――誠に勝手ながらお母さんはこの連休、海外に行ってきます。
康介にLINEでそう伝えると、グッドスタンプとメッセージが返ってきた。
――いいじゃん! どこに、誰と?
一人でマニラ、と答えると、今度はすぐに電話が来た。
「どういうこと」
その声は暗かった。まあ、そうだよなと思いながら事情を説明した。
マルコの動画の中に太一に似た人がいたこと、太一は生きているのではという考えをやっぱり捨てきれないこと。
康介は一時間もしないうちに帰ってきた。埋め合わせは必ずすると謝って家庭教師先から早めに帰ってきたという。
「大丈夫なの?」遼子が問うと、康介は目を険しくした。
「それこっちの台詞」コートを脱いでスタンドにかけて、立ったまま続ける。「何なのマニラって。しかも一人で。最近マニラで日本人が殺された事件があったのとか知ってる?」
「うん」。と言っても行くと決めた後に調べて知った。正直怖い。でもこの二日間考えに考えて決断した。
「飛行機の予約ももうしちゃったわけ」
「それはまだ」向こうでの時間をなるべく確保したいから、金曜日の午後に半休を取り、その日の最終便で行くつもりだ。が、今は伏せておく。「明日会社に行ってお休みが取れてからと思ってる」
「行ってどうしようっての」
「会って、確かめる」
「母さんは、その人が父さんかもしれないって本気で思ってるの」
「思ってる」
康介はため息をついて椅子を引き、どさっと座った。
「その人が父さんだったら、とっくに家に帰ってるはずだろ」
「記憶が戻ってないんだと思う」
「…………」
「訳もわからないまま天涯孤独だと思いこんでるんだとしたら、助けてあげなきゃ」
「おかしいって」康介は首の後ろを右手で揉んだ。「だいたい名前がぜんぜん違うじゃん」
康介は足元の黒いバッグから携帯を出してテーブルの上に置き、マルコから送られてきた名刺の画像を表示した。遼子がさっき康介に転送したもので、名前、住所、電話番号、メールアドレスが記載されている。
康介は画面をトンと指先で叩いた。
「Masaya Simula。副島太一にも打越惣一郎にも、一文字もかすってもない」
「だから、さっきも言ったけど」
「聞いたけど」怒ったように言う。「ローマ字ならシムラはShimuraのはずで、だからニックネームの可能性があるっていうんだろ? タガログ語でMasaya は幸せ、simulaは始まりだっけ?」
「そう。会話のきっかけになるとか名前を憶えてもらえやすいとか、ニックネームを使う目的はいろいろあるみたい。記憶を失くした人が新天地で心新たに、って考えてもおかしくないと思う」
「それもKTVのホステス情報?」
「ホステスじゃなくてタレントっていうんだって」
「どっちでもいいよ」
「教えてくれたマユミさんの名前も、タガログ語で〝上品〟て意味なんだって。言葉って面白いね。それにほら、これ」
遼子は自分の携帯で、名刺の裏面の画像を表示した。康介にももちろん転送済みだ。
12/1/25の日付と、「お金持ち」「三年前に日本からマニラ」「家族なし」のタガログ語が書きこまれている。
名刺画像をテーブルの真ん中――康介の携帯の隣に置き、遼子は顎のあたりで手を合わせた。
「あの台風の半年後ぐらいに渡ったということなら、時期的にもぴったりだし」
「その時期マニラに渡った日本人がどれぐらいいると思う? それにこの、ペンで黒く塗りつぶされてる部分は何」
「これは」と画像を覗き込んだ。単語が一つ消されてるように見える。「何だろうね。マユミさんが消したのかな」
「あのさ。あんま言いたくないけど、こういうの、何回目よ」
「…………」
「前回は二年ぐらい前だっけ。飛び出すみたいに石川まで出かけていって、しょんぼり帰ってきて丸二日寝こんだよね」
「……うん」
「あのときさんざん話し合ったじゃない。気持ちはわかるけど、やっぱりどこかで線引きが必要じゃないかって。そうしないと母さんの心がもたないから、だから筆跡のことももう考えないようにしようって」
打越の部屋で見つかったメモとその文字のことを、そのとき初めて打ち明けたのだった。康介はうなだれた。
「やっと落ち着いてきたと思って少し安心してたのに」
「ごめん……」
「別に、謝ることじゃないけど。俺だってつい――捜してるし」
その言葉に、胸がぎゅっと苦しくなる。
康介は長く沈黙したあとで自分の携帯を引き寄せた。
