十四 霞
観応二年(西暦一三五一)三月──
垂れた枝には、真っ白な桜が両手を広げるように咲き乱れている。雲一つない青空の下に咲き誇る桜を見上げ、霞は思わず頬が緩んだ。
春の陽気が全身を包むが、時折吹く風は冷たさが残っている。
肥後国阿蘇谷。すこし視線を遠くに向ければ、東西南北の全てを連峰が丸く囲っており、どこか下界とは隔絶された場所のようにも思える。
ちらりと背後を見た霞は、白粉姿の今川直貞と、その横で弓を虚空に向けて引く仁科盛宗を確認し、その左右に並ぶ武士たちを見渡した。そこには、鴉軍二百騎と、足利直冬麾下の主だった武将たちが控えている。九州四か国の守護である少弐頼尚、阿蘇大宮司の阿蘇惟時、大友家の血縁である詫磨宗直、一色道猷との戦では勝利の立役者となった龍造寺家平、そして鞆からの脱出を手助けした河尻幸俊。大紋の直垂を身につける彼らが、ひとたび声を上げれば、万余の軍勢が直冬の許に集うだろう。
ほとんど身一つで九州に上陸し、全方位に敵を抱えていた直冬を助け、瞬く間に九州を制した者たちだった。
彼らが見つめる先に立つ男の後ろ姿を見て、霞はあたたかな感情とともに、どこか妬心にも似たものがあることに、思わず苦笑し、短く息を吐いた。
桜の下に独り立ち、足利直冬が花びらに向けて手を伸ばしている。どこか斜に構えたところがある。傍にいるうちに、直冬のことが分かってきていた。緋色の直垂を身にまとい、大さびの烏帽子の下に見える涼しげな横顔には、緊張が解けたかのような微笑みがあった。
紀伊国征伐を、わずか三カ月で成し遂げてみせた直冬が、戦略に長けていることは感じ取っていた。だが、自ら先頭に立った時の戦の強さは、霞の想定を遥かに超えていた。
まさか一年も経たずして、北朝方の一色道猷を打ち破り、南朝方の征西府すら味方につけるほどの力を身につけるとは、思ってもみなかった。いまや誰もが、直冬のことを当代の名将として見ている。
仁科の放った鏑矢の音が、しんとした空気を引き裂いた時、霞はゆっくりと直冬へ近づいた。
「お望み通りの地でございましたか?」
そう声をかけると、直冬が振り返り、小さく頷いた。
「これ以上ないな」
そう口にして、直冬が遠くの連峰へと目を向けた。
「どちらを見渡しても平地の先には高い山々が連なり、今ここにいるのは我らだけだと思える。敵も味方も考えなくていい」
直冬が微笑みのまま大きく背伸びをした。
「いや、もう二度と考えなくともいいのかなあ」
誰からも見つからない場所に行きたい。直冬がそう言いだしたのは十日前のことだった。京から届いた直冬の養父、足利直義からの書簡を両手に広げ、直冬は屋敷の畳の上に、大の字に寝転んだ。霞を見つめる直冬の両目には、安堵の涙が滲んでいた。
足利尊氏の敗北と、高師直の戦死。そして足利直義が再び政を後見するとの報せは、九州に上陸して以来、常に気を張り詰めていた直冬にとって、戦の終わりを告げるようなものだったのだろう。
その二日後に届いた報せによって、直冬は幕府によって正式に九州探題へと任じられていた。それは、名実ともに九州を束ねる者となったことを意味しており、京を追放されて以来、戦い続けてきた直冬が、ようやく手にした安寧の証でもあった。
足利直義という男の勝利は、史上類を見ないほど、徹底したものだった。
蜂起したその瞬間から、日本全土で尊氏派の有力な武士たちが討たれ、尊氏の許に残っていた武士たちも、直義の懐柔によって雪崩を打つようにその軍門に降った。
両者にとって最後の戦となった打出浜の戦は、もはや戦と呼べるほどのものでもなかったという。千にも満たない尊氏軍を一蹴した五千の直義軍は、そのまま尊氏の本陣を包囲している。尊氏の傍に残っていたのは、高師直兄弟を含めた高一族の者ばかりであったといい、彼らは京へ向かう道中で、直義麾下の武士に斬殺されていた。
直冬の口から息が漏れた。
「これで、世が平静になれば良いのだが」
直冬の呟きは、いまや北朝方、南朝方にかかわらず、ともに思っていることだろう。
足利直義は、兄と戦になる前に南朝に降っている。その直義が尊氏に勝利したことで、北朝と南朝の一統が進められようとしていた。南朝の楠木正儀もまた、直義とともに南北の一統を目指して奔走しているという。
