第一章 麒麟

 

一 霞

 

 貞和じよう わ二年(西暦一三四六)五月――

 京の大路を行きかう民の表情は晴れやかだ。もうじき始まる賀茂社の祭を、心待ちにしているのだろう。人の多さは、まっすぐ歩くことも難しい。青海波せい がい は七宝しつ ぽう繋ぎの文様が染め抜かれた装束も、紅や深黄、浅緑など目が痛くなるような色鮮やかさだった。

 鎌倉の幕府が滅びてから十三年。

 ようやく治世の兆しを、誰もが感じ始めていた。

 十三年前、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐帝の治世は、数年ともたず、再び全土を巻き込む戦乱へと揺り戻された。後醍醐帝を筆頭とする南朝と、足利尊氏を推戴する北朝。後の世に言う南北朝の動乱である。

 武士、公家、民、身分の差を問わず、等しく包み込んだ戦乱は、多くの者を殺し尽くしたという。後醍醐帝は、自らの子を全土に遣わし、各地の武士を束ね挙げた。足利尊氏もまた、一族を全土に送り、時には自ら先陣に立ち、戦い抜いた。伯仲していた両者の実力は、だが後醍醐帝麾下の将が一人、また一人と討ち死にしていくことで、天秤が徐々に傾いていった。

 忠臣楠木正成くすの き まさ しげが湊川で自害し、大軍と斬り結んだ陸奥の英雄北畠顕家きた ばたけ あき いえが討ち死にし、最後の支柱であった新田義貞につ た よし さだは名もなき雑兵の矢にたおれた。

 天皇親政による治世を目指していた後醍醐帝にとって、彼らの死は夢の終わりと思えたのだろう。延元えん げん四年(西暦一三三九)、天下一統を夢見ながら、後醍醐帝は吉野の山奥で静かに息を引き取った。

 天下は、足利尊氏によって差配される。

 貞和二年という年は、天下万民がそう信じ始めていた頃。吉野の南朝を継いだ後村上帝は、なおも不気味な沈黙を保っていたが、もはや南朝には形勢を覆すだけの力はない。もう、戦乱には戻さないでくれ。誰もがそう祈り、願っていた時のことである――。

 綾錦あや にしきのようにあでやかな京の中、笠をかぶった女が一人、東に向かって歩いていた。

 流れるような黒い下げ髪を、うなじのところで束ねている。薄紅の小袖と、籠目かご め文様の灰色の裳袴は、都の鮮やかさと比べれば地味だが、人並外れて整った顔立ちは、通りの誰よりも人目を引いていた。すれ違う者は思わず振り返り、通りで話し込む老人たちも、目で追う始末だ。

 

 彼らの視線から逃れるように、霞は笠を深くかぶり直した。

 沿道の軒先には、祭りを一目見ようと集まった畿内各地の旅人が群がり、並べられた陶器や仏具を手にとっている。

「この賑わいも、大樹たい じゆ(征夷大将軍)のご人徳よなあ」

 不意に聞こえてきたのは、旅人の感嘆の声だ。

 立ち止まり、小さく舌打ちした。聞こえたのだろう。薄汚れた旅装の男が、髭面を霞の方へ向けてきた。いぶかしげな表情が、すぐに上気したような顔になる。睨みつけると、男が咄嗟に俯いた。

 この賑わいも、今だけ。

 もうじき、洛中は本来のぬしのものとなりましょう。

 旅装の男から視線を外すと、ふたたび塩小路しお こう じを東へと歩き始めた。

 生まれてから十七年、吉野の深い山奥で、息を殺すように生きてきた。

 父である大塔宮だい とうの みや護良もり よし親王は、敵の多い人だった。

 後醍醐帝の三皇子でありながら、後醍醐帝に疎まれ、武士の棟梁である足利尊氏とは憎しみあった。やがて足利尊氏との激しい対立の中、幽閉された鎌倉で足利家の淵辺義博ふちの べ よし ひろという武士に斬殺された時、報せを聞いた後醍醐帝は涙ひとつ流さなかったという。

 母もまた、幽閉されていた鎌倉から吉野へ逃れる際、甲斐か い国(現在の山梨県)の雛鶴ひな つる峠で霞を生み、力尽きた。吉野の朝廷は、生まれたばかりの霞を受け入れることを拒絶し、あまつさえ大塔宮の血を恐れ、殺そうとさえした。それを防ぎ、育ててくれたのが、父と親交の深かった楠木一族の者たちだった。