「でも電話もつながらないんだろ?」
そういって目の前で、国番号63と名刺の携帯番号をタップした。
この番号は現在使われておりません、と英語で流れてくる。これぐらいの英語ならわかる。一度では無理だったが、二度目で聞き取れた。信金時代は英会話にも通ったのだ。あまり実にはならなかったし使う場面もなかったけど。
康介は通話を切って顔を上げた。
「メールは?」
「送ってみたけど、返事はまだ」
遼子はかぶりを振った。先方に事情をきちんと伝えようと、一生懸命――被災で太一と離ればなれになってから今日までのことや、動画でシムラを見つけてもしやと思ったことなどを綴ったら、かなりの長文になってしまった。
その文章に目を通して、康介は眉間にしわをよせた。
「もうちょっと練ったほうがよかったんじゃない。特に最後」
――できればお会いできないでしょうか。それが無理でしたら、電話でお声を聞かせていただくだけで結構です。何卒よろしくお願い致します。
「何卒って言われても。こんなメール来たら怖いよ」
「やっぱり……?」送る前に相談すればよかった。
「マユミって人にメールしてもらって、新しい電話番号を聞いてもらったら? そこにこっちからかけて、つながりさえすれば声で一発で分かるんだから、わざわざ行かなくて済むじゃない」
康介は端から別人だと思っているようだ。
マユミに電話番号を聞いてもらえるかどうか、尋ねるメッセージをマルコに送った。返事を待っている間に康介がマルコの動画を再生する。
「この白Tの男はたしかに父さんに似てはいるよ? けど、よく考えてよ。たまたま動画に映りこんだこの人が、こんな短期間で誰だか分かって、住所も分かったなんて、そんなうまい話があるわけない。この話全部が母さんのDMをきっかけにした詐欺の可能性まである」
「考えたくないけど、かもしれないね」
「なんでそんなに落ち着きはらってるの」
「落ち着いてはいないよ。いろいろあって――疲れてるのかな」
「何だよいろいろって」
「そりゃあ、いろいろよ」陽菜の妊娠とか傑の引越計画とか正のお茶こぼしとか徳子の電球とか……三つ葉とか。挙げてみると我ながら情けなくなる。
康介は冷蔵庫からビールを取ってきて片手でプシュッと開け、喉をならして飲んだ。まだ言ったことはないけど、開け方も飲み方も太一にそっくりだ。マルコのアカウントを教えてというので教えて、遼子は向かいで作り置きの麦茶を飲んだ。気づけば喉がカラカラだった。
康介はビールを片手に黙々とスマホを操作していたが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「母さん、旅慣れてるわけでもないじゃない。俺も人のこと言えないけどさ」
これまでの人生、国内旅行はそこそこしてきたが、海外には一度しか行ったことがない。信金時代に同僚たちと台湾に行ったのだが、そのときは旅好きの子が企画から予約から現地でのことまですべて仕切ってくれたので、遼子はただついていけばよかった。が、今回はそうはいかない。
「せめて俺がパスポート取るまで待てないの」
家族でパスポートを作ったのはハワイ行きを計画した八年前。大人は十年有効だが、子どもは五年ごとの更新だ。つまり康介のパスポートだけ失効している。
「ごめん」と遼子は言った。「一緒に来てくれたら心強いけど、待ってる間に怖気づいちゃいそうで」
「それならそれでいいじゃん。他の方法をまた考えようよ」
「後悔しそうで怖い」
あのときも、横顔の太一をそのままにしてしまった。すぐに帰るだろうと甘く考えて一人で行かせてしまった。今回もそうかもしれない。機会に〝今度〟があるかはわからない。
マルコから返事が来た。
――マユミさんに聞いたんですが、ちょっと難しいようです。お役に立てずごめんなさい。先日お伝えしたように、私がマニラに行って調査することは可能ですから、必要なら言ってください。
遼子自らマニラへ行くことは、決断したばかりでマルコにまだ伝えていなかった。
お礼とあわせて伝えると、ややあって返信があった。
――従兄がマニラの隣、ルソン市に住んでいるので聞いてみましたが、シムラさんのマンションがあるあたりは、あまり治安が良くない場所だそうです。リョウコさんのことが心配です。私が案内役をするのがよいと考えますが、どう思いますか?
