電話はなかなかつながらなかったが、かけては切りを繰り返し、つながってからもだいぶ待って、ようやく五十嵐と話すことができた。
「今情報を集めているところですが」と五十嵐は言った。「彦川山東側のり面の土砂の中から三十代から四十代とみられる男性一名を救助とのことで、身元はまだ判明していません」
「……話ができない状態だということですか」
「はい。意識レベルで応答がない、と」
言葉が出てこず黙っていると、五十嵐が付け足した。
「呼吸は浅くしている状態だそうです」
「そうですか」少しだけホッとしたが、「それって……大丈夫なんですかそれとも……」
「何とも言えません。詳しい情報が上がってくるのはこれからです。今はまだ救助の途中で、地面から上半身が五割ほど出た段階とのことなので」
胸が締めつけられた。土砂に巻き込まれて、抜け出せずに、一晩中救助を待っていたのか。
どんなに苦しかっただろう。
「あの、お医者様も現場には?」
「もちろんです。医療チームも臨場しています」
「どこの病院に搬送されるんでしょう」
「まだ分かっていません」
「分かったら教えてください。身元も分かったらどうかすぐに。あと青いスニーカーを履いていたら。サイズが二十六センチだったら。右手の甲に大きなほくろがあったら。お願いします」
ツイッターの情報のことも話した。アカウント名を伝えると、五十嵐もその件は把握していた。通報が多数寄せられていて、事実関係を確認中だという。
電話を切って、みんなを振り返る。五十嵐から聞いたことをすべて伝えて、康介の目を見た。
「あっちに行こうと思う。まだ警報は解除されてないし、お父さんじゃないかもしれないけど、でも」
「僕も行く」
「私も行くよ」と徳子も続いた。
「気持ちは嬉しいけどお母さんは家にいて、お父さんと二人で連絡係になってほしいの。五十嵐さんには携帯の番号を伝えてはあるけど、どこかから――もしかしたら太一から電話が入るかもしれない」
「分かった」と徳子は力強くうなずいた。「でもどうやって行くんだい。電車はまだ止まってるんじゃないの」
あさひ屋の最寄り駅は、東武日光線の新谷駅だ。調べてみると、東武日光線はJR日光線とともに全線不通だが、宇都宮線は雀宮駅での折り返し運転をしていた。横浜市内は通常運行だ。
「とりあえず行けるところまで行ってみる」
「途中で立往生でもしたらどうするの」
「大丈夫。着くころには収まってるかもしれないし。あとは向こうでタクシーをつかまえれば」
「タクシーなんて走ってるのかね」徳子が眉間にしわを寄せる。
少しでも早く新谷に着くための経路を探して東北新幹線や特急電車の運行状況を確かめていると、「そうだ」と徳子が手を打った。
「傑に頼んだらどうかしら」
「傑に? 車は?」
「レンタカーを借りればいいわよ。こっちで借りて傑のアパートまであんたが運転していけばいい。四十分くらいで着くでしょう」
「それなら自分で栃木まで行ったほうが」
「運転していったことあるの?」
「ない」ふだんはトレッサに行くのがせいぜいだ。旅先で太一と替わることもあるがごく短時間だった。
「ダメだ」と正が割り込んできた。「こういう非常時に慣れない運転などしたら事故を起こす」
それは、そうかもしれなかった。
徳子がダイニングテーブルの携帯を掴んだ。
「とにかく傑に聞いてみよう。こういうときに頼れるのが身内だもの」
言うなり携帯の短縮ボタン1を押して耳に当てた。受話音量が最大に設定されているので、スピーカーホンにせずとも呼び出し音が丸聞こえだ。
「あの子ったら。何してるのかしら」
傑はなかなか出なかった。
それでも粘り強く応答を待っていると、呼び出し音が途切れた。
「あっもしもし傑?」
「……何」こもったような声が返ってきた。
「寝てた? 悪いね。ちょっと相談があって」
「後にしてくんない」
「そうはいかないの、急ぐのよ」
舌打ちの音が聞こえたような気がしたが、徳子は聞こえていないのか構わないのか。
「傑あなた知ってる? 栃木に台風が来てるの」
「…………」
「大雨が降ってて、警報が出ててね」
