「普通日光とかだろ」

 康介が椅子を回転させてこっちを向いた。正面切って顔を見るのも久しぶりな気がした。切れ長の目と高い頬骨。ぜんぜん太一には似ていないと遼子は思うのだが、人からはそっくりだと言われる。

 日光と聞いて気持ちが少しほぐれた。

「そういえば中学の修学旅行が日光だったね。写真がいっぱいで、アルバム一冊分になって」

 華厳の滝の前でピースサインをして、屈託なく笑っている写真も残っている。つい三年前なのに遠い昔のことのように思われる。

 そんな感慨に今は蓋をして遼子は続けた。

「お父さんね、彦川町にある、あさひ屋っていう旅館に泊まってたんだって」

「う、ん」探るような顔でゆっくり頷く。

「そのあたりに今、大雨が降ってて」

「ああ。台風」

「そう。それで、避難してるんだって今。あさひ屋にいた人たちと一緒に、バスで」

「えー……」

「ね、避難なんて経験ないし想像するだけだけど、びっくりだよね。警報が出てる地域なんだって。でも大丈夫。早めに避難したって聞いたから、さっきの電話で――電話がかかってきたの、気づいた?」

 康介はかぶりを振り、これしてたからというふうにイヤホンを持ち上げて見せた。そして言った。

「父さんからだったの?」

「ううん」

 何も知らない康介がまっすぐにこちらを見ている。遼子も目を逸らさずまっすぐに見返して言った。

「警察だった。栃木の」

「父さんからは?」

「なし」

「なんか。けっこうヤバくない?」

「携帯がつながらないみたい。通信障害が起きてるらしいの。彦川町だけじゃなくて周辺一帯で」

「そっ、か」なら仕方ないのかと自ら言い聞かせるような顔をしている。

「実は、びっくりなことがもう一つあって」

 遼子は組んでいた手をほどき、太腿の脇に両手を付けて、やや前傾の姿勢になった。さっき、五十嵐もまた遼子の受けるショックを考えて話をしてくれていたことが、こうして康介に話すことでわかった。

「今から話すことは、お父さんが避難した後に起きたことだから」と〝後〟を強調して康介の目をじっと見た。「だから関係ないとは思うんだけど」

「何」焦れたように康介が言う。

「土砂崩れが起きてあさひ屋が被害に遭ったって」

「――――」

「でも大丈夫。避難した後、だから」

「……セーフだったってこと?」

「そういうこと。ギリギリセーフ。そのまま居たら危なかったかもしれない。お父さんて昔から運が強いよね。故障だか点検だかで立ち往生した新幹線に乗りそびれてたり、一人だけ食あたりを免れたり、あとほら、高速道路でシートが飛んできたことあったじゃない。緑色の」

「ああ」

「あのときお父さん、こらーって急に大声出して、そしたらガラスに張りついてたあの緑が、驚いたみたいに飛んでいった」

「あったね」思い出したのか康介の口元が少し緩んだ。よかった。

「普段静かなのにね」遼子は少し微笑んだ。

「今まで聞いた父さんの声の中で一番大きい声だったかも」

「たしかに」

 遼子は胸の前で、ぽん、と両手を合わせた。

「以上。お母さんからの話は終わり。何か質問ある?」

「ある気がするけど。わかんない。情報多すぎ」

「本当にね。私もそう」

 しんみりしそうになる空気を払うように、明るい口調を遼子は心がけた。

「大勢の人たちが今、お父さんを捜してくれてる。避難所を見て回ってくれてるんだって。で、見つかったらすぐに連絡くれるって」

「そか」

「そ。こっちでできることって無いのよね。困っちゃう。だから、康介はもう寝なさい」

「って寝れるかよ」

「眠れなくても横になるの。横になって目をつぶるの。お母さんもそうする。一階でもう少しだけ起きてるけど。わかった?」

「……わかった」

 よし、と両の太腿を軽く叩いて、遼子は立ち上がった。

 ドアをくぐる前に振り返ると、康介は部屋の真ん中で猫背気味に立っていた。一六〇センチの遼子より一五センチも高くなって、肩もがっしりして、最近では少年ぽさが消えつつあったのに、そこにいる康介は幼い子どものように所在なげで心許なげだった。

 遼子は踵を返して康介のもとに戻り、両手を取って上下に大きく振った。康介が「何」とあわてて手を離す。遼子は今度は、康介の両腕に手を伸ばして強くさすった。本当は思い切り抱きしめたかったけど、康介が嫌がるし、その前に自分の胸がいっぱいになってしまいそうだった。

 だからそうする代わりに腕をがっしり掴んで、真剣な顔で言った。

「イヤホンの音、もう少し下げたほうがいいと思うよ」

「急に何なん」

「耳が悪くなる」

「……わかったよ」

「よろしい。おやすみ」

 にっと笑ってドアを閉め、閉めた後で、ふう、とため息をついた。思いのほかそれは深かった。重い足で階段を下りる。

 これから徳子にも、同じ説明をしなければならない。

 