――マルコさんありがとうございます。お申し出はとても嬉しいですが、急な話で、今週末に行こうと考えているんです。今週、ティムティム島はお祭りですよね。年に一度のお祭りを邪魔するわけにいきません。過去のインスタ投稿から、マルコさんや島の方々がどれだけお祭りを大切に思っているかわかっています。一人で大丈夫。お気持ちだけ頂戴します。本当にありがとう。
このやり取りを、治安のくだりは省いて口頭で康介に伝えた。すると康介は、たしかに悪い人じゃなさそうだと、自分の携帯を見せてきた。マルコのフェイスブックだった。インスタのプロフィールからリンク先に飛んで、友達申請をしたらしい。遼子はフェイスブックをやっていないから、この画面――マルコの顔を初めて見た。
康介は言った。
「ビーチで働いてるみたい。お姉さんは小学校の教師だって」
「へえ」自動翻訳されたメッセージとインスタの風景写真だけで想像していたマルコの人物像が、ぐんと立体的になった気がした。プロフィールのこの画像、何て明るいいい笑顔だろう。そして年齢は思っていたよりずっと若かった。
康介に促されて、シムラにもう一度メールを送ってみた。今度はかなり簡潔なものにしたのだが――。
「康介どうしよう」胸のあたりが重くなった。「エラーで戻ってきちゃった」
「ブロックされたか。となると現地に直接会いに行くしかなくなったわけだけど」
康介はグーグルマップを開いて名刺の住所を打ち込み、ストリートビューを表示した。
1205 sentro Avenue, Marundi, Manila, Metro Manila, Philippines
ビルや商店が立ち並ぶ通りで、日本のコンビニの看板も見える。方向を変えると、工事現場があり路上の屋台があり、人の往来があって、目当てのものと思しき建物が現れた。
そのエントランス部分の画像に、リョウコは顔を近づけた。
「これがシムラさんのコンドミニアムかな。えーと、MARUNDI CONDOMINIUM 38」
玄関上部にその名を冠した看板があった。さらに上方を見ると、かなりの高層であることがわかる。遼子は言った。
「コンドミニアムは日本でいうマンションらしいけど、ホテルみたいな入り口だね」
「そう。で、この入り口が難関ぽい」
「どういうこと」
「セキュリティが厳重らしい」
「そうなの?」画像をうんと拡大して目を凝らしたが、エントランスの中までは見えない。
「一般的に、フィリピンのコンドミニアムの入り口には、セキュリティガードとフロントスタッフが二十四時間常駐。ちなみにセキュリティガードは銃の所持がデフォルト」
「えー……」オートロックは想定していて、他の人に紛れれば入れるだろう程度に考えていた。
康介は続けた。
「居住者を訪問する場合、フロントでの手続きおよび身分証明書の提示が必要で、コンドミニアムによっては居住者に事前の確認連絡が行くって」
手詰まりだった。本名で送ったメールの失策が痛すぎた。
ついに見つけた。
マニラの街中、雑踏の中に、太一を見つけてしまった。やっぱりそうだったんだ。動画に映っていたあの男性は太一だった。
太一は一人で歩いていた。
後ろ姿だけど、それが太一だということは分かる。不安そうで悲しそうな顔をしていることも、記憶をなくしていることも遼子には分かっていて、ふらふらとおぼつかない足取りで先を行く太一のことを追いかける。渋谷のスクランブル交差点みたいなひどい人混みで、太一の背中は時々ふっと紛れて消える。遼子は太一の名前を読んで必死に追いかけるけれど、距離は一向に縮まらない。足が、何かにからめとられているかのように重く、思うように前に進めない。声もかすれて、大きな声が出ない。待ってと遼子は叫ぶ。待って太一。
太一。
はっと目を覚ますと、知らない場所のベッドの上だった。