四條畷の戦で散った楠木正行が生きていれば、同じように諸手を挙げて喜んだだろうなと思う。正儀の兄である正行は、高師直を一時圧倒するほどの戦の才を持ちながら、誰よりも戦を嫌っていた。その姿に憧れ、霞は父のように慕っていた。北朝方の足利と南朝方の楠木は、仇敵とも言うべき間柄だが、その両者が手を取り合おうとしていることは、少し前であれば考えられないことだ。
もはや、南北に分かれて戦う時は終わったのだ。
そう思っているからこそ、直冬を見つめる武士たちの視線も、これほどまでに穏やかなのだろう。征西府の懐良親王も諦念のようなものを滲ませながら、戦の終わりを告げ、薩摩の島津家や豊後の大友家もまた、長門探題から九州探題となった直冬への忠誠を誓った。
天下が、急速に平穏へと向かっている。
その事実を喜ばしいと思いながらも、どこか忸怩たるものが心の中にあるのは、来るであろう平穏が自らの手によるものでないことが大きいのだろうと思う。そばで見続けた直冬の飛躍を心の底から嬉しく思う反面、何もできなかった自分の無力さが腹立たしいのだ。
それを口にすれば、直冬は霞がいたからこそと言葉にしてくれる。平穏をもたらしてくれるのであれば、民は勝者など誰でもいいと思っていることも知っている。それでもなお、悔しさを捨てきれぬ己の心に、霞は苦く笑った。
「直冬殿は、しばらく九州にいらっしゃるのですね?」
問いかけた霞に、直冬が寂しげな目をした。
「そうだな。父上が大樹に勝利し、南北朝の講和が進んでいるとはいえ、各地の武士たちを抑える者は必要だろう」
「確かに、征西府の武士の中には、未だ北朝方との融和を望まぬ者もおります。されど、その御役目は今川殿でも十分に務まるかと思いますが」
直冬がちらりと霞の後方に立つ直貞を見たようだ。
「奴であれば、そうだろうな」
肩を竦め、直冬が苦笑した。
「今すぐ京に行くことが怖いような気がしている」
「怖い、でございますか」
「父上の心を慮ると、その苦衷たるやいかほどばかりかとな」
「如意丸殿のことでございますか」
「……そうだな」
直義が四十を過ぎてできた如意丸が、病によって死んでいた。高師直が討たれた翌朝のことだったという。わずか二日で、友と実子を失った直義は、それでも戦後の混乱を避けるため気丈に政務を指揮し続けているという。
「俺が九州を制したことは、父上の勝利に一役買ったと思っている。上洛して、それを褒めてもらいたいという気持ちはある。だが、死んだのがなぜ俺や基氏ではなく、如意丸だったのかと父が思っていないかが怖いんだ」
「直冬殿から父君のお話を聞くかぎり、そのようなお人ではないと思いますが」
足利直義という男は、霞にとって父の暗殺を命じた仇。人を人とも思わぬ冷徹な武士を想像していたが、直冬や直貞から聞いた直義は、意外にもただただ人を慈しむ菩薩のような男だった。
直冬が力なく笑い、それにと続けた。
「父上に敗れた武士の王を見たくないという気持ちもある」
直冬は、戦場で実の父と決別することを望んでいた気配がある。
育ての父である直義と、実の父である尊氏。どちらにつくのか、京を追放されてなお迷っていた直冬は、鞆で襲撃され、共に死戦を乗り越えてきた鴉軍の兵の亡骸を見て、尊氏を討つことをようやく決めた。
戦場で向かい合い、父を討つことが天下のため。直義を勝たせることが民のためと覚悟して、九州統一の戦を戦い抜いてきたのだ。戦わぬまま敗れた尊氏を見てしまえば、己の心が揺らぐとでも思っているのかもしれない。どこまでも優柔不断な男だが、それもまた直冬の愛すべきところだった。霞の作った膳を前にしても、恐る恐るという風ではあるが、他の者とは違い文句も言わず食べてくれる。それを見て、腕を磨こうと心に決めた。
一度俯き、霞は直冬を見上げた。
「私が京から戻るまで、征西府が動かぬよう、抑えをお願いいたします。菊池武光が動きを見せていないことは不気味ですが、蒲池一族は直冬殿の言葉を聞くと申しております」
直義の進める北朝と南朝の講和は、ほとんどの者から受け入れられているが、南朝方の公卿や武士の中には、徹底的に戦い抜くべきと言い張っている者もいる。彼らを説くために、亡き大塔宮(護良親王)の実子綴連王として、霞は大和国に向かうことを決めた。
