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十三 足利直義(承前)

 

 四国へ派遣した細川顕氏は大軍を率い、高一族が治める土佐国の城を落としている。九州はすでに直冬の手によって束ねられたも同然であり、山陰山陽方面を攻めていた高師泰は、三隅家や益田家など現地の武士に勝ち切れずかえって名を落としている。

 全土を見渡してみても、そのほとんどで直義側の大名たちが優勢だった。

「こうしてみると、大樹の味方で踏ん張っているのは、丹波の山名時氏くらいのものですか」

「いや」

 一度否定してから、直義はもういいかと口にした。

「時氏は、もとより私の命で動いておる。丹波国では、私の名を騙った野伏がおったがゆえ、時氏に追討を命じたのだ」

「とすれば、大樹の味方はもはや」

 怯えるような国清に、直義は小さく頷いて見せた。

「傍にいる高一族と、播磨の赤松一族程度のものだ。まこと、赤松の者たちも哀れよな」

「昨年亡くなった赤松円心殿の遺言にございますか」

「左様。円心は足利尊氏という武士に惚れておった。戦場に立つ、武士の王に」

 だが、華々しい戦場に武士の王が立つことは、もはや起こりえないことだった。

 戦いを望んだ兄を、戦場に立たせずして勝つことを、直義は選んだ。

 兄を武士の王と成してしまったことへの後悔はある。だが、その責は直義と師直が負うべきもので、民に背負わせるものでは決してない。

 敵として向かい合う以上、必勝を期すのが総大将の務めであることを思えば、相手が敬愛する兄であろうとも容赦する気はなかった。

 その点、尊氏は甘かったのだ。弟である直義が、己の望みを叶えてくれると甘え、死地に陥っている。山城国の山崎に布陣している尊氏の許にも、全土の報せが届くようにしていた。今、尊氏は目を白黒させ、呪詛を口にしているかもしれない。

 それでいいのだ。

 二の腕の震えを止めるように、直義は右手で左腕を掴んだ。

 尊氏が、自ら軍を率いて京に攻め入ったのは、九日後の正月十六日のことだった。

 義詮と高師直に兵を任せ、三手に分かれて鴨川を北に進んだ尊氏軍は、三条河原で桃井直常を破ったものの、それ以上進むことはできず、それどころか東寺に後退している。率いる兵は、二千にも満たない。全軍で東寺の包囲を命じたが、それを察した尊氏は、夜陰に紛れて京を脱出していた。向かう先は、丹波国篠村だという。

 篠村には、かつて後醍醐帝と争った時、敗れた尊氏が勝利の願文を奉じた八幡宮がある。神にも縋りたい気持ちなのだろうか。ふと、弱気になっているかもしれない兄を想像し、唇を噛みしめた。

 何か、嫌な予感がした。

 昔から、突然人が変わったかのように塞ぎ込むことがあった。塞ぎ込んだ後、再び太陽の下に立った尊氏は、神懸かった戦を繰り広げ、劣勢を覆してゆく。その姿を見て、全土の武士が武士の王だと焦がれたのだ。

「されど、その時を、与えることはありませぬ」

 直義が呟いた二日後、丹波を越えた尊氏が、播磨国に姿を現したと報せが届き、直義は石塔頼房に五千の兵を預けて出陣させた。

 その間にも、尊氏の麾下だった者たちが、相次いで石清水八幡宮に帰参を申し入れてきた。下総守護の千葉氏胤を始めとして、薬師寺公義や佐々木氏頼、千秋高範らは、高師直の指揮下で四條畷の戦に勝利した武士たちだった。

 戦場に立てぬ武士の王は、これほど脆いのか。自らの計略とはいえ、全身を包む虚しさが、直義の肩を重くしていた。この国は、繰り返し螺旋のように戦乱を続けてきた。いつの戦乱でも、それを治めた勝者が現れたが、勝者のもたらした平穏が泰平となったことは一度もない。戦の果てに掴んだ平穏は、仮初めのものにしかならないのではないか。

