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太一の目がみるみる潤むのを遼子は見た。
「康介……!」
名前を呼んだきり言葉に詰まってしまっている。康介はというと、斜め下に目をやって、右手でうなじをさすっている。そんな二人の邪魔をしないように、遼子は画面に入らず横から黙って見守った。
「康介、元気だったか」
康介は押し黙っている。
太一はこらえるような表情で続けた。
「長い間、迷惑かけて、苦労させて、すまなかったな」
康介は応えない。
「お前のことを忘れたことは一日もなかった。信じてもらえないかもしれないけど、でも」
本当なんだ、と声がすぼまる。
「お父さんのこと、怒ってるだろうし、呆れてるだろう」
少し間があって、こくりと康介がうなずいた。
「当然だよ。顔を見たくないと思われても仕方がないぐらいだ。なのにこうして――ありがとうな」
「……別に」
「声、低くなったなあ」
「……そんな変わんないし」
「変わったよ。なあ康介、お父さんに言いたいことが、たくさんあるんじゃないか」
康介はうつむいたまま何度か瞬きをし、うなじに置いていた右手をゆっくりと下ろした。画面の向こうで太一が前のめりになる。
「言ってくれ。ぶつけてくれよ。怒りでも罵りでも何でも」
康介は唇を噛んで黙っている。
「遠慮すんな」
「そういうんじゃない」
「でも」
「ちげえって」
「……そっか……うん」
太一も俯いて、二人の間に沈黙が流れた。
やがて太一が顔を上げ、声を少し明るくして切りだした。
「大学で、勉強がんばってるんだってな。ほとんど優だってお母さんから聞いたぞ」
「まあ」
「背はどうだ。伸びたか」
「一七七」
「でかくなって。お父さんより七センチも」
太一は手元に置いてあった眼鏡をかけて、ぐいと画面に顔を近づけた。遼子がティムティム島で太一に残してきた老眼鏡だ。その老眼鏡で画面ごしに、康介の顔をまじまじと見つめ、イケメンだなと大きくうなずいた。
「彼女はいるのか」
「いない」
「なんでだ」
「知るかよ」
「まあ焦ることはない。四月からは市役所勤めなんだってな。おめでとう」
どうもというふうに頭を下げながら、遼子に目を向けてくる。こんな調子で続けていいのかと、戸惑っているような顔だ。
「役所に入ってどんなことをやりたいんだ」
「…………」
「ん?」
「……農業政策」
促されてつぶやいたその一言に、遼子は思わず身を乗り出した。
「近場だから」「転勤がないから」以外に初めて聞く、就職に関する、それも前向きな言葉だった。やっぱり香田ファームでの経験が活きているのだろうか。もっと突っ込んでいろいろ聞きたいが、今はぐっと我慢する。
太一はというと、素晴らしいじゃないか、立派になって、と、汗なのか涙なのかタオルで顔を拭っている。
「おめでとうな」
タオルを脇に置いて、太一はまっすぐ康介を見た。そしてネクタイを直すようなしぐさで、Tシャツの襟もとを調えてから切りだした。
「あれから――受験して、進学して、就職活動して。お前にとって一番といっていいほど大変で大事な時期に、つらい、心細い思いをさせて……本当にすまなかった」
太一は頭を下げたまま、なかなか顔を上げなかった。
康介がぼそりとつぶやく。
「俺も」
太一が顔を上げた。目も鼻も真っ赤になっている。
「あの晩のこと」康介は背すじを伸ばして小さく頭を下げた。「すみませんでした」
太一の頬にぼろりと涙が落ちる。
「いいんだ。いいんだよ、そんなこと」声が大きすぎて音声が割れた。「ただの晩だった。ただの親子喧嘩だったんだ。それを自分がこんなことにした。お前は悪くない」
太一は康介の肩に手を置くようにスマホをつかんで、ぐいと画面に近づいた。
