深夜零時を過ぎて、目が覚めたかのように遼子は思った。

 やっぱり変だ。普通じゃない。

 はっきりそうと認識したとたん居ても立ってもいられなくなった。気を紛らわすためだけに動かしていたクロスステッチの手を止めて、刺しかけの針と生地をローテーブルの上に置く。代わりに携帯を取り上げておそるおそる画面を見た。が、太一からの着信はなかった。

 連絡がつかないのだ。電話をしてもつながらないしメッセージを送っても返信がない。

 遼子は革張りの茶のソファに浅く座り直すと、携帯の通話ボタンをタップした。今度こそと願いを込めたがそれも虚しく、留守番電話サービスの音声案内が流れてきた。伝言を残すかどうか束の間迷い、断念してそのまま切った。

 ――旦那さん出ていっちゃったんですか?

 昼間、パート先で投げかけられた言葉がよみがえって胸がざわめく。

 携帯をソファの上に伏せて置き、クッションを引き寄せてそっと抱きしめた。少しざらざらとした、程よい硬さの麻の手触り。目をつむると、荒れ狂う外の様子がよりつぶさに耳に届く気がした。大粒の雨がひっきりなしに屋根を叩き、強い風が四方から吹きつけて家中を軋ませている。

 雷の音が聞こえた気がして、遼子はパッと目を開け庭の方角――右側へ顔を向けた。ソファのすぐ横、目の高さに中型の水槽がある。クリップライトと真上の天井照明をすでに消してあるから水中は仄暗く、プラティもネオンテトラも思い思いの場所でじっとしている。水槽棚の下段にはモンステラと多肉植物エケベリアの鉢があり、こちらは眠っているというより息をひそめてこの家の様子を窺っているようだ。

 ソファ正面にあるテレビ、五十二インチの黒い画面には、ぼんやりと遼子が映っている。さっきまで点けていたのだが、ニュースもバラエティも落ち着かなくて消してしまった。テレビのそばにはウォールナットの小さな仏壇が置いてあり、消え落ちた線香の灰から甘く優しい香りがまだ微かに立ち上っている。雷は気のせいだったか、新たに聞こえてはこなかった。

 荒天をよそに室内は静かだ。どこか違和感をはらんだ、普段とは異なる奇妙な静けさだった。

 遼子はクッションをソファの背に立てかけて、太腿の両脇に手をついてゆるゆると立ちあがると、掃き出し窓へと歩いていった。

 窓辺に立ってカーテンを細く開けると、暗がりのなか庭の植栽が大きく揺らいでいるのが見えた。また少し雨風が強くなったかもしれない。

 太一が車で出ていることも心配の一つだった。

 いつだったか、高速道路を走っていて緑色のシートのようなものが飛んできてフロントガラスに張りついたことがあった。ほどなく剥がれて飛んでいったが、視界が塞がれて助手席でヒヤッとしたのを覚えている。あれもたしか台風が接近しているさなかの、強風の日の出来事だった。

 ふと、窓に映る自分と目が合った。流れ落ちる雨垂れで、顔の輪郭も表情もぐにゃぐにゃに歪んでいる。心の中をまるきりそのまま投影しているかのようだ。定まることなく蠢き続ける、与り知らない生き物のように不気味に思えて、遼子は慌ててカーテンを閉じた。

 その瞬間、電子音が静寂を裂いた。どきりとして音のほうを振り返ると、オープンキッチンのカウンターの上で固定電話が点滅していた。

 あ、と思わず声が出た。一歩踏み出し、二歩三歩と、もつれそうになる足を速めながら確信めいた考えが浮かんだ。そうか、太一は携帯を失くしていたのだ。それで遼子に電話もLINEもできなくて、かろうじて覚えていた家の番号にかけてきた。その考えに、にわかに心が上向いた。

 受話器に手を伸ばしながら液晶画面に目を向ける。〇二で始まる馴染みのない局番が表示されていた。〇二。どこだろう。

 はやる気持ちで受話器を持ち上げて、その声を待った。

「夜分に失礼いたします」

 太一ではなかった。

「わたくし栃木県警新谷警察署地域課の五十嵐と申します」

 太一よりもっとずっと若そうな、はきはきした男性の声だった。

「恐れ入りますがこちら副島太一さんのお宅の番号で間違いないですか」

「……はい」

「奥さまでしょうか?」

「はい、あのどういう……」

 喉のあたりがぎゅっと締まって苦しくなって、遼子の問いは尻すぼみになった。

 一拍おいて五十嵐が用件を話し始める。遼子は受話器を握りしめた。

 

* * *

 

