翌朝、康介は六時に目を覚まして、ベッドの上でむくりと上半身を起こした。

 遼子は鏡の前に座っていた。洗面所のドライヤーで乾かしたばかりの髪を、ブラシで整えているところだった。鏡ごしに遼子は尋ねた。

「眠れた?」

「……うん」

 康介は、遼子とそっくりに泣き腫らした顔をしていた。しかし存外にしっかりした声で突然言った。

「あさひ屋に行きたい」

 遼子はブラシの手を止めて聞き返した。

「土砂崩れの現場に、ってこと?」

「うん」

「それは」ブラシを机の上にそっと置いて、体ごと康介のほうを向いた。「私も考えてはいたけど」康介のメンタルが心配で切り出していなかった。

「行って捜索に加わりたい」

「……そう……そうだね。行きたいよね」

 太一の、少しでもそばに。

 二人で話して、五十嵐に相談してみることにした。この土地で何かを聞けるとしたら彼しかいない。ただ聞いたところでどうなるかは分からないし、これ以上外村を巻き込むわけにはいかなかった。伝えると外村は「遠慮しなくていいのに」と眉根を寄せたが、次には静かに頷いた。

「私がいることで気を遣わせて、二人の行動を制限してしまってはいけませんね」

 駐車場まで見送りに出て、心からお礼を言って別れた。

 その足で新谷警察署へ向かう。歩いて十分ほどのところにあるらしい。空を見上げると、昨日とは打って変わって澄んだ青色が広がっていた。大通りを一本入ったのどかな細道を行くと、道の両側には民家や、時々商店が、駐車場や空き地の間にぽつりぽつりと立っていて、その一角の奥まった場所に緑の屋根と十字架が見えた。教会だ。こぢんまりとした佇まいで、入り口には太一が触れたがりそうな鉄製の黒い門扉があった。日曜礼拝、十時より、と札が下がっている。

 向こうから犬を連れた高齢の男性がゆっくり近づいてきた。ピンク色のリードでつながれた茶色い柴犬は、千切れんばかりに尾を振って弾むように歩いている。すれ違いざまに挨拶をかわす。振り返って見送った彼らの姿は、平和で穏やかな、かけがえのない日常の象徴に思えた。自分たちも、彼らからはそう見えるのかもしれなかった。

 新谷署は人でごったがえしていた。入ってすぐの窓口で用件を伝えると、地域課のカウンターに通された。あれが五十嵐ですと指し示された男性は、高齢夫婦と相対していて、家の窓ガラスが割れて防犯上心配だ、どうしたらいい、と詰め寄られていた。毅然と対応するその横顔は、思っていたよりもずっと若かった。二十代前半、もしかしたら康介とそう変わらないかもしれない。

 しばらく待ったのち順番が来た。カウンター越しに対面してこちらが名乗ると、五十嵐は一瞬目を見張ったが、すぐに表情を戻して目礼した。

「お疲れのなか、ご苦労様です」

「いろいろとお世話になって」遼子は頭を下げた「ありがとうございます」

「いえ」五十嵐は少し目をふせて、「有益な情報をご提供できず、ふがいなく思っています。昨日も――」

 言いよどんでいたので遼子から尋ねた。

「あの男性はご無事ですか?」

「会話ができるまでになったそうです。隣の高木市在住の男性で、親御さんの様子を見に車で向かう途中だったと」

「そうでしたか……」

 病院の暗い廊下で聞いた「お父さん!」の声がよみがえった。声色は悲痛だったが、安堵と喜びと希望に満ちていた。

 遼子は区切りをつけるように小さく一つうなずいてから、実は現場に行きたいのだと切り出した。五十嵐は難しい顔になり、横から康介が捜索に加わりたいと付け加えると、それは無理だときっぱり答えた。現場には規制線が張られていて、入れるのは警察、消防、自衛隊のみ。車両も、緊急車両と、許可された重機や関係車両しか今は通行できないという。

「規制線の手前でもいいです」遼子はカウンターに身を乗り出した。「自分たちで行きますから、場所を教えてもらえませんか」

「最寄りのバス停からもかなり距離がありますよ」

「ならレンタカーで行きます」

 駅前に一軒、レンタカー屋を見つけてあった。気を付けて運転すれば何とかなる。

 五十嵐が地図を持ってきてくれて、ボールペンの先で指しながら説明を始める。彦川沿いの道や橋が何カ所か通行止めになっているらしい。五十嵐はルートを考え考えボールペンを動かしていたが、やがて「わかりました」と手を止めた。

「私が一緒に行きます」

 

 覆面パトカーが停まったのは、現場から五十メートルほど離れた場所だった。

 彦川山の山道をうねうねと上っていって脇道に入ったところ、田畑の間の少し開けた場所で、遼子は後部座席から下りて康介と並び立った。土砂崩れの現場を東南の方角から斜めに見上げる場所だった。

