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太一は生きていると、信じたい気持ちがずっとあった。
あの日、一人だけ違うルートで避難を遂げたのではないか。本当は無事で、でも大事になって帰るに帰れないでいるのではないか。いやそもそも栃木に行ってさえいなかったのでは――という具合に。
可能性が限りなく低いことは頭では分かっていた。でも目をつぶっていた。判然としないあの日のどこかに、太一が助かる隙間があったのではないかと、なんとか望みをつないでいた。
それがすっぱりと断ち切られた。
須永の一人語りはほとんど宣告だった。耳をふさぎたくなるような恐ろしい事実が次々に明かされ、信じたくなくて苦しくて、たびたび休息をはさむ必要があった。悲しみ、悔しさ、怒り。入れ代わり立ち代わり湧きだす感情をどこにもぶつけることができず、遼子はただ呑みこむしかなかった。泣きわめくにはあまりにも疲れ果てていた。ジェットコースターのように感情が乱高下した三日の間に、心がすり切れてしまっていた。
一方で、ああそうか、そうなのか、と腑に落ちる感覚もあった。
生存可能とされる七十二時間が過ぎ、どこかで区切りをつけなければならないのだとすればそれは……自ら諦め決意するより、他者から客観的に突きつけられたほうが、残酷ではあってもまだ救われるのではないかと。自分に言い聞かせるようにそう思った。
電源を復旧させた従業員はけっきょく、避難中の太一の姿を見ることはなかったという。地下の機械室でおそろしい音――いわく〝山の唸り声〟を耳にし、無我夢中で一階に戻って外へ飛びだした。直後にあの土砂崩れが起きた。
車中で夜を過ごすこととなり、命からがら別館へ毛布と食料を取りに戻る場面もあったそうだ。ヘリによって最後の最後に救助された須永は、低体温と軽い脱水症状で一晩だけ入院し、退院したその日に連絡をくれた。そして遼子たちが泊まっていたホテルの個室を手配してくれ、夜遅くに対面した。
そうした須永の行動は、勤務先の方針に反するのではないか。心配になって尋ねても、須永は大丈夫ですと言葉少なに答えるだけだった。あと少し避難が早ければと謝罪もされたが、憔悴しきったその顔に向かって何を言うことができただろう。須永の口から語られたあの日の出来事の中に、謝らなければならないことは一つもないように思われた。
最後まで、助けようと心を砕いてくれた。
だから感謝の言葉を伝えた。嘘はなかった。
ただ、詳細を知ったことで、頭の中に浮かぶ景色も具体的になってしまった。行ったことも見たこともないあさひ屋の館内がありありと浮かび、そこを太一が、顔のわからないどこかの誰かと一緒に逃げ惑っている。聞こえるはずのない木の裂ける音が聞こえる。
もし太一が、エレベーターに閉じ込められたままだったとしたら。
そう思うと胸が張り裂けそうになった。
「大丈夫かい」
声がして顔を上げると、テーブルの向かいでクロスステッチをしていた徳子が心配そうにこっちを見ていた。
「あんまり見ない方がいいんじゃないの、それ」
徳子はそう言って、遼子が開いているグレーの表紙のA4ノートを目で指した。
このノートには、あの日から今日までの出来事を子細に記してある。といっても遼子の記憶は実はぼんやりしてしまっていて、特に栃木に行っている間のことは、起きたことや時系列が曖昧になっているため、かなりの部分を康介に補完してもらいながら書き上げた。
そう、康介。
栃木から横浜へ戻ってきた翌日から、康介は登校を再開した。無理する必要はないからねと伝えると、大丈夫、中島もいるし、と何でもないふうに答えた。再開して今日で三日目。昨日も一昨日もお弁当は空にして帰ってきたし、家での食事も普通に取っている。自室のベッドに入った後ちゃんと眠れているかがもっとも心配だが、それ以外の時間は穏やかで淡々としていて、遼子との会話についてはこれまでよりむしろ増えたぐらいだ。なのに……話をしている気がしない。表情がどんなににこやかでも、心はそこには無いような、別の遠いところにあるような不安な心地になるのだ。
今になって、須永の話を隣で聞かせてしまったことを悔やんでいる。
直接的に深く傷つけてしまった、悲しみと絶望を味わわせてしまった。親なら、避けねばならないことだった。そしてあのときでさえ康介は落ち着いた様子で、遼子の心身を案じ、須永にも気遣いを見せていた。
康介の言動に注意をはらいながらノートを振り返っていく。気持ちの塞がる出来事ばかりが並ぶなか、ああこれはひどかったと改めて思うのは、康介が見つけてくれたツイッターの投稿だった。
――この人、取り残されてるっぽい。
SOSを訴えていた画像付きのあの投稿は、デマだった。五十嵐が教えてくれたがツイッターでも炎上していて、まったくの事実無根であり、画像は何年も前の別の災害時のものだったそうだ。
一体誰が、何のために。
康介がどんな思いであの投稿に辿りついたと思っているのか。
目を閉じて必死に気持ちを落ち着けていると、固定電話が鳴った。
康介が通っている予備校の塾長からだった。
「お忙しい時間に突然すみません」
「いえ」掛け時計に目をやると五時過ぎだった。「先日はありがとうございました。お電話で失礼しました」
遼子は応えながらノートを引き寄せ、一昨日のページを開いて、塾長に電話連絡を入れたときの記述を指でなぞった。塾長へは事情を伝え、今週いっぱい塾を休む申し入れをしてある。
「康介くんは、その後どうですか」
