言葉が出なかった。
土砂崩れの前兆? あのかすかな枝の音が?
とても実感が湧かなかった。たしかに今夜の風雨はひどい、が、この程度なら今までにも経験してきた。
「熊澤さん、そうは言ってもこの辺りは比較的地盤が強固と言われていて――」
「関係ねえ。来るときは来る」
その真剣さに気圧された。
熊澤に両腕をつかまれた。すぐに避難するべきだ、本社にかけあってくれと迫られて、樫本も呼んで執務室に集まり、半信半疑で本社へ電話をした。役員の返答は、自治体から避難指示が出るまでは待機して様子見を、であった。
「何かあってからでは遅いんだよ」熊澤の声には怒りと焦りがにじんでいた。
樫本は「そんなにヤバいんですか?」とうろたえている。
須永もパニックになりそうだった。客への周知、クレーム、手配にコスト、そしてその後の社内的評価を考えると安易にはとても決断できない。
急いで災害時マニュアルをキャビネットから引っ張りだしてページを繰ったが、主に地震対策にページが割かれていて参考にならない。
回らない頭で須永はなんとか言葉をひねり出した。
「熊澤さん、夜間の避難は危険ですし、お客様にも大きな負担がかかります。本社が言うようにもう少し様子を――」
その瞬間、バキッという音が聞こえた気がして須永は黙った。
そういえば――。
さっき外の見回りをしたとき、本館裏手に吹いていた風は、正面玄関側に比べると弱かった気がする。本館が盾となる風向きなのだ。だとすれば倒木の主因は、強風によるものではないということになる。
熊澤の乾いた唇がゆっくりと動く。
「俺は、従兄を震災で亡くしてる。こういうのはあっという間なんだ本当に」
恐ろしいほどの葛藤があった。
避難か待機か。
「あの」樫本が怯えたような顔で須永の顔を見つめてくる。「本社に、もう一度だけ聞いてみるのは」
本社なんて――役員なんて、現場のことなど二の次だ。いつだって自分の保身と体裁が優先で、何度相談したところで「様子を見ろ」と返してくるに違いない。
ふと、前田夫妻の言葉が蘇った。
――ここでもう一泊したほうが安心だ。須永さんもいることだし。
目の前の樫本と熊澤を見た。
従業員たち、それから宿泊客全員の、安全以上に大事なことがあるのか?
須永は意を決した。
「わかりました。やりましょう」
熊澤は息を大きく吸って頷いたが、「でも」と樫本が口をはさんだ。
「大変ですよ。高齢の方もいるし。そもそもどこに避難を?」
須永は執務机の透明マットの下に敷いてある周辺地図を見下ろしながら言った。
「指定避難先は彦川小学校だが。避難指示が出ていない今の時点で、受け入れが始まっているかどうか」
「調べてみましょうか」
「そうだな。いや」小学校までは車で十分ほどと近いが、硬い床にマットを敷いた光景が浮かんで躊躇われた。考えて、こう言った。
「ニューあさひ屋に避難しよう」
ベッドのあるホテルの方が、体育館よりはずっと良いだろう。部屋に余裕があることもさっき見て分かっている。
「どうやって移動を?」と樫本。
「マイクロバスで集団避難するのがいいだろう。個々の避難は二次被害が心配だ」須永は地図の上に指を置き、現在地を起点にして北側のルートをなぞった。「仁科の三差路まで無事に下りられれば、あとは平らで広い県道をまっすぐ走るだけだ」
ニューあさひ屋は西方二十キロ先の平地にあり、風雨をふまえて慎重に向かっても一時間ほどで着くだろう。調べたところルート上のどこも通行止めにはなっていないようだ。
「運転は私がします」
須永が言うと、熊澤の表情がやっとやわらいだ。
「それがいい。お前さんの運転なら安心だ」
「たしかに」と樫本も頷く。「向こうに着けばお客様もゆっくり休めますし」
空き室状況を再度確かめる。五組九名分の部屋は、やはり十分確保できる状態だった。
ニューあさひ屋に電話をかけて支配人に事情を伝えた。すぐに受け入れ態勢をととのえるとの返答があった。降雨量もこの辺りよりはマシのようだ。
「ありがとうございます。これから避難を開始します」
電話を切り、須永は二人に向き合った。
「役割分担しましょう」
さっきまでと違って頭の中が澄みわたっている。安全を最優先すると決めたことで、迷いがなくなり、思考が系統立っていく。
「私はまず館内放送でお客様への呼びかけを行い、そのあと駐車場からマイクロバスを取ってきて車寄せに付けます。樫本くんは一階ロビーに居て、集まってくる皆さんの対応をお願いします」三人組を念頭に言葉を付け足す。「感情的になるお客様もいると思いますが落ち着いて、冷静に」
「はい」答える顔が緊張している。
