* * *

 

 栃木県警の何署と言ったか、五十嵐は淡々とした口調で妙なことを言いだした。

「ご主人が県内に滞在されている件でご連絡をいたしました」

「は? 県内に滞在……栃木県に?」

「そうです」

「え、と」頭が混乱してうまく言葉が出てこない。「あの、よくわかりませんが、間違いというか人違いではないですか。栃木だなんて」

 横浜市内のネットカフェに泊まったのだ、昨日太一は。そして今日はもうそこにはいない。さっきお店に確認した。だから――。

「もう帰ってくると思うんです」

「ご本人から連絡がありましたか?」

「……あったは、ありました」

「いつですか」

「昼です。昼間にLINEでメッセージが」

 そこまで言って口をつぐんだ。

 ――今どこにいると思う?

 みぞおちのあたりがひんやり冷たくなった。分からないことだらけなのに、奇妙な、しかしとてつもなく重要な符合のように感じた。

 黙っていると五十嵐は言った。

「ここ二、三時間の間に連絡はついていますか」

「いえ」

「なるほど」

 五十嵐はそう言って黙った。

 怪しい、と遼子は思った。

 夜中に急に電話してきて変なことを聞いてくる。何らかの方法で太一の不在を知った詐欺電話かもしれない。

 急いでソファから携帯を取ってきて。ナンバーディスプレイに表示されている電話番号を検索した。

 栃木県警新谷警察署の代表番号で間違いはなかった。

 それでも疑念は晴れなかった。遼子は言った。

「どうやってこの番号を知ってかけてきてるんですか」

「ご主人が滞在している旅館の、宿泊者名簿をもとにご連絡さしあげました」

「旅館? 何ていう旅館ですか」

「あさひ屋です。所在地は栃木県新谷市彦川町五十二番地」

 携帯であさひ屋を検索する。実在する旅館だった。五十嵐は付け足すように言った。

「正確には、あさひ屋を運営するサンホテルズコーポレーションから連絡を受け、提供されたデータをもとにお電話しています」

「データ……」

 遼子が押し黙ると、五十嵐は「念のため確認させてください」といって、太一の携帯番号とうちの住所をすらすらと述べた。すべて合っていた。

「それから、お車のナンバーは横浜三六二、な、の――」

 正確に覚えていなかったので、車の写っている写真を携帯のフォルダから探した。納車の日にいろんな角度で撮ったものがあるはずだ。気づきたくなかったが、スクロールする指がかすかに震えていた。

 四桁の数字までぴたりと一致していた。

 狐につままれたみたいだ。呆然とする遼子に五十嵐は言った。

「ご主人に関する大切なお話です。確認したいことがありますので、ご協力をお願いします」

 お願いと言いながら有無を言わさぬ圧があった。

 さっきから頭の隅にうっすら浮かぶ懸念があり、おそるおそる遼子は尋ねた。

「まさか……事件に巻き込まれた、とか、ですか」

「いえ事件ではありません。その点はご安心を」

 ほっと胸をなでおろした。しかしまだ油断はできなかった。

 一体これから何を知らされるのか。

 ――ロマンス系の逃避行だったりして。

 まさか。

 千々に乱れる思いをよそに五十嵐は切り出した。

「順を追って状況を説明させていただきます」

 遼子は受話器を握りしめて神経を研ぎ澄ました。五十嵐の背後はやけにざわざわとしていた。電話がひっきりなしに鳴っていて、ぼそぼそした声、ハキハキした声、張り上げるような――とにかく人の声がずっとしている。

 その中で五十嵐の声はひときわ明瞭だった。

「台風二号の影響で、現在、栃木県には線状降水帯が発生しています。午後八時、新谷市内全域に特別警戒警報が発令。午後九時半頃には避難指示が発令されました」

 あっと遼子は思った。

 なぜ気がつかなかったんだろう。一日中、気忙しさのあまり、天気もニュースもちゃんとチェックすることを怠っていた。それ以上に、この悪天候と太一とを具体的に結びつける発想に欠けていた。

