次に見えたのは白い天井だった。染みだらけで、虫が群がっているみたいにブツブツしていて大きい。落ちてくる! とっさに逃げようとしたが、体は動かず、すさまじい痛みに全身が貫かれた。
――あ、ウチコシさん。目が覚めました?
女性の声がしたが、水の中で聞いているみたいにこもっていて遠い。
女性が顔を覗き込んできた。見知らぬその顔は、白っぽくかすんで見えた。
――ちょっと待っててくださいね。今ドクターを呼びますから。
男性が来た。毛がふさふさしてる。
――ご気分はどうですか。ここね、彦川総合病院です。ウチコシさん、土砂に巻き込まれてケガをして、ここに運ばれてきたの。大変でしたね。でももう大丈夫ですよ。手術もうまくいきました。ちょっとだけお体の具合を診させてもらいますね。
何をされても激痛が走った。触らないでほしかったが、うめき声を出すのもつらい。
――ちょっとお話しできますか? どうかな。
無理だ。勘弁してくれ。
――まず念のための確認なんですけど、お名前を聞かせてもらえます?
名前。
――ウチコシさん?
ウチコシ。さっきからみんながそう言う。
――えっと……生年月日はわかりますか?
生年月日の意味はわかる。けど、何と答えるかが分からない。
ドクターは噛んで含めるように、「ウチコシソウイチロウ」が「土砂災害」でケガをして「病院」に運ばれたということをもう一度説明した。言葉の意味はどれも分かった。でも、それらと自分とが結びつかなかった。
何を見ても聞いても、ぐらぐらした岩の上に、同じような歪な岩を積み上げていくようだった。不安定で不安で空恐ろしい。
打越の自宅アパートには、楢坂工業の鈴木という男が黒い車で送ってくれた。後部座席で、車の振動がもたらす痛みに耐えた。筋力も衰えていて、アパートの階段を上がろうと足を上げることも難しかった。一段一段息を吐いて上がりながら一度だけ二階を見あげると、無表情の鈴木が階段のてっぺんからこちらを見下ろしていた。なぜ冷たくされるのかわからなかった。自分は何か悪いことをしたんだろうか。
部屋に入ると力が尽きて、靴を脱ぐ前に倒れこんだ。残る力を振り絞って、奥の部屋へ腹ばいで進み、畳の上で大きく息を吐いた。鈴木が、小脇に抱えていたセカンドバッグから書類を取り出して、太一の目の前にかざし、一番下にサインをしろと言った。腹ばいのまま書類を見て、差し出されたボールペンで綴ろうとしたが畳の凹凸でガタガタする。なんとか起き上がって、ちゃぶ台の上で打越惣一郎と書いた。この名前を何度書いても慣れない。
鈴木は書類を引き取ると今度は茶封筒を出して、放るようにちゃぶ台に置いた。見舞金だと付け加えて畳に膝をつき、こちらのTシャツの裾をめくって探るように背や腹に視線を走らせた。
――お前、誰だ。
意味がわからず、混乱した。
誰、とは? 打越総一郎じゃないのか。
鈴木を見送り玄関の鍵をかけると、体はもう限界だった。畳の上に仰向けで横たわったまま夜になり、そこに加賀見がやってきた。こわごわ迎え入れたが親切な人で、食事や生活に必要なものをすぐに手配してくれた。
昨日は病院と携帯ショップに付き添ってもらい、抜糸をして、新しい携帯電話を持った。助かったし、鈴木が書類にサインさせたことを憤ってくれて、嬉しかった。少し悲しかったから。
でももうそれも終わりだ。
畳の上に敷いた布団に正座して、開け放ったカーテンの向こうの月を見あげながらそう思った。
真夜中に突然目が覚めて、そうしたら思い出していた。自分は、何かから逃げていた。逃げて、誰かに会いにいこうとしていた。
打越と一緒に。
記憶は徐々に戻っていったが、その内容はまるで映画かドラマのようで、自分の身に起きたこととは到底思えなかった。
この記憶は確かなものなのか? 今一つ自信が持てずにもいる。
太一はマウスを動かす手をとめて、右横の壁にはまっている鏡を見た。アパートを飛びだしてから一週間、顔の腫れはおおかた治まった。パスポートを取るにはいろいろ書類が必要で、まず写真だったが、ケガした顔で申請はできない。
鏡の中の自分をまじまじと見る。腫れは大丈夫そうだ。あとは頬や口元に残っている黄色いあざだが――。
もう少し様子を見るか。
座椅子からのっそり立ち上がって、座席兼ベッドのクッションを踏んで歩く。全身の痛みもかなり引いた。出入口で靴を履き、ドアを開けて外に出る。殺風景で細長いこの部屋は、鍵付きで防音の個室――宮沼駅前商店街の端にあるネットカフェの一室だ。新谷駅から四つ離れた駅の西口を出て徒歩五分のところにあり、この辺で調べた中で一番安かった。
