「じゃあね、おばさん。また明日!」

 エマは販売用カートを折り畳みながら、背後の『サリサリストア』を振り返った。店は鉄格子に覆われていて、一面にいろいろな商品が吊り下げられている。スナック菓子、パン、煙草、小分けの洗剤、一粒から買える飴玉なんかだ。

 鉄格子の真ん中に開いている四角い小さな穴から、ティータが顔を出してこちらを見上げた。

「早いね。もう上がり?」

 ティータはトレードマークの黄色いTシャツを着ていて、自身もカラフルな商品の一部みたいだ。エマはにっこり笑い返した。

「ストリートボールさまさまよ」

 今日はすぐそこの広場でバスケのオープン大会をやっていて、チームの人たちが午前中の軽食用にと、魚のすり身団子を次々買い上げてくれた。

 フィッシュボールを家で揚げて朝から路上で売るのがエマの仕事だ。売り切れたらその日の仕事は終わり。今は場所代を払ってティータの店先を間借りしているけど、いつか屋台を持つのが夢だ。

 スツールを畳んでティータに手を振り、エマはカートを引いて歩き出した。

 この折り畳み式カートはレオが廃材から作ってくれたもので、金属製だけど軽いしすごく丈夫だ。でこぼこ道でも引きやすいようにキャスターを太いゴム製に替えたり、スツールをカートに載せて運べるよう部品を足したり、使い勝手をみながら改良もどんどんしてくれる。

 以前はフィッシュボールを皮付きラタンの浅籠に入れて、地面に直置きして売っていた。エマ自身も道端に座って商売をしていたから、カートとスツールのおかげで仕事がぐんと楽になった。

 広場はたくさんの参加者とギャラリーで賑わっていて、ちょうど緑のユニフォームを着たチームが試合をやっていた。フィッシュボールをたくさん買ってくれたチームだ。

 立ち止まって少し見ている間に、緑チームがロングシュートを決めたので、エマは左手を突き上げてフーッと声をあげた。得点した男性が、仲間同士でハイタッチしたあと、ギャラリーに向かって拳を突き上げる。喝采の渦が広場に巻いて、周辺のベンチでのんびり憩っていた人たちも束の間視線を向けた。

 エマはカートから手を離してシャドーシュートをしてみた。最後にプレイをしたのは小学校の球技大会で、十五年ほども前になる。バスケは得意で大好きだった。社会人チームに憧れはあるけど手織りマットの内職もあるし、月謝を払って練習してという余裕はとてもない。

 カートを引いてエマはふたたび歩きだした。広場を離れるにしたがって、店や車や人が減り、花壇を彩っていたブーゲンビリアの甘い香りも薄れていく。

 公園通りを折れて未舗装の裏道に入ると、子どもたちが歓声と砂埃をあげて缶蹴りをしていた。道端では大人たちが机と椅子を引っ張り出し、ボードゲームを挟んで話に花を咲かせている。腕組みの見物客もみんな近所の顔見知りで、そのうちの一人、隣の家のおじさんがくわえ煙草で顔を上げた。

「やあエマ。今日は早いね」

「ストリートボールさまさまよ」

 慣れた台詞を返してグッドラックと手を振り、赤土の地面のでこぼこや水たまりを避けながら進むと、白壁に茶色い屋根の長屋が見えてくる。そこを過ぎて少し行ったところの空き地に、エマは足を踏み入れた。

 ぬかるんだ空き地にはバラックが立ち並んでいて、左手の二軒目――寄せ集めの木材の壁と青いトタンの屋根がエマの家だ。立てかけた板が長いこと玄関のドア代わりだったが、今は鍵もかかるアルミサッシだ。

 カートを抱えてドアを開けると、玄関を入ってすぐ、二メートル四方のダイニングキッチンで、母親が腰を折ってコンロを覗きこんでいた。

「ただいま!」

「ああエマ。お帰り。早かったね」

 応えながらもナナイは腰を折ったままだ。

「どうしたの?」

 尋ねながらエマはダイニングテーブルの脇にカートを立てかけた。テーブルの上も下も――というか天井から床まで家じゅう物だらけだが置き場所はちゃんと決まっている。コンロ周りにぎっしり並ぶ調味料だって順番どおりだ。