「康介は、何も気にしないでやればいいんだ。自由にやっていけばいいんだ。お父さんは応援する。ずっと応援してる。だから頑張れ。いや、そんなに頑張らなくていい。ほどほどでいい。ほどほどに頑張れ。頑張れ康介。愛してるぞ」
太一はひとしきりむせび泣いてから、「ティッシュ取ってくる」と立ち上がった。
同じタイミングで康介も立ち上がり、音声をミュートにして画角から外れ、遼子に言った。
「もう、いいかな」
「おやすみぐらい言ったら」
「いいよ。代わりに言っといて」
ぶっきらぼうな言い方だけど、困っている――照れているのがわかった。遼子の知るかぎり、康介が太一から初めて受け取った、言葉としての「愛してる」だ。フィリピン流で直球の。
画面の向こうから、ぶーんと洟をかむ音が聞こえてくる。
「ねえ」と康介の手首をつかんで遼子は聞いた。「どうだった?」
「ん」康介は頬をかきながら、「誰、って感じ。なんか気ぃ抜けた」
「そっか」
「なんであんなに太れたの。お金無さそうなのに」
「ね」
「とりあえずエマって人とお金でどうこうじゃないのは分かった。俺ももう子どもでもないし」
「うん」
「だから、いいんじゃない。母さんの案で」
「康介!」
思わず抱きしめてしまった。
すぐに振り払われて、二階に逃げられそうになったので、引き止めて二、三、言葉を交わしてから「おやすみ」と背中を見送った。
太一は洟をかみ終え、両手で頬を支えて待ち受けていた。
康介がいた席に、遼子が座る。
「あれぇ。康介は?」
「疲れたから寝るって」
「そんなあ」スクショを撮りたかったのにと肩を落としている。
「なんか軽いね」
「や、そんな」慌てて居住まいを正している。
「まあいいや」ここからが肝心だ。遼子は話を進めた。「ねえ、ティムティム島で別れるとき、私たちの決断にゆだねるって太一言ったよね」
「そうだよ。話し合いはするけど、最終的な決定権は遼子と康介にある」
「早速ですが、結論です」
「えっもう?」太一は顔を小刻みに横に振った。頬の肉がぷるぷる揺れる。「そんなに急がなくていいよ。じっくり話し合おうって言ってたじゃない」
「そうもいかないでしょ。エマさんたちは今どこ?」
「近所の親戚の家に泊まってもらってる」
「Wi-Fiもつながらなかったり遅かったり不安定だって言ってたよね。今日は調子よさそうだけど」
「十世帯ぐらいで共有してるからね。でも今日は大丈夫。みんなに頼んで、十一時まで控えてもらってるから」
「話し合いのたびにそんなことさせるの悪いじゃない。何より、エマさんが気が気じゃないでしょうし」
「それは、そうだけど」
「そうよ」遼子はテーブルの上で腕を組んで、「ねえ、レオって、ライオンの意味なんだよね」
「え、うん、そうだよ。強そうでいいなと思って」
「これからはレオとして、強く生きてください」
「え、何、どういうこと」
「日本には帰ってこなくていいってこと」
「なんでそんなあっさり。連れて帰るために捜してたって、遼子こないだ言ってたじゃない」
「そう言ったし、思ってた。でもよく考えたら、太一を見つけた後の事を、私ぜんぜん考えてなかった」
遼子はタブレットとともにテーブルの端に置いてあったA4のノートを、手元に引き寄せて表紙を撫でた。この四年半が詰まったノートだ。
「私はずっと、太一が記憶を失ったまま、見知らぬ場所を一人さまよってるんじゃないかって心配だった。寂しくてつらい思いをしているんだとしたら、早く見つけて助けてあげなくちゃって。でも太一は、元気だったし幸せそうだった」
「…………」
「で、気づいたの、私は不幸な太一を捜していたんだって。だから幸せな太一を見つけたとたん、コンプリートして満足しちゃったみたい」