 揺り起こされて目を開けたとき、遼子は一瞬、ここがどこだか分からなかった。

 薄明かりの中、目の前に康介がいてこちらを覗きこんでいる。ざらざらとした麻の感触。クッションが枕になっていた。重たい頭を持ち上げると、リビングのソファの上だった。

 そうだ。ベッドで横になったほうがいいと思いつつ、もしかしたら太一がひょっこり帰ってくるかもしれないと、ソファで粘ったのだった。

 徳子にはメールをしたが返信がなかった。電話しようかとも思ったが、ぐっすり眠っているのだろうし、呼び出し音で正を起こすとまたひと騒動になる。事実は一刻も早く伝えるべきだと分かってはいたが、栃木から遠く離れたこの家で、何の手も打てない状況で真夜中に、正を起こしてまで伝えるのが得策とは思えなかった。徳子には、明日話すねとメールを入れ直して携帯を置いた。こんな時に眠れるわけがないと思っていたのに、いつの間にかうつらうつらしていたらしい。

 片肘をついてよろよろと上半身を起こし、顔をこすりながら目の前の康介に言った。

「おはよう」康介の顔を見る。「眠れた?」

「まあ」こもった声で答えた。

 部屋の中は薄い灰色だった。テレビは映像だけがついている。庭の方を見やると、カーテンの向こう側が白み始めていた。

「今何時?」と遼子が聞く。三時十分くらいまでは起きていた。

「四時前」

 康介は体をひねってリモコンを取り上げると、テレビの音量を上げ、ソファを背にしてフローリングの床に座った。康介の体でさえぎられていたテレビ画面が眼前に現れ、そこに映し出されていた映像を見て遼子は一瞬で目が覚めた。頬を張られたような衝撃があった。

 女性レポーターが中継をしていた。

 ――です。ご覧いただけますでしょうか。ここからですとやや遠くてわかりづらいですが、あちらの上のほうに少し見えております山の斜面のようなもの、あちらが土砂災害の現場です。あそこに建物がたっていたとは、ちょっと思えないような光景が広がっています。

 スタジオにいる男性が、レポーターに声をかける。

 ――そこにあさひ屋の本館があったというわけなんですね。

 ――そうです。跡形もなく消え去っているのがわかります。

 ――別館は無事なんでしょうか。

 ――そのようですが、ここからは死角になって全貌を確認することができません。降り続く雨の影響で地盤が崩れやすくなっているため、近づくこともできない状況です。

 遼子は思わず口を手で覆った。康介は前を向いていて何も言わない。

 現場といわれたその場所は、遼子にはただの崖に見えた。そこだけが帯状に、草も木も生えてない、黒々とした土が剥き出しになっている崖。

 男性はさらに質問を重ねた。

 ――あさひ屋の宿泊者九名、それから従業員三名の方々は、土砂が崩れる前に避難したという情報もあるそうですね?

 ――はい。旅館を経営するサンホテルズコーポレーションの発表によりますと、あさひ屋支配人から「避難を開始する」と、系列旅館の支配人宛てに連絡があったのが午後九時二十分頃。土砂災害が発生したのが十時頃ですから、約四〇分前に避難を開始していたということになります。

 ――安否確認はまだ取れていないんですか。

 ――まだのようです。彦川町を含む一帯ではおよそ十一万世帯が停電、大規模な通信障害も発生しており、確認に時間を要しているもようです。また、この土砂災害で彦川町の民家三棟も被害にあい、倒壊した住宅に住民が取り残されているとの情報もあります。現在自衛隊や警察、消防による懸命な捜索と救助が続いています。引き続き取材を進め、詳しい情報が入り次第お伝えいたします。

 ――わかりました。くれぐれも気を付けて取材を進めてください。

 映像はスタジオに切り替わり、被害状況を示した栃木県の地図が映し出された。

 男性アナウンサーが解説する。

 ――栃木県内では土砂災害が相次ぎ、川の氾濫も発生しています。栃木県新谷市砂石町では二十六日午前三時二十分頃、車で避難をしていた三十代男性の乗る軽自動車が、冠水した道路で身動きが取れなくなりました。現在救助活動が行われていますが、男性は意識があり、受け答えができる状態とのことです。ただいま栃木県では北部を中心に線状降水帯による激しい雨が降り続いています。命に危険が及ぶ土砂災害や洪水による災害発生の危険があります。避難指示の対象地域にいる皆様はただちに命を守る行動をとってください。川や崖から離れてできるだけ頑丈な建物に――