 膨れ上がる武士たちを見つめ、直義は頭を抱えた。

 石見国を攻めていた高師泰率いる二千を加えた尊氏は、播磨国光明寺城を攻めたが、石塔頼房と細川顕氏の挟撃により数をさらに減らしていた。尊氏勢の兵は、折れた刀を杖のようにして歩き、まともな旗は一本もない有様だという。尊氏に付き従う将も、高師直、高師泰兄弟含めた高一族を除いて、名のある武士はほとんどいない。

 全土の武士が仰ぎ見て、その声に高揚した足利尊氏という武士は、もはやいないことを突き付けられた気がして、直義は頭を抱えたままため息を吐きだした。兄の期待を裏切ったことも分かっている。

「この国のため、仕方がないではないか」

 二月十七日、播磨国打出浜で高師直率いる軍勢が、石塔麾下の軍とぶつかり、大敗した。師直も重傷を負ったという。もはや、尊氏に打つ手は一つも残されてはいなかった。

「……国清、しばしここを任せても」

 呻くような声が出た。訝しげな表情をして、国清が頷く。

「行かれるのですか」

「話すことはない。が、兄と友の最期を見届ける務めが私にはある」

「それがしはお勧めしませぬ。誤解している者も多いが、殿は冷徹なように見えて、その実あまりに情が深い。殿と師直の仲は、それがしも知っております。敗残の彼らを前に、討てと命じられますか?」

「問題ない。すでに、上杉が向かっておる」

 どこか己に言い聞かせるように、直義は呟いた。

 播磨国に送った上杉重季は、尊氏と師直によって父を暗殺されている。鎌倉での待機を命じていたにもかかわらず、七千の兵を率い、関東からわずか六日で京まで辿り着いたことを見ても、恨みの深さが知れる。直義が身一つで行ったとしても、重季を止めることなどできはしないだろう。

「如意丸殿のご様子がすぐれませぬが」

 国清が言い募るようにそう口にした。陣中に伴っている直義の実子だった。直義が四十一歳の時に生まれた子であり、生まれた次の日の明け方、大いに酔った尊氏や師直が直義の屋敷を訪ねてきて、嬉しそうに笑っていた。思えば、兄として、友としての笑みを見たのは、あれが最後だったかもしれない。

「すまぬが、それも頼む」

 寝込む我が子も気になるが、尊氏と師直の死を見届けることが、民に対する己の責だろう。

 尊氏から送られてきた講和の使者饗庭氏直を伴い、直義は播磨国へ馬を駆けさせた。

 付き従うのは、古くから直義に従ってきた者たちだ。尊氏と肩を並べて戦ったこともある。夜を徹して駆けた。身体は熱く、内側から燃えるようにも感じた。

 朝焼けが、瀬戸内の海を銀色に煌めかせていた。太陽の熱さを身体の左側に受けた直義は、播磨国の武庫川を渡る直前で、上杉勢に追いついた。突然現れた直義の前に、重季が肩を怒らせて跪いた。若い武士だった。恨みの炎を燃やす瞳は、嫌になるほど澄んでいる。

「止めに来たわけではない」

 その一言で、重季の気配がいくらか和らいだ。

「ただ、一言だけ話をさせてほしい」

 疑うような視線を向けながらも、重季が小さく頭を下げた。

 埃にまみれた陣列が道の遠くに現れたのは、陽が中天に昇った頃だった。冷たい空気にもかかわらず、照り付ける太陽が、自分を焼き尽くさんとしているように感じるのは、気のせいではない。兄と友の死を前に、涙が溢れそうになっている。目を見開き、直義は道の中央に立った。

 僧形の男が二人、先頭を歩いている。そのどちらも、身に着ける墨染の僧衣こそみすぼらしいが、放つ気配は気高く、昂然と胸を張っている。右を進む高師直の目が、直義を捉えた。束の間、驚いたように目を見開き、そしてすぐに目を細めた。

 二百歩の距離が百歩となり、五十歩、三十歩となり、そして数歩の距離となった。滲む視界をこすり、直義は師直を正面から見据えた。手に握りしめた搗栗を、差し出した。ちらりと見下ろした師直が、苦笑して受け取った。

