十一 直冬(承前)
息を吐きだし、直冬は立ち上がった。尻についた砂を叩き落とす。
「京の情勢はどうなっている」
この十日ほど、直貞が物申したいようにしていたが、ずっと避けてきた。京のことを知れば、もはや後戻りはできなくなるだろうと予感していたのかもしれない。
ようやくかというように、直貞が懐から書簡を取り出した。
「京に置いてきた忍びからの報せでございます」
「お前の口から聞きたい」
「読むのが面倒なだけでしょうに」
舌打ちした直貞が、書簡を懐にしまい、一つ咳をついた。
「御所巻が起こりました」
「初めて聞く言葉だな」
「今、私が作りましたゆえ」
したり顔で喋る直貞を、一度殴るかどうか迷い、直冬は続きを促した。直貞が肩を竦めた。
「去る八月の十三日、高師直率いる二万の軍勢が、大樹の屋敷を包囲しました」
驚天動地とも言える所業だった。だが、師直の尊氏に対する犬のような忠誠心を知っているだけに、いまいち現のこととは思えなかった。
「大樹は無事だったのか?」
「包囲は次の日には解かれています。その後、幕府から全土に通達されたのは、三条殿が政から身を引き隠棲すること。三条殿の腹心である上杉殿、畠山殿の越後への配流、そして基氏様の鎌倉府入りでございます」
「報せが多いな」
「この十日ほど、殿は私を遠ざけられておりましたから、報せは溜まってゆくばかりでございました」
「とはいえ、これほどの重大事は伝えるべきであろう」
「いえいえ、まだ重大事には至っておりませんので、お伝えするのは控えておりました。こうなるであろうから慌てるなと、あらかじめ三条殿からも伝え聞いておりましたゆえ」
「なんだと?」
直冬の困惑に、直貞がくすりと笑った。
「京を出る前、三条殿に呼び出されておりました」
「父上は、その、あれだ。御所巻を予見しておられたのか」
「左様。師直を執事職から追放したことで、お二人の関係は、はっきりと敵同士となりました。されど、追放されたとはいえ、師直は幕府の武の象徴のような武士でございます。ひとたび声を上げれば、多くの武士が師直の許に集うであろうと三条殿は申されておりましたし、そうなるように、師直の許に腹心の山名時氏殿を送ってもおられました」
まあ、師直は山名殿を味方と信じて疑っていないようですがと、直貞が舌を出す。
「父上の狙いはどこにある」
「殿も、御所でお聞きになったはずです。次はお主が儂を愉しませてくれるのかという、大樹の言葉を」
直貞が、声を落とした。
「三条殿は、大樹の最後の敵になることを覚悟されております」
直冬が聞いた実の父の最後の言葉には、心の底から戦を望んでいることが滲んでいた。
母が死んだ時、戦を望む者を斃すため、父を助けることを誓った直冬にとって、尊氏の言葉は、己の歩んできた道を揺るがすようなものだった。
言葉を繋げないでいると、直貞が再び口を開いた。
「師直に御所を攻めさせたのは、師直の要求に従った形で、政から身を引くためでございます。そうでもなければ、生真面目な三条殿は自ら隠棲することなどできなかったでしょうし、そもそも三条殿のこなしていたことを、他の誰にもできるとは思いませぬ。自ら放り出した形になれば、多くの者が三条殿を恨んだでしょうな」
「武士の信を保ったまま、身軽になることが狙いだったということか」
直貞が頷いた。
「師直に攻められたことで、三条殿は多くの武士の同情を得ましょう。いずれ、三条殿が師直を敵と名指しして立った時、味方する者は数多くいるはずでございます」
「父上は、俺が西国の軍を率いて味方することを望んでいるのか」
呟いた直冬に、直貞が首を左右に振った。
「そうではございませぬ。これだけは、一言一句違えることなく伝えよと命じられましたゆえ、ちと失礼」
軽く会釈をした直貞が、口に拳をあてて二度咳をした。
「直冬よ」
「似ておらぬ」
直貞のあまりに甲高い声にそう言うと、直貞が遮るなと言わんばかりに人差し指を自分の口元にあてた。
