十 尊氏
貞和五年(西暦一三四九)八月──
二条通りに満ちた数千の軍勢を櫓門の上から眺め、足利尊氏は込み上げてくる笑いを噛み殺した。夏の暑い日差しの中、黒々とつづく軍列は、一条大路はおろか今出川を越えて遥か西の転法輪寺のあたりまで続いているという。全てをあわせれば、数万にも届くかもしれない。
戦の空気としては物足りないが、それでも甲冑を着こんだ武士たちを前にすると、心の底から愉快なものが込み上げてくる。
踊りだしたくなるような気分をなんとか堪えた。
「師直め、まんまと乗せられおったな」
櫓の上に置かれた床几に座る尊氏は、手摺に頬杖を突き、御所を取り囲む高師直の軍勢を見渡した。
幕府の執政者である足利直義を殺すべく、師直の呼びかけに応じた大軍だ。
「師直も覚悟を決めたようだな」
大軍の放つ殺気は、師直の意思が乗り移っているようにも見えた。
一月前、師直は足利家の執事としての立場から追放されていた。
直義腹心の部下である上杉重能と畠山直宗が、師直の専横を糾弾し、直義が執事職の追放を決めたのだ。直後、直義は師直の暗殺に動き、それを察知した師直は自ら軍をまとめ上げ、直義を討つべく河内国から上洛してきた。互いに命を狙い合った以上、どちらかの首が離れるまで終わらないだろう。
直義も師直も、友を殺す覚悟はできたということだ。
「直義。やはり、兄の期待に応えるのは、お主なのだな」
弟が兄の心を知るように、兄もまた弟の心が分かるものなのだ。直義は、師直を殺し、そして戦いの果てに尊氏を死なせるために動き出した。直義の非凡さは、あくまでも尊氏と師直の望みを叶えようとしていることにある。直義が引き起こす大乱は、力ある武士を殺し尽くすだろう。それは師直の望みにも重なる。
鎌倉幕府も、後醍醐帝も、南朝の残党も自分を殺すことはできなかった。直義は自分と共に彼らに勝利し、両将軍と呼ばれるほどの力を手に入れた。尊氏にとっては、己の半身とも呼ぶべき存在だった。
己と同じような存在を討つことが、最後の戦となる。敗れて死にたいという思いもある。だが、同時に、武士の王は何者にも敗れぬがゆえに、王なのだという自負もあった。
「余は、お主を本気で殺しにゆくとしよう」
蒸し暑さで、汗がぽたりと落ち、木の手摺に染み込んでいく。黒い染みが、徐々に薄くなり、もとの木目に戻るまで、それほどの時はかからない。
「直義は、今ごろ夢窓疎石とでも話しておるのかのう」
直義は昔から禅僧との問答を好んでいた。そういう時は、たいてい懊悩を抱えている時だ。禅僧との問答で答えを得られるわけではないが、切り捨てるべき考えがいくつか分かるのだと、直義は笑っていた。
「幾手も先を見通せるというのも、辛いものよな」
呟きながら軍勢を左から右まで見回していると、その中から一騎、葦毛の馬に騎乗した高師直が出てくるのが見えた。その表情には分かりやすく悔しさが滲んでいる。武士の総大将としての風格はある。名だたる英傑を打ち破り、全土の武士がそれを認めている。
だが、それでも直義をここで殺すことはできなかった。
常に、直義よりも一手遅れる。二人並び立てば、むしろそれが強みだった。
肩を並べて戦えば、先の先を行く直義の策を、師直が後ろから両手で包み込むように零れ落ちたものを掬い上げていく。後醍醐帝との長きにわたる戦で、最後の最後で勝利を掴むことができたのも直義の破天荒な策と、失敗しても師直に挽回するだけの力があったからだと尊氏は思っていた。
「師直、軍を返すがよい」
櫓門の下で下馬した師直が、片膝を突いて見上げていた。じっとして動かぬ師直に、尊氏は苦笑と共に立ち上がり、櫓を降りた。
門の前に跪く師直の具足には、泥がこびりついている。河内国から、夜を徹して走ってきたのだろう。背後の軍勢も、汗と埃にまみれくすんでいるように見えた。
「どれほど、集めた?」
地面に突き立てられた師直の拳に、力が入った。
「畿内一円より、二万の兵を」
「わずか一月で、よくぞ動かせたものよ。これも、お主の武威によるものであろうな。だが、今一歩遅かったのう」
「三条殿はいずこに」
言葉から、師直の気負いが伝わってきた。
「今朝方までこの屋敷におったが、今ごろは先帝(光厳上皇)のもとであろうよ。そのうち、矛を収めよとの詔が出されよう」