「お主の好物だったな」

 久々に聞いた友の声に、直義はただ頷いた。

「覚えていたのか」

「まあ、忘れはせぬよなあ。搗栗と味噌。それを好む由は儂には分からぬが、お主がそれを好むであろうことだけは分かる」

 友だからこそ。口にせずとも、師直の言葉は伝わってきた。

「敵に回して、初めてお主の怖さが分かった。いきなり、この国の全てが牙を剥いてきたのだ。後醍醐帝や楠木、新田の感じていたであろう恐怖を知ったわ」

 顔は疲れ果てたように見えるが、言葉には微塵の疲れも感じさせない。己の命運を分かっている。それを、直義が止めることもないのを知っている。それでもなお、恨み言ひとつ言わず、むしろ直義を気遣うような表情すらできるのが、師直という武士だった。

「下野の平原で食った兎の肉を覚えておるか?」

 師直が懐かしそうに語った。

「あの頃の儂は、お主と干戈を交えることなど、考えたこともなかった」

「私もだ」

 それきり、口を閉ざした師直が、静かに俯いた。

「殿を勝たせるためだけに生きてきた生涯に悔いはない。わずかに一片の悔いもだ。お主とともに、殿を武士の王と成したがゆえ、民も泰平の夢を見ることができた」

「そうだな」

「武士の王となったが故」

 師直の言葉がそこで途切れた。それこそが、友同士で争った由であることを、師直も分かっている。師直は、なんとか尊氏を泰平の時に連れて行こうとした。だが、尊氏自身がそれを望まなかったのだ。途切れた言葉を、直義は繋いだ。

「見事な生涯だった」

 師直が笑い、首を振った。

「ゆえにな、直義。これは、もしかすればあったかもしれぬ泰平への、未練じゃ」

 師直が、咄嗟に身を路傍にかがめ、拳ほどの岩を握りしめた。

 師直が雄叫びを上げ、それまで微動だにしていなかった師泰が、武庫川の畔に布陣する上杉勢に向かって駆けだした。それが合図だったのだろう。背後に並ぶ高一族の武士たちが、刀も持たぬまま、師泰を追って駆け始めた。

 歩き出した師直が、直義とすれ違った。

「殿は、もはや武士の王ではない。下野国の空を、見せてほしい」

 その言葉が耳朶を打った直後、師直の力強い足音が背後に響いた。幕府最強と謳われた武士の足音は、これほどまでに重い。

 断末魔の叫びが、背後から次々に響いた。上杉重季の檄が、遠くから聞こえた。その声には、はっきりと怯えが滲んでいる。刀すら持たぬ高師直を、恐れているのだ。

 振り向きたくなる気持ちを堪え、直義はまっすぐ延びた道を見据えた。

 長く延びる陣列の中に、簡素な板輿が見えた。ありあわせの材木で作ったのだろう。簾すらついていない屋形の中で、壁に頭をもたれかけさせ、虚ろな目をした尊氏がいた。

 武士の王ではない。師直の遺した言葉が、こだましたようにも思った。板輿が、直義のすぐ目の前に来た時、尊氏の視線がこちらに向いた。

「なぜ、誰もおらぬ」

 兄の声とは思えぬほど、生気が無かった。望んだ戦場にすら立てぬまま敗れたことが、これほどまでに尊氏を憔悴させたのか。あまりの変わり様に声を出せないでいると、尊氏がいきなり泣き出した。

「……師直」

 そう口にしたきり、尊氏が目を閉じた。

 背後で、勝鬨に似た歓声が広がった。歯を食いしばり振り返ると、槍の穂先に高々と掲げられた友の首が、青空を見ていた。

 心の臓を鷲掴みにされたように、息苦しくなった。

 板輿が動き始めた。尊氏が二町ほど進んだ時、顔を上気させた上杉重季が傍に来た。

「大樹の首は」

「もういい」

 重季の言葉を遮り、直義はそう呟いた。

 もはや尊氏には、武士の王であり続けるほどの気概はない。口を開こうとした重季を睨むと、その目に恐怖を滲ませた。

「戦は、終わったのだ」

 直垂の胸のあたりを握りしめ、直義はそう呟いた。尊氏を出家させ、幕府は義詮に継がせる。その後見をすることが、最後の務めだろう。そのやり方に違いがありこそすれ、武士の王の死こそ、師直と直義が目指したものだった。

「……虚しいな」

 そう口にして、直義は瞼を閉じた。

 

(つづく)