「俺はどうすりゃいい。とりあえず厨房の火の元は確認してくるが」
「お願いします。その後は、二階と三階を回って各部屋の状況を確認してもらえますか。まだ残っているお客様がいたら避難を促してください」机上のメモを引き寄せ、稼働中の部屋番号を五つ書き込んだ。「応答がない場合は、浴場に行かれている可能性があります。露天利用は今夜は禁止にしていますし、さすがに立ち入ってはいないと思いますが、あそこは放送が届かないので念のため声をかけてください。女性露天のほうは男性露天側から衝立越しに声かけを」
「了解」
腕時計を見る。九時二十三分だった。
「任務を終えたら各自一階ロビーに集まりましょう。お客様次第ですができれば十時には出発したい」
それでも向こうへの到着は十一時になる。高齢者は特に体への負担が心配された。
二人が出ていき、須永は館内放送用のマイクの電源を入れた。注意喚起のチャイムに続けて、アナウンスを始める。
「おくつろぎのところ失礼いたします。当館支配人の須永です。本日の荒天により皆様には大変ご迷惑をおかけしております。現在、彦川町には大雨特別警報が出ております。自治体による避難指示が出る前ではございますが、天候の悪化にともないまして、お客様の安全を第一に期すため、念のための全員避難を開始することといたしました。つきましては、お手荷物をおまとめのうえ、十時までに一階ロビーまでお越しください。当館のマイクロバスにて、新谷市内にある系列ホテルのニューあさひ屋に避難していただきます。皆様のお車につきましては、明日以降、我々が責任を持ってお返しいたします。皆様にはご不便とご面倒をおかけいたしますがご協力のほどよろしくお願い致します。繰り返します――」
二回アナウンスしてマイクをオフにし、執務室を飛びだした。
合羽のフードをかぶり、懐中電灯とバスのキーを握りしめて、嵐の中を駐車場へ向かう。外灯の明かりでバスの位置はすぐにわかった。もし停電が起きていたらと思うとぞっとした。
マイクロバスに乗り込んでぐるりと大きく旋回し、八十メートルほど走行して本館前のロータリーに停めた。
エンジンをかけたままバスを降り、ロビーに急ぐと、すでに五人の客が集まっていた。三人組と前田夫妻だ。
山口が樫本に詰め寄っている。
「どういうことかって聞いてんの」
「ですから、念のための避難を――」
「大げさなんだよ。避難指示も出てねえのに」
須永はするりと間に入った。
「実は裏手の山で異音がしております。これまでこのような現象が起きたことはなく、大変危険な状態だと判断いたしました。移動にはご面倒をおかけしますが、お客様の安全が第一ですので」
「車を置いてけっての?」
「できましたら」
「酒が理由なら、こっちには素面が一人いんのよ」
「存じております。ただ夜間ですし、麓までは狭い山道です」
「下手な運転は止めとけって?」
「そういうことではございません」
「あのね。あの車はね、あんたらの薄給じゃ手の届かないお値段なの。こんな山奥に野ざらしのまま置いていけるかよ。冗談じゃねえ」
熊澤がエレベータから降りてきて、息せき切って駆け寄ってきた。そしてロビーにいる人数を目で確かめながら言った。
「あと三名これから下りてくるけど、一室だけ確認が取れなかった。ドアごしに声をかけても応答なし、大浴場にも姿なし。部屋番は、三階の、えーと」
「三一〇。副島様ですね」と須永は応じ、「あとお一人、私が見てきます。熊澤さんはここにいる皆様を順次バスにご案内してください。樫本くんは、これから下りてくるお客様の対応を」
山口がまだ何か言っていたが、副島の確認のほうが先だった。
執務室へと小走りしながら携帯で三一〇に内線をかけたが、応答はなかった。マスターキーを掴んで、三人組が熊澤に押されるように玄関方面へ向かうのを横目に、ロビーを突っ切りエレベーターで三階へ上がった。三一〇の前に立ち、強くドアを叩く。
「副島様」
返事はない。
もう一度、さらに強く叩いて名前を呼んだがやはり返事がない。
マスターキーを鍵穴に差し込んだとき、こちらより先に内側からガチャリとノブが回った。
ドアが開き、Tシャツ姿の副島が、顔をこすりながらドアの向こうに立っていた。
「……何ですか」
事情を説明し、避難を呼びかけると、「えー……」と困ったような顔になった。
「すみません、実はもう一人いて」
