序 紫微垣
鎌倉の空が、燃えている。
朝焼けでも、夕焼けでもない。武士の都を燃やす、紅の業火だ。
——幼き頃の夢を見ているのだと、足利直冬には分かっていた。何度も何度も見た夢だ。新熊野という愚かな童だった頃の儚き夢を、また見ているのだ——。
屋敷の入り口に繋がれた魔除けの老猿が、喧騒に怯え、牙を剥いている。
母に手を引かれるまま檜の門を飛び出し、北の鶴岡八幡宮に向かって必死で走った。
小路から石畳の大路に出た時、新熊野は思わず立ち止まり、息を呑み込んだ。そこには、顔を引きつらせて逃げ惑う者たちが大勢いた。前を進む者を押しのけ、非力な童を踏み潰す。恐怖に染まった民の顔は鬼のように見えた。
遠く、逃げる民を追い込むように、鎧姿の武士が刀を振り回している。
「新熊野殿、行きますよ」
強く握りしめた母の手は、汗で濡れている。母の掛け声とともに、人波に駆け込んだ。あちらこちらから怒号が飛び、悲鳴はすぐに断末魔の叫びとなって消えていく。
走る新熊野のはるか後方から、ひときわ甲高い叫び声が聞こえた。
振り返ると、刀を振り上げる鎧武者と、逃げ遅れて地面に倒れた童が見えた。その傍らには、若い女が手を伸ばしたまま、赤黒い血だまりの中に伏していた。
その光景を見た瞬間、心がじくりと疼いた。逃げる足から、力が奪われていく。
思わず、新熊野は母の手を振りほどいていた。
駆け戻ろうとした新熊野の前で、ゆっくりと時が流れた。倒れた童は、浅葱色の水干を身につけている。武士の子なのだろう。綺麗な顔をしている。
童が鎧武者を睨み上げた刹那、幼い首が晴天に飛んだ。
宙を舞う首が、自分を見つめているように感じた。その頬は濡れていた。助けられなかった新熊野を恨んでいるのか。足が、竦んだ。
「新熊野殿、何をしているのです」
母の叫び声が聞こえた。
振り返ると、病で痩せこけた身体を咳き込ませながら、母が駆けよってきていた。黄地の小袖の背には、一振りの太刀。その顔は白を通り越して青い。頬に痛みが走った。平手を打った母が、次の瞬間、膝を折り地面に崩れ落ちた。じんとした痛みが、頬に広がった。
「母上、お手を」
差し出した新熊野の手を、母が払った。
「はよう、逃げるのです」
表情を引きつらせる母の言葉に、新熊野は首を傾げた。
「あれなる鎧武者は、お味方ではないのでしょうか」
呟いた直後、再び頬を叩かれた。
「お味方にございます」
そう叫ぶと、母は大声をあげて泣き出した。
異様な光景だった。血刀を振るう鎧武者たちから逃げる民の中で、母は天を恨むように泣き叫んでいる。母の泣き声に気づいた鎧武者も、目を見開いたようだった。一歩一歩、民を斬り伏せながら、こちらに向かってくる。
おかしなことが起きていると思った。
自分たちを殺そうと迫る武者を、母は味方だと言う。味方ならば、なぜ逃げているのか。なぜ、母は敵を見る目で武者を睨んでいるのか。
小刻みに震えながら、母が立ち上がった。
「そなたの父は、決して我らを殺そうとはされませぬ」
背負った太刀を新熊野に押し付け、母は懐に隠していたのであろう短刀を引き抜いた。
「妾を殺そうとされるはずがないのです」
その言葉は、呪詛のようだった。
己が愛されていると信じ、その証である新熊野を、抱き人形のように片時も離すことなく愛でてきた母だ。その目は、いつも新熊野を見ながら、その先にいる父を見ていた。
ふらふらと前に歩く母を止めることもせず、新熊野はじっとその美しい後姿を見つめた。
押し付けられた太刀の鞘には、二つ引の紋が刻まれている。
千夜にわたって、母が再会を願った男から、与えられたものだった。
狂気を滲ませる母に、鎧武者が眉をひそめた。その背後には百を超えそうな兵がつき従っている。目立つ頬傷。ちらりと新熊野へむけた鋭い目の中に、かすかなためらいが浮かび、だが、束の間でそれは消えた。
「抵抗はなされるな」
鎧武者の言葉が終わる前に、母が短刀を振りかざした。
