お節づくりもようやく終わりが見えてきて、遼子は腰を軽く叩いた。

 汚れた皿や使い終わった調理器具をシンクにまとめてから、エプロンのポケットにそっと手を伸ばし、携帯を引き出して画面にちらりと目をやった。すると徳子の声が飛んできた。

「やっぱり何か用事があるんじゃないの?」

 ハッと顔を上げると、徳子がコンロの前でお玉を手にこっちを見ていた。

「朝から携帯ばっかり見て。こっちまで落ち着かないったら」

「ごめん」携帯を急いでポケットに戻す。「何でもないの」

 そうは言ったが、実はダイレクトメッセージの返事を待ちわびている。昨晩あの動画を見つけたあと、居ても立ってもいられず投稿者にDMを送ったのだ。日本語で書いたものを自動翻訳で英文にして送った。

 

 ――マルコさん、はじめまして。私は日本人で、遼子といいます。

 今話題になっている投稿動画を拝見しました。

 とてもかわいい動画ですね。猫ちゃんの一生懸命な姿に癒されましたし、マルコさんの「ついに無事に着地」という一言にもホッとしました。

 一つお尋ねしたいのですが、動画の最後のほうにちらっと映る男性(白いTシャツを着た横顔の男性)は、マルコさんのお友達ですか?

 不躾な質問で恐縮ですが、お返事をいただけたら幸いです。

 追伸 これまでの他の投稿も拝見しました。私は夕焼けの写真が好きです。

 

 そうだ、と遼子は話題を変えた。

「三つ葉も切っておこうか」

「そうしようかね。明日は極力、刃物は使いたくないから」

 遼子は野菜室から三つ葉の束を取りだして、静かに優しく引き出しを閉めた。徳子宅の冷蔵庫はかなりの年代物で、乱雑に扱うとてきめんに支障が出る。このまえ正が冷蔵室の扉を勢いよく閉めたら、蝶番の部品が折れてしまった。大宮の家で使っていたものをそのまま持ってきていて、十年以上……十五年近く経っているのではないか。効きが悪いと徳子がしょっちゅうこぼしてくる。

 三つ葉を洗って、二センチほどの幅に切っていくと、凛と爽やかな香りが立ちのぼってきた。シャープな輪郭と華やかさを持つ三つ葉が、遼子は好きだ。

 キッチンペーパーで水分を拭いながら何の気なしにつぶやく。

「野菜に生まれ変わるなら三つ葉がいいな」

「急に何?」火加減を見ていた徳子が、声を緩ませる。「妙なこと言いだすね」

「シャキッとしてて上品で、それに一目置かれる感じがしない?」

「なあに、一目置かれたいの?」

 徳子は笑って、私なら何がいいかしらと、換気扇のあたりを見上げた。

 大晦日にこうして徳子と台所に並んで立つのは、二世帯同居が始まって以来の年中行事だ。徳子がお節のほとんどとお雑煮を手作りするので、遼子はそれを手伝う。

 徳子は、生まれ変わりたい野菜は特になかったようで、薄口しょうゆを糸のように垂らしてお雑煮の仕上げにかかっている。遼子は三つ葉をタッパーに入れ、冷蔵室にしまってから洗い物にとりかかった。

「遼子、ちょっと味見してみて」

 徳子が鍋の中身をお玉ですくって小皿に取り、遼子の口の高さに差しだしてくる。遼子は顔を少し寄せて、手の泡が垂れないように気をつけながら、小皿にふっふっと息をかけた。透き通った黄金色の汁を慎重に口に含むと、昆布とかつおぶしで丁寧にとった出汁の香りが鼻に抜けて、ふうっと溜め息が出た。

「うん。おいしい」

「そうかしら」徳子は不満そうに言って小皿を引っこめた。「なんかちょっと薄い気がするけど」

「ぜんぜん。ちょうどいいよ」

 徳子は自らも味見をして首をひねったあと、まあいいかとお玉を鍋の脇に置いた。

「さて」と小気味よく手を打って、「お煮しめも冷めたし、お重をかさねようかね」

 テーブルの上には三つの重箱が広げて置いてあり、紅白なます、黒豆、きんとん、田作り、数の子などが華やかに整然と並んでいる。遼子は洗い物をしながら肩越しにそれらを振り返った。