南朝には、吉野陥落の時、帝の脱出に助力した貸しがある。自分が行くことで、より早く講和が結ばれれば、それだけ早く民も安堵できる。自ら行くことを決めた理由の中に、隣で見ていた直冬の活躍が眩しかったというのもあった。
直冬の隣に立ち続けるに相応しい者でありたい。
直冬もそれを察しているからなのか、強く止めようとはしなかった。霞が行けば、講和の動きも早くなると、直冬も信じてくれている。それもまた、霞にとっては嬉しいことだった。
「護衛には、御老公をつける」
心配そうに言った直冬に、霞は笑った。
「仁科殿は九州の武士の睨みに必要なお方でございましょう。己の身は己で守れます。それに、道中は益田兼見が傍につきます」
「されど」
歯切れの悪い直冬に近づき、霞はその胸に頭を触れさせた。霞と直冬の仲は、すでに麾下の武士たちも知るところだった。少弐頼尚の強い勧めに押し切られ、少弐家の血縁という形での祝言を上げている。両手を直冬の腰に回した。
「一年ほどすれば、私も帰ってまいります」
「長いな」
「南北朝の戦は十五年も続いてきたのです。それがあと一年で終わると思えば、短いものでございましょう」
「会えぬ時が、長いと言っている」
素っ気なく言い放った直冬に愛おしさを感じながら、霞は小さく頷いた。
「天下は平穏になったのです。帰ってくれば、そこからは常に傍におります」
「……そうだな」
「帰りをお待ちください」
直冬が目を閉じ、長く息を吐きだした。直後、強く抱きしめられた。
豊後国から船で出立した霞は、四月の初めに摂津国の湊に上陸した。
石見国の隠し湊から回されてきた三百石積みの戦船は、益田兼見自身が指揮してきた。麾下の武士の中でも、もっとも何を考えているのか分からない男だ。急速に進む南北朝の合一についても、どこか冷めた目で見ているようで、慎重な態度を崩そうとはしていない。
昨年、高師泰が石見に侵攻した時、兼見は現地の武士を裏から操り、追い返している。幕府屈指の実力者に比肩しうる男の慎重さが、霞には不気味なものに映っていた。京への道中を命じたのも、兼見であれば、霞が見落としているものを捌けると思ったからだ。
音もなく背後に従う兼見の気配を感じながら、柔らかな砂浜に降り立った。
「随分と人が集まっているものでございますね」
浜辺に集まる人の多さに、霞は少しだけ驚いた。
南北に一直線に続く白い砂浜の上に、ところ狭しと人が群がっている。海の幸ばかりではなく、大和国の方から運ばれてきた山の幸も並んでいるのだろう。青や緑、茜色の敷物が延々と敷き詰められ、花が咲き乱れているようにも見えた。
湊の漁師たちの顔がどこか穏やかに見えるのは、気のせいではない。獲った魚を売りさばく威勢のいい声が、あちらこちらから聞こえてくる。その場で焼いている者もおり、湊には香ばしい匂いが満ちていた。
淡青色の小袖を着た母と、同じ反物で作ったのであろう小袖を着た童が、汗を流しながら人を呼び込んでいる。母子の前には蛤や鮑などの貝が、五種類大小の笊籬(ざる)に分けて並んでいた。
「益田殿、いくつか購いましょう」
「今食べられるのでございますか?」
「長い船旅で、皆も疲れていることでしょう。山菜と一緒に煮込みましょうか」
無表情の兼見が、やや押し黙ってから頷いた。
「……手下の者に用意させましょう」
兼見が母子に近づいて話し込む様子を、その後ろから眺めていた。母親の方は、まだ二十代の半ばだろう。弾けるような笑みを浮かべ、息子に貝を笹に包むよう指示した。包みを受け取った時、兼見が童の手に何枚かの銅銭を握らせたのが見えた。
「童に優しいのでございますね」
「子は、国の宝でございますゆえ」
深々と頭を下げる母子に見送られ、霞は浜を後にした。
民の笑みが、心に刺さった小さな棘を溶かし、新たな棘を作り上げるように感じた。やはり、民にとっては、平穏をもたらしてくれる者こそが大事なのだろう。心の中でそう呟き、霞は用意された馬に乗って、京へ向かった。
会わなければならない男がいた。
その男と会って話さなければ、本当の意味で心の中の棘が消えることはない。