いや、昨日の深夜にチェックインした空港そばのホテルの部屋だ。遼子は携帯を引き寄せて時間をたしかめた。六時四十二分。
体を起こして両手で顔を覆う。冷房は効いているのに汗びっしょりで気持ち悪い。
昨日は朝からずっと緊張状態だった。飛行機に乗るまでは時間に間に合うかどうかが心配で、乗ったら今度は無事入国できるかどうかが、スリや強盗に遭わないかが、計画を予定どおり実行できるかシムラに会えるか太一に会えるか――とにかく心配でずっと肩に力が入っていた。時差は一時間なのに、外国に一人という恐怖心もあいまってうまく眠りにつけず、明け方ようやくうつらうつらしたらあの夢を見た。以前よく見ていたけど、最近見なくなっていた夢だ。
LINEで康介におはようのメッセージを送ると、速攻で返事がかえってきた。どれだけ心配されているのだろうと思わず苦笑する。徳子には、この連休は用事があって家を空けるとメールで伝えた。了解、とだけ返ってきた。
ゆっくりはしていられない。時間は限られている。
お腹は空いていなかったが軽く朝食を取り、荷物をまとめてチェックアウトした。康介が調べて取ってくれた四ツ星ホテルだった。満喫できず残念だ。
黒のリュックサックを前に抱え、中型の青いスーツケースを引いて表に出ると、もわっとした熱気に全身が包まれた。一気に汗が噴きだす。足早にニノイ・アキノ空港に向かい、クーポンタクシーのカウンターを見つけて申し込みをした。
――定額制でぼったくりの無いクーポンタクシーかホテルタクシー、グラブタクシーを利用すること!
康介からの注意事項の一つだ。グラブとはウーバーのような配車サービスで、前もって日本でアプリをダウンロードした。入国に必要な登録や、携帯電話をすぐ使えるようにするための手続きなども同様に済ませてきた。
――両替も出国前に成田でしておくこと。真夜中にマニラに到着して現金持ってうろうろする母さんの姿を想像するだけで、もうほんと怖いから。割高にはなるけど必ずだよ。
タクシーの順番が回ってきた。白いセダンで、トランクにスーツケースを入れてもらい、右側後部のドアから乗りこむ。今の時間だとここからマニラ市内まで四十分くらいらしいが、渋滞がひどいので状況次第だという。
窓の外を見ると、道路は広く何車線もあって、今のところスムーズだ。遼子はリュックのサイドポケットからメモを取り出した。注意事項を箇条書きしたものだ。
・朝昼晩、LINEで連絡を入れること。
・居場所検索アプリを入れて、現在地を常に共有すること。
・流しのタクシーには乗らないこと。
・ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと寝ること。※安全で衛生的なところで。
・計画外のことがおきたら行動する前に連絡すること。
・危ないと少しでも感じたらすぐ撤退、帰国すること。
・父さんであってもなくても、まともに食らわないこと。
ちょっと過保護ではないかと遼子が笑うと、康介は真顔で、もうあんな思いは勘弁だから、頼むよ、と応えた。
窓の外に目をやった。車やバイクが走る横で、自転車が通り、人が歩いている。ネットで見た乗り物――ジープを改造したバス〝ジープニー〟や、サイドカー付きバイク〝トライシクル〟もたくさんいる。喧噪にまじって時折クラクションの音が響く。
渋滞が始まった、タクシーはのろのろ運転になり、高架下の日陰に入ったところで停まった。と思ったらフロントガラスにすっと人影が現れた。こんなに交通量の多い、信号のない場所を、一人また一人と横断していく。
後ろからジープニーが来て、真横をのろのろと併走した。銀色の車体に青や黄色のペイントが施されていて、無骨な感じで迫力がある。太一はきっと好きだろう。
遼子は膝の上のリュックをぎゅっと抱きしめた。
この中には、一眼レフのデジタルカメラが入っている。