 女ながらも刀の技を磨き、生き延びるために忍びの技を身につけた。味方は、わずかに楠木一族の者たちだけ。父を殺した北朝も、父を見殺しにした吉野の南朝も、霞にとってみれば仇だった。

『吉野を出て、西国の海を押さえます』

 足利家と戦う力を手に入れるため、吉野を出ると言った霞を、楠木一族の者たちは黙って送り出してくれた。育て親でもある楠木一族の棟梁正行まさ つらは、霞の心の奥にある南朝への反骨心も、見抜いていたようだが、諦めたように笑っただけだった。

 この半年、西国の武士をまわってきたのは、海に活路を見出したからだった。

 足利家の勢いに押されて衰退した西国の武士には、口にのりするため海に漕ぎ出した者が多くいる。いずれも、隠し湊にごく小規模の水軍を持ち、守護に隠れて交易を生業としている者たちだ。訪れた隠し湊は、十五に及ぶ。

 そのうちの一つ、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)の南部にある杵島き しまには、楠木一族と祖を同じくする武士がおり、そこで海を渡る船に乗せてもらった。屋敷の二階ほどの高さのある波を乗り越えてゆく船上で、冷たい水飛沫を全身に浴びた。隣を進む船が、いともたやすく木端微塵となった時、霞は鈍色の海に心を掴まれた。

 決して勝てないものがこの世にはある。

 だが、それは人ではない。そう思えたのだ。

 杵島を根拠地として、各地に隠し湊を結ぶ。ある程度の船団となれば、海を越えて高麗こう らいみんとの大規模な交易も成せる。そこで得たものは、やがて北朝と対峙する時の支えとなるはずだった。

 対馬など島嶼とう しよの民は、独立心が強く、南朝北朝のしがらみとは縁が薄く、金を払えば雇うことができた。父が遺した金を、惜しみなく使った。手始めに、各地の隠し湊の水深と潮流を調べてまとめさせた。一つの湊に係留できる船の数を調べ、次の湊へはどのくらいの時がかかるのか。大型の船、小型の船での違いも測らせている。

 吉野の楠木正行が、足利家を討つべく戦備えを始めた。

 その報せが届いたのは、肥前国と石見国(現在の島根県)の隠し湊で、戦船の調練を始めた時だった。正行が考えていた時機と比べて、早すぎる。西国の湊を結ぶことも、始まったばかりだったのだ。京で何が起きているのかを掴むため、長門国(現在の山口県)から早船に乗ったのが四日前の夕暮れだった。

 昼下がり、鴨川のほとりの草原に座り、霞は持ってきた握り飯を口に入れた。

 大根の葉と一緒に炊いた飯を固めたものだ。胡麻油と塩の味付けは、吉野で親代わりだった正行から教えられたものだ。親代わりというには若すぎるほどのとしだが、背負ったものが正行の皺を深くしていた。戦を嫌っているにもかかわらず、戦場で生きることを強いられ、逃れることもできない。生まれ持った戦の才が、正行を縛っていた。

「辛いですね」

 ぽつりと、こぼれた。

 味方のいない京で、たった一人。寂しさが辛さを感じさせているのかとも思ったが、吉野でも味方はほとんどいなかった。宵闇で塩の分量を間違えたのだろう。貴重な塩だ。もったいないと言い聞かせた霞は、口の中に残る茎を噛み潰し、鴨川の水に手を浸した。

 静かな水面に、自分の顔がうっすらと映った。

「迷ってなど、いません」

 正行は、天下を賭けた勝負に出ようとしている。

 南朝の英雄北畠顕家が死に、新田義貞、楠木正成までが、足利尊氏率いる北朝に討たれた。後醍醐帝も九年前に薨去し、南朝はもはや風前の灯火のようなものだ。このまま足利尊氏に呑み込まれる。誰もがそう思っているだろう。

 京の通りを行く人々の笑顔も、それを物語っている。

 それが、ひどく悔しかった。

 天下泰平は、犠牲の上に成り立っている。恨みの輪廻りん ねを断ち切ることこそが、唯一の道だ。そんなことは、偉そうな坊主に講釈を受けずとも分かっている。だが、諦めきった言葉で納得できるほど、人はたやすくはない。父を、母を、友を殺された恨みは、決して消えないのだ。北朝の者たちにむざむざと頭を垂れるなど、できるものか。それがゆえに、正行も望まぬ戦に身を投じようとしている。どちらかが、滅びるまで戦はやまぬことを知っているからこそ、正行は立ちあがり、霞もまた吉野を出た。