刹那、鎧武者が目にもとまらぬ速さで母に近づいた。
空の蒼さの中に、赤が混じった。声を上げる間もなかった。ゆっくりと倒れる母の身体の向こうから、太刀を天に振り切ったままこちらを見据える鎧武者が現れた。
鎧武者は、新熊野の持つ太刀を凝視していた。
「童。なぜ、笑っておる」
武者にそう言われて初めて、新熊野は己の頬が吊り上がっていることに気づいた。
自分は、母の死を止めることもせず、笑っていたのか。血の臭いが漂ってきた。母の、血の臭いだ。そう思った直後、頬に涙が伝うのを感じた。笑いながら、泣いている。
固まったように動かぬ鎧武者を前に、新熊野は涙をぬぐい、母の身体に寄り添った。鎧武者は、高位の武士なのだろう。鎧の草摺には、木瓜紋が黄金色に光っている。鎧武者が動かぬためか、誰一人動かない。母の口からは掠れた息が漏れ、その視線は空の中に何かを求めさまよっている。捜しているのが自分でないことだけは分かる。新たな涙が、こぼれてきた。
新熊野が目を背けた時、母の唇が動いた。
「……又太郎(足利尊氏)さま、なぜ、妾を見てくれないのです」
その呟きに、鎧武者の顔が引きつった。付き従う兵たちが騒めき、だが鎧武者の一喝で静まり返った。遠くからは悲鳴や怒号が変わらず響いているが、新熊野と母の周りだけが、不思議な静寂に包まれているように感じた。
母を殺したこの鎧武者は、仇だ。ならば、武士として殺すべきなのだろう。
立ち上がり、新熊野は太刀を抜こうとして、失敗した。
「それでは、抜けぬ」
鎧武者の冷静な声が聞こえた。見上げると、刀の血を払った鎧武者が、新熊野のすぐ傍にいた。抜き身の刀を手にしたまま、地面に片膝をついた。
「童。名をなんという」
鎧武者の声は、低く厳しい。
悔悟を滲ませる鎧武者の瞳に、新熊野は再び頬が吊り上がるのを感じた。
「新熊野」
そう口にして、鎧武者に触れるほどに近づいた。
「足利新熊野じゃ」
呟いた直後、凄まじい剣閃が新熊野の頭上を走り抜けた。鎧武者の刀だ。振り切ったまま、微動だにせずこちらを見下ろす鎧武者は、苦しげな表情をして息を吐きだした。顔には、脂汗が伝っている。
鎧武者の麾下の兵たちが刀を構え、にじり寄ってきた。
「下がれ!」
武者の大喝によって、兵たちの足が止まった。
立ち上がった鎧武者が、ゆっくりとした動きで刀を鞘に納める。
「新熊野と申したな。その名で生きてゆくならば、決してここ鎌倉を出るな」
出ると言えば、ここで殺すつもりなのだろうか。
「私の行く道は、私が決める」
鎧武者と睨み合うような形になった。自分の倍以上の体躯を持つ相手だったが、不思議と恐怖はなかった。武者の身体からとぐろを巻くような殺気が滲む。
北条の者どもが、東勝寺に逃れたぞ——。
聞こえてきた叫び声に、武者の視線がわずかに揺れた。瞼を下ろし、武者が短く息を吐く。
「逃げることを知らぬ、愚か者か」
呟き、武者が目を開いた。その視線は、息絶えた母へと向けられた。
「お主から母を奪ったのは、それがしだ」
「貴方に刀を取らせた者がいるのでしょう」
目を見開いた武者が、首を振った。
武者が身を翻して兵に指示を出すと、潮が引くように武士たちの姿が消えていった。肩越しに振り返った鎧武者が、自らの頬を指さした。
「この頬傷を、とくと覚えておくがよい」
悠然と歩きだした武者は、やがて黒煙の中に消えた。
元弘三年(西暦一三三三)五月二十二日——
その日、後醍醐帝を頂点とする六万の大軍によって、鎌倉は陥落し、百五十年続いた幕府は終焉を迎えた。率いた将は新田義貞、そして後に義詮となる足利千寿王。
後醍醐帝が討幕に立ち上がった正中の変から十年あまり。源頼朝以来、鎌倉幕府を率いてきた北条一族は、東勝寺でそのほとんどが自害し、次なる時代は勝者たる二人の男の手にゆだねられることになった。
討幕を主導した後醍醐帝か。
武士の棟梁たる資格をもって、名乗りを上げた足利尊氏か。