「康介ごめん、テレビ、一回消してくれる」

 たまらず言うと康介はだまって電源を切って、ぼそりと言った。

「なんか、すごいんだけど」

「うん……」

 既に報じられていた情報も含まれていたが、明るくなった現場を映像で見ると伝わってくる被害の甚大さや深刻さが段違いだった。

 言葉が出てこず、二人して黙りこんでしまった。

 しばらくして「父さんさ」と康介が口を開く。遼子はどきりとして身を硬くした。

「まじでギリギリセーフだったんだな」

 存外に明るい口調に、遼子も同じ調子で返した。

「たしかに。たしかにそうだわ」

 そうだ太一は命拾いをした。

 強運を発揮して。

 救助されたというニュースがきっともうすぐ流れる。しっかり気を保って待たなければ。

 遼子は言った。

「オーケー康介。もう一回テレビつけて」

 映像で突きつけられる土砂災害の生々しさと恐ろしさに呑まれないために、遼子は顔を両手で包み、そのままパチンパチンと二度頬を強くはたいた。

「今の音、何」前を向いたまま康介が電源をオンにする。

「ふっ。気合いを入れたの」

「パンチ効いてて草」

「いいから康介もやってごらん。気合い入るから。気合いよ気合い」

「なんとかアニマルかよ」

「惜しい。アニマル浜口」

「どうでもいいよ。そんなことより――」

 テレビで速報のチャイムが鳴った。

 弾かれたように二人同時に背すじを伸ばした。

 アナウンサーが原稿を読み始めるより先に、テレビ画面上部の速報テロップが目に飛び込んできた。

 ――消息不明だった栃木県新谷市彦川町「あさひ屋」のマイクロバスを発見 宿泊客ら11名の無事を確認

 康介がこっちを向く。遼子が康介を見る。二人で目を見開いて口を大きく開けて、両拳をぎゅうっと握って、噛みしめるように同時に言った。

「やっ」

「たー」

 アナウンサーがしゃべり始める。けれどその時には遼子はもう胸がいっぱいで、目に涙がにじんでいた。アナウンサーの声を聞きながら、そうだ電話がつながるかもしれないと、震える手で携帯を開いて通話ボタンをタップしていた。耳に携帯をこれでもかというほど強く押しあてる。

 ――速報をお伝えします。昨夜から消息不明になっていた、彦川町の旅館あさひ屋の従業員三名と、宿泊客九名のうち八名の乗るマイクロバスが発見され、乗車していた十一名全員の無事が確認されたとのことです。十一名にケガはなく、会話ができる状態であるということです。

 電話はつながらなかった。通信障害がまだ解消されていないのだろう。遼子は留守電にメッセージを入れることにした。

「もしもし? 遼子です。ニュース見たよ。よかったね。本当によかった。よかったよ。ケガしてない? 大丈夫? 本当に、康介もすごく、すごく心配して、今二人でニュースを見てて、あ、今康介に代わるね。ほら康介。お父さん。康介?」

 康介はテレビの方を向いている。

「康介、ほらお父さんに――」

 ゆっくりと振り返った康介の顔がひどく強張っていた。

 遼子は「ごめん後でまたかけるね」と残して携帯を切った。

「………どうした?」

 康介は答えない。怯えたような目でこっちを見ている。

「どうしたの」

 肩をゆすってもう一度聞くとようやく康介が口を開いた。

「警察から連絡が来ない」

「それは――きっとバタバタしてるのよ。お母さんたちだってバタバタじゃない。きっともうすぐかかってくる」

「――八名」

「え、何?」

「乗ってた宿泊客は九名のうち八名」

「えっ、そうなの」

 そんな肝心なことを聞いていなかった。改めてちゃんと聞くと――本当だ、アナウンサーが繰り返している。

「じゃあ……」震える声で遼子は言った。「あと一人は……?」

 康介は口元をきつく引き締めて空の一点を見つめている。

 遼子は康介と自分を励ますように声を明るくして言った。

「大丈夫。その八人にきっとお父さん――」

 固定電話が鳴った。

 康介と目が合う。

 二人の間を呼び出し音が流れる。

「ほら」遼子はつとめて明るい声を出した。「かかってきたじゃない。無事でしたっていう電話よきっと」

 言葉とは裏腹に、遼子はよろよろと立ち上がってカウンターへ歩み寄った。液晶画面に、新谷警察署の番号が表示されていた。おそるおそる、手を伸ばす。

 怖い。とてつもなく怖かった。

 気力を振り絞って受話器を上げた。

「もしもし」

 五十嵐の声が聞こえた。感情の読めない、淡々とした明瞭な声。

 どっちだ。

 遼子は両手で受話器を握りしめた。

「あの、ニュース見ました。見たんですけど、夫は、副島太一は」

「落ち着いて聞いてください」

 これまでと同じように、はきはきとした声で五十嵐は言った。なのに嫌な聞こえ方がした。

「ご主人の副島太一さんですが」

 トクンと心臓が音を立てて、もう止まるかもしれなかった。

「今回発見された八名の中には残念ながらいらっしゃいませんでした」

 

(第5回につづく)