「……直冬よ。私の行く道は、私だけのものゆえ、お主はお主の決めた道を行くがよい。無私の人に見えようとも、人はどこまでいっても己のために決めた己の道しか歩めぬもの。直冬、お主がお主のために何を成したいのか、考えよ」
声音は微塵も似ていないが、早口でまくし立てるような喋り方は、どこか直義を感じさせた。いつの間にか握りしめていた拳に視線を落とした時、直貞が首を深く垂れて、背を向けた。
「まだ、時はございます。しばし、殿ご自身の道を考えてみられるのもよろしいでしょう」
そう言い残すと、直冬の返答も聞かずに、直貞は城への道をそそくさと歩き始めた。
足音が聞こえていた。
何かに怒っているような忙しない足音の方を見ると、鬼の形相をした仁科宗盛がいつも通りの濃紺の直垂を身に着け、駆けてきていた。
「あの莫迦者はどこにおりますか」
「今までここにいたが」
あまりの勢いに、思わず直貞が歩いた方角を見ると、いつの間にか全力で駆ける直貞の後ろ姿が見えた。
「儂の弓を勝手に持ち出しおりましてな」
白髪を振り乱し、立ち去ろうとする盛宗を、直冬は呼び止めた。
「御老公、ちょっと待て」
折檻されることが目に見える直貞を救うつもりは無いが、今、直貞が殴られる様を見たくはない気がした。
「御老公は戦が好きだったな」
鼻息荒く、直貞の方を見る盛宗が、何をいまさらというように眉間にしわを寄せた。苛立ちを隠そうともしない盛宗に近づいた。
「もしも、天下を敵にすると言えば、お主は愉しいか?」
直冬の言葉に、盛宗の眉間の皺が徐々に薄くなり、目が大きく見開かれた。
「ほう。殿とおれば退屈せずに済むとは思っておったが、これはまた」
身体の向きを直冬の方へ向け、盛宗が腕を組んだ。
「それは、願ってもないことじゃな。死に場所は、天下分け目の戦場と決めておりますからのう」
「天下分け目かは分からぬが、いつでも出陣できるよう鴉軍を整えておいてほしい」
「ほう。何処へ?」
「おそらく、最後は京へ。天下の敵が、現れるかもしれぬ」
「それはまた大仰な敵ですのう」
目を輝かせ始めた盛宗が、直貞をちらりと見て、頷いた。そこまで大きくもない島だ。すぐにでも追い付けると判断したのだろう。
「鴉軍は、いつでも出陣できるよう、備えております」
「いらぬ言葉だったな。ならば、備前備後、安芸に催促状を出す。長門探題として、兵を集める」
長門探題は、かつて蒙古襲来というこの国の敵に対峙するために創設された地位だった。言い換えれば、その使命は、天下の敵を討つことでもある。
「兵の調練は、頼まれてくれるか?」
「それは重畳。よろしい。儂のために、兵を鍛え上げましょうぞ」
己のためと言いきる盛宗からは、だが卑下するような雰囲気は一切ない。どこまでも純粋さを感じるだけだった。己の欲望に忠実であることの見事さが、盛宗から伝わってきた。
「直貞を折檻することも、ほどほどにしておいてやれ」
「それは、莫迦の言い訳を聞いてみてからですな」
「それと一緒なのだろうな。俺も、やはり父の言葉を聞きたいと思っている」
山陰道、山陽道の兵を集め、京に攻め上る自分を想像して、直冬は二の腕に鳥肌が立つのを感じた。
戦を望んだのは、実の父である尊氏だ。
だが、戦を起こさんと動き出したのは、育ての父である直義だ。
莫迦ではないのだ。尊氏が、自分のことを眼中にも入れていないことなど、もうすでに分かっている。自分をずっと気にかけ、何の義理もないにもかかわらず、育てようとしてくれていたのが誰なのかも。
己がどうしたいのか、直貞も、盛宗も不器用なりに伝えようとしたのかもしれない。
「長い旅になるぞ」
「どちらに行かれるので?」
「天下を敵とするには、力がいる」
呟き、直冬は晴れ渡る西の空を見た。これは、未練がましさなどではない。そう自分に言い聞かせ、直冬は盛宗を残し、黒猫の駆け去っていた洞に向かって歩き出した。