「僕が……」スンと太一は洟をすすった。「もしも不幸だったら、別のステージがあった?」
「どうかな。連れて帰って元の生活に戻してあげたいって考えたかもしれないけど、でも、肝心なその元の生活が、私にはもうわからなくなってる。いつの時点まで遡れば元通りなのか」
戻りたいとお互いが願う生活は、もしかしたら、あの台風の日よりもっとずっと前に、なくなっていたのかもしれない。
「だから、いいよ」
「でも……」
「帰国するにしたってどうせエマさんのためでしょうし」
「そんなことは……」
太一は俯いたまましばらく黙っていたが、やがてか細い声で言った。
「ごめんね……ありがとう」
太一が否定しなかったことに遼子はちょっとだけまた傷ついて、でも「どういたしまして」と微笑んでみせた。
「でも」と太一が顔を上げる。「こうして時々は話せるでしょ」
「ううん。今日で最後」
「えっ」
「私の夫は死にました。そう思って生きてくから」
「そんな。まさか康介も?」
「それは親子で話して。携帯番号を太一に教えてもいいって、さっき康介に了承得たから、後で送る」
「うん」少しホッとした顔で、「でも、じゃあ遼子とは、これからは友達として――」
「それもなし」
「なんで」顔じゅうのパーツがハの字に垂れる。
「私は四角四面で融通のきかない人間なの。太一も知ってるでしょう。今回のこと、たくさん考えたし悩んだけど、やっぱりいろいろ受け入れがたくて、特に不法滞在問題は無理だった。そこらへんがクリアになったら別だけど」解決するための助力や費用が要るなら手を貸すつもりもある。
「そんなあ」
太一は背を丸めて小さくなっている。けど、夢の中で何度も見たみじめで悲しい小ささじゃない。
あとやっぱり、と遼子は続けた。
「九死に一生を得て意識と記憶を取り戻したあなたが、真っ先に無事を知らせてこなかったこと、知らせようと思わなかったことが、一番無理で致命的かな。今思えばね」
「……ごめん」
俯いて、消え入りそうな声で太一は言った。
「僕は遼子をすごく傷つけた」
「うん」
「まだ怒ってるよね」
「怒ってないよ。でもいつかちょっとは後悔すればいいって意地悪な気持ちはある」
「当然だよ。僕はきっともっと後悔する。これまでもこれからも後悔の上にしか成り立たたない人生なんだ。そう思っててよ」
「わかった」
テーブルの上で両手を組んで、うなだれる太一に遼子は語りかけた。
「でもあなたの幸せは祈ってる」
太一がハッと顔を上げた。
遼子は付け足した。
「本当よ」
「遼子……」
「太一と会えてよかった。初めて会ったときから、よく並んで空を見あげて、二人でたくさんしゃべったね。康介が生まれて、三人でいろんなところに出かけて、いろんなもの見て。楽しかった。太一もそうだったと思いたい」
太一がこくりと大きくうなずく。その頬にぽろりとまた涙が流れた。
「太一には、これからも元気で、幸せで、ずっと笑っていてほしい」
お互い顔をまっすぐに見て、太一、と呼びかけて遼子はやっと言った。
「ありがとう」
「遼子」太一は手の甲で涙をぬぐった。「ごめんな。本当にごめんな。俺も感謝してる。ずっと感謝してたんだ。感謝してたし、申し訳ないとも思ってたのに。その時その時に、言わなきゃいけなかったのに」
うん、と応えて、遼子はタブレットの向こう側――ダイニングテーブルの空席を見た。
いつも太一が座っていた席。すぐそこで嬉しそうにビールを飲んで、ハンバーグを頬張って、おいしいねとこちらに向かって微笑んで。そんなときが確かにあった。
今はお互い小さな画面の中にいて、手を伸ばしても触れるのは無機質なモニター画面だけど、それでも、最後の最後にこうして向き合っている。幸い、生きて向き合えている。