房総旅行の前に太一が買ったニコンのカメラだった。動画撮影もできるものだが、そういう機能やらレンズの性能やら解像度やらより、持ったときの感覚が大事だといい、「軽けりゃいいってもんじゃないんだ」と手触りや重さにこだわりまくっていた。家電量販店で何時間も付き合わされ、うんざりしていたあの日が懐かしくて苦しい。
リュックの中にはSDカードも三枚入っている。康介が生まれたときのものから最近のものまでを家から持ってきた。高校の卒業式、大学の入学式、そして成人式――振り返ると、この四年半で大事な節目がたくさんあったのだなと思う。きっと太一が自分で撮りたかっただろうそれらのシーンは、遼子が代わりに撮ってきた。腕前はさっぱりだしカメラが重くて難儀もしたが、太一が立ち会うことのできなかったかけがえのない瞬間、その一つひとつを見せてあげたかった。
生前の義両親が映っている動画も持ってきている。もしかしたら記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。
ぴかぴかの高層ビルの立ち並ぶ広い通りを走る。大きな公園や噴水やモニュメントなどがあり、整然としていて清潔で大手町だとか丸の内だとかを彷彿とさせた。
行く手に大きな建物が見えてきた。建物前の広場を、若い人や家族連れがたくさん歩いている。ショッピングモールのようだ。そこを過ぎると、両側に飲食店のつらなるエリアに入った。どの店にも大きな看板が掲げられていて、「SAYURI」「GINZA」といった日本語のものもある。今は静かで人通りもさほどないが、夜はネオンがきらびやかに灯り賑わうのだろう。
マルコから昨日届いたメッセージを思い出す。
――移動や外出は日中に。夜は出歩かないほうがよいです。
タクシーが停まった。運転手が左側を親指でさし、振り返ってニコリと笑う。サンキューとぎこちなく言って、あらかじめ決められていた額を現金で払ってタクシーを降りた。所要時間は五十分、料金は日本円にして千五百円ほどだった。
息苦しいくらいの暑さの中で、目の前にそびえるコンドミニアムを見上げる。三十階以上はありそうな高層の建物だ。道を挟んだ向かい側は工事中で、トタンの壁が長く続いている。頭上のいたるところに黒々と絡み合った電線が架かっていた。
ガタガタの歩道を突っ切って、五段ほどの短い階段を、スーツケースを持ちあげて上がる。「MARUNDI CONDOMINIUM 38」の看板を確認したとたん、心臓がどきどき言いはじめた。
遼子はリュックからクリアファイルを取り出し、それを手におそるおそる自動ドアをくぐった。入ってすぐ右手にガードマンが立っていた。腰にピストルが差さっている。白い襟付きのシャツに紺のスラックス姿で、にこっと笑いかけてきた。
「ハロー!」
「ハ、ハロー」
「レジデント オア ゲスト?」
「ゲスト、です」
ジェスチャーで促されて奥に進むと、正面にレセプションカウンターがあった。こちらには女性スタッフが座っていた。
大丈夫、と、遼子は自分に言い聞かせてぎくしゃくとカウンターに近づいた。精一杯の笑顔は引きつり、緊張で喉の奥がぎゅっと締まる。
さっきのガードマンがいつの間にか後ろに居て、女性に何か言っている。女性は肩を少し上げてOKと返した。どんな申し送りをされたのか、ドキドキしながら、クリアファイルからA4の紙を出してカウンターの上に置く。予約確認証だ。それと一緒にパスポートも、すかさず置いた。
シムラの住居であるこのコンドミニアムに、短期滞在者も宿泊できることが、あれから調べてわかったのだ。民泊のようなシステムなのか、ネットで部屋を選んで申しこみ、支払いも済んでいる。
女性は書類を受け取って目を通すと、注意事項の説明を始めた。ジム、プレイルーム、会議室などの館内施設は居住者専用で、遼子のような短期滞在者は使用禁止。宿泊階以外の立ち入りも禁止だ。