ドリンクバーで、コップに氷を入れ、スプライトのボタンを押す。次はコーラにしよう。ここに来てから朝昼晩とサイダー三昧だが……コップに注がれるシュワシュワの気泡を見つめるたび、いつだか遼子に笑われたことを思い出す。
――サイダーって普通あんまり言わないよね。三ツ矢サイダーならわかるけど。
普通って何だ。シュワシュワした飲み物をサイダーと呼ぶことの、何がおかしいんだ。
浮かんでくるのがこんな記憶ばかりで、思わず太一はうなだれた。
コップを手に戻ろうとしたとき、「ちょいちょいちょい」と声を掛けられた。振り返ると、コミヤと呼ばれている若い男がドリンクディスペンサーを指して言った。
「垂れたら拭く。これ常識」
たしかにスプライトが少し垂れていたので、すみませんと頭を下げて、そばにあった緑色の布で拭いた。
「そ、れ、と、氷のトングは、できればこっち向きね」トングの向きを変えてスタンドに掛け直している。「世の中、右利きが圧倒的なわけだから」
どうでもいいだろとウンザリするが、絡まれると面倒なのでまた会釈だけ返した。おととい「おじさん何してここに流れてきたの? 失業? それとも犯罪系?」と探りを入れられた。腫れた顔も見られているし、さらに突っ込んでくるかもしれない。
現に、ほら見ろ。今またまじまじと顔を見つめてきている。太一はとっさに顔をそむけた。するとコミヤは呑気な声で言った。
「ねえ、おじさんあの人に似てるね。何て言ったっけ。ほら、しょっちゅう出てる脇役のさ、『どんでん返し刑事』の――」
小西治孝! とコミヤが手を打つ。
「よく言われるっしょ?」
「いえ」とかぶりを振ったが、二人から言われたことがある。会社の女性パートと、傑だ。
長居は禁物だった。太一は踵を返して歩き出した。背中にコミヤの声が飛んでくる。
「ドリバはきれいに使いましょうや、お互いに」
ドリバ。店員が使っている言葉だが、コミヤは別に店員ではない。太一と同じく鍵付き個室を使っている客だ。コミヤはしょっちゅう受付のカウンターに肘をついて店員としゃべっていて、会話から察するにかなりの長期滞在者であるらしい。若く見えるが、今日間近で対面して三十くらいかもしれないと思った。
鍵付き個室は全部で五つあって、同じ通路に一列に並んでいる。コミヤとは幸い端と端だが、真ん中の部屋におととい入ってきた男性がまた――。
そのドアが目の前でそろりと開いた。
背中が丸くてゴマ塩頭の男性が、黙ってトイレの方へ歩いていく。ドアの隙間からちらりと中が見え、大荷物が壁に沿って積んであった。そして――臭い。橋桁のたもとや河川敷の段ボールハウスから漂うような臭気だった。
サイダーを飲みながら、携帯でニュースをチェックする。あの台風での行方不明者、残る一名が新たに発見されたという報せは出ていなかった。つまり打越はまだ土砂の中にいるわけで、胸は痛むが、同時に安堵もする。ニュースを遡ると、自分の名前が出てくる。
行方不明者、副島太一さん(49)。
PC画面にテレビを映す。ワイドショーをやっていて、今日もまた若手女優の不倫の話題を取り上げていた。〝人気のある清純派〟を引きずりおろし、よってたかって叩いてはみんなでドーパミンを得る。エンタメとしてこれを楽しみ共有しろとテレビに仕向けられているかのようで気持ちが悪い。
画面を切り替え、無料版のマインクラフトを開こうとして――やめた。あんなに好きだったゲームへの情熱がすっかり冷めていることに太一は戸惑っている。書斎にあったPCとスペックが違いすぎるし課金もできないからだと、ここへ来てから一度だけゲーミングPC席に行ってみた。プレイの感覚は覚えていて、最初こそ夢中になったものの熱は長くは続かなかった。
家族への思いにしてもそうだ。
遼子、康介。
記憶が戻った自分がすべきことはわかっている。家に帰る。帰りたいと思うはずだ。
遼子と康介が自分を捜していることも、加賀見から聞いて知っている。会いたくないわけではないし、心配をかけて申し訳ないとも思っている。
安心させてやるために電話を一本入れることも考えた。けれど、それを実行すれば自分が生きていることが知られて広まる。世間からどんな目で見られるか。不倫女優のように叩かれ、エンタメとして消費されるかもしれない。何より自宅に帰ることをイメージすると、徳子のあの台詞がよぎってどうしても踏みとどまってしまう。
――ただいま、は?