 ノックの音に慌てて振り返ると、ドアの隙間から堂島天音がひょっこり顔を出した。

「失礼しまーす。ご一緒してもいいですか?」

 その手にコンビニ袋を提げている。

「どうぞ」と遼子は答えた。橋場里美が「もちろん」と応じたのとほぼ同時だった。正面席の里美をとっさに見やると、向こうもまた探るような目でこちらを見ていた。

 天音は「お邪魔しまーす」と言いながら、四人掛けの会議机のはす向かい、里美の左隣の椅子に座った。

 遼子は巾着袋から二個目のおにぎりを取り出して、小さく一口、もそっと食べた。頂き物の梅干しがしょっぱい。

 里美が冷製パスタをフォークで巻きながら天音に尋ねた。

「今日は休憩室じゃないんだ」

「すごい混んでて。いびきかいて寝てる人いるし、ちょっとなあって思って」コンビニ袋からチョコパンとオレンジグミと野菜ジュースを取り出した。

「大会議室もいっぱいだった?」

「なんか会議やってるんですよ。お昼なのにほんと勘弁」

 天音は口を尖らせながら野菜ジュースにストローを差し、ちゅぱっと一口飲んだ。そしてストローをくわえたまま、遼子と里美をかわるがわる見た。喜色に満ちたその目を見て遼子は覚悟した。迂闊だったとも思ったが、もう遅い。

「あのお」案の定、天音は切り出してきた。「ちらっと聞こえちゃったんですけども」遼子の顔をまじまじと見、机に身を乗り出して声を少しだけひそめた。

「旦那さん出ていっちゃったんですか?」

 遼子はおにぎりを両手で持ったまま、肩ごしに出入り口を振り返った。

「あ、大丈夫ですよ」あっけらかんと天音は言った。「営業の人たちみんな出払ってますから。電話番で一人だけ、受付の近くに座ってますけど」

 つまり安心して続きを話せということか。

 里美が「大丈夫?」という顔でこっちを見る。同じ四十八歳で、遼子の元上長、全幅の信頼を置いている里美だからこそ打ち明けようと思ったのだが「実は旦那が出ていって」のところまでしかまだ話せていなかった。内容が内容なので切り出しづらく、タイミングを見計らいながらおにぎり一個とおかずの半分を食べ終わってようやく、というところだった。

 仕方ない、遼子は腹をくくった。

「そうなの。昨夜出ていきました」

「おー」くるくる睫毛のパッチリ目が嬉しそうに大きく見開く。「なんで? どうして?」

「天音ちゃん」里美がいなす。「気持ちと声をもう少し抑える」保育士が園児に言うみたいだ。

「はーい」声をやや小さくして「それで?」

 自分の中でも整理がついていないうえに、まさか天音に説明するとは思っていなかったので、戸惑いながら遼子は答えた。

「理由はたぶん、一つじゃないというか複合的というか、タイミングが最悪だったというのもあると思うんだけど」口にするかどうか少し迷って、「直接のきっかけは親子喧嘩」

「へー。お子さん、息子さんが一人でしたっけ。いくつですか」

「十七歳。高校三年生」

「高三かあ。若いなあ。いいな」

「天音ちゃんも充分若者でしょ」と里美が突っ込んだ。「こっちは天音ちゃんの倍だからね」

「おー」

「それにしても」と里美が言った。「康介くんが喧嘩なんて意外だな。最近反抗期だとは聞いてたけど、黙って距離感取るタイプかと思ってた。旦那さんも温厚そうなイメージだし」

 里美とはお互いの家族の話を時々するし、一度バッタリ会ったこともある。遼子たちが家族三人で『トレッサ横浜』へ行ったとき、康介の部活用品を買いにスポーツショップを見ていたら、娘さんを連れた里美に会った。ラクロスの道具を取り寄せたと言っていた。既に社会人だという娘さんはしっかりしていて、姿も話し方も里美にそっくりだった。

 あれはたしか去年遼子がパート勤めを始めた直後のゴールデンウィークで、康介がかろうじて愛想と社交性を保っていた頃だ。

「ていうか」天音はチョコパンをひと齧りして言った。「旦那さん、会社は? 平日休みの仕事ですか」

「ううん。有給取ったって」

「土日と付けて三連休じゃないですか。いいなあ」

「全然よくないよ、心配かけて。今もどこにいるんだか」

「アプリ入れてないんですか」天音は片手にチョコパン、片手に携帯を持って、「便利ですよ、居場所検索アプリ。GPSで一発ですから。私が使ってるアプリはこれでですね――」携帯を片手で操作しながら眉をひそめた。「は。あいつなんで恵比寿にいんの」

 彼氏の現在地に疑義があるらしい。

 遼子たち副島家でも、アプリを入れるかどうかの話し合いをしたことはあった。あれもちょうど一年ほど前だった。防災や防犯の観点から遼子が導入を提案したが、康介はプライバシーの侵害だといって最初は大反対だった。そのうちどっちでもいいと言いだしたのは、アプリ導入をめぐって家族三人顔を突き合わせることの方が「ウザ」かったからのようだ。そういえば終始難色を示していたのが太一で、「こういうのはよそう」の一言で話が立ち消えになったのではなかったか。