 見あげて、目の当たりにして、足がすくんだ。

 剥き出しになったこげ茶色の山肌が、朝陽を浴びててらてらと光り、湿った泥のにおいを強烈に放っている。それはふだん嗅いでいる土のにおいとも、山里を訪れたときの香りとも違う生々しく恐ろしいにおいだった。

 斜面は渇水した滝のような様相で、草木は一本も生えていない。生えていた痕跡もない。建物も道路もそして人も、地表にあった何もかもが押し流されたことを厳然と知らしめていた。

 標高五百三メートルの山で、幅十メートル長さ七十メートルにわたって土砂が崩れたのだと、背後から五十嵐が言う。

 このどこかに太一がいるというのか。

 なすすべなく、言葉もなく、遼子はかろうじて立っていた。涙は出なかった。自分があまりにも小さく無力で、頬を伝うはずの涙が体の奥深く押し込まれ、心の底に流れ落ちていくような感覚があった。

 そんな遼子の隣で睨むように山を見上げていた康介が、ぽつりと言った。

「こんなところ。どうやって捜すんだよ」

 そう、一体どうやって。この広い場所で、一人の人間を。

 五十嵐は一歩前に出て、規制線のほう――マスコミが群がっているあたりを指さした。

「あの向こうに本部があります」

 規制線の先、斜面の裾野に「災害対策本部」と書かれたテントがあり、救助隊員だろう、オレンジ色の服を着た人たちが頭を突き合わせている。さらに先には倒壊した家屋の一部が見え、そこにも大勢の人が集まっていた。

「長い棒を手に持っている隊員がいるのはわかりますか」

 はい、と康介が返事をする。

「ゾンデ棒といって、あれを地面に刺しながら捜します」

 刺す、という言葉の鋭利さに息を呑んだ。

「もちろん慎重に、粘り強く行います」

 だとして、その作業の途方のなさに目の眩む思いがした。

「彼らは日々訓練を積んでいるプロですから、手に伝わる感触で、当たった対象物が何であるか、人なのかどうかがわかるといいます。午後には、災害救助犬も出動の予定です」

「災害救助犬……」ありがたさと焦りが同時に湧いた。「それなら本人の持ち物が必要ですよね。においのついた何かが」

「それは警察犬の場合ですね。彼らは特定の人物の原臭を探します。災害救助犬が探すのは浮遊臭と呼ばれるもので、人間の体臭や呼吸のにおいを嗅ぎわけて特定するんです」

「一億倍」康介がつぶやいた。「とかですよね。人間の嗅覚の」

「そう、犬の嗅覚は驚異的ですよ。うちの老犬もおやつのにおいだけはどこに居ても嗅ぎつける」

 康介の顔が少しやわらいだ。

 五十嵐も少し表情を緩めた。

「救助犬もまた訓練を積んだプロフェッショナルです。本当に優秀です」

 五十嵐は康介の向こう側で、斜面の上方を指差した。

「斜面の右側にある、灰色の建物は見えますか」

 コンクリート造りの四角い建物がポツンとあるのが見てとれた。

「あれがあさひ屋の別館です。それから、ここからは見えませんが、別館の向こう側に駐車場があって、北へ向かうルートにつながっています。マイクロバスはあちら側から避難を試みました」

 五十嵐は差した指を左右に動かして言った。

「土砂で分断されている道路は、本来ここへ下りてくる道です」

 斜面の両端に、取り残されたガードレールが見える。どちらも土砂に引きずりこまれたように傾いて千切れていた。

「すごい力ですよね。けど」五十嵐は腕を下ろして続けた。「今朝、日の出と同時に始まった捜索で、彦川町在住の五十代男性が一人見つかったんです」

 え、と二人同時に声をあげた。

「重傷ですが命に別状はないとのことで、市内の病院で手当てを受けています。このことを直接お伝えすべきかどうか、迷っていました」

 遼子は思わず口に手を当てた。

 斜面のほうを向く。大勢の隊員の姿が見える。

 心の底から熱いものが湧きだして、今度は涙があふれそうになった。気づけば手を合わせ、拝むように口元に当てていた。良かった。本当に。名も知らないその誰かが、絶望的なこの状況下で見つけだされて助かったのだ。どうか太一も助かってほしい。太一にも奇跡が起きてほしい。