 この世の泰平を願っている。

 だからこそ、どちらかが死に絶えるために、戦うことを覚悟しているのだ。

 

 鴨川に浸した手は、冷えきっていた。

 星のちらつく夜空を見上げ、霞は静かに立ち上がった。

 足利家が、二つに分かれて戦を始めるかもしれない。停泊した伊予国(現在の愛媛県)の湊で、正行の手下がそう報せてきた。

 足利尊氏の子を名乗る不可解な武士が一人、京に現れたという。名は新熊野。まだ二十歳にも届かない武士であり、その男を巡って征夷大将軍である足利尊氏とその弟足利直義ただ よしの対立が深刻なものとなっている。

 兄弟の対立こそ、吉野が戦を決断した理由だろう。ただ、正行はそれが罠ではないかと疑っていた。数年来、山間の要害である吉野に籠ってきた南朝を、平地に引きずり出すため、足利の兄弟が仕掛けてきているのではないか。その武士の正体を探ってほしい。それが、正行からの依頼だった。正行の懸念は、霞にも分かった。

 戦乱を勝ち抜いた尊氏と、はかりごとの権化のような直義の兄弟が、誰の目にも分かる隙を作るとは思えなかった。

 西へと歩き、百々どど橋に差しかかったのは寅一つ(午前三時頃)すぎの頃だった。

 天狗が現れるとされる北野社(北野天満宮)を、北壁沿いに進む時は、いつの間にか手を握りしめていた。幼い頃、天狗にさらわれる童女わらわ めの物語を聞いたことがある。

「もう、童ではないのです」

 己に言い聞かせるように呟いた時、不意に、物音がした。咄嗟に背後を見たが、民の姿はなく、隠形おん ぎようけた者の気配もない。追われていないか、確かめただけだ。そう心の中で言訳をした。

 短く息を吐くと、そのまま北へと道を折れた。

 大徳寺の境内は、まだ新しい。開山の大燈国師だい とう こく しが後醍醐帝の信を受けていたこともあり、北朝の朝廷や、足利尊氏とは睨みあいが続いているという。胸中にあるものが、期待なのか、それとも不安なのかも分からないまま、霞は境内に入った。細く長い石畳の左右には、鬱蒼とした竹林が広がっている。

 夜明けを告げる鶏の声が、響き渡る。

 甲高い鶏鳴の中に、人の声が混じっている気がした。気のせいか。いや、そうではない。耳をそばだてると、右手の竹林の隙間から、人の声が漏れていた。誰かを罵倒する言葉、それから打擲ちよう ちやくの音だ。呻き声のようなものも混じっている。

 気配を殺し、霞は竹林に踏み入った。

 笹がすれる音に気をつけながら、ゆっくりと進む。罵倒の声が、大きくなった。少し歩くと、わずかな崖の下に、開けた場所があった。枯れた茶色の笹が積みかさなり、五人の若い僧が円になって、一人の男に棒を向けている。

 寺に入って間もない喝食かつ しきを、小僧が修行と称して苛め抜くことは、どの寺にもあることだ。打ち据えられるのはまだ良い方で、夜伽よ とぎの真似をさせられる者もいるという。醜悪なものを見ている気分になり、吐き気が込み上げてきた。

 囲む僧の一人が棒を振り上げ、思いきり打ち下ろした。

「喝食風情が、そのような目で我らを見るな!」

 若い僧が、顔を真っ赤にしながら棒を振り回す。肉を打つ音が、鈍く響く。ひとしきり打ち据えた後、別の僧が男の髪を掴み、小刀を首に添えた。抵抗する気力もないのか、男はなされるがままだ。

 駆け出せば、二十歩ほどだろう。五人の若い僧は、見たところ力任せに棒を振るうだけで、武術の心得はなさそうだ。打ちのめすのは難しくはない。

 止めるかと迷った時、霞は思わず息を呑み込んだ。

 打ち据えられている男の瞳が、まっすぐ霞を見ていた。竹藪の中、気配は殺していたはずだ。なぜ気づかれたのか。男がうっすらと笑った。

「愚弄するのもいい加減にせよ」

 男の薄ら笑いに僧たちが激昂し、打擲の音が立て続けに響いた。

 息を荒らげた僧たちが、唾を吐き捨てて立ち去ったのは、男がぐったりと地面に伏した時だった。息はしている。か弱い喝食を気にしている暇はないと思いつつ、男の裂けた上衣からのぞく傷を見て、霞は竹藪をそっと出た。自分自身を守れない民の弱さこそ、自分が見捨ててはならないものだ。なにより、霞の気配に気づいたことも、気になった。

