翌日は、香田が新谷駅の改札口まで迎えに来てくれた。
香田は、ラグビー選手のようにガタイがよく、真っ黒に日焼けしていた。太い右腕を康介に向かって突きだして分厚い手を開き、ややハスキーな声で言った。
「やっと会えた。初めましてだね」
康介も手を出してひょこりと頭を下げた。
「初めまして」
「よろしく」香田は康介の手を両手で掬うように握って、力強く上下に振った。そして右手でぽんと康介の左肩を叩くと、両手を体の前で結び背すじを伸ばした。
「康介くんもお母様も、大変な思いをされて今日ここにいらしてると思います。自分にできることは少しかもしれませんが、全力でやりますから、何でも遠慮なく言ってください。今日はよろしくお願いします」
指先をそろえてのお辞儀を受けて、「こちらこそ」と遼子は自然と声が出た。
「ありがとうございます。お世話になります」
深々と頭を下げた。ありがたさに胸が詰まる思いだった。
促されて、ロータリーに停めてあるという車に向かう。遼子の茶のボストンバッグを香田が持ってくれ、駅舎の通路を並んで歩きながら康介を見上げて感心したように言った。
「康介くんは背が高いな」
「いやそんなに」
「何センチ?」
「一七五です。今はもうちょっと伸びてるかもだけど」
「まだ伸び盛りか、いいなあ。俺ももうちょっとタッパがあればな」
一六九で、せめてあと一センチ欲しかったと嘆いてみせる。「なんだよ脚も長いじゃないか。後ろじゃ狭いな」そう言って黄色い軽自動車の助手席を勧めた。遼子は運転席の後ろに乗り込んだ。
香田がシートベルトをしながら助手席と後部座席を交互に見た。
「目的地の『居酒屋どんちゃん』までは、ここから三十分ほどです。山道に入るとちょっと揺れますけど、二人とも車酔いは大丈夫ですか」
はい、と、二人で声が揃った。
「息ぴったり」香田は白い歯を見せて笑い、車を発進させた。ぐるりとロータリーを回る。「どんちゃんは、うちが野菜を卸してる先なんです。あ、うち、農家やってて」
「アスパラ農家」康介が小さくつぶやいた。
「お、インスタ見てくれたの」
「はい。ブログも」
「そっかあ。じゃ、がんばって更新しなきゃだな。最近サボり気味だ」
「めちゃくちゃ忙しそうだなって」と康介。
「収穫期にあの台風だったからね。今日の待ち合わせも農作業の合間って感じで、この時間になっちゃって」
すいません、とミラーごしに頭を下げた。
「とんでもない」遼子も頭を下げ返し、「そんなお忙しい時期に、本当に」
顔を上げ、車窓に目を向けてハッとした。見覚えのある景色だった。滞在三日目に須永と面会したあのホテルの前を過ぎる。奥まったところに教会の十字架も見えた。じきに新谷警察署の建物も現れるだろう。ふと、犬を連れて散歩していた人のことを思いだした。この地に住んでいるだろう高齢の男性。
「あの」と遼子は聞いた。「香田さんのお宅は大丈夫だったんですか」
「おかげさまで家のほうは。畑はだいぶやられちゃいましたね。アスパラは湿害に弱いんですよ」
そうだったのか。
「大変でしたね……」申し訳ない気持ちになった。彼もまた被災者であることを失念していた。
「いやいや自分なんか全然。いや全然てことはないけど。ただそんな感じで、畑のことやら消防団の出動やらでずっとバタバタしてて、康介くんからのDMにすぐ気づけなかったんです。悪かったね」
いえ、と康介がかぶりを振る。
「これから行くどんちゃんも、台風のあとずっと閉まってて――あ、それは台風とは関係なくて季節外れのインフルエンザにかかってたらしくて、でもそろそろ再開すると昨日電話があったんです。で、雑談してたら、康介くんのお父さんの話になって。写真を送ってみたら、〝あの日、店に来たかもしれない〟っていうんで」
すぐに康介へ一報を入れてくれたという。それ以上の詳しいことは香田もまだ聞いていないらしかった。
車は川沿いの、信号のない道を進んだ。五十嵐の車から見たときは濁流があふれそうだったあの川が、今は嘘みたいに澄んで穏やかに流れている。