遼子はぎゅっと口角を持ち上げた。
「こうしてちゃんと話したり、泣いたり怒ったり笑ったり、もっと一緒に素直にしてくればよかったね」
うんうんと太一がうなずく。
「私これからはそうするつもり」
「僕も」
「あなたはもうできてるから大丈夫。ていうかそういう人だったんだよね」
「遼子ぉ。遼子は優しい、いい人間だよ。ねえ、せめて遺族年金は受け取ってよ」
「――そうだね」
「ありがとう。ありがとう遼子。ありがとう」
うん、と遼子はうなずき、告げた。
「体、大事にね。じゃあね」
太一の顔がぐにゃりと歪んだ。言っては悪いがブサイクなその顔に一瞬いとおしさを感じながら、画面を落とす直前に笑って手を振った。
アプリを切り、電源を落としたタブレットの黒い画面に、自分の顔が映りこむ。
太一へ向けた笑みが少しだけ残ったその顔は、我ながら屈託なくすがすがしく、久しぶりに見る〝元の顔〟のように感じられた。
クローゼットの内側の鏡で全身を確かめる。遼子は、ベージュのセットアップに皺がないかを前、後ろとチェックした。今日は税務申告の打ち合わせで税理士が来ることになっている。おなじみの先生だけど、今日はなんとなくパリッとした姿で出勤したかった。
アイロンを当てたハンカチを引き出しから取ってバッグにしまう。「行ってきます」とニャンを振り返ってから寝室を出た。
一階に下りて、仏壇の前に立つ。お義父さん、お義母さん、太一。そして遺影はないし顔も知らないけど打越に向け、お鈴を鳴らして手を合わせた。
行ってきます。
掛け時計を見上げると、少し時間に余裕があった。テーブルの上の携帯を手に取って、徳子にメールを打つ。
――仕事に行ってくるね。買い物あったら夕方までにメールして。
徳子には、太一のことはまだ話していない。話すべきかどうか悩んでいる。
遼子は携帯をバッグに入れて廊下に出た。共有のドアには鍵がかかっている。
今後は共有ドアに鍵をかけたいと、昨日ビデオ通話をする前に、思い切って徳子に伝えたのだ。徳子はみるみる顔をくもらせ、家族なのに、と吐き捨ててから……泣きだしてしまった。
玄関で黒のパンプスを履く。少しくすんでいたので、布で軽く磨いた。
自転車に乗る前に、カーポートから徳子の家を振り返った。雨戸は開いている。バッグから携帯を出して見たが、今のところ返信はない。というかメールも電話も昨夜から途絶えている。
インスタの通知が来ていたのでチェックすると、夕焼けの写真が投稿されていた。コメント欄をタップして、フォロワーとマルコのやりとりを見る。
――きれいな写真ですね。
――マジックアワー。大切な友人から譲り受けたカメラで撮りました。
いいねを押してから、少し考えて、徳子に追伸を打った。
――今日なるべく早く帰ってくるね。共有ドアのこと、もう少しちゃんと説明する。傑たちとのことも話しあおう。
一文付け足した。
――たくさん話そう。
ごみ収集車のメロディが聞こえてきた。このメロディをこの場所で聞く日は、だいたい電車を一本乗り遅れる。あわてて携帯をバッグにしまい、自転車にまたがって漕ぎだした。
冬の冷たい風が頬を撫でる。信号のない交差点で、小学生が一列になって手を挙げて渡っている。遼子と、同じように停まった車のドライバーに向かって、子どもたちが「ありがとうございました」と声をそろえる。
遼子は、いつもより少し速いスピードで坂を下り、下りきったところの信号待ちで、ペダルに片足をかけて空を見上げた。薄い雲のたなびく、淡い水色の空が頭上に広がっている。
つながっている。
ティムティム島も、太一の住む町も。
そのことを、まるで初めて発見したかのように新鮮に思いながら、遼子はペダルにのせた足に力をこめた。