「きれいだね。いかにも縁起がいいって感じ」

「でもねえ、伊勢海老がないとやっぱり締まらないよ」

 遼子は一瞬手を止め鼻で小さく息を吸い、そしてゆっくり吐きだした。

「だから、買ってこようか?」

「いい、いい。高いし。もったいないもの」

 今日このやりとりをするのは三度目だ。

 例年二の重のセンターを飾る伊勢海老が今回ないのは、数日前にかかってきた傑からの電話が原因だ。「陽菜の体調が悪いから正月の帰省はやめておく」、そう言ってきたらしい。

「傑が来ないんじゃあね」徳子がテーブルの上を片付けながらつぶやく。「お父さんなんて、ただ目の前に出されるから食べるだけ。丹精込めて作ったって虚しいったら」

 調味料をしまう後ろ姿が寂しげに見え、遼子は声を明るくした。

「そう言わないで。私はありがた~く頂いてるよ」

 だが徳子の顔は浮かない。

 遼子は、徳子が作ってくれるものはいつも、おいしいと言って食べている。実際おいしいし、感謝しているし、感情が平坦になった正の分もという気持ちもある。けれど、それは徳子の中でカウントされない。遼子が十回おいしいと言ったって、傑の一回にも及ばないのだ。

 いい歳してそんなことを考える自分がまた情けなくて、遼子は皿を洗う手に力をこめた。

 正の声が聞こえてきた。隣の和室からだ。

「おうい」

 聞こえていないわけはないだろうに、徳子はもくもくと片付けを続ける。遼子は蛇口をひねり、タオルで手を拭いながら和室に向かった。閉め切っていた折り戸を開けたとたん、朝からずっと聞こえていたテレビの音が、うわっとなだれこんできた。

「どうしたの?」

 顔だけ出して尋ねたが、いつもながらに煙草臭い。

「こぼれた」

 コタツの上で湯呑みが倒れて、中身がこぼれて広がっていた。遼子は急いで布巾と雑巾を取ってきて、スリッパを脱いで畳に上がった。正は座椅子に座ったまま、正面のテレビを無言で見ている。まず畳を拭いて、卓面を拭いて、雑巾でコタツ布団をとんとん叩く。我が家のコタツを買う時、セット販売の半額で買ったコタツだ。

 とんとんしながら遼子は聞いた。

「大丈夫? 服にかかってない?」

「茶が無くなった」

「わかった。ちょっと待ってて」

 こうして何度も倒すから、取っ手がついた和柄のマグカップを今年の父の日に贈ったのだが、茶がまずくなるといって使ってくれない。湯呑みやコップがいくつあっても、分厚くて重くて持ちにくいこの湯呑みばかりを使うから、正の周りの畳は染みだらけだった。

 緑茶を淹れなおして、正の手が当たらなそうな場所を考えて卓上に置き、ふうと顔を上げた。部屋の隅には、畳まれた二組の布団がカバーをかけた状態で積んである。

 寝室はもともと二階にあって、正も徳子も一昨年までそこのベッドで寝起きしていたが、二人とも――特に正が階段の上り下りが難しくなったことから、リビングダイニングとして使っていた二十畳の空間を折り戸で仕切って、寝室兼用のこの和室を作ったのだった。押入れを作ると生活スペースが極端に狭くなってしまうので、断念して今の形になった。

 片付けが終わると、徳子は年忘れにっぽんの歌を見るといって和室に向かった。手に持っている梅模様の湯呑みは、須美江と一緒に瀬戸物市で買ったという小ぶりのものだ。

 遼子は、エプロンを外しながら共有のドアをくぐった。

〝うち〟は暗く静まり冷え切っていて、後ろ手にドアを閉めた瞬間、ぶるっと身震いが出た。急いで電気とエアコンをつけ、椅子に掛けてあったフリースを羽織ってコタツの電源も入れた。

 外もすでに真っ暗だったので窓に近づき、全開になっていたカーテンを閉める。振り返って部屋を見渡すと、水槽のなくなったリビングはやっぱりガランとしていた。遼子は冷たいコタツにもぐりこんで、背中を丸めて卓面におでこを付けた。疲れた。朝からずっと台所仕事だったし、昨夜はほとんど眠れていない。