 あと十歩の距離になったところで、男の手が、霞のほうに向けられた。それ以上、近寄るなということだろう。少し待つと、男がゆっくりと起き上がり、地面に胡座をかいた。

 背を向けた男の表情は見えない。

衣通そとおりひめを思わせる美貌の女が、夜明けの寺になんの用だ」

 男の言葉は弱々しいが、妙に耳に残る声だった。

「なぜ、打ち据えられていたのです?」

「ふむ。話のできぬ人だな。聞いているのは俺の方なのだが」

 男が、肩越しに振り返った。

 浅く焼けた横顔は、すっと鼻筋が通り、目元は涼やかだ。身につけている黒色の小袖は裂け目だらけで、染め抜かれた菱紋は、かろうじて判別できる。襤褸ぼ ろのように埃にまみれているにもかかわらず、男の姿はどこか光っているように感じた。

 歳の頃は、霞よりもやや上くらいか。二十歳ほどだろう。

 目をこすってみたが、やはり、光は消えない。

 男が、呻きながら立ち上がった。下手な打擲は受けるのに難儀すると呟き、男が膝を叩く。

「どこの誰かは知らぬが、俺がうつけゆえ。そうとでも言えばあんたは満足か?」

「逃げるには、十分な腕をお持ちのように見えます」

「ほう。打ち据えられている男の腕が、あんたには分かるというのか」

「私の気配を気取られました」

 そう言いながら、霞は懐からはまぐりの貝殻を取り出し、男に投げ渡した。貝殻の内側には、乾燥させた大黄だい おうの根を粉末にし、蜂蜜で練った薬が塗られている。貴重なものだが、できることがあるのに何もしないのは嫌だった。

「血止めに役立ちます。お使いください」

 男が黒く塗られた貝殻をじっと見つめて、少しだけ頭を下げ、諸肌脱ぎになった。服の上からでは分からなかったが、相当に鍛えている。僧の身体つきと言うには不自然なほどだった。捜している男かもしれない。そう思いながら、そんな都合のいいことがあるものかと心の中で呟いた。

「まじまじと見ないでくれ。寺では女と無縁なのだ。あんたみたいな美しい人に見られるのも悪くないが」

 慌てて目を逸らした霞に、男は笑ったようだ。

 どこか余裕がある。虐められている喝食にしては、卑屈さなど欠片も感じられない。この男は何者だろうかと、興味が大きくなった。薬を傷に塗り終わった男が、貝殻を閉じて投げ返してきた。

「逃げられないのだよ」

「なんのことです?」

「打ち据えられていたわけだ。聞きたかったのだろう?」

 小袖を着なおす男が、肩を竦めた。

「童の頃に心に決めたことがある。逃げれば、何も掴めない。だからいかに辛い場所でも、その場から逃げることはしない」

 正直、くだらない理由だと思ったが、この男にとっては大事なことなのだろう。それを否定しようとは思わなかった。

「抵抗すれば、折檻は無くなるのでは?」

 そう言った霞に、男の笑みがすっと消えた。肩についた笹の葉を、男が払う。

「下手に抵抗すれば、殺されるだけであろう」

 諦めたような言葉に、ふと苛立ちを覚えた。

「何もせずに諦めるなど」

「そういうつもりで言ったわけではないのだが。薬をよこしたり、心配したり、怒ったり。忙しい人だな」

「怒ってなどいません」

 分かったというように、男が二度頷いた。

「だが、あんたが討ち手でないことは分かったよ」

「どういうことです?」

「御簾の奥にいそうな容姿で、闘争の場など似つかわしくない。にもかかわらず、あんたの腰の刀からは血の気配が強く漂っている。いや、怨念とでも言うべきかな」

 詰問するような響きはなく、ただ不思議そうな声音だ。

「俺を殺す口実を探している奴らは多い。先ほどの僧の中にも、身分の高い子弟が交じっていた。俺が手を出したところに、あんたが刀を抜いて出てくるのかと思ったのさ。俺は、餌だからな」