「詔なぞ」
「師直。我ら幕府の力の源は、北朝の帝にあることを忘れるでないぞ。それを蔑ろにすれば、自らの首を絞めるだけだ」
「まことに、それだけにござりましょうか」
どこか吹っ切れているのだろう。いつもであれば、ここまで食い下がらない師直の言葉に、尊氏は思わず苦笑した。
「直義は、政から身を引くそうだ」
師直の目が大きく見開かれた。
「昨夜遅く、余の許に来て、そう告げていったわ」
「三条殿の代わりに、誰を執政となさるおつもりです。並の者には務まりませぬぞ」
「鎌倉におる義詮しかおるまい。お主が、補佐せよ。さすれば、直義に及ばずとも大きく劣ることにはなるまい。義詮を京へ戻し、鎌倉へは基氏を送る」
「それは危うきことかと」
基氏は尊氏の末子ではあるが、直冬と同じく直義の猶子として長らく過ごしてきた。鎌倉府が関東一円を支配していることを思えば、関東が直義派となることを恐れる師直の懸念は手に取るように分かる。
「基氏はいまだ十歳になったばかり。いかようにもできよう。それに、基氏の執事には、上杉憲顕と高師冬をつける」
今の関東執事であり、上野国守護でもある直義麾下の上杉憲顕は外せない。だが、高一族でも屈指の戦巧者である師冬がいれば強力な抑えにはなるはずだ。師直にとっては、養子でもある。
「いざとなれば、手段は問わぬ。基氏は、五年も前に余の手を離れておる」
殺しても構わぬ。基氏が牙を剥くというならば、それもまた一興だと思った。
師直の腹心である南宗継率いる黒草衆には、暗殺に長けた者が多い。尊氏の言葉に少々落ち着いたのか、師直が汗を拭って頷いた。
「三条殿はこの先、いかがなされるおつもりでしょうか」
「直義が見ているものなど、全ては余にも分からぬが、しばらくは隠居の真似事をして、高みの見物であろうな」
そう呟き、尊氏は片頬が吊り上がるのを感じた。
直義がどう動くつもりなのか、この一月じっと見てきたが、日に日に肌が粟立つのを感じていた。相当の覚悟を持って、直義は動き始めている。西へは養子とした直冬を長門探題として送り込み、己の隠棲と引き換えに、基氏を鎌倉府に送り込むことを朝廷と尊氏に認めさせた。
帝の詔によって、暫くは直義と戦になることはないだろう。だが、用意周到な直義のことだ。その詔すら、時を稼ぐためのものにすぎないはずだ。全ての備えが整った時、直義は抗いがたい大波となって立ち上がる。
直義の麾下には、北陸道に勢力を持つ者も多い。直義の息がかかった武士たちが、東西と北で一斉に蜂起すれば、後醍醐帝と天下を争った時以上の戦乱となる。虫の息とはいえ、吉野から叶名生へと落ち延びた南朝方も、再起を狙って動いていた。
四面楚歌という言葉が脳裏によぎり、血が沸き立つのを感じた。
「泰平まであとわずかだった。お主らがそう思っておるのも分かっておる」
師直の心にあるであろう言葉を発し、尊氏は師直の顔の高さにしゃがんだ。
「お主らが余の心を知っているように、余もまたお主らの心を知っておる」
「大樹の御心を知るなど、畏れ多く」
首を垂れた師直をじっと見つめ、尊氏は自分の顎を指でつまんだ。立ち上がり、尊氏は師直を置き去りにするように歩きだした。
左右どこまでも続く軍勢が、尊氏一人を見ている。
正面に立つ兵に近づくと、まだ若いのだろう、膝を震わせた兵が崩れ落ちるように恐懼した。それが呼び水となって、左右の兵たちが次々に跪いてゆく。遠のいてゆく波を見ているようで、尊氏は言い知れぬ心地よさを感じた。
王とは、かくあるべきものだ。
誰もが畏れ、ひれ伏す。それがゆえに、万民は王の怒りを買わぬために、平穏に生きようとする。武士の王とは、触れてはならぬ化生のごときものでなければならない。
ゆえに、王たらんとする者は、戦場に立ち続けることが、使命ですらある。
手の内を知り尽くしている。相手もまた尊氏を知り抜いている。共に足利、武士の王たる資格を持った、源氏の血を継いでいる。すでに衰えていた鎌倉の幕府や、戦を知らぬ後醍醐帝と比べても、過去最大の敵と言っていい。
直義との戦に勝つことで、誰も斃せぬ武士の王に、ようやく成ることができる。その戦の中で死ぬとすれば、戦を望む武士の王では天下泰平を成せぬことの証にもなる。それもまた、この国の先を思えば、悪いことではないのだろう。