川を渡り、山道を上りはじめると、車窓の景色は一変する。民家や田畑が減って、木々が鬱蒼としてくるにつれ、緊張感がつのっていく。着いた先でどんな話を聞けるのか。聞いたところでどうなるのか、分からないし想像もつかなかった。
そっと康介の横顔を見る。
昨日は八時少し前に帰ってきて、一緒に夕食をとった。康介はおいしいといって唐揚げは完食したが、箸の進みは遅かったし疲れた顔をしていた。食後に須美江からもらったさくらんぼを出しながら、遼子はさりげなさを装って塾の費用のことを尋ねてみた。康介は「ちょっと聞いただけ」と答え、八時まで何をしていたかについても「まあいろいろと」とぼやかした。
そろそろ着きますと香田の声がした。
立木が途切れ、視界が開ける。香田は速度を落としてハンドルを切り、道路脇の駐車場に砂利を踏んで入っていった。正面に『寄ってけドロボー。居酒屋どんちゃん』と色褪せた看板が立っている。香田は六台分ある区画の、一番店に近い場所に頭から停車した。反対端には白い軽トラックが駐まっている。
車を降りると草木と土のにおいがして、いっしゅん身がすくんだ。とっさに康介を見たが、向こうをむいていて顔が見えない。
店の外観は、いつだったか家族三人で入った旅先のお蕎麦屋さんに雰囲気が似ていた。ひっそりとした木造平屋の古民家で、「こういう店が旨いんだよ」と先陣切って暖簾をくぐる太一の背中が思い出された。
「行きましょうか」
香田が曇りガラスの引き戸を開けて中へ入り、遼子、康介と続いた。
「ちはー」
香田は店の奥に向かって声をかけた。
「昭三さーん。いるー?」
厨房の奥のほうから大柄な男性がのそりと現れた。海坊主という言葉を彷彿とさせるスキンヘッドで、幾何学模様の入った赤いシャツに、カーキ色の七分丈パンツを穿いている。
「おう来たか」低い声で昭三は言った。
「久しぶりですね。一週間ぶり」
昭三がフロアに出てきて、遼子の顔を見、次に康介の顔を見た。その瞬間「なるほど」とつぶやいた。
「息子くんか」
「わかる?」香田が前のめりになる。
「そっくりだ」
遼子は思わず康介を見た。康介は緊張した面持ちで大きな瞬きを二回した。
「てことは」香田は興奮気味だ。「あの日この店に来たのはやっぱり康介くんのお父さんだったんすね」
香田はそこで思いだしたように、それぞれを紹介してくれた。
男性の名前は木崎昭三、この店を始めて五〇年近くになるという。
香田は康介の耳に口を寄せた。
「ここへ来る人はみんな昭三さんて呼んでる。木崎さんて言うとなぜか怒るんだ。看板見て分かったと思うけど、かなりの癖スゴ。頑固者」
昭三にギョロ目を向けられると「でもいい人だから」と付け加え、「座って座って」と自分の店のように遼子たちに椅子を勧めた。
店内を見渡す。日焼けした壁の至るところにメニューの紙が貼ってあり、左斜め――出入り口から一番遠い角にお手洗いがあり、その上の天井に近いところに棚板が渡されて小型のテレビが置かれている。
座席は、遼子たちのいる席を含めて四人がけテーブル席が四つ、駐車場側の壁に沿って二人がけテーブル席が二つ、厨房を臨むカウンター席に赤い椅子が五つ並んでいる。
遼子の前に香田が座って、その肩越しに、厨房で何かしている昭三の姿が見える。
ほどなくして昭三は、コップ三つと瓶三つ――ウーロン茶二本とバヤリースオレンジを一本、お盆にのせて戻ってきた。オレンジジュースは康介にかと思ったら、香田の分だった。
「こいつは野菜のこと以外はバカ舌なんだ」
「口が悪いな。甘い物が好きなだけですよ」
昭三はふんと鼻を鳴らして、栓抜きで手際よく蓋を開けていく。二本目のウーロン茶に手をかけて動きを止め、「あんたもジュースがよかったか」と康介に聞いた。康介が横に首を小刻みに振ると、蓋を開けて八割ほど注ぎ、コップの横にドンと瓶を置いた。そして椅子にゆっくり腰を下ろしながら遼子と康介をギョロリと見た。
「昼めしは食ったのか」
「あ、自分は家で」と香田が手を挙げる。
「お前には聞いてないよ」