持ち金は、打越の部屋のカラーボックスの奥底にあった三万円と、一か八かの暗証番号(生年月日)で運よく銀行から引き出せた二十万六千円と、鈴木からの見舞金の五万円が全てだった。が、ここに来たとき一ヵ月契約の料金四万円を前払いしたし、一週間のあいだにコンビニでおにぎりやパンをちょこちょこ買っていて、封筒の中身は残りわずかだ。水没した財布の中の小銭も、電車賃やら何やらで使い果たした。
働こうかと求人も見たが、条件があうのは肉体労働ばかりだった。太一が持っていた数々の資格については、技術があっても証明書がなければ何にも生かせない。
いつか金が尽きて行き詰まる。そのときに自分から手を挙げるか、それ以前に周りから気づかれるか、打越の遺体が見つかるか。いつどのようにかは分からないが、自分のことはいずれ明るみに出る。でも、それは今じゃない。今は嫌だ。
でも、じゃあ、いつだ?
今日も堂々巡りのまま、太一はYouTubeを開いた。大食いの動画を何も考えずに流す。飽きたら次はドッキリ企画だ。こうしているうちに、時間の感覚を狂わすこの部屋にも夜が来て、いつの間にか眠り、朝になっている。昼のときもある。
行動を起こすなら早く起こさなければとは思いつつ、この部屋で熟睡できるようになり、YouTubeを眺めてやり過ごせるようになり、ケガをいいことにあと一日もう一日と先延ばししている。
翌朝、通路がにわかに騒がしくなった。
ドアを細く開けて様子をうかがうと、真ん中の部屋の前に、男性店員が立っていた。店員は部屋の中に向かって話しかけている。
「他のお客さんから苦情が出ちゃってるもんで」
中からも何か言い返しているようだが、内容までは聞こえない。押し問答のような状態がしばらく続き、やがて、ごま塩頭の男性が出てきた。退居に応じるようで、精算のために店員の後について受付カウンターへ向かう。あの大量の荷物をこれから運びだすのか。でもどこに。
太一より少し上、おそらくそう年の変わらない彼は、ここを追い出されてこれからどうするんだろう。かといって自分にはどうしようもない。
暗い気持ちでドアを閉めようとしたとき、向こう端のコミヤと目が合った。ドアを細く開けて、太一と同じように聞き耳を立てていたようだ。コミヤは鼻をつまんで、臭い臭いというふうに顔の前でひらひらと手を振った。
太一は強い力でドアを閉めた。
いつもいつも、誰かが誰かを見下して馬鹿にしている。そうして優位に立ったつもりで満足感を得て、自分はマシだとでも思うのか。こんな、日の当たらない狭い場所で、ぜんぜん自由じゃないのに自由を気取って。こんな底辺の世界でも序列をつくり、従わせようとする。
なぜか正の顔が浮かんで、太一は心を決めた。
打越の部屋から持ってきたボストンバッグを引き寄せて、中身をベッドの上にぶちまけた。
お金を節約するために打越の部屋から失敬してきた洋服、新たに買った肌着。健康保険証、銀行のカードとボロボロの通帳と印鑑、役所でとってきたばかりの戸籍謄本と住民票。そして運転免許証。記憶を取り戻したあと初めてこの免許証を見たとき、少なからず驚いた。この写真のうつりが特にそうなのか――
自分に似ている。
マリアの故郷の写真と手紙が入ったフォトスタンドは部屋に置いてきた。打越がもしも部屋に戻る日が来て、あれが無くなっていたらどれだけうろたえ悲しむだろうと思ったからで、引っ越し先と思われるマニラ市内の住所だけメモしてある。
打越のウエストポーチは一度洗ってしわくちゃだ。そのしわくちゃのポーチに、手続きに必要なものを詰め込んだ。鏡を見る。腫れの治まりほどではないが、あざも薄く目立たなくなっている。治るまでもう少し様子を見ようだなんて言い訳だった。
フィリピンに行く。そのための行動を今日これから起こす。