 ナナイが体を起こして息を吐いた。

「コンロが点かないのよ」

「ボンベ切れとか電池切れじゃなくて?」

「両方入れ替えたけどダメ」ナナイはエマを見て肩をすくめた。「レオの朝ごはんがまだだし、メリエンダに焼きそばでも作ろうと思ったのに。とうとう壊れたかね。困ったね」

 このコンロは『サリサリ』のティータからずっと前に譲ってもらったものだ。

「大丈夫よ。レオがきっと直してくれる」励ますようにエマは言って、「ガブリエルたちは?」

「遊びに出てる」

「レオは」

「寝てるよ」そう言ってカーテンの仕切りの向こうを目で指した。

 花柄のオレンジのカーテンをめくって隣の部屋に入る。こちらも二メートル四方ほどの空間だ。セメントを流し固めた床に、形も色もばらばらの布団がしきつめてあり、レオはその真ん中で大の字になって寝ていた。Tシャツごしの太鼓みたいなお腹が規則的に上下していて、無防備なその姿と口をぽかっと開けた寝顔に、思わず頬が緩んだ。

 エマはただいま、と小声で言って、レオの隣に静かに体を横たえた。大きな体に腕を回して優しく抱きしめ、レオのにおいを思い切り嗅ぐと、包みこまれているみたいに気持ちが落ち着く。エマは、妊婦さんのようなレオの丸いお腹をつるりと撫でてから、自分のお腹にそっと触れた。ぺしゃんこで、やせぎす。もっとふくよかになりたい。ナナイは糖尿病が心配だなんて言うけど、エマにとってレオの体は幸せの象徴だ。

 レオの寝息がふいに止まった。瞼がぴくぴくと動いて、眉間に苦しげな皺が寄る。

 エマはそっと指先を伸ばし、レオの眉間に触れた。大丈夫、と心の中で唱えながら、皺の刻まれた眉間を撫でる。大丈夫、悪夢はエマがこうして追い払う。だから大丈夫。レオは大丈夫。

 レオの口がもごもごしはじめる。ゆっくりとした浅いまばたきが何度かあって、レオはとろんと目を開けた。

「やあエマ。お帰り、ベイビー」

 体の向きを変えてゆるりと抱きしめてくる。エマは、ぷにぷにのレオの頬におでこをすりつけた。

 レオは大きなあくびを一つするとエマのおでこに唇をつけ、のろのろと立ち上がってトイレに向かった。トイレは家の外、敷地の端にある共同トイレだ。

 戻ってきたレオにコンロのことを話すと、すぐに見てくれるという。エマはダイニングテーブル脇の、六段ある棚の三段目から、緑色の工具箱を取り出してカーペット敷きの床に置いた。工具箱はコンロと同じくらいの大きさで、開けると蓋側にも底側にも工具がずらりと並んでいる。レオがドライバーの一つを掴んだので、エマも赤い持ち手の虫眼鏡を手に取った。レオは老眼だから、エマがこれで手元をよく見せてあげるのだ。これさえあればレオは道具を使って何でも――どんなに細かいものでも入り組んだものでもたちまち直してしまう。その仕上がりは芸術的で、腕がいいとこのあたりでは評判だ。

 今日もそう。あっという間にコンロは直って火が点いた。ナナイが声をあげて手を叩いている。コンロの火にともされて、エマの心も温かくなった。

「レオすごい。レオの手は魔法の手」

 エマは、えくぼの浮くふっくらしたレオの右手をとって撫でた。

「エマがいつも僕の手元を大きく明るく照らしてくれるからだよ。ありがとう」

 三人でパンシットを食べ、レオはピアトスのサワークリーム&オニオン味もぺろりとたいらげた。

 レオが指を舐めながら立ち上がって、黒いキャップを被る。

「ちょっと出かけてくる」

「お仕事?」

「うん」

 そう聞いて、エマはまた工具箱を渡そうとした。が、レオは肩を少しだけ上げた。

「それは要らないや」

 エマは箱をそっと元に戻した。これが要らないということは……あっちの仕事だ。

「レオ……マニラに行くの?」

「うん。そんなに遅くはならないよ」

「……気をつけて」

「お土産をいっぱい買ってくるね」

「お土産はいいから、無事に帰ってきて」

「すぐ帰るよ。心配しないで」

 エマのおでこにキスをしてレオは出て行った。

 路上に出て後ろ姿を見送っていると、レオは何度も振り返って、曲がり角で投げキスをくれた。

 たぶんレオはこれからシムラのところにいく。シムラの仕事のときは、ふだんの〝何でも屋〟――壊れたものを直したり、配線を引いたりする仕事よりたくさんのお金を持って帰ってきてくれる。月に一度ほどのその仕事の報酬はありがたいし、レオのお仕事に口出しなんてできないけど、本音では行ってほしくなかった。