バツの悪そうな顔で部屋の中を振り向く。促されて中へ入ると沓脱に館内用スリッパと青いスニーカー、黒のゴム長が転がっていた。須永はそれらを避けながら急いで長靴を脱ぎ、奥へと進んだ。酸っぱいような酒のにおいが鼻を突く。畳の上に潰れたビール缶――三階の自販機で販売しているビール缶がいくつも散らばっていて、それらと一緒に男性が一人、うつぶせの格好で寝転がっていた。二人で酒盛りをしていたようで、この事態とは無縁の、規則的で平和ないびきが聞こえている。身元を確かめる必要があるが、今はとにかく避難が先だ。事情は後で聞けばいい。
須永は男性の体のそばにしゃがみこんだ。手を伸ばし、「お客様」と呼びかけて背中を揺すったが、一瞬いびきが止まるだけで目覚める気配がない。
「あ、俺運びます」
「大丈夫ですか」
「肩を貸す感じでいけば何とか。たぶん」
呂律の回らない口でそう言うと、畳に両膝を突いて男性の体をごろんと仰向けに返してから、頭側にまわって上半身を起こした。
男性を背中側から抱きかかえた格好の副島は、次の体勢に移る前に「あ」と言って動きを止めた。
「荷物……取ってもらえますか」
それ、と目で指されたのは、畳に転がっていた赤いウエストポーチだった。
「私が持って下りましょうか」
「や。彼に装着しちゃってください。彼が大事にしてるものなんで」
須永はポーチを拾いあげると、男性の腰にベルトを巻き、背中側に手を回してバックルを締めた。さらに副島の黒いリュックも窓際から取ってきて、副島が背負うのを手伝った。
副島は男性の左半身のほうへ膝歩きで移動し、自分の右肩を男性の左脇に胸のほうから差し入れて、立ち上がらせようとしている。須永も加勢して反対側から体を支え、いっせいのせで男性を立たせた。
それほど太っているわけではないのに男性の体は恐ろしく重かった。腰の痛みをこらえ、なんとか支えてよろよろと進む。須永がドアを開け、長靴に足を入れ、横向きになって通り抜けようとしたとき、階下からガラスの割れる音と複数の悲鳴が聞こえてきてハッとした。
何があった。
「今の、大丈夫ですか」副島が言った。
「どうでしょう。おケガがなければよいのですが」
「いいですよ」
「え?」
「ここからは一人で抱えていくか彼を起こすかします。だから、どうぞ」と目で階下のほうを指した。
「でも」
「ほんと、大丈夫なんで」
「申し訳ありません」男性の脇からそっと体を抜くと、副島は体をふらつかせ顔をしかめながら「大丈夫大丈夫」と繰り返した。須永は、踵を踏んでいた長靴を急ぎ履き直し、せめてもと、ストッパーでドアを固定した。
「一階ロビーでお待ちします。くれぐれもお気をつけて」
再度一礼して廊下を急ぐ。エレベーターにすぐ乗れるようカゴが三階に留まっていることを目視してから階段を駆け下りた。
一階に降り立ったとき、ふっと照明が落ちた。館内が真っ暗になり、女性の悲鳴がまた響いた。
内ポケットから携帯を取り出し、ライトで照らしながら玄関のほうへ向かうと、困りきった様子の樫本と前田夫妻が、非常灯の薄明かりの中で不安そうに立ち尽くしていた。ロビーの入り口付近に飾られていた花が台から花瓶ごと落ちて割れている。
「大丈夫ですか」近づきながら聞く。
「山口様が」と樫本が表を視線で指した。「自分の車で避難すると言って、出ていってしまわれました。危ないからと熊澤さんが付き添って出ていきましたが、それを見た他の方々が〝じゃあ自分たちも〟と言い出して。そろって出ていかれる際、玄関先でお一人が開いた傘が風で吹き戻されて」
花瓶に当たって割れたということだった。
「みんな行っちゃったのよ」と八重子が嘆く。
「須永くん」と茂が話しかけてくる。「だったら我々も車で行きたいが、ダメだろうかね」
「お酒を召していらっしゃいますし、この天候の中、暗い山道を運転するのは危険かと」
「でも私たちだけ?」と八重子。
「どうかご協力を。安全のためですので」
「それを言うなら」と八重子が語気を強くする。「ここにいれば安全だって須永さん言ったじゃない」
「……申し訳ございません」
「もういいです。分かりましたけど」八重子は渋い顔で、「せめて車に積んでる荷物を取りにいかせてくださいな。娘家族のためにアメジストドームを買ってあるのよ」
「お前」と茂が口を挟む。「車に積んだままにしてたのか」
「だって重いし。お父さんなんて今の今まで忘れてたくせに」
「恐れながら前田さま」と須永は言った。「この風雨のなか歩くのは、たとえ駐車場までであっても危険です。お車とお荷物は明日以降に必ずお返しできますから。今夜はいったんこちらに置いてご移動をお願いします」
「明日以降っていつ?」八重子の声が上ずった。「娘たちとはこの週末会うことになってるのよ。それに、置きっぱなしにして盗られちゃったらどうするのアメジスト。高いものなのに。ひどい。どうして私たちばっかり」