「師直!」
尊氏の声に、背後の師直が直立するのが分かった。兵たちは、さらに深く首を垂れ、尊氏の言葉を待っている。
「鎌倉幕府を討ちし時より始まった戦乱、これより最後の戦が始まる。勝てば、お主らは千年の泰平を作り上げた英傑として史に名を残すであろう」
首元に、強い陽ざしを感じた。
「敵は、足利左兵衛督直義」
直義を殺すために師直が集めた軍勢だ。その名に驚くことはなかったが、尊氏が自分たちの味方であることを言葉として聞いたことで、安堵したようだった。
真っ白な入道雲が立ち昇り、空の青さを呑み込もうとしている。
右隣に立った師直に、尊氏は頷いた。師直が、大きく息を吸い込んだ。
「武士の王の命である」
空気が割れるような師直の大声に、兵たちの背筋が伸びた。尊氏は、一歩前に出た。
「余が、先陣をきる」
すぐ目の前の若い兵が、驚いたように顔を上げかけ、隣の老兵が慌ててそれを止めた。苦笑し、尊氏は若い兵の傍まで歩き、その肩に手を乗せた。
「余の背を、頼もうか」
そう声をかけた尊氏に、若い兵が、頭が地面に触れるほど身体を倒した。
直後、天地を揺るがすほどの歓声が広がった。
振り返ると、師直が誇らしげな表情をしていた。近づき、尊氏は二つ引紋の入った懐剣を師直に預けた。
「備後ですぐに動かせる兵はどれほどいる」
すでに考えていたのだろう。師直はすぐに口を開いた。
「催促状を送れば、高一族に連なる者が千ほど。その類縁を入れれば、二千五百ほどにはなりましょう」
「その二千五百に加え、播磨の赤松円心を使っていい。三千程度は、すぐに集めるであろう。やり方は、お主に任せる。直義にとっての翼を折るがいい」
「黒草衆を、西へ向かわせても?」
束の間、言葉を選び、尊氏は鼻で笑った。
「全て、任せよう。直冬の首は持ち帰らずとも良い」
直義の前にあっては、直冬など路傍の小石でしかない。すでに興味は失せていた。
十一 直冬
貞和五年(西暦一三四九)九月──
洋上に浮かぶ大可島城の一角に、毛並みの艶やかな黒猫が住み着いていた。
直冬が右へ歩けば、右へと付き従い、左へ歩こうとすれば、足にまとわりついてくる。この十日ほど、今川直貞や仁科盛宗さえも遠ざけて、この黒猫とのみ喋ってきた。
鴎の鳴き声を頭上に聞きながら、直冬は砂浜の波打ち際に座り、膝に乗ってきた黒猫の首筋を撫でた。
「お前は、いかにしてこの島に来たのだ」
そう呟き、直冬は狭い海の向こうに見える鞆の陸地を見つめた。
備後国(現在の広島県)鞆は、古来、風光明媚な地として知られ、万葉集にも鞆を歌ったものがいくつか残されている。大可島と鞆の本土は、互いが手を伸ばすように陸地が突き出しており、はざまを揺蕩う穏やかな波が、ゆったりとした時を感じさせた。
どれほどの間、撫で続けていたのであろうか。最初は嬉しそうに喉を鳴らしていた黒猫が、いつの間にか迷惑そうな顔で、直冬を見つめていた。
「本当に殿は、女心を分かっておりませぬな」
呆れたような今川直貞の声が、波音に交じって後ろから聞こえてきた。
肩越しに見ると、白い狩衣はいつも通りだが、赤鞘の刀ではなく、珍しくその背には重藤の弓を負っている。
「京を離れても白粉を取らぬお前から、これまで女心を語るほどの過去を聞いたことはあったか?」
「全てを明かさぬことが、良い男でございます」
「お前は、隠しすぎだ」
顔を隠してどうする。鼻から息を抜いた時、直冬の手が緩むのを待っていたのか、黒猫が身体をしならせて飛び去って行った。砂浜に可愛らしい足音が刻まれていく。
「構い過ぎても飽きられるだけにございますぞ。一途も良いことではございますが、時には寄り道することも男としては大事なことにございます」
「考え方の違いだな」
そう言いながら、直貞なりに自分を慰めようとしていることは分かっていた。忍びの元締めとして、人の心の機微を掴むことが上手いせいか、時に自分以上に自分の心を分かっているのではないかと思うことがある。
『二度と姿を見せるな』
紀伊国を平定した後、尊氏に告げられた言葉が、耳にこびりついて離れなかった。