 ヘリコプターの音が聞こえてきた。三人そろって振り返り、空を見あげた。

「バスの救助に向かうヘリですね」と五十嵐が言った。「昨日は日没で中断を余儀なくされましたが、今日は全員救助をめざすそうです」

 ヘリはあっという間に近づいて真上まで来た。爆音だ。

 救助のプロがこんなにたくさん集まって、懸命に捜してくれている。

 自分たちができることは、ここには何もなかった。やるべきことの多い五十嵐を、こんなところにいさせてもいけない。

 爆音の中で遼子は声を張り上げた。

「ありがとうございました。帰ります」

 ただしもう一つだけ、頼みたいことができた。

 あさひ屋の支配人に会いたいということだった。

 

 ただ伝えるだけになるかと思いますが、と五十嵐は答えた。十分だった。

 遼子が望むのは、あの日のことを当事者から直接聞きたいというただそれだけだったが、どうもホテル側が難色を示しているらしい。「補償問題とか、そういうのを心配してるんじゃない」と電話で徳子が言っていた。

 翌日には災害対策本部のある新谷市役所とボランティアセンターへ赴き、がれき撤去でも何でもできることはないか聞いたが、今はまだ一般のボランティアは受け入れていないという。災害発生後七十二時間以内に求められるのは主に災害時医療職業等ボランティアで、医師でも看護師でもない自分はここでもまた無力であった。

 結局、祈ることしかできなかった。遼子と康介は日曜日から月曜日にかけて近隣の神社仏閣を端からめぐり、一心に手を合わせた。

 日曜礼拝と札が下がっていたあの教会にも足を運んだ。現場から戻り五十嵐と別れたあとすぐに訪れ、見よう見まねではあったが讃美歌を口ずさんでお祈りをした。礼拝の最後には神父様が豪雨災害のことに触れ、続けて災害被害者のための祈りが捧げられた。三十人ほどの参加者が声を合わせた祈りの言葉が、遼子の胸に優しく響いた。

 教会でもらった冊子にはその祈りの言葉が綴られている。遼子はベッドの上でそれを開いてまた読み返した。目を上げてベッドサイドの時計を見ると二十一時四十九分だった。もうすぐ七十二時間を過ぎてしまうというのに、遼子と康介はこうしてホテルの部屋で漫然と過ごすしかできないでいる。

「康介」冊子を閉じて話しかけた。「明日一度帰ろうか」

「え」窓辺の椅子でぼんやり外を見ていた康介が、耳からイヤホンを外してこっちを向く。「なんで」

「ここでこうしててもしょうがないし、学校もあるし」

「行ってる場合じゃないでしょ」

「でもいつまでこうしてる?」

「それは、わかんないけど」

「でしょう」ベッドから下りて、康介の正面の椅子に腰かけた。「ずっと考えてたの。康介は受験生なんだし学校に行って勉強した方がいい」

「受験なんて――」

 テーブルの上で康介の携帯が鳴った。見ると通知に「中島」と出ていた。バレー部で一番仲が良かった中島くんだ。なかなか出ようとしないので「出たら」と促すと、康介は口をすぼませながら携帯を取り上げ画面をタップした。

「うっす」

 口元がかすかにほころんだ。それを見て遼子もほっとした。中島くんとまだ交流があることも嬉しかった。昨年の秋、春高バレーの予選のあと、二年生にもかかわらず康介は急にバレー部を辞めた。理由を聞いても「別に」としか答えない。退部届には「一身上の都合」と書かれていたそうだ。それを機に中島くんの名前を康介が口にすることはなくなった。というより、口数そのものが減ってしまった。

 康介はイヤホンを手で弄びながら話している。

「今? そう栃木。うん、まあ、そういうこと。……うん、まだ。まあそうだけど、しょうがないっていうか……え? なんでだよ。いいよ来なくて。てか部活は?……まじで。ドンマイ……だからそれはいいって。引退したんだから受験勉強しろよ……は、うっせ。とにかくいいから。俺もやることないんだって。なんならひま。なんかいろいろまだダメらしい。だからほんといいから……うん……うん。ま、そうするわ。うん。じゃ」

 携帯を切った。

「中島くん何だって?」と尋ねる。

「明日こっち来るとか言ってて草」照れ隠しか、ぶっきらぼうに吐き捨てる。「白石先生がホームルームで父さんの話をしたとかで、一緒に捜すとか言ってんの。無理だっつの」

「優しいね」

「……まあ」

「ねえやっぱり一旦――」

 携帯が鳴った。今度は遼子のだ。

 椅子から立ち上がり、ベッドサイドで充電していた携帯を取り上げる。知らない番号が表示されていた。おそるおそる出てみると、聞き覚えのない男性の声が聞こえてきた。

「夜分に恐れ入ります。副島遼子様でいらっしゃいますか」

「……そうですが」

 どちら様ですかと問いながら、もしやという思いがよぎる。

「私、須永健次郎と申します」

 須永は躊躇いがちに続けた。

「新谷市にある旅館、あさひ屋の支配人の者です」

 

(第9回につづく)