 不安が、足元から這い上がってきた。身体が、すっと寒くなる。この男が、新熊野という男かもしれない。それは、予想というよりも、確信に近かった。

 人の気配を探るように、男が左右を見回した。

「名は?」

 向けられた目に、何と答えるべきか迷い、霞は僅かに視線を逸らした。

綴連つづれ

 男の目が、少しずつ大きくなり、突然咳き込んだ。

 顎に当てた拳を、ゆっくりと動かし頭を抱えた。全ての息を吐き出すかのようなため息を吐いた。

「俺の知る限り、その名はとある男のものだったはずだが」

 頭を抱えたまま、男が首を左右に振った。

「とんだ獲物が網に跳び込んで来たな。去るが良い、美しき人よ。いや、綴連王と呼ぶべきか。その名がまことならば、俺を見張っている者は、あんたを逃さないぞ」

 動揺を気取られぬように、霞は首を左右に振った。

「私は西海道(現在の九州)からの旅の途次、大徳寺の玄恵げん ね様の高名をお聞きして、ここまでやってきただけです」

「ここで終わらせることができるような旅でもないだろう」

 じっと見つめてくる男の気配が、竹藪を覆っているようだった。この場から離れなければ。焦燥に近いものが、胸から込み上げてきた。男の言葉に従うようでしやくだったが、身体は外に向かっていこうとしている。

「また、いずれ」

 呟き、背を向けた。

「助力は?」

「貴方に何ができるというのです」

 背後から聞こえてきた言葉にそう吐き捨て、霞は足を速めた。

 大徳寺の境内を出たあたりで、視線を一つ感じた。

 間違いなく、霞を見ている。大徳寺の男と接触した者を、見張っているのだろう。早朝ということもあって人通りは少ない。人の中に紛れることはできない。咄嗟に、北へ向かった。

 追ってくる視線は、まとわりついて離れない。

 新熊野に接触すれば、何かが動く。そう思ったからこそ自ら大徳寺に赴いた。だが、霞の予想を超えて、周到な罠が張り巡らされていたのかもしれない。

「少々、迂闊だったかな」

 西国の湊が上手くいき始めていたことで、どこか油断をしていなかったか。舌打ちを噛み殺し、首を左右に振った。時は限られているのだ。

 足音が、二方向から聞こえた。東南と西南の二方向。数はそれほど多くはなさそうだが、立ち回りが巧妙だ。なかなか、小路に逃げ込むことができない。大きな雲の影のかかる鷹峯たかが みねを北に見上げ、霞は腰の刀に左手を添えた。

 固い砂の地面を歩くうちに、身体の中の血がふつふつと滾り始めた。

 わずかに投じた小石が、すぐに波紋となったことは、喜ばしいことではないか。顔を見られれば、京で動きにくくなるだろうが、自分の戦場は遠い海の上だ。

 吉野の南朝が飛びついた足利兄弟の対立は、やはり何か嫌な臭いがする。斬り抜け、正行に報せるべきだった。

 小路を右左と折れ曲がり、追っ手を撒こうとしたが、背後の気配はむしろ増えている。相当に京の町を熟知している者たちなのだろうと思えた。

 手下を配置している一ノ坂までは、一里ほど。そこまで辿り着けば、森に姿を隠すことができる。家屋が少なくなり、背後が開けはじめた。ちらりと後ろを振り返ると、霞を追う姿が三つ。身につける黒い小袖を見て、やはりかと思った。幕府の侍所さむらい どころに所属する雑色ぞう しきのものだ。塀に隠れて見えないが、聞こえる足音からして、あと四、五人はいそうだった。

 急坂が見えてきた。その先には、大徳寺の住持であった高僧が隠れ住む庵が見える。一度立ち止まる。追っ手が歩を止めた。その瞬間、霞は紺の羽織を捨てて駆けだした。追っ手が一歩遅れた。胸が破れるような坂を駆け上がる。すぐに息が苦しくなった。足は鉛のようだ。

 坂道を登りきった時、肩越しに後ろを見やると、六人の武士が追いすがるように駆けていた。忍びの技として、瞬時に人や物の数、対象との距離を把握できるよう鍛えられた。だが、敵の多さを分かってしまうのが、今はただ鬱陶しかった。

 雑色たちは、身体を鍛え抜いているのだろう。息を荒らげてはいるが、一人として脱落していない。視線がぶつかった。男が、笑った。

 咄嗟に身をかがめた。傍らに積まれていた結樽ゆい たるが、派手な音を立てて崩れる。そのまま前に転がり、柄に手を添えて飛び起きた。尋常の弓勢ゆん ぜいではなかった。地面に突き立ってなお震えている矢を一瞥し、庵とその奥に広がる木立を見つめた。