「食べました」と遼子は答えた。「来る時に電車の中で。ね」
右隣の康介に同意を求めると、こくりとうなずいて応じた。
「ならいいが。何か出そうにも、あいにくすっからかんでな」昭三は厨房のほうを顎で指してからぼそっと言った。「正直、今日あんたらと会うのは気が進まなかったんだ」
「なんで」と香田。
「ご亭主の顔がよ、写真で確認はしたけど、いまいち確信が持てなかった」
「だから昨日は詳細を教えてくれなかったんですか」
「当たり前だ。期待さして違ったらどうする」
香田に言われてまとめておいた写真や動画を、念のため携帯で見てもらったが、間違いないという。昭三は言った。
「行方不明になってるのがあさひ屋の客で神奈川の人間だってのは、ニュースで見て知ってた。娘とも話して、気にはなってたんだよ。でもまさかと思ってな。〝東京は葛飾柴又から来た〟って言ってたし」
「えっ主人がですか?」咄嗟に遼子は聞いた。
「ああ」昭三はうなずいて、「気ままな一人旅の最中だって言ってた」
「それは」そうかもしれないが、「でも葛飾柴又って――」
康介がつぶやいた。
「寅さん……」
「へえ若いのによく知ってるな」昭三は腕組みをして目をつぶった。「あの日は閉店間際に飛びこんできたんだよ」
「何時頃ですか」遼子は急いで茶のバッグからノートとシャーペンを取りだした。
「七時、十五分くらい前だったかな。七時には店を閉めるつもりでいたんだ。早く避難してこいと娘がうるさかったし、孫娘の誕生日でもあったし。最後の客が飲んでた酒も残り少なくなって、やれやれってとこだった」
「主人は誰かと一緒ではありませんでしたか」
「いや。一人だったね」
「そうですか……」部屋にいたもう一人の男性とは、この時点でもまだ合流していなかったのだろうか。
昭三は続けた。
「俺は言ったんだ、今日はもう店じまいだって」
「主人は何て?」
「一杯でいいからって。俺は馬鹿言うなって返した。こんな嵐の日に、どこの馬鹿がほっつき歩いて一杯ひっかけようってんだって。そしたらニカッと笑って言ったんだ」
――本当に馬鹿だ。大馬鹿ですね。
「面倒くせえ奴が来たと思ってたら〝一杯だけ、三十分で帰るから〟って、するっと入ってきちまった。追い出すのもナンだし、宿はあさひ屋だっていうから帰りは歩いて五分だし、もう、じゃあしょうがねえって」
昭三は、遼子の後ろの二人がけテーブルの、出入り口から一番近い席を指さした。
「あそこに座って、中瓶を頼んだ。〝できれば軽いツマミもほしい、地元名物の何かがあったらそれがいい〟っていうから、俺は話が違うじゃねえかっつって、きゅうりとらっきょうのたまり漬けを出した。それだけじゃなんだから、ニッコウイワナの塩焼きも出してやってよ」
「食べていましたか」
「ああ、旨い旨いってぺろりと。今まで食べた川魚で一番旨いって言ってたな。この時期のニッコウイワナはたしかに脂がのってて旨いんだ。あの顔見たら、面倒でも出してよかったと思ったね」
「そうですか」おいしいものを食べるとき、太一は少し上を向いて、目をつぶって噛み締める。その光景が目に浮かぶようで、たまらなくなった。
昭三は続けた。
「華厳の滝に行ってきたって言ってたな。水量がすごかったって。俺が〝そりゃそうだろう嵐の中の滝なんざ。どこの阿呆が見に行くんだ〟って返したらまた嬉しそうに笑って」
嬉しそうにしていた、一人寂しく過ごしていたわけではなかった、それが分かっただけで胸がじんわりと温かくなっていく。
そういえば、と昭三は曲げた人差し指で空を叩いた。
「あいつとも話してた」
「あいつ?」と遼子。
「うん。一人客で」
昭三は、人差し指で遼子を指した。
「ちょうどそこに座ってた」
「さっき言ってた最後のお客さんですか」
「そう。帰り支度を始めてたくせに、座り直して追加注文してきたんだ。それも、同じ中瓶。持ってったらあんたの亭主に向かって瓶を掲げて〝おかげで延長戦だ〟とか何とかいって。ご亭主も乾杯のポーズで応えてたな」