 シムラに、一度だけエマは会ったことがあった。このバランガイで一番高級なレストランに呼ばれて行って、子豚の丸焼きをごちそうしてもらった。シムラはエマにはにこやかで、優しくて、ジェントルだったけど、一方でレオに対しては、命令口調で、時に馬鹿にしたような言い方をしたりした。レオは笑ってやり過ごしていたけど、エマはとても悲しかった。涙が出そうになったくらいだ。しかもレオがトイレに立ったとき、自分のマンションに遊びに来ないかと誘ってきたのだ。シムラは命の恩人だと聞いているからなんとか笑顔で断ったし、レオの友達にこんなことを言ったらだめだけど、もちろん言わないけど、でもシムラって――嫌な奴だ。

 フィッシュボールをもっと売ろう。たくさん売って、稼いで、屋台を買ってがんばれば、レオを危ない仕事に行かせずに済む。

 レオは今日もたくさんのお金とお土産を持って少し遅い時間に帰ってきた。帰ってすぐ棚の最上段に手を伸ばして、クラッカーの空き容器――我が家の貯金箱に稼ぎのすべてを入れてから、テーブルの上にお土産を広げた。ナナイには可愛い赤い缶に入ったオーロチョコレート。弟たちには、大好きな『ジョリビー』のフライドチキンとライスのセット、それからスパゲティもだ。みんな大喜びで、レオに次々抱きついている。レオはガブリエルをハグしながら、肩越しに言った。

「エマには、違うプレゼントをするよ」

 優しい笑顔で続ける。

「旅行にいかないか」

 エマは息が止まるかと思った。旅行なんてしたことがなかった。旅行どころか、このバランガイから出たことがない。

 レオはエマに向かって大きく両手を広げた。

「ナナイたちもいつか絶対に連れていく。約束するよ。その前に、二人で行こう」

「ありがとう」両手の中にエマは飛び込んだ。「レオ、私の王様」

 ぎゅっと抱きしめて、なぜか涙が出そうになる。嬉しいだけじゃない、切ない何かがこみあげてくる。

「大好きよ」髪をなでてくれるレオに、エマは言った。「どこにも行かないでね」

 

***

 

 康介との約束を遼子は守れなかった。

 ――父さんであってもなくても、まともに食らわないこと。

 食らってしまった。それも思い切り。

 シムラは別人だった。横顔はあんなに太一に似ていたのに、正面から見た顔はまったく違った。

 ――すみません、部屋を間違えました。

 呆然と日本語を口にした遼子にシムラは「お気になさらず」と日本語で返し、にこやかにドアを閉めた。

 どうやって部屋に戻ったか覚えていない。胸のあたりに錘でも入っているみたいに気持ちが沈んで、体がだるくて、ベッドから起き上がることができなかった。

 帰っておいでよ、と康介が言った。それがいいだろうと遼子も思った。

 目的は果たした。マニラ観光をする気分にはとてもなれない。だから帰国して、荷をほどいて、ふだんどおりの生活に戻る。朝起きて仕事に行って、ご飯を食べて眠りにつく。康介と、正と徳子と、もしかしたら傑と陽菜も、あの家で。まずは隣の二階の片付けからだろうか。

 窓の外が暗くなりはじめたころ、マルコからメッセージが届いた。一報はすでに入れてあって、シムラが捜していた人ではなかったことを伝えたうえで、元気出して、ありがとう、のやりとりも済んでいた。

 ――リョウコ、よかったらティムティム島に来ませんか?