 むくろが二つ、高い杉の根元にもたれかかっていた。

 唇を噛んだ。霞が手配していた二人だ。胸には矢が突き立ち、灰色の小袖には血が滲んでいる。亡骸の横、老年の男が一人いた。皺ひとつない紺の直垂と、目を引く真っ白の長髪。背は、糸で吊るされているかのように真っ直ぐ伸びている。重藤しげ とうの弓を左手に持ち、右手には新たな矢を携えていた。その両脇から、人の気配が滲み出した。右の木立の中から三人、左からは四人。

「女、刀を捨てよ」

 矢をつがえた老将の左目が、鋭く光った。

 正面の八人と背後の六人が、目に見える包囲の全てだ。斬り抜けるのは、なかなか骨が折れる。それが強がりであることも自覚していたが、強がれるぐらいの余裕があることが、嬉しかった。

 足をわずかに右にずらした瞬間、傍らの地面に矢が突き立った。

「下手にあがくな。お主の両手両足を射つことなどたやすい」

 あくまで生かしたまま捕らえたいということだろう。骸となった二人は、何もしゃべらなかったのだ。ならば、投降などありえない。

「かりそめの天を戴く者に、私が敗れるなどありえぬことです」

「ほう。やはり南朝に連なる者か」

 老人の顔が険しくなった。

「しばらく、大人しくしておったと思ったが、またぞろ動き始めておることは分かっておる。実に良いことじゃ。戦が途絶え、退屈しておったゆえのう」

「戦を好む者に、天下を治めることは叶いませぬ」

「戦場にしか生きられぬ者もおるということよ」

「戦狂い、ですか」

 新たに矢をつがえた老人が、笑った。

 鞘から刀を抜いた。低く構える。老将の左右にいる七人の武士も、刀を抜き払った。間合いを詰めるしか、勝機はない。だが、その動きを七人が止めようとするだろう。

 背に感じる朝焼けの熱が、強くなった。

 矢をつがえる老人の顔が、強張った。こちらを見ていない。刹那、竹がぜたような音が、背後から響いた。矢は、放たれている。狙われたのは霞ではない。

 男の目が、見開かれていた。

「敵か味方かも分からぬ者に、いきなり矢を射かけるとは、ずいぶんな挨拶だな」

 のんびりとした声が、背後から響く。

 振り返った先、朝日の中に滲む黒い影が、ゆっくりと刀を納めた。影の足元には、真っ二つに断たれた矢が落ちている。その周囲には、霞を追っていた六人の武士が、地面に打ち倒され、這っていた。いずれも刀傷はない。当て身を食らわされたようだ。

「俺は返事を聞きに来ただけなのだが」

 聞き覚えのある声だった。打ち据えられ、裂け目のある黒の小袖のまま。襤褸をまとった男が、刀を携えているのだ。いきなり射かけられてもおかしくない風体だとは思ったが、口にはしなかった。

 目の前に立つ男は、先ほどとは別人のようだった。陽炎のような殺気が、そう感じさせるのだろう。小刻みに震える右手の甲を、霞は袖の中に隠した。

「お主、大徳寺の坊主か」

 老人の興味が、新たに現れた男に移った。

「その弓、仁科盛宗に しな もり むねだな。知っているぞ。信濃(現在の長野県)の鬼。戦にしか興を見いだせず、後醍醐帝に疎まれ、泰平を望む幕府も扱いきれなくなっている戦人」

「ほう。坊主の癖に、儂を知っておるか。武士とは、戦の用よ。泰平には棲めぬ」

 霞を挟むようにして、二人の男が笑った。仁科盛宗が弓を捨て、刀の柄に手をかけた。

「その女を助けに来たならば、儂を殺さねばなせぬぞ」

「助けに来たわけではない。助けてほしいかという問いの答えを聞きに来ただけだ」

 飄々ひよう ひようと呟き、男がすらりと刀を抜いた。

「鬼の力には興味がある」

小童こ わっぱが言いよる」

 男が霞に目配せをした。道を開けろということなのだろう。背後の包囲は、男の手によって崩れている。逃げ出そうと思えば逃げ出せる。息を短く吐き、霞は道を譲った。

 男が頷き、前に出た。足音が、しなかった。

「坊主、名を名乗れ」

「新熊野」

 やはり、という思いと驚きが、霞の足を立ち止まらせた。

 

 

(つづく)