鼓動が速まっていくのがわかった。もしかしたらという思いが抑えられない。はやる気持ちで遼子は聞いた。
「それから?」
「一緒にテレビ見あげて、話したり笑ったりしてたな」
「打ち解けていた?」
「かな。ただ俺は厨房で片づけがあったから、ずっとお守りをしてたわけじゃない」
昭三は胸ポケットから携帯を取り出し、何かを確かめてから顔を上げた。
「お愛想したのが七時二十五分。ちょうど娘から電話が来たんだ」
「もう一人の男性もそのときにお会計を?」
「ああ。店仕舞いだったからな」
「あの」思わず体が前のめりになった。「その男性がそのあとどこに行ったかわかりますか」
もしかしたら一緒にあさひ屋へ向かったのではないか。
部屋にいたという身元不詳の男性なのではないか。
けれどその推測は外れた。昭三は言った。
「すぐそこの、工事現場の事務所に泊まるって言ってたよ。老人ホームか何かを建ててるんだ」
軽い落胆はあったが、しかしすぐに別の希望を見つけた。
あの日の太一のことを、より詳しく知る人に会えるかもしれない。話を聞けるかもしれないのだ。
香田が口を挟んだ。
「その工事現場、今日通ってきましたよ。まあまあ距離があるけど、雨の中あそこまで歩いて帰ったんですか」
「なあ。昼の定食も時々一人で食べに来てた客なんだが、いつもニッカポッカなのにあの日は私服だったし、夜来たのも初めてだったから、珍しいなって声かけたんだ。そしたら、足場やら資材やらが吹っ飛ばないように見張っとけと言われたと。大丈夫かなと思ってね。事務所って言ってもプレハブだろ、お前が吹っ飛んだら世話ないぞってね。言ったら苦笑いしてたけど」
「あの」遼子は尋ねた。「その方のお名前はわかりますか」
「わかんねえな。名札は付けてなかったし、いつも一人だったから。でも、あれに似てるな。脇役でよく見る俳優。味のある」
ああ名前が出てこねえと目をぎゅっとつぶっている。
「ほら、いい人そうに見えて実は悪かった、みたいな役をよく――」
「リリー・フランキー!」香田が解答ボタンを押すみたいに机を叩いた。
「違う」
「野間口徹!」
「もう少しえびす顔っていうか」
「温水洋一!」
「あれだよ、このまえ『どんでん返し刑事』に出てた。ケーキばっか食ってる万年ヒラの」
「小西治孝!」
「それそれ。ああすっきりした」
その後、小西治孝の画像の中でも、特にその男性に似ているネット画像を昭三に選んでもらった。丁重に礼を言い、店を出る。
昭三は二言三言、香田と仕事の話を交わしてから、遼子と康介の間あたりに目を落として言った。
「無事に会えたら、あん時は追い出して悪かったと伝えてくれ。そんで三人ででも二人ででも、また食べにくるといい。イワナでもアスパラ焼きでも何でも食わしてやる」
工事現場は、来た道を一キロほど戻った場所にあった。
少し過ぎたところの道路端に車を停め、道の反対側に渡って香田を先頭に入り口へ向かう。白い仮囲いが長く続き、途中掲げられていた看板の商号または名称欄に「介護付き有料老人ホームひこかわ」とあった。施工主は、楢坂建設工業。
囲いの途切れたところから敷地内に入っていく。正面奥に二階建ての小さなプレハブがあり、左手には足場の組まれた三階建ての大きな建物があった。その前の広いスペースには様々な資材が積まれており、奥には大きなトラックが一台駐まっている。
「さてどうしますか」
香田が腰に両手を置いて言った。立ち入りの許可を得ようにも、人がいなかった。遼子は敷地内をぐるりと見まわした。
「皆さん建物の中で作業されているんでしょうか」
遼子の言葉に香田はうなずいた。
「直接ピンポンしてみますか」
三人でプレハブに向かうと、砂利を踏む音が背後から近づいてきて、こちらが振り向く前に「ちょっと」と声をかけられた。ヘルメットから金髪をのぞかせた、黒い鳶服の男性が大股で歩いてきて遼子たち三人をじゅんぐりに見る。
「何か用すか」
口を開きかけた香田を、遼子は視線でさえぎった。おんぶに抱っこというわけにはいかなかった。
