴き声が、空から降ってきた。
「昔から、お主は戦が下手よのう、憲顕」
止まらなければ、衝突の混乱の中で尊氏を討ち取れたかもしれない。進むことに怯えれば、武士は死ぬのだ。駆け続けてきた勢いのまま、陣形を整えることもせず、尊氏は全軍を上杉軍に突っ込ませた。
両軍がぶつかった瞬間、大地を割るような喊声が轟いた。耳をつんざく金属音と、人の肉を穿つ鈍い音が聞こえてくる。身体の奥から血が熱くなり、感じていた寒さが消え去った。
一瞬で様変わりした原野を見据え、尊氏は刀身を地面と水平に構えた。
黒草衆がどこからともなく現れ尊氏を包み込む。その周囲にも五百ほどの騎馬が守っていた。きつい血の臭いに笑い、尊氏は馬腹を蹴った。ゆっくりとした馬蹄が、徐々に激しくなる。
左右のどちらを見渡しても、味方が上杉軍を押し込んでいるが、一か所だけ頑強に抵抗している場所があった。上杉憲顕の陣だ。尊氏にとっては、従弟にもあたる。幼い頃からの顔を知っている憲顕を遠目に見て、尊氏は周囲の兵を吸収しながら憲顕の方へ駆けた。
憲顕がこちらに気づいた。尊氏の姿を認め、憲顕が慌てて馬に上った。刀の腕は確かな男だった。一騎討ちで斬ってやってもいい。刀を握る拳に力を入れた時、いきなり憲顕が背を向けて駆けだした。あまりにも細い土煙が、遠ざかっていく。
呆気にとられた直後、全身を包んだのは怒りだった。
「……蹂躙せよ」
低く呟いた尊氏の言葉が、鯨波となって戦場を包み込んだ。
蒲原河原が赤く染まり、流れる小川は、上杉軍の兵の亡骸が堰となり止まった。平原に赤い血の霧が浮かんでいるようにも見えた時、それが夕陽の赤さだと尊氏は気づいた。
直義との戦を汚されたような気分だった。
内房に進んでいた石塔軍も、憲顕の敗走を知ってすでに北の信濃国の方向へ逃げ出している。ぶつけようのない怒りを抱えたまま、伊豆国府まで進んだ尊氏は、もぬけの殻となった国府の破壊を命じた。
「錦小路殿は、走湯山権現社に退かれたご様子」
報せてきた今川範国の言葉は、どこか遠慮する様なものだった。口をつぐむ範国に、続けるように命じた。
「錦小路殿は、十日前より病に倒れ、伏しておられるとのこと」
病という言葉を聞いた瞬間、尊氏は胸の奥が鷲掴みにされたような気がした。
兵を集めながら、直義の動きは精彩を欠いていた。心の中にあった不快さの正体が分かったような気がした。寝る間を惜しんで、尊氏を武士の王にするために働き続けてきた弟の、憔悴しきった顔を思い出し、尊氏は思わず呻いた。
「余が自ら行く」
「敗軍の将を自ら迎えると?」
範国の厳しい表情を見据え、尊氏は深く息を吐いた。
「……弟だ」
範国が首を左右に振った。
「せめて、仁木殿を名代とし、殿は名を伏せて行かれてください。戦ってきた者たちに示しがつきませぬ」
「勝手にせよ」
そう言い捨てると、尊氏は単騎、国府を飛び出した。どことなく左右から現れた黒草衆の忍びたちが尊氏を包み込む。背後から、仁木義長が取る物も取りあえず馬に飛びあがるのが見えた。
権現社の境内に駆け込んだのは、正月三日の朝だった。塵一つないほどに清められた境内には、透き通った木漏れ日が差し込んでいる。
社殿の一つに、直義は横たわっていた。社殿の傍には、直義の護衛と思しき武士たちがいたが、尊氏を見ても動くことはなかった。
黒草衆を社殿の前に待機させ、尊氏は一人、庇の上にあがった。
かすれた息が、直義の口から洩れていた。閉じた目元は、最後に見た時と同じく、濃い隈に覆われている。青白い肌に、こけた頬の翳がさしていた。
「夢を、見て、いるのでしょうか」
途切れ途切れの言葉が聞こえた。あまりにも小さい声だったが、間違いなく直義の声だ。
うっすらと、直義の瞼が開いた。
「申し訳ございませぬ」
何に対する謝罪なのかは、言葉にせずとも分かった。尊氏を殺す役を全うできなかったことを、この弟は死の間際になお詫びている。
「直義」
「……兄上」
尊氏の言葉に、直義の目が微かに動いた。
「師直と、同じでございます。悔いはございませぬ」
「待て」
「兄上の望みを叶えるのは、我が子」
そう言った直義が、微かに笑った気がした。
「直冬は、戦場の武士の王を殺す者でございます」
そう呟くようにして、直義が目を閉じた。
すまぬ。そう、かすれた言葉が己の耳に聞こえた直後、直義の息が止まった。
頬を伝う涙は、一筋だけで終わった。武士の王を殺すことが、師直と直義、そして己の望みだった。師直が直義に託し、そして直義は、その願いを直冬に託したのだ。
近づいてきた足音に、尊氏は涙が乾くのを待って振り向いた。遅れてきた仁木義長が、骸となった直義を見て息を呑んだ。
「直義は、病に死んだのではない。余が、殺した」
病ごときに殺せるほど、自分の弟は弱くはない。武士の王を殺す定めに、殺されたのだ。
直義の最期の言葉を思い返し、尊氏は口を開いた。
「殺してみせよ」
遠く、西の空を見つめ、尊氏は目を閉じた。