 そろそろと携帯を手に取って、マルコの動画を再生した。

 画面の中央に、一本の木が映っている。

 木は太く灰色で、ごつごつとしたその幹に、一匹の黒い仔猫が万歳の格好で貼り付いている。

 登ろうとしているのか下りようとしているのかは分からない。細い足で踏ん張っているがへっぴり腰で、小さな両前足の爪を立てて必死にしがみついている。

 木の周りには人だかりができている。向かって左側、猫の至近にいる黒髪の女性は口を手で押さえ、口パクで撮影者に何か訴えている。言葉はわからないが、「かわいい」と言っているような表情だ。女性はさらに隣にいる女性と真後ろにいる男性にも話しかける。

 仔猫は十秒間踏ん張り続けるが、前足を滑らせ、ずり落ちて画角から消える。直後に動画が終わる。

 わずか十二秒間のこの動画が、現時点で二千六百万回以上再生されており、いいねの数は二十万超えだ。遼子が猫の動画をいつものように見ていたら、タイムラインに流れてきた。コメントもさまざまな言語で付いていて、遼子はそれらを、自動翻訳のやや不自然な日本語で読んでいった。

 ――かわいい!

 ――蜘蛛? いえそれはブローチです。

 ――彼または彼女は果敢に木登りに挑戦した。

 ほとんどが仔猫に関するものだ。たしかに愛らしく思わず笑顔になるが、遼子の目が留まったのはそこではない。

 途中から画面右端に映りこむ横顔の男性だ。皆が笑顔で仔猫を見守るなか、一人平然と仔猫を見ている。ただ、仔猫が前足を滑らせた瞬間だけ、あっというふうに、わずかに口を開く。

 遼子はその瞬間をスクショして拡大して、まじまじと見た。

 目の形、鼻の高さ、食いしばるような口元……似ている気がする。耳の形を確認したかったが髪で隠れてしまっている。頬と顎が少しほっそりしたような気がするけど、あっと驚いた時の顔――顎をあまり動かさず、唇だけをわずかに開けるその表情が、太一そっくりに見えるのだ。

 動画は何度見たか分からない。飽かずにまた再生していると、携帯が発光し、同時に通知音のホイッスルが鳴った。マルコからのDMだった。急いで画面を開き、英語で届いたメッセージを翻訳して読んでいく。

 

 ――こんにちはリョウコさん! お元気ですか? マルコです。私の投稿を見てくれてありがとうございます。夕焼けの写真が好きだと言っていただけてとても嬉しく思います。

 ご質問の動画は、実は一年前に投稿したものなんです。最近になって話題になっていることに驚いています。世界中から温かいメッセージが殺到していて、人生で一番忙しい日々です。

 それで、リョウコさん、あなたの質問は、仔猫についてではないんですね? 数秒だけ表示される、白いTシャツを着た横顔の男性について尋ねているのですか? そんな質問をされたのは初めてです!

 リョウコさん、あなたが知りたいことはすべてお話ししたいのですが、残念ながら横顔の男性は私の友人ではありません。私の友人は左端のくりくりした髪の男性のサンチェスと、サンチェスと話している女性のアナだけです。そのため、ご質問の男性については何も知りませんし、何もお伝えできません。お役に立てず申し訳ありません。

 

 そうか、と、がっくりうなだれた。

 あの場にいる全員が知り合いならもしやと思って尋ねたが、自分に置き換えればわかることだ。偶然画像に映りこんだ全員が友達のわけもない。返事が来ただけ幸運だったと言い聞かせて返事をつづった。

 ――マルコさん、ありがとうございます。横顔の男性はご友人ではないとのこと、承知しました。メッセージがたくさん届いている中で、こうしてお返事をくださったことに感謝いたします。

 英語に変換して送信しようとして……付け足した。

 ――この男性が映っている動画か写真を、他にお持ちではありませんか? インスタに投稿されているものは全て拝見しました(見つかりませんでした)

 少しして返事があった。

 ――リョウコさん、フォルダ内のデータをフェイスグルーピングで検索してみましたが、ヒットしませんでした。今サンチェスが隣にいるので聞いてみたのですが、分からないと言われました。この日は、ティムティム島で一年に一度のお祭りでした。ご質問の男性はこのお祭りのためにどこからか来た誰かかもしれません。お力になれずすみません。