 思いもかけない言葉だった。

 遼子はよろよろと上半身を起こした。喉の渇きをおぼえてペットボトルの水を一口飲んだ。吐き気はあったが吐きはせず、心が揺れた。

 康介は大反対だった。

 ――有名なリゾート地ならまだしも、聞いたことのない、治安の良し悪しもわからない離島に一人で行くなんて。言葉だって英語が公用語の首都圏とはワケが違うかもしれない。飲み水、食べ物、トイレ事情、ちゃんと考えてる? しかもホテルは満室なんでしょ。マルコがいくらいい人そうでも、初めて会う人の家に泊まるなんてありえないよ。

 すべては康介の言うとおりだった。でも――。

 乗船客の間にざわめきが起きた。

 船尾側の甲板に立っていた遼子は、船べりから身を乗り出し、紺色の帽子のつばをあげて前方を見やった。

 遠くに淡い島影が見える。

 ティムティム島だ。

 時間を確認すると、十二時を回ったところだった。朝早くマニラを出発し、飛行機と船を乗りついでようやくここまで来た。

 ボナイ島を出港する直前に届いた、マルコからのメッセージをもう一度読む。

 ――私は桟橋のそばにいます。茶色いTシャツを着ています。昨日送ってもらった画像を手がかりに、リョウコを見つけ出します。

 灰青色だった島影が濃さを増し、細部が鮮明になってくる。プリンみたいな形の山がそびえ、そのふもとに町が見えた。山の中腹に並んでいるのはホテルだろうか。入港を歓迎するかのように港で花火が上がり、甲板に歓声がおきた。

 フェリーはエンジン音を変えて、減速しながら桟橋に近づいていく。遼子は下船のための列に並び、船首にかけられた梯子を伝って桟橋に降りた。

 欄干のない木造の桟橋は、人が二人並んで歩けるくらいの幅で、ビーチに向かって垂直に長く延びている。左右両側にアメンボみたいな形をした小型のボートがいくつも係留され、終点には大きな横断幕が張ってあって、虹色の文字で「ティムティム島へようこそ」と書かれている。

 遼子は足元に気を付けながら前方に目を向けた。ビーチは大勢の人でごったがえしている。桟橋から少し離れた右手のほうには、水着姿の人もいて、飲んだり食べたり音楽にあわせて踊ったりしている。

 正面の、出迎えの人たちに目を凝らすと、茶色いTシャツを着たひときわ背の高い男性が、ぴょんぴょん跳ねているのが見えた。Facebookで見た、弾けるような明るい笑顔そのままだった。

 遼子は思わず笑顔になって、大きく手を振り返した。背中でリュックが揺れ、白いブラウスの襟がひるがえった。

「リョウコ!」

 遼子がビーチに足を着くなりマルコは、こちらの体が浮くぐらいの力でハグしてきた。ココナッツの香りがする。どぎまぎして両手のやり場に困ったが、二拍ほど遅れて控えめなハグを返した。

「本当にリョウコだ。信じられない」

 マルコは体を離し、大きな両手で遼子の手をぎゅっと包んだ。「会えてとっても嬉しいよ」

「私も。嬉しい」。けど、と続けた。

「マルコ、お仕事は本当に大丈夫?」

「ノープロブレム! 優秀なピンチヒッターが代わりに店に立ってるんだ。それに今日みたいに外からお祭りを楽しむのは初めてだし、実はすごくワクワクしてる」

 いつもは店の中で仕事だからね、そういって片目をつぶった。とはいえガイド料を払って島案内をしてもらうので、これもまた仕事ということになる。

 それにしても不思議だった。DMでは自動翻訳でぎこちなかった一言一言が、当たり前といえばそうだが、ちゃんと話し言葉として聞こえてくる。マルコがゆっくりしゃべってくれるおかげだろうし、もしかしたら文法や理解を間違えているかもしれないけど、ジェスチャーと翻訳アプリを頼れば何とかなりそうだ。

 船から下ろされたスーツケースはマルコが受け取ってくれた。

「僕の職場に案内するよ。みんなリョウコに会うのを楽しみにしてる」

 砂浜を横切り、ココヤシの林を抜ける。

「木の根が地面に広がってるから気を付けて」

 歩きながら、伏し目がちにマルコが聞いた。

「リョウコ……その、大丈夫?」

 昨日のことを心配してくれているのがわかって、「ありがとう。大丈夫」と少し無理して笑顔で答えた。「マルコに会って、元気が出た」。これは本当だ。

「よかった!」マルコはパッと笑顔になった。「もっと元気が出るように一生懸命ガイドするよ。リョウコの行きたいところは全部まわろう」

 

(第22回につづく)