ただ一言だけで良かった。よくやったと褒めてもらえるかもしれない。淡くそう期待していた。鎌倉から上洛した時にも同じような思いを抱いていた。あの時は、何の功績もなく血縁であるという証も、母が遺した刀しかなかった。拒絶された傷を癒すための言い訳も、沢山思いついた。
だが、紀伊国を平定し、尊氏麾下の武将として、確かな功績を挙げた今ならば違う。そう思っていた。居間に並んでいた武士の顔を思い出すたびに、心が疼く。佐々木道誉を始めとした、尊氏の腹心たちは、直冬を見て薄い笑みを張り付けていた。
初めから、彼らは尊氏の心を知っていたのだろう。
足利直冬を決して認めず、京から追放することを。
尊氏が創り上げた幕府に、お前は不要。そう告げる笑みだった。
ただ一人、笑わなかったのは直義だけだった。
直義の顔には、悔しげな表情さえ滲んでいた。初めて上洛した時、尊氏に拒絶するように入れ知恵した男の表情に、救われるような気持ちになったのは間違いのないことだった。
だが、それでもまだ決めきれない。
自分の優柔不断さに、嫌気がさした。戦場では、霞を敵と見定めたにもかかわらず、咄嗟にその命を救うような真似をしていた。生き延びたことを知れば、安堵が心を占めた。今もまた、強大な敵との戦を望む尊氏への未練が心を鷲掴みにし、尊氏の言葉も、直義の悔しげな表情も全て嘘だったのだと思いたがっている自分がいる。
誰のために戦えばいいのか、生きてゆけばいいのか、自分でも呆れるほど悩みこんでいる。
「直貞、俺は情けない男だろうか」
呟いた直冬を、珍しいものを見たとでも言うように、眉毛を上に引きつらせ、直貞が嘆息した。
「何をいまさらなことを申されるのです」
直貞が口に手の平をあてて笑い出した。ひとしきり笑うと、直貞が弓を背中から手に持ち替え、矢をつがえた。黒の弓に、削り出されたままの白い弓が映えている。
「この矢は、対岸まで届くと思われますか?」
大可島から対岸の鞆までは、四町(約四三六メートル)ほどだろう。強弓を引くことのできる武士でぎりぎりの距離だ。細身の、まして普段弓を引かない直貞であれば、難しい距離に思えた。
「盛宗であれば、届くだろうな」
「他の誰かができるかどうかは聞いておりませぬ。私にできるかどうか、それが大事でございます」
そう口ずさむと、直貞が流れるような動作で弓を引いた。弦の軋む音が聞こえてきそうなほど、弓が震えている。直貞が大きく息を吐いた時、弦の震えが止まった。直後、矢が晴天に向かって飛び出した。
弧を描いて、矢が空を切り裂いていく。傍で、直貞が膝から崩れ落ちた。
「おい」
「届きましたな」
汗が伝う白粉の顔をにやりと歪ませ、直貞が対岸へと視線を送った。
対岸の砂浜に、たった一本、矢が突き立っている。波と砂浜の狭間。突き立った矢は、すぐに波にもまれて倒れた。
「ぎりぎりではないか」
「しかし、届いたという事実は変わりませぬ」
弓を地面に置いて、直貞が立ち上がった。
「よいですかな、殿。人は、成そうと動けば、成せるのでございます。悩む時も大事でございますが、悩めば悩むほど、不安ごとばかりに目がいき、動けなくなるものでしょう。動かなければ、何も成し遂げられはいたしませぬ。要は歩き出せば、その歩みが遅くとも辿り着くものでございます」
「知ったような口だな」
直貞の説教くさい口ぶりを聞いて、聞き覚えがあるように感じた。脳裏に浮かんだのは直義の鉄面皮だった。
あまり感情を見せず、それでいて直冬の行動を見抜いたように行く先々で直義の助けがあった。鴉軍の編成にしてもそうだが、京の街で直冬の評判が徐々に上がっていったことも、直義に命じられて直貞が動いた気配がある。一軍の将として紀伊国に攻め入った時も、直義が差配した兵粮は、一度も遅れることはなかった。
尊氏の言葉に驚いていた直義の顔を見れば、直義もまた尊氏が直冬を褒めるであろうと思っていたはずだ。直義の周到さを思えば、実の父の優しい労いを聞かせるため、四年もの歳月をかけて、あの場に導いたのだとしても不思議ではない。
初めて出会った時の言葉を不意に思い出した。
『甥は殺せぬ。それに、兄に子殺しをさせたくもなかった』
あの時は嘘だと断じたが、今思い返せば真の言葉だったのだろうと思う。
京を出立する時、最後、直義が東寺の門から飛び出してきたことを、直冬は知っていた。