後醍醐帝による建武の新政が瓦解した後、足利尊氏率いる北朝と、後醍醐帝を頂点とする南朝が天下を二分することになるが、その時までは幾ばくかの時が残されている。
遠く、燃え盛る東勝寺を眺め下ろした新熊野は、土にまみれた裾を払った。
登ってきた小高い丘の頂上には、老いた桜がある。母に手を引かれて、来たことがある場所だった。母と大切な人が出会った場所だと、愛しい目で桜の花を見上げていたのを、よく覚えている。
「その目には、何を映していたのでしょうか?」
握りしめた一束の髪は、母の亡骸から切り取ってきたものだ。せめて、母の身体の一部だけでも、心休まるこの場所に、連れてきたかった。
応えぬ母の髪に首を振り、新熊野は東勝寺へと再び視線を向けた。
天に上る黒煙は、龍のごとき禍々しさだった。
なぜ殺されるのか、母は最期まで分かっていなかった。鎌倉幕府が滅びたのは、父が幕府に叛旗を翻したからだ。だが、それならば、母に刀を向けた武士たちは、味方のはずだった。
黒煙に、掌を重ねた。甲には、火傷の跡がある。父の姿を求めて泣きわめく母が、炭を入れた行火(小さな火鉢)を投げつけてきた時の傷だ。
母はいない。父も知らない。今の自分は、何者からも解き放たれたのだと思った。生まれて初めて感じる心地よさだった。手を広げ、舞った。白拍子だった母の、見よう見真似。腹の底から、笑いがこみ上げてきた。
ぽつりと降り始めてから、束の間で篠突く雨となった。
身体が冷え始めてなお、新熊野は舞い続けた。笑いながら、不意に自分が泣いていることに気づいた。母が、いなくなった。天地に、ただ独り。強く、そう感じた。
いつの間にか、東勝寺から立ち昇る終焉の気配が、新熊野の周りにも立ち込めていた。
不意に、母に抱きしめられた記憶がまざまざと脳裏に浮かんだ。火傷した新熊野に縋りつき、涙を止めて謝っていた。あの時、母は、たしかに自分を見ていた。自分が傷つくほどに、母は新熊野を見てくれた。
顔を知らぬ父も、自分が傷つけば見てくれるのだろうか。
「我が名は、新熊野」
気づくと、天に叫んでいた。
垂れこめた雲が、新熊野の言葉を待っているようにも見えた。息を吸い込み、新熊野は口を開く。
「武士の王と、なる者ぞ」
誰が母を殺したのか。
傷つき、前に進むことでしか生きられない。誰も、自分を見てくれない。ならば、母を殺した仇を殺すのが、己の生きる道だろう。頬傷の男だけではない。鎌倉を滅ぼした武士だけではない。
この世に戦をもたらそうとした者こそが、己の敵だ。
天を堕とすことになろうとも、そうすれば、父は自分を見つけてくれる。
傷つき、道往く己の姿を思い浮かべた童は、篠雨の中、母の髪を桜の葉の中に舞い上げ、まっすぐと天を睨みつけた。
まどろみから覚めた直冬は、己の頬が濡れていることに気づいた。
この夢を見ると、いつも涙を流す。
肥後国(現在の熊本県)、加瀬川の河原。夜空には砕いた瑠璃をちりばめたかのように、星がきらめいている。秋風が、直垂の中で汗をかいた身体を冷やした。十歩ほど離れたところには、麾下の武士たちが思い思いに寝そべっている。
緩やかな川の流れのほとりで、篝火が一つ燃えていた。
寂しげな明かりの中に、人影が浮かんだ。薄茜の小袖と、紺色の裳袴を身に着ける女は、この世のものとは思えぬほど綺麗だった。憐れむような、そしてひとかけらの愛おしさを滲ませている。
おもむろに立ち上がり、直冬は女に近づいた。
「答えは、見つかりましたか?」
透き通るような声とともに、女がやさしく直冬の頬を拭った。
童ではないと振り払おうとも思ったが、直冬は女の手の冷たさを受け入れた。女の手が触れた頬は、温かい。
答えは、知りたくなかった。だが、生きるということは、受け入れがたい答えを呑み込むことなのだろうとも思う。知ってしまった以上、自分は前に進むしかない。
逃げてしまえば、己を赦せない。
静かに、口を開いた。
「霞、俺は、父を討つよ」
霞は、哀しげに、だが小さく微笑んだ。