播磨国(現在の兵庫県)守護の赤松円心が軍勢を集め、鞆への進軍を始めようとしている。その報せが飛び込んできたのは、九月八日のことだった。大可島城の石垣の上で握り飯を頬張りながら、直冬は傍でおこぼれを貰おうとすり寄ってくる黒猫の頭を撫でた。
「この前は食べなかったではないか」
そんなことは知らぬとばかりに目を見開く猫に苦笑して、直冬は握り飯を半分ちぎって、掌に載せた。一筋の白い毛のある頭を寄せて、猫が食べ始める。
「殿」
いい加減にしろとばかりの直貞の嘆息が聞こえた。
「今のところ、赤松軍は三千ほど。名目は、長門探題である殿の与力となるためとのことですが、まさか、それを呑気に信じられているわけではありますまいな」
「そんな阿呆ではないさ」
ちらりと直貞の方を見ると、右頬が腫れあがっているのが、白粉の上からでも分かった。弓を拝借したことによる盛宗の怒りが、目に見える形になったものだ。
唇の米粒を摘まみ、口の中に入れた。一粒でも残すと、直義は不快な表情をしていた。
「円心は、大樹に心酔している。かつて、足利家が後醍醐帝に敗れて西海道に落ち延びた時も、ただ一人、播磨で殿をつとめ、足利家の東上の時を稼いだ戦人だ。俺の麾下に入るなど、思ってもいないさ。おそらく、師直の命令だろう」
だとすれば、赤松軍の狙いが何なのかは、容易に想像がついた。信じたくはないが、おそらく円心は、直冬追討の御教書(命令書)をすでに受け取っているのだろう。
齢七十を超え、最期に花を咲かすべき戦とでも思っているのかもしれない。
「だが、先んじて攻撃することは避けたい」
いまだ、尊氏が公に直冬討伐を命じた事実はないのだ。焦って赤松軍に攻撃を仕掛ければ、朝敵として討伐の口実を与えることになる。
「兵は、どの程度集まっている?」
「催促状を出してまだ四日でございますからな。近くの武士が二百八十といったところ」
「少ないな」
「どうやら、師直も催促状を盛んに出しているようですな。赤松軍に合流するように命じるもので、それに応じようとしている者が多いようです」
「目算でいい。赤松軍に呼応しようとしている者は、どの程度いる」
「二千五百といったところでしょうかな」
直冬の手兵は、麾下の鴉軍二百騎と、集まってきた二百八十の兵をあわせて五百にも満たない。
「五倍、いや円心軍をあわせれば十一倍の大軍か」
腕を組み、直冬は首を傾げた。
「俺が師直であれば、赤松軍に合流すると見せかけて、二千五百で俺たちを急襲させる」
「性根の腐ったような考え方ですが、殿のお考えには私も同意いたします。すぐに、赤松軍に同調しそうな者たちの許に斥候を向かわせます」
「闇討ちだな」
呟き、直冬は猫の顎を撫でて、地面に戻した。突然のことに怒ったのか、うなりを上げて駆け去ってゆく。
「杞憂ならばそれでいいが、二千五百は、今の俺たちからすれば大軍だ。今はまだ一軍とはなっておるまい。長門探題へ攻撃の意思が見えれば、即座に討つ」
二千五百の兵は、いまだ一つの軍にはなっていないはずだ。なったとしても、指揮をとる大名なしに大した働きはできないだろうが、各個撃破できるに越したことはない。
「対岸の鞆に全軍を移動させる。防備は、いらぬ。二日ばかりは、水で酒宴をさせよう」
「これもまた、卑怯といえば卑怯ですなあ」
呆れたような直貞の言葉に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。戦のことを考えると、まとわりついていた不安が小さくなるような気がする。
「こちらの防備がほとんどなく、兵も酔っているとなれば、抜け駆けする者もいるだろうな」
「それとなく、各地に足利直冬軍は酒で乱れに乱れているという風聞を流しておきましょうか」
「お前が珍妙な姿であたりを歩くだけで、その風聞は流れそうだが」
「風流を解する者がいると評判になるだけでございます」
にやりとした直貞に、直冬も苦笑を返して頷いた。