「切るよ」
「待って大変なの。土砂崩れがあってね」
「何なんだよ」
「太一くんが巻き込まれたかもしれないの」
「は?」
「そういう連絡があったのよ。栃木の警察の、ナントカって人から」受話器をふさぐみたいに携帯を手で覆ってこっちを向いて「何て人だっけ」
五十嵐さん、と、そんなことは今どうでもいいと思いながらも答えた。
「そう、五十嵐さんから連絡があって」
「マジで」
「マジよ」それでね、と徳子は続けた。「ついさっき一人救出されたんだって。それが男の人だってことで、太一くんじゃないかって」
「え、よかったじゃん」
「でしょう。でね、現地に確かめに行きたいのよ。傑、運転してもらえない?」
「あー」と傑の声がした。「なんか大変そうだし力になりたいのはやまやまなんだけど、無理っぽい。朝まで飲んでて酒がぜんぜん残ってんだわ」
遼子は会話を背中で聞きながら掃き出し窓に近づいて、レースカーテンを開けた。雨はすっかり上がって晴れ間が出ている。これなら問題なく出発できる。徳子は「陽菜さんはどうかしら」と食い下がっていた。「そう……陽菜さんもなの」と声が沈んでいるということは、二人そろって二日酔いなのだろう。それにそもそも陽菜はペーパードライバーだ。
振り返ると、徳子はソファに座って、正の横で携帯を耳にうなだれていた。
「そう、よね……うんわかった……朝から悪かったね。陽菜さんにもよろしく」電話を切って溜息をつき、バツが悪そうに報告した。
「ダメだわ。体調が悪いみたい」
「分かった」と応えて康介を見た。「電車で行くよ。すぐに準備しよう」
言い終えたと同時に玄関のチャイムが鳴った。どきりとしてインターホンを見ると、ムームー姿の須美江が映っていた。
「やだ」と徳子が声を上げる。「何で須美江さんが。しかも遼子の家に」
須美江はのぞき込むようにインターホンに顔を近づけていて、細い眉毛がアップで映っている。
「どうしよう」徳子が遼子の腕をつかむ。「須美江さんには悪いけど居留守を使おうか」
「私が居るのを確かめて来たのかもしれない。さっき窓のところで外見てたから」
「バカ。なんでそんなこと」
「大丈夫だよ。とりあえず出て、今日のところはお引き取り願えば」
「すぐになんか帰りゃしないよ。絶対話が長くなる」
「急いでるっていえば分かってくれるでしょう」
玄関に向かおうとする遼子の腕を、徳子は再びはっしと掴んだ。
「太一くんのことを聞きに来たんだと思う」
「わざわざ?」
「そういう労を厭わない人なのよ。太一くんが帰ってきてないこと、すごく気にしてたみたいだし」
「覗き趣味も甚だしい」正が立ち上がって追い返そうと出ていきかけたのであわてて止めた。
徳子は「下手に隠したり嘘をついたりすると後々面倒なことになる」と心配している。
ピンポンとまた鳴った。
「普通に話せばよくない?」背後で声がした。三人でいっせいに振り返ると、モニターから一番離れた場所に立っていた康介が首の後ろをかきながらあっけらかんと言った。
「できるだけたくさんの人に協力してもらったほうがいいでしょ」
「これ、太一くんに」
須美江が差しだしたのはキャラメルだった。
「小さい頃、太一くんはこれが好きで。よくあげてたのよ。一粒三百メートル、って両手を上げてポーズしてくれてね。あっちで食べさしてあげて」
須美江はそれを車の窓越しに遼子へ手渡して、ぐずっと洟をすすった。
徳子は水筒と、おにぎりを持たせてくれた。
「須美江さんの梅干し入りだからね。保冷剤をいっぱい入れてあるし、夜までもつと思う。康ちゃんしっかりね。お母さんを助けるんだよ」
康介は遼子の左隣、助手席の後ろでこくりとうなずいた。
じゃあ、と須美江の夫、外村正弘が車を発進させる。紺色のフーガは静かに走り出し、リアガラスごしに見える正、徳子、須美江の姿が小さくなっていく。正は腕組みをし、二人は手を振っている。
須美江は昨夜来の出来事を知るなり、ほろほろと涙を流した。かわいそうに、かわいそうにと繰り返し、義父母の仏壇に向かって一心に手を合わせていた。遼子には意外だったし、これまで抱いていた負の感情を申し訳なく思った。どちらかといえば面倒な、あまり関わりたくないご近所さんだといつの間にか考えるようになっていたから。