「おかげさまで……学校へは通えています。塾のほうも来週から再開できたら、とは思っているんですが。ちょっとまだわからなくて。すみません」
「いえ、焦りは禁物ですから」塾長は少し言いよどんで、「実は、先ほど康介くんが当校に来ました」
「え。あ、自習にですか?」
「いえそうではないんです。私は席を外していたので窓口の者が対応したんですが、ちょっと気になる内容だったので念のため保護者様にご連絡をと思いまして」
「あの、どういう……」
「塾の費用に関する質問でした。今辞めた場合、これまで振り込んだ授業料は戻ってくるのかどうかと」
絶句した。
なんでそんなことを。お金のことなんて、康介に話したことは――。
いや、ある。栃木から戻ってきた晩、両親と康介と四人で夕飯をとっていたとき、徳子が遼子に質問した。
――パートはどうするの。
来週から再開しなくちゃとは思ってる、と遼子は答えた。会社にも里美にもそう連絡を入れてあった。徳子はあじの干物を咀嚼しながら続けた。
――今後のことを少しずつ考えてかないといけないねえ。太一くんのことは、もちろん諦めたわけじゃないよ。でも現実的には生活費やら何やらかんやら、さ。
正が「よさんか」とたしなめてその話は終わったが……。
黙っていると、受話器の向こうから塾長の声がした。
「今日康介くんがこちらに来ること、お母様はご存じではなかったですか」
「……知りませんでした」
「では費用について、お母様と康介くんとで話をしたということでは」
「ないです」
「そうですか」塾長はひと呼吸おいて、「ご事情があるかとは思いますが、康介くん、ここまで順調に伸びてきていますし、やる気も非常に感じられていたので、今辞めてしまうのはもったいないなと、私どもとしては思うんですね」
そう、本当にがんばっていたのだ。
「康介くんとお母様のお考え次第にはなりますが、私どもとしてはたとえば受講コースの見直しであったり、奨学金を視野に入れた志望校選びであったり、そういう形で極力ご協力してまいりたいと考えていますので、ご家族でよく話しあわれて、何かあればいつでもご相談ください」
電話を切ると、徳子がクロスステッチの手を動かしながら尋ねてきた。
「誰から? 塾?」
遼子は受話器に手を載せたまま「そう。事務的なこと」と答えた。テーブルに戻って、塾長から電話があったことをノートに記していく。シャーペンを動かしながら、気持ちを整えて切りだした。
「この前お母さんが言ってた生活費のことだけど」
「うん」あ、マスを間違えたとつぶやいて針を置く。
「少しずつ考えていかないとね」
「そうそう」リッパーで糸を抜きながら「大事なことよ。お父さんも心配してる」
「うん。ただ、お金の話は、康介の前ではしないほうがいいね」
「そりゃそうよ」徳子は手を止め、顔を上げて大きくうなずいた。「子どもの前でお金の話なんかするもんじゃないわ」
その子供の前でお母さんがあんなこと言ったから――そんな言葉を遼子はまた黙って呑みこむ。仕方ない。徳子はこういう人で、自分は娘で、五十年近くやってきた。今後気をつけてもらえればそれでいい、そう自分に言い聞かせた。
徳子がふたたび手を動かしながら聞いてきた。
「明日から本当に栃木へ行くの?」
「う、ん。そのつもりだったけど」
一般ボランティアの受け入れが始まっていて、遼子はできれば捜索に加えてもらいたいと考えていた。
「康ちゃんも、行くって言ってたね」
「どうだろう」土曜日だから学校は休みだが、連れていくのも置いていくのも心配だった。「どっちにしろ無理はさせないようにする」
「それがいい。あの年頃でこんなことになって。耐えがたいだろうよ。代わってあげたいくらいだ」
それもまた心からの言葉なのだった。
今日は正が町内会の寄合で遅くなるらしい。徳子は、あまりお腹もすかないし、夕飯は二人で簡単に済ますからとほどなく帰っていった。
遼子もそろそろ晩御飯の支度をしなければならない。テーブルに手をついてのろのろと立ち上がった。熱帯魚に餌をやらないと、と、水槽のほうに目をやる。
明るくて、静かで、がらんとしていた。
やけに広く感じられた。
康介と二人になってしまった。いや、こんなの今だけだ。きっとまた三人になる。三人一緒に、この家で暮らす。
――本当に?
本当に。
本当だ。
遼子は静かに頭を振った。振っても振っても消えてくれない考えを頭の隅に残したまま、操られるようにして夕飯を作る。康介のためにできることはこれぐらいだから、せめて好物の鶏の唐揚げとコールスローサラダにした。もう一品何にしよう。冷蔵庫のドアを開けて棚に並ぶ食材をひと通り眺めてもなかなか決められず、ぼんやり立ち尽くしていると、閉め忘れの警告音がピーピー鳴りだし、つられたようにLINEの通知音がポコッと鳴った。
ドアを静かに閉めて、カウンターの携帯にそっと手を伸ばす。
康介からだった。
――今日は八時頃帰る。
ずいぶん遅い。どこか寄り道でもしているのだろうか。お友達と一緒だといい。中島くんとファストフード店やファミレスに行って話したり笑ったりしていてほしい。
康介からのメッセージは続いた。
――それと、さっき香田さんから連絡が来た。
香田さん。誰だったか。
ノートで確かめると。康介がツイッターのアカウントを見つけてダイレクトメールを送っていた彦川町の消防団員、香田英司という男性だった。
ほどなくして、その香田からのメッセージが転送されてきた。
虚ろな目で数行にわたるメッセージに目を通す。
その中の一文を、遼子は二度読みかえした。
――あの台風の日、康介くんのお父さんに会ったかもしれないと言っている人がいます。