 五十嵐は言った。

「ご主人は午後九時二十分に避難を開始し、現在も避難中であるというのが、サンホテルズ側からの情報提供でわかっていることです」

「避難中、というのは、別の場所に避難して今は安全だということですか。主人は無事なんでしょうか」

「それを現在確認しています」

「つまり……確認が取れてない?」

「はい。最寄りの系列旅館に向けてマイクロバスで避難を開始したとのことですが、到着がまだ確認されていません」

 咄嗟に掛け時計を見上げた。〇時四十分。

 ずいぶん経っている。胸がざわざわした。遼子は聞いた。

「その系列旅館って、そんなに遠い場所にあるんですか」

「新谷市小沼町にあるニューあさひ屋という旅館で、直線にして二十キロほど、通常であれば一時間かからない距離ですが、この天候ですので」

「……そう、なんですね」

「彦川町付近は今三時間で百ミリを超える降雨量です。道路の寸断や通信障害も複数個所で発生しています。確認にはもうしばらく時間がかかるかと思われます」

 百ミリ超の雨に、道路の寸断。

 小さなバスが険しい山道を行く光景が脳裏に浮かんだ。

「あの」掠れる声で聞く。「移動で通る道は安全なんでしょうか」

「どのルートを取っているかは確認できていません」

「……通信手段が絶たれているということですか」

「可能性はありますがわかりません。詳しい情報が私どもの許にもまだ入ってきていません」

「じゃあ、もしかしたら途中で何か……事故とかに遭っているかもしれない……?」

「わかりません。我々としてはあらゆる可能性を視野に確認を急いでいます」

 言葉を失っていると五十嵐は言った。

「ご主人を含め十二名の方々が避難行動をともにされています」

「そう、ですか」一人ではないことにほんの少し気が安らぐ。「あの、できたら、そちらに行きたいです。いけませんか」

「お気持ちはわかりますしかし」と五十嵐は言った。「警報発令中で大変危険です。二次被害を防ぐためにもご自宅で待機を」

「……わかりました」

「マイクロバスが何らかの理由で自主避難先を他の場所に変更したということも考えられます。現在、消防と機動隊が近隣の小中学校や公民館などを巡回し捜索と救助に当たっています。ご主人の確認が取れ次第ご報告します」

「ありがとうございます」電話の前で深々とお辞儀をしていた。「どうかよろしくお願いします」言いながら胸が詰まってしまう。

「我々としてもお願いしたいのが、その前にもしご主人から連絡があったら、必ず知らせていただきたいということです」

「もちろんです。この番号でいいんですね。今ここに出ている」

 念のため五十嵐に電話番号を読み上げてもらった。遼子はテーブルの上のメモとボールペンをつかみ、強ばる手でそれを記した。

「それからもう一つ」と五十嵐は続けた。「ご主人の身体的特徴を教えてください」

「身体的特徴、ですか」

「確認作業の参考に背格好を」

「背は、一七〇です」

「体重、体格はどうですか」

「体重は六十一キロ」春先に人間ドックを受けていた。「体格は、この年代の男性としては――四十九歳ですが、やや細めの中肉中背だと思います」太り過ぎないよう食べるものには気をつけているからお腹も出ていない。

「髪型は」

「短髪です。色は真っ黒、少し癖毛で……あの、写真を送ったほうが?」

「後ほどお願いします。服装はどうですか」

「今日の、ですよね」

 遼子は考えた。

 昨日、家を出ていったときの服装しかわからない。前提としてそれを伝えたうえで答えた。

「白いTシャツにベージュの短パン、白い靴下。ナイキの青いスニーカー。今日新しく買っているとしたら、派手な色ではないと思います。白、茶、カーキ。生成り」好きな色は遼子と似ている。下着は間違いなく買っているだろう。太一は綺麗好きで、身なりや整理整頓、衛生の面で厳格だ。義両親もそうだったからその影響かもしれない。

 五十嵐は質問を終えて情報提供への礼を述べると、咳払いを一つして続けた。

「もう一点、お伝えすることがあります」

 改まった口調に遼子は身構えた。

「これは、ご主人が避難を開始したとされる九時二十分よりも後に起きた事です。それを踏まえてお聞きいただきたいのですが」

 嫌な予感がした。

「午後十時頃、彦川町で土砂災害が発生しました」

 おそろしい響きに頭の中が白くなる。

「この土砂災害で、あさひ屋が被害にあったとの情報が入っています」

 

 

 どれぐらいそうしていただろう。

 受話器を持つ手をだらりと下げた状態で、遼子は床に座り込んでいた。ツー、ツー、という音が鳴り続き、電話コードがめいっぱいに伸びていた。遼子はよろよろと腕を持ち上げ、手探りで受話器を親機に戻した。

 電話が切れてしまうと、すべては夢ではないかという気持ちが湧いてくる。受話器越ごしに交わした今の話が現実のものとはとても思えない。しかし床に落ちているメモには、五十嵐の名前や警察署の番号、メールアドレスがきちんと記されているのだった。

 そばに転がっていた携帯を拾い上げて、太一に電話をかけた。つながらず、音声案内ばかりが流れてくる。何度かけても同じだった。手から携帯が滑り落ちて、びっくりするほど大きな音を立てた。

 椅子の背にしがみつくようにしてなんとか立ち上がる。ふと目をやったテーブルの上、太一の席のところに箸置きがぽつんとあった。これだけ、片付けるのを忘れていた。作った料理はラップをかけて冷蔵庫に入れてある。チーズ入りハンバーグとポテトサラダと揚げだし豆腐。どれも太一の好物で、あとは太一が帰ってきたら温めるだけだった。明日の昼は素麺を茹でる。

 伝い歩くようにしてローテーブルの上のリモコンを取り、テレビの電源を入れた。ニュース番組に合わせると「速報」の文字が目に飛び込んできた。栃木県新谷市彦川町で土砂災害が発生とある。反射的に音量ボタンを上げると、スタジオで状況を伝えるアナウンサーの声が聞こえてきた。