「勝手に入ってすみません」遼子は名を名乗り、夫が土砂災害で行方不明になっていること、当日関わった人を探して訪ねてきたことを伝えた。
「はあ」男性は怪訝そうに眉根を寄せている。
「この方なんですけど」
遼子はバッグから携帯を取りだして、小西治孝の画像を見せた。
「この方、というか、この方に似――」
言い切る前に男性は「ああはいはい」と先んじた。
「打越ね」
「打越さんとおっしゃるんですか」
「おっしゃるんですよ」男性は携帯を覗き込んだ。「打越にしちゃ、ずいぶんしゃきっとしてるな」
本当にいた。
遼子は二人を振り返った。香田が小さくガッツポーズをし、康介は目を開いて大きく頷いた。
遼子は男性に向き直った。
「打越さん、今日はこちらにはいらっしゃいますか。台風の日は無事に戻られたでしょうか」
すると男性は真顔になって押し黙った。
「どうした」後ろを通りかかった別の男性が足を止めた。
金髪男性は遼子に目を据えたまま答えた。
「打越に会いたいんだってよ」
「打越?」
「会って話を聞きたいって」
「へえ」とこちらはニヤついている。「ここはどこってか」
男性がヒャヒャと声をあげて笑うと、プレハブから長身の男性が出てきた。
「お前ら何油売ってんだ」
追い払う仕種で二人を仕事に戻すと、男性は遼子たちを見下ろすように「どちら様?」と聞いてきた。
遼子が先ほどの説明を繰り返すと、男性はすっと目を細めた。
「目的は、何?」
「ですから、あの日のことを詳しく知りたくて。それだけです」
「――打越は今ここにはいないよ」
「お休みということですか」
「ああ」
「次の出勤日はいつでしょう」
「さあ。わからないし、わかってても話さない」
男性は改めて三人を睥睨した。
「個人情報を見ず知らずの他人に話すわけにいかないんでね」
それは……そうだった。トントン拍子に打越につながったから、つい期待してしまっていた。
肩を落として敷地を出ると、明るい声で康介が言った。
「十分じゃない? 打越さんの存在が確認できたんだから」
「そうですよ。一歩前進だ。次の手をまた考えれば」香田も励ました。「にしてもなんか妙だったな。妙っていうか、嫌な感じっていうか。普段付き合いのある職人さんは気のいい人が多いんだけど」
たしかに、不躾な訪問でこちらも悪かったが、気持ちの良い対応とはいえなかった。特に長身男性のあの威圧的な態度。敵意すらなかったか。
まるで何かを警戒しているみたいな。
車に乗り込もうと遼子がドアに手をかけたとき、ペタペタと足音が近づいてきた。振り向くと、制服姿で事務サンダルの女性が、しきりに後ろを振り返りながら小走りでやってくる。
小柄な若い女性だった。遼子の前まで来ると、息を切らしながら、「あの、事務所の中に居て、話がよく、聞こえなかったんですけど。打越さんにご用事が?」
「はい」
「お知り合いですか」
「いえ。面識はないんですけど」
かいつまんで事情を話す。
「打越さんに直接お話を聞けたらと思ったんですが、ご迷惑だったみたいで。すみませんでした」
「そう、ですか」
女性は考えるような顔になって、後ろを肩越しにまたチラと振り返った。そして香田、康介と順番に顔を見てから、遼子に向き直って言った。
「実は打越さん、今、入院してて」
「えっそうなんですか」
女性がこくりとうなずく。
「入院先は彦川総合病院です」
「え、と、あなたは」
「私はただの事務員です。派遣で今月来たばかりで、この現場のことも打越さんのことも正直よく知らないですけど、でも、打越さんかわいそうで」
「かわいそう?」
「みんなから、なんていうか軽く扱われて、時々――」
女性がはっと後ろを振り返った。道路に人が出ていた。さっきの金髪の男性だ。手に誘導棒を持ち、「オーライオーライ」と腕を回しはじめる。
「失礼します」女性が頭を下げ、走って戻っていく。
ピー、ピー、と音をたてながら、大型トラックが敷地からバックでゆっくり出てきた。
金髪の男性が、道路の左右に目をやりながら、一瞬じろりとこっちを睨んだ気がした。