遼子は外村に改めて言った。
「急なお願いですみません」
「いや、太一くんが無事であればそれで」
ありがとうございます、と遼子は運転席に向かって言った。外村の赤みを帯びた茶色い髪がヘッドレストから覗いている。
ハンドルを握りながら外村は聞いてきた。
「病院はまだ分かっていないんでしたか」
「はい。警察から連絡が来ることになってます」
「なるほど」と外村が相槌を打つ。「これから首都高にのって東京を突っ切り東北自動車道に入ります。佐野藤岡インターチェンジまでは行けるみたいなので、まずそこをめざしましょう」
「よろしくお願いします」
「ところで」外村はミラー越しに康介を見やった。「あまり寝ていないんだろう。着いたら起こしてあげるから、寝ていていいよ。狭くて申し訳ないが。それとも助手席でシートを倒して横になるかい?」
「いえここで」大丈夫ですと康介は答えた。
高速に乗って北上を始めると、みるみる空が暗くなり雨がまた降り出した。降りはまだらで、小雨になったかと思えば視界が白く煙るほど強まった。
渋滞もところどころ発生していた。何度目かの徐行中にふと隣を見ると、康介が目をつぶってドアにもたれ、小さな寝息を立てていいた。
「康介くん、眠りましたか」
「はい」よかった、少しでも眠れるといい。
「そういえば太一くんも小さい頃は、車に乗るとすぐ寝る子だったな」
今遼子たちが住んでいる二世代住宅は、もともとは太一の実家だったのだ。太一の両親がその義両親とともに住んでいた。
「昔、太一くん家族とうちとで、たまに出かけていたんですよ。うちは子どもがいないでしょう。須美江は太一くんを本当の子どもみたいに可愛がっていて」
考えてみれば自分よりずっと長い時間を太一と過ごしているのだ。自分の知らない太一を知っている。
「どんな子どもでしたか?」
尋ねると「いい子でしたよ」と外村は即答した。
「明るくて礼儀正しくて、手先が器用でね」
「昔から器用だったんですね」
「それはもう。プラモデル作りがとにかく上手で、私らにもちょっとした棚や箱を作ってくれてね」
我が家でも太一があちこち自分で手を加えていた。キッチンの作りつけの棚はおかげで使い勝手がよくなったし、手製の棚板や仕切りで収納もすっきりした。家電の不具合もすぐ直してくれた。太一が工具を握らなくなったのは……いつからだったろう。
「彼のご両親というのが、遼子さんもご存じだと思いますが、立派な人物でね。現役の会社員の頃からPTAや自治会の仕事なんかを積極的に引き受けてました。その二人の背中を見て育った太一くんもまたしっかりしてて。人前に立つのは苦手っぽかったけど生徒会の庶務やら実行委員の設営やら年中忙しそうにしていました」
遼子の頭に浮かぶのはアルバムの中にいる、制服姿で正面を向く太一だ。
「遼子さんたちが越してきたばかりの頃、康介くんが小三くらいだったかな、太一くんと一緒に庭でよく縄跳びをしていましたよね。康介くん頑張っていて、太一くんも根気よく教えていて、ほほえましかったな」
康介は二重跳びがなかなかできず練習もしぶしぶだったが、太一が手本で跳んでみせると、お父さんすごいと興奮していた。
「また降ってきたな」と外村がフロントガラスごしに空を見あげた。
ゲリラ豪雨を思わせる雨脚で、前方で次々にテールランプの赤い光がともり、とうとう動かなくなってしまった。雨音で会話もままならない。
それが少し収まってくると、ぽつりと外村が言った。
「以前、太一くんと飲んだことがあります」
驚いた。聞いたことがなかった。
「三、四年前だったかな、横浜駅の西口でバッタリ会ったんです。太一くんはお酒が強いんですね」
「そうですね」体形を気遣って家ではセーブしているが、本当は五合くらいは平気で空ける。
「あと太っ腹だ。誕生日が近いって分かったら、おごってくれて」
それもまた意外だった。ケチとまでは行かないが、自分の趣味以外にはどちらかといえば倹約家だ。