深更、用意された船に分乗して対岸に渡り、医王寺の裾野に陣を構えた。陣といっても大仰なものではなく、縄張りをしただけの粗末なものだ。酒宴と聞いた盛宗が生き生きとしている。水に変えると言ったら、どんな顔をするか想像して、直冬は頭を掻いた。
「御老公の瓶子だけは、酒に変えておくか」
戦のためだと言えば納得するだろうが、酒を飲む機を逃すことも、盛宗は童のように嫌がる。酔っていても、弓の狙いを外さないことを考えれば、機嫌を損ねられるよりはいい。
近くで馬の世話をしていた鴉軍の兵に近づき、盛宗にだけは酒を飲ませるように伝えると、朧月の白い明かりでもそれと分かる苦笑が返ってきた。
「一人くらいは、本当に酔っていた方が良いだろう」
「酔った御老公の相手は、殿がなさってくださいよ。暴れだした御老公を止められるのは、殿だけなのですから」
「直貞もいるだろう」
「白粉様は、いざという時に、決して姿を見せませんからなあ」
ぼやく兵の肩を笑いながら叩き、直冬は自分の馬を拭うため、直垂の袖を襷で絞った。
盛宗の顔に、満面の笑みが浮かんだのは、水での酒宴を始めて三日後のことだった。
陽は中天に昇り、雲一つない秋晴れだ。医王寺の後山を見上げれば、紅葉が鮮やかに色づいている。風の涼しさは、気持ちよくすらある。
「西北と東南からでございますな。それぞれ三百程度。西北からの敵が、近いですな。ものの見事に、殿の小細工が奏功したようでございます」
皮肉げに直貞が呟いた。
直貞の放った斥候は、蜘蛛の巣のように配置されている。
「いずれも、催促状を受けて殿の許に参上するにしては、物々しい様相のようでございますな。まあ、そもそもここに来ることが伝わっていないことを考えれば、味方とは言い難い」
「どちらの方が手強いのじゃ」
酒で目を赤く血走らせた盛宗が、気が急いているように直貞に詰め寄った。信濃の鬼という呼び名を思い出し、戦に耽溺する姿と、酒を浴びるほど飲む姿のどちらにちなんでいるのか、ふと疑問に思ったが、口に出すのはやめた。こういう時の盛宗の話は長くなる。
「御老公は、俺と共に鴉軍を率いて、東南の敵を崩しに行くぞ。直貞、お前は残る兵を率いて、敵をこの地に引きつけておけ」
「引きつけるだけでよいので?」
「勝つに越したことはないが、俺は無理なことを求めないだろう」
「紀伊では、道なき山を行軍させられましたが」
「お前にとって無理ではなかっただろう」
舌を出した直貞に頼むと言い、直冬は鴉軍に騎乗を命じた。
鞆を狙う備後の武士たちの中には、高一族に連なる者も多くいるという。僅かな時で調べ上げてきた直貞の手腕は見事なものだ。師直への忠誠心が高い者を徹底的に打ち破れば、残る者たちは直冬に降る者も多いだろうというのが直貞の見立てだった。
千程度の兵を味方につけることができれば、三千の赤松勢を突破することはできる。
四半刻ほどのあいだ駆け続け、山間の入り口まで来た時、鴉軍を盛宗に任せて右手の山に埋伏させた。鴉軍の最後尾が森の中に消えた時、直冬は十騎を連れて東西に延びる道をゆっくりと西へ進んだ。
手綱を握る手が、汗ばんでいた。これから命の取り合いをすることへの緊張ではない。ついに、始まってしまうことへの怯えだと思った。
左右には紅葉した木々に覆われるなだらかな山が広がっている。山間の平地の真ん中に、一本道が延びていた。
馬を止め、息を深く吸い込んだ。
報せにあったのは三百ほどとのことだったが、十町(約一〇九〇メートル)ほど先に現れたのは、その倍はいようかという軍勢だった。
「直貞は無事にやり過ごすことはできるかな」
医王寺の麓に残してきた白粉の名を呟くと、麾下の十騎が愉快そうに笑った。
「今川殿を心配召されるのもよいですが、こちらとて三倍の敵でございましょうに」
そう言う黒衣の麾下たちの言葉には、自信が満ちている。傍らにいる十騎は、鴉軍の中でもきっての刀の遣い手だった。
「御老公に鴉軍。鬼に金棒だろう」
息を吐きだし、直冬は馬腹を蹴った。