助けを求めて茂を見た。茂は頷いて言った。
「まあ、たしかに、ちょっと不平等じゃないかという気はするね。車で移動する者の中には酒を飲んでるのもいるんだろう? 我々はバスでの移動には応じているんだ。荷物を取りたいという要望くらいは聞いてくれてもいいんじゃないのかね」
須永は樫本と顔を見合わせた。
夫妻が無理やり外に出れば、風に飛ばされてケガをする危険性がある。というか十中八九、吹かれてよろけて転倒するだろう。
考えて、須永は提案した。
「車の鍵をお預かりして私が取ってまいりましょうか」
「アメジストだけの問題ではないんだよ須永くん。他の客が許されて我々だけがダメというのは整合性に欠ける、という話だ」
整合性より何より考えるべきは御年齢と御足元では、と、つい口から出そうになる。そんな須永を尻目に、話は済んだとばかり、前田夫妻は玄関のほうへと歩きだした。
「わかりました」須永は二人の前に回り込んで言った。「危ないので、マイクロバスで駐車場までお連れします。乗ってください」
そういってバスに二人を乗せ、戻って樫本に言い置いた。
「樫本くんはここで副島さんを待っていてください。副島さんと、もう一人男性が下りて来ます」
「え、もう一人?」
「そのことは後で。私は向こうでなんとか皆さんを説得してバスに乗ってもらって、またこっちに戻ってきます」
そこでふと、大事なことに気付いた。停電で、エレベーターはどうなっている?
須永はエレベーターがあるほうに目をやった。暗闇に向かって副島の名を呼んだが、居ないのか届かないのか応答はない。
まだ三階にいるのか。なら樫本を向かわせるか。
問題は、停電がどのタイミングだったかだ。エレベーターに乗った後だったとしても、予備バッテリーが正常に機能すれば最寄り階に運ばれてドアが開く。が、万が一、何らかの不具合で作動せず、副島がカゴの中に閉じ込められているとしたら――。樫本を向かわせてもどうしようもない。
咄嗟に須永は指示を出した。
「急いで非常用電源を入れてきてください。場所はわかる? 地下の機械室」
樫本が小刻みに頷く。
「鍵は執務室にある。頼んだよ」
須永はマイクロバスで前田夫妻の車のもとへ行き、途中でピックアップした熊澤とアメジストの運搬を手伝って夫妻をまたバスに乗せた。その後、停車している車三台を熊澤と手分けして回って、運転席の窓ガラス越しに説得をし、なんとか全員をバスに乗せることができた。
合羽など羽織っていても意味はなく、須永も熊澤も全身ずぶ濡れだった。
熊澤を最前列に座らせ、須永は念のため点呼をしていった。熊澤の後ろの席に茂、その隣で八重子がアメジストを抱えている。釣り客、登山の夫婦と続き、三人組は離れた最後列を陣取って何やら笑い合っていた。避難をするための二十五人乗りのマイクロバスで。
修学旅行かよ。
三人組に背を向け通路を戻りながら、胸の中にもくもくと湧く黒いものをおさえることができない。
こいつら、一体何なんだ。
運転席にどっかりと座る。尻がびしょ濡れで腰も痛いが構いやしない。
須永はアクセルを踏み込んだ。
マイカーやアメジストがそんなに、命より大事なのか。その執着は何なんだよ。
もうたくさんだ。わがままで、偉そうで、はた迷惑で。信頼していた前田夫妻まで目の色を変えて、あの変貌ぶりだ。まるで別人じゃないか。
いや。違う。知らなかっただけなのだ。自分の知る夫妻の顔などはほんの一面で、これが本性だった。制服を着て、笑顔で、利幅最優先の安ワインを挟んで築く関係性なんてこの程度でしかない。
嵐を裂くように車を走らせながら、笑いがこみあげてくる。気づけば本館には明かりがともっていた。樫本ががんばって電源を復旧させたのだ。よくやったとその一点において涙がにじんだ。
須永は接客が好きだった。十代の頃から飲食店ばかり選んでアルバイトをして、そのままこの職に就いた。天職だと思っていた。
本館が近づいてくる。須永はアクセルをさらに踏み込む。やめてやると、はっきり思った。
そうだ、やめてやる。やめてやる。
やめてやる。
ヘッドライトの先で、樫本が玄関から飛び出してきたのが見えた。飛び出して、振り向いて、後ずさりして、腰を抜かしたように尻餅をついている。須永はバスを停め、パッシングで光を点滅させた。樫本がこちらを向き、慌てふためいた様子で走ってくる。
バスを停め、樫本を迎え入れるためにドアを開けた瞬間だった。
豪音が轟いた。ゴゴゴガッ。バキバキッ。聞いたことのない音とともに、激しくスパークしながら本館が、まるでベルトコンベアで運ばれるみたいに滑り落ち、そして消え去った。