「その時は、どんな話を?」
「いろいろですよ。音楽のこと、仕事のこと、ご家族のこと」
「家族のことは、どんなふうに」
「康介くんの話が多かったかな。期待してるんですね。自分に似ず頭がいいんだって嬉しそうに。それと、太一くんのご両親のことですかね。世話をしてくれて遼子さんには感謝していると」
「そんなこと――」胸が熱くなった。「言われたことないから、ちょっとびっくりしました」
車がまた進みだした。
「それは、あれですね」と外村はゆっくりアクセルを踏み込んだ。
「直接言ってもらわないといけませんね」
風雨のピークは過ぎたのか、その後は足止めを食うことなくフーガは北上を続けた。途中で五十嵐からも連絡があった。被害男性の搬送先は新谷市立総合病院。意識はまだ戻らず所持品も見つかっていないので身元不明のまま運ばれ、手術中であるという。青いスニーカーについては靴が脱げていて確認ができず、右手のほくろに関しても、右半身のケガがひどく確認が取れなかったそうだ。どんなにひどいケガなのかと思うと心がぎゅっと締めつけられた。
羽生パーキングエリアに寄ってトイレ休憩を取り、道路事情を確認すると、通行止めになっていた区間と日光宇都宮道路が復旧していると分かった。最寄りの新谷インターチェンジで高速を下り国道を進んで、十八時九分に病院に到着した。車寄せで遼子たちを降ろして外村は言った。
「駐車場で待っていますね」
「でも何時になるかわかりません」
「大丈夫。無事を見届けてから帰ります。行ってらっしゃい」
半分開いた窓ごしに遼子たちは頭を下げた。
風はまだ強いが、雨はほとんど止んでいた。康介と一緒に〝夜間受付〟と看板のある出入口に向かい、時間外窓口で用件を伝えた。案内された三階へ向かい、ナースステーションで記帳してからあちらですと示された方へ進む。手術室とICUと麻酔科のあるこのフロアは既に消灯していて、薄暗い廊下を怖々進んだ突き当たりに手術室があった。扉の上に手術中のランプがあり赤く点灯している。向かって左側の壁側に長椅子があったので、そこに並んで腰かけた。
康介の顔は緊張からか強張っていた。リュックから水筒を出して飲むように勧めたが、要らないと首を横に振った。後はもう何を話したらよいか分からず、康介の手をただ握った。
早く会いたいが、怖い気持ちもある。手術が無事に終わりますように、どうか太一でありますようにと、願いながらその時をひたすらに待った。
どれくらい待っただろう、ふっと視界が暗くなった。顔を上げると手術中のランプが消えていた。遼子ははじかれたように立ち上がり、康介の腕を引いて手術室の前へ歩み寄った。両開きの扉が開き、青い手術着をまとった男性医師が出てきた。
「あの」と呼びかける声が震えた。
「ご家族ですか」男性医師が立ち止まる。
「その可能性があると聞いて来ました。新谷署の五十嵐さんから」
医師は小さく頷いて続けた。
「手術は成功しました。意識も、先ほど麻酔から覚めて戻りましたが、まだ朦朧としている状態でお話は難しいかと」
意識が戻ったのか。
ほっと安堵の溜息をつき、医師の話に耳を傾けた。
「右半身を特にひどく損傷していました。骨が大きくずれていた腰椎、右上腕骨、右大腿骨をプレートとスクリューで固定しています。体には触れないようにしてください」
土砂を大量に飲んでいたので胃洗浄もしたという。立ち去る医師に、康介と体を抱き合うようにしながら頭を下げた。
少しして再び扉が開き、看護師二人がベッドを押しながら出てきた。点滴スタンドにたくさんの輸液バッグがぶらさがり、チューブが体につながっている。ベッドに横たわる男性の顔にはガーゼが貼られていて造形がよく分からない。
看護師二人が足を止めてくれた。
ぎこちない足取りで、一歩二歩と近づき、おそるおそる顔を覗きこんだ。
ガーゼの無いところ――閉じた左目と、左頬、口と顎の左側が見えた。
えらの張った輪郭、太い顎、厚い唇。
そろそろと隣の康介のほうを向いた。康介は口元を引き締めて、歯を食いしばるような表情をしていた。