 ――マルコさん、ご丁寧にありがとうございます。お友達のサンチェスさんにも、どうかよろしくお伝えください。これからも時々インスタを覗かせていただきますね。素敵な風景写真の投稿を楽しみにしています。マルコさんとサンチェスさんと、それから猫ちゃんのお幸せを願っています。

 送信して、遼子はコタツに突っ伏した。顔を横に向けて、目だけで仏壇を見あげる。

 遺影が三つ並んでいる。左から義父、義母、そして太一だ。写真の中で微笑む太一に、遼子は心の中で語りかけた。

 そこにいるの?

 お義父さんお義母さんと一緒にいるならそれでいい。でももし違うなら、そうとなんとか教えてくれないだろうか。でないと自分は、いつまで経っても宙ぶらりんのまま、似た人を捜し求めて期待と失望を繰り返してしまう。

 ――遼子、しっかりしなさい。太一くんはもういないの。

 いつだか徳子に言われたことがあった。横浜の地下街を一緒に歩いているとき、背格好の似たスーツ姿の男性を見つけて遼子が動けなくなったときだ。

 ――そんなんじゃ太一くんが成仏できないよ。

 それは……困る。

 遼子はのろのろと立ち上がってトイレに向かった。が、照明が点かない。何度かカチカチ操作したがダメだった。買い置きの電球がたしかあったはずだと納戸を探してみたが、どこにも見当たらない。

 隣に聞きにいくと、徳子は和室で正と一緒に「年忘れ」を見ていた。

「どうしたの」徳子が首をひねって見上げてくる。

「トイレの電球の替え、ない?」

「なあに。切れたの?」どれ、と浮かした腰を、ああそうだ、とすぐ下ろした。「このまえうちのが切れて、そっちからもらったんだったわ」

「納戸の中の電球?」

「そうそう。ちょうど傑が来てるときでね、ちゃちゃっと替えてもらったのよ。買って返すの忘れてたわ」

 せめてそのとき言ってくれればと脱力する遼子に、あっけらかんと徳子は言った。

「今日のところは廊下の電球と替えてしのいだらどう。型が同じだから大丈夫よ」

 それは、そうだけど。

 廊下の照明は天井に三か所あるから、そのうちの一か所――真ん中あたりと替えればたしかに困りはしない。が、その状態でお正月を迎えるのはなんか嫌だ。

 腰を下ろすと億劫になりそうだった。家に戻り、そのままコートスタンドのダウンジャケットに手を伸ばす。

 コタツの上で、ふいにホイッスルが鳴った。近づいて手に取ると、マルコからだった。

 ――リョウコさん、問題の男性についてもっと調べてみましょうか?

 思いがけない申し出に、遼子は思わず口を押さえた。

 ――いいんですか? できればお願いしたいです。

 ――わかりました。男性の何を調べますか?

 どうしよう。遼子はコタツの脇にそろそろと膝をついて、考えた。

 死んだ夫を探している……表立っては封印している密やかな心の内を、見ず知らずの、それも異国の人に話すのはためらわれた。だから、こう答えた。

 ――男性の名前と、連絡先を知りたいです。

 送信してダウンジャケットを羽織り、外に出た。きんと冷たい風に、首のあたりが縮む。

 自転車にまたがって漕ぎだそうとしたとき、徳子から電話がかかってきた。

「そろそろ年越しそばにしない? お父さんがねえ、もりそばがいいって言うのよ。寒いから私はあったかいのがいいんだけど」

 つまりは両方作ってほしいということで、年越しそばを作るのは遼子の担当なのだった。

 これから急いで電球を買ってきて、そばを茹でて、もりとかけを向こうに運んで、紅白か何かを見ながら三人で食べる。その半日後にはもう元旦だ。また顔を合わせてお節とお雑煮を一緒に食べる。昼と夜はどうだろう。二日目、三日目は?

 マルコから返事が来た。

 ――わかりました。しかしリョウコさん、一つだけ問題があります。恥ずかしいのですが、お金がないんです。手数料を払っていただければ、たくさんお手伝いできます。

 

(第18回につづく)