 ――繰り返します。今日午後十時頃、栃木県新谷市彦川町で土砂災害が発生しました。この土砂災害で、彦川町の旅館あさひ屋と、民家数棟が被害にあったとの情報が入っています。被害に関する詳細は不明で、現在警察と消防が確認作業を行っているとのことです。また詳しいことがわかり次第お伝えしてまいります。

 同じ内容が繰り返しアナウンスされたあと画面が切り替わり、避難所からの中継になった。

 高齢の女性がタオルを手にインタビューに答えている。

 ――あっという間だったね。夕方、玄関前を水がチョロチョロ流れてるなと思ったら、次見たときにはわっと増えてて、川みたいになっててね。道路に出られなくなっちゃって、これは大変なことになったどうしようってお父さんととりあえず二階に上がって。窓を開け放して、これ、この懐中電灯を持ってずぶ濡れで救助を待ってたの。そしたら消防の人が来てくれてね、ボートで助けてくれて。

 小学校か中学校の体育館のようだ。新谷市滝本町とある。同じように避難してきた人がたくさんいて、床に敷いたマットのような物の上に座っていた。太一もどこかにいるかもしれないと急いで録画して何度も目を凝らしたが、見つけることはできなかった。

 でもこうしてあちこちに避難所があって、大勢の人が避難している。そのどこかに太一もきっといるはずだ。

 遼子は携帯を開いて写真フォルダをスクロールした。かなり遡ってやっと太一の顔が鮮明に写っているものを見つけた。一昨年の夏、千葉へ旅行に行ったときのものだ。あのときはまだ義母が存命で、四人での旅だった。海をバックに太一と義母が並んで穏やかに笑っている。それを選んで五十嵐に送った。早く見つかりますようにと祈りを込めて携帯を胸に抱いた。

 こうしてはいられない。立ち上がって出窓に近づき、仏壇の前に立った。線香をともし、小さくお鈴を鳴らして手を合わせる。心の中でお義父さんお義母さんどうか太一を守ってくださいと強く念じる。ついさっきまでは同じように手を合わせて、太一に早く帰るよう言ってくれと拝んでいた。

 掛け時計を見ると一時を少し回っていた。康介が起きているかどうか、ギリギリのところだった。毎日これくらいの時間まで勉強をして床に就く。本当に毎日、一生懸命やっている。机に向かう康介の背中を思い浮かべたら胸がぎゅっと締めつけられた。と同時に、頭の中を覆っていた靄が散って思考が巡りはじめた。

 事実は事実として康介に伝えなければならない。問題は伝え方だ。受けるであろう衝撃を極力やわらげてやりたかった。

 ふらつきは治まって、足元ももうしっかりしている。遼子は廊下へ出て、一段一段を踏みしめて上った。二階の康介の部屋からはまだ明かりが漏れていた。

 突き当たりまで歩いていって、大きく息を吸って吐いて、姿勢を正して、ためらう手でドアをノックした。応答がなかったのでもう一度、強めに叩く。康介が身じろぎする気配がし、少ししてドアが開いた。室内側に大きく開いて、その向こうに康介が立っていた。両耳にイヤホンが挿さっていて、そこから音が漏れている。

「ちょっといいかな」

 遼子が言うと、康介は頭を右に傾け右耳からイヤホンを外して「何」という目をこちらに向けた。

「ちょっと、いいかな」もう一度、室内を覗きながら言った。

「………いいけど」

 ドアをさらに大きく開けて遼子を中に招き入れた。

 正面に腰高窓があり、その前に天然木の勉強机。小学生の頃から使っているものだ。向かって左の壁にはロックバンドのフライヤーが画鋲で留めてある。インディーズバンドで、遼子は曲をほとんど知らない。

 右側の壁に沿ってベッドがあって、窓側のヘッドボードにはアニメキャラクター柄のスマホスタンドがあり、携帯が立ててある。本やバッグやタブレット、すべてはあるべき場所にしまわれていた。こういうところは太一似だった。

 康介はすとんと椅子に座り、机の上のテキストを閉じると、左の耳からもイヤホンを取った。そうして二つのイヤホンを指先でもてあそびながらこちらに横顔を向けている。

 遼子は、失礼、と断ってベッドの縁に静かに腰を下ろした。

「ここに入るの久しぶり」室内を見渡しながら遼子は言った。掃除のために立ち入るのすら嫌がられるのだ。「きれいにしてるね。掃除機もかけてるんだ?」

「まあ」

「勉強もがんばってるよね」

「……あさって模試だし」

「そう。そうだったね」

 しんとなる。

 康介がイヤホンを握りこんで言った。

「で?」

「うん」遼子は太腿の上で両手を組み合わせた。「お父さんのことなんだけど」

「……今日は帰ってこないって?」

 やっぱり気にしていたか。

 慎重に、遼子は話し出した。

「お父さんね、今栃木にいるんだって」

「栃木?」

「栃木の彦川町っていうところ」

「どこそれ」

「お母さんも知らない。行ったことない」

「仕事とかで?」

「違う」

「何。レジャー?」

 言ったあとにレジャーのスペルを空でさらっている。遼子はそれを見ながら「何しに行ってるんだろうね」とつぶやいた。

 

(第4回につづく)