 そんな過去のやりとりを一人静かに反芻していたら、天音がグイと顔を近づけてきて「ひょっとして」と目を輝かせた。

「旦那様、ロマンス系の逃避行だったりして」

「天音ちゃん」里美がやや強めにたしなめる。「茶化さないの」

「茶化してなんかないです。思ったことを言っただけで」

 里美にじろりと睨まれ、天音は目を見開いて肩をすくめた。

「今ちょうどそれ系の韓流ドラマ観てるんですよ。ドロッドロで面白いんです。夫に不倫された主人公がですね――」

 ノックの音が響いて、ドアの向こうから男性の声がした。

「失礼。橋場さんいますか」

 はい、と里美が答える。

「休憩中悪いけどちょっといいかな。至急確認したいことがあって」

「すぐ行きます」

 里美はパスタの最後のひと巻きを詰め込むように口に入れると、モグモグと口を動かしながら机の上のゴミをまとめた。立ち上がり、遼子に真顔を向けて言った。

「早期かつ円満な解決を祈るわ。ダメだったら対策練ろう」

 里美が出ていくと、天音が「ねえねえ遼子さん」とその目にまた違う色をたたえて聞いてきた。

「社長ってイケメンですよね」

「社長? ああ」今のは社長だったのか。顔はかろうじて分かるが、挨拶以外で声を聞いたことがなかった。

「里美さん直で仕事できていいな。私もあっち行きたい」

「人事部に?」

「だって経理って地味なんですもん。数字とか苦手だし」

 遼子は実は割と得意だ。結婚前は信用金庫に勤めていた。ただ近頃は老眼が進んだのか、3だか8だか区別がつかない時がある。老眼鏡の購入を検討すべきか思案しながら、おにぎりのラップを丸めて、空になったタッパーとともに巾着袋へしまった。

「それじゃ私もそろそろ」

「もう?」ライトブラウンの眉毛が下がる。「遼子さん、天音と話すの嫌ですか。天音はもっと遼子さんと話したいのに」

「そうじゃなくて、時間がね。今日は早めにお昼に入ったから」

 備品のアルコールウェットティッシュをボトルから一枚抜いて机の上を手早く拭いた。黒いバッグを肩にかけて立ちあがる。

「お先に。電気消しておいてね」

「はーい。お疲れでーす」

 会議室を出て小さく息を吐いた。歩き出そうとして、靴紐がほどけているのに気づく。バッグを膝に抱えてしゃがみこみ、結びなおしながら心の中で釈明した。

 別に、嫌というわけではない。そんなふうに思うほど天音のことを知っているわけではないからだ。天音は経理部の派遣社員で遼子とは仕事上の絡みがほとんどないし、年齢もかけ離れている。だから、ちょっとぶっ飛んだ面白い子という認識で、好きでも嫌いでもなかった。

 ただ、今日みたいな日はちょっと厄介だ。二人きりで根掘り葉掘り聞かれたらどう対応すればいいか分からない。うまくいなせればよいけれど、そういう機転はあいにく昔から利かないうえ、それなりにきちんと答えなければという謎の義務感にも苛まれる。あの調子で聞かれて洗いざらいしゃべってしまったりしたら、今夜眠れなくなるほど後悔するに違いない。自分のことを話すのが遼子はあまり得意ではなかった。どんな時でも誰が相手でも、聞き役でいるほうがずっと楽だし心穏やかでいられる。

 靴紐は、もう片方も結びなおした。防水仕様の黒いスニーカーだから、ごつくてデザイン性は今一つだ。

 営業部はたしかにがらんとしていた。八階のワンフロアを浜岸食品が使っていて、向かって奥が管理部門になっている。社長と話す里美の姿が見えた。遠目に見ても姿勢がいい。ノースリーブのトップスも眩しくて、見習って少し背筋を伸ばしてみる。天音の席もあの一角だ。受付の前には、会社のオリジナルキャラクター、ザザクローの看板がある。主力製品であるザクロジュースを擬人化して謎にスライディングさせているのだが、こちらもデザイン性はイマイチだ。

 受付を左に折れ、エレベーターホールを挟んだ正面が商品管理部で、健康食品や健康飲料の入った段ボールが規則性をもって積まれている。隣接して遼子の働くコールセンターがあり、給湯室、更衣室、トイレと続く。

 遼子は更衣室に向かった。細長くて狭い更衣室には窓がないので、入ってすぐに電気を点ける。蛍光灯の下、ねずみ色の縦長ロッカーが壁沿いに並んでいて、遼子のロッカーは奥から三番目だ。コールセンターには私物は持ち込めず、就業前に必ずここへしまう決まりになっている。

 少し時間があったので、もう一度携帯をチェックした。すると――太一からメッセージが入っていた。やっとだ。ホッとしながらはやる思いでLINEを開くと、思い切り眉間に皺が寄った。想像の斜め上をいく、軽くて短いメッセージだった。

 ――今どこにいると思う?

 

(第2回につづく)