予約時にしっかり読みこんできたので、大きく頷いてイエスと答えた。チェックインカードにサインをし、キーを受け取ってエレベーターに乗り込む。
はーっと溜息が出た。旅行客として普通にチェックインしただけなのに汗だくだ。エレベーターで十二階へ上がり、1206の部屋に入る。鍵をかけ、ベッドにふらふらと近寄って、倒れ込んだ。緊張の連続でクラクラするが、とりあえずLINEで康介に報告した。
――第一関門、突破しました。
すぐに返事が来る。
――気を付けて。無理しないでよ。
嫌な汗をかいたからか、こちらの湿度のせいか、肌がべとべとして気持ちが悪い。シャワーを浴びることにしたが、昨日泊まったホテルと違って水圧が低く、お湯の出も悪かった。
壁や床にひび割れもあり、古い建物であることが分かって、ティムティム島で大盤振る舞いしていたという話とはちぐはぐな印象だ。考えだすと混乱しそうになるので、今は余計なことは考えないようにして、汗で流れ落ちた化粧を直していった。寝不足でむくんでいた目は多少開いたが、クマがひどい。ファンデーションを重ねて塗って、口紅も引き直し、頬をぱしぱし叩いて気合いを入れた。
貴重品は全部セーフティボックスに入れ、携帯とデジカメとSDカードを一応リュックに入れて部屋を出た。
エレベーターに乗り込んで二十九階で下り、シムラの部屋2908を探して歩く。施設概要に、エレベータや各階に監視カメラがあると書いてあったのを思い出した。これって不法侵入罪とかになるんだろうかと、考えながら目でカメラを探していると、前方で部屋のドアが開いて若い男女が出てきた。
居住者だろうか。
ここで何をしているのかともし咎められたら、そのときのことはちゃんと考えてある。台詞の練習もしてあってひそかに身構えたが、二人はハーイと笑顔ですれ違うと、エレベーターに乗り込んでいった。
その後は誰とも会うことなく、あっけなく目的地にたどりついた。
2908。ドアに金文字のプレートが付いている。
マルコの言葉をまた思い出す。
――シムラは女性には優しかったそうですが、男性に対してはそうでなかったようなんです。大丈夫だとは思いますが、気をつけてください。できれば人の目のあるところで会えるといいのですが。
右、左、と見てみたが誰もいない。廊下はしんと静まりかえっている。
遼子はドアに向き合った。
シムラに会えたとして、いきなり事情を話すつもりはなかった。シムラが太一であったとしても、そうでなかったとしても、言う台詞は決まっている。それはさっきすれ違った二人に対して用意していた台詞と同じものだ。万能のその台詞を発したら、いったん退却して次の手を考える。
遼子は手櫛で髪の毛をととのえ、大きく息を吸って吐いて、ためらいながら二回、ノックをした。反応はない。
もう一度。少し強くたたいてみる。が、やはり応答はなかった。留守なのかも知れない。
マニラ滞在は明後日まで。まだ時間はある。出直そうと立ち去りかけたときだった。部屋の内部で人が動くような気配があった。息をのんで気配をうかがう。
ドアの向こうで声がした。
「シノ?」
意味がわからず黙っているとまた声がした。
「フー?」
「あ……ハロー」
小声で応じながら、ドアの向こうの音に耳を澄ませた。今聞こえた男性の声はどんなだった? 少しかすれ気味だった気がするが、短かったうえに日本語じゃなかったのもあってよく分からなかった。玄関先に出てきてもらえないなら、もう一回何か話してほしい。できれば長文で。
ドアぎりぎりに耳を近づけたとき、ぎっと軋み音がしてドアが向こう側に開いた。よろけそうになって、あわてて足を踏ん張る。ドアの隙間から、チェーンごしに、男性が顔をのぞかせた。
シムラの顔を遼子は間近に見つめ、そして台詞を絞り出した。
「すみません……部屋を間違えました……」