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アマンダの店の前で太一の声が聞こえてきたとき、周りの景色が止まったように遼子には見えた。
振り向いて、今度は息が止まりそうになった。
太一だった。ものすごく太っている。
けど間違いない。
生きていた。
笑っている。栄養も……足りているみたいだ。いささか過分なほど。
よかった。本当によかった。
でもその喜びは、あっという間に吹き消された。
太一の隣には女性がいた。しかも驚くほど若かった。頭を殴られたような衝撃があり、遼子は足元から崩れ落ちそうになった。
入り江に移動して呆然と流木に腰かけながらも、情けないことに遼子の頭の中は、やっと会えた太一よりあの女性のことでいっぱいだった。いったい誰なのか、何歳なのか、どういう関係なのか。
どういうことなのか。
涙がにじみそうになるのを、空を見あげて必死にこらえた。満天の星が海面の際まで密につらなってきらめいている。綺麗だな、と、こんなときにそんなことを思って鼻の奥がツンとなった。
どういう涙かはわからない。が、泣いたら自分が〝かわいそうな人〟であることが確定して、余計みじめになる気がした。だから歯を食いしばって、精一杯普通の顔を作った。
太一は康介の写真を見てひとしきり泣いたあと、意を決したようにこの四年半のことを語りはじめた。遼子も覚悟を決め、ひとまず最後まで話を聞こうと、腿の上で両手を握った。
序盤は、聞いていて胸が痛くなる瞬間の連続だった。土砂に巻き込まれ、記憶を失って怯える太一があまりに可哀そうで、傍にいて支えられなかったことを改めて申し訳なく思った。
しかしその後の経緯はまったくもって荒唐無稽、何ともいえない感情がふつふつと湧き、幾度も話をさえぎりそうになった。
記憶が戻りはじめて打越のアパートを飛び出したところまではまだ理解できる。が、完全に戻った後もネットカフェに留まり、打越の名義でパスポートを取り、フィリピンに飛ぶという行動のどこに汲むべき事情があるのか。
また太一は話しているうちに当時のことを思い出すらしく、しばしば興奮気味に声を上ずらせたり、笑ったり涙ぐんだりした。気を遣って言葉を選んでいるように思えたのも、だから最初のうちだけだった。
そうやって太一が一人で盛り上がれば盛り上がるほど遼子はどんどん冷めていくのだが、まったく気づいていないようで、今は感情の赴くまま、ホームレスになった自分に手を差し伸べてくれた人達への感謝の念、とりわけエマへの感謝の思いを吐露している。
「彼女、早くに父親を亡くして苦労してきたらしいんだ」
は? 握る両手に力がこもった。
――他ならぬあなたの息子が、父親を失くして苦労しているのだけど。
康介への言及が一切ないことに、怒りを通り越して唖然としてくる。
「健康でしっかり者で、その気になればいつでも同世代の男と結婚して、子どもだって持てるだろうに。金も若さもないこんな中年男に優しくしてくれる。父親がいない分なのか、頼って、大事にしてくれる。なのに自分は身の上を何一つ打ち明けていない。彼女が聞いてこないのをいいことに、自分の中で何かと理由をつけて先延ばしにしている。なんて卑怯なんだ」
太一はおうおうと声をあげて泣きだした。両腿の上に両の拳を置き、前を向いて、涙と鼻水が流れるままにしている。
泣かれてこちらはますます冷静になり、小脇に置いていたリュックからポケットティッシュを取りだして太一に差しだした。
太一がブンと洟をかむ。ポケットティッシュを戻してこようとしたので「どうぞ」と遼子は笑みすら浮かべた。
「ありがとう、助かるよ」
また使うことになるかもしれないから、と首を縮めている。
「よく泣くね」海を見つめて遼子は言った。
「最近涙もろくて。ごめん」
「別に謝ることじゃないけど。昔は泣かなかったのにと思って」
太一が泣くところを、かつて遼子は一度しか見たことがなかった。義母が入院先の病院で息を引き取ったときだ。
太一は言った。
「こっちの人って感情がストレートなんだよ。だからつられるっていうのかな。感情むきだしで最初のころはちょっと馴染めないとこもあったけど、これはこれで悪くないもんだよ、うん」一つうなずいて続けた。「けっこうおすすめだよ。遼子もあんまり我慢しないで――」
「ちなみにさっきの〝よく泣くね〟にはもう一つ意味があります」
「あ、はい」太一が背筋を伸ばす。
「私の前で、エマさんを思って〝よく泣くね〟です」
「あっ」
太一は息を呑んだ。腿の上で握った丸い拳をいっそう固くしている。
しばらくして、子どもが謝るみたいな口調で言った。
「……ごめんなさい」
「別にいいけど」いやよくないけど。
「怒ってるよね?」
「怒ってるっていうか」
一言で表現しきれないこの感情について考え考え答えた。
「呆れるっていうか悲しいっていうかやりきれないっていうか、いろんな感情がぶつかりあって、打ち消し合って、今たまたま凪の状態って感じ」
「ああ……そう……だよね。ごめんね。あの」
太一は流木から立ちあがると、遼子の目の前まで歩いてきて、こちらに向かって勢いよく頭を下げた。といってもお腹の肉がつかえるようでお辞儀の角度は浅い。顔を上げた太一は、今度は砂浜に片膝をつこうとしている。
「待って、土下座するつもり?」
「うん。とにかく謝るしかないから」
「やめてよ」
「でも僕にはこれぐらいしかできない」
「太一がそれでスッキリしたって私はちっとも嬉しくないし、〝わかった、いいよ〟ともならないよ」
「ならない……」
「ならない。だから立って」
太一はぎくしゃくと立ち上がり、右膝に砂を付けたまま元の場所に座った。遼子がちらりと横目で見ると、わかりやすくしょげていた。なんだかこっちが悪いみたいな気分になる。
思わずため息が漏れた。言いたいことはたくさんあるのに何からどう話せばいいかわからない。太一も黙りこんでしまって、寄せては返す波の音と、ヤシ林の向こうの喧噪だけが聞こえてくる。
ねえ、と太一が口を開いた。
「何か言ってよ」
「何かって」
「今一番に思ってること」
「一番――」遼子は膝の上のリュックを抱いて答えた。
「ひどいなって思ってる」
「……うん」
「みんな、本当に心配して心を痛めてきたんだよ。康介も、私の親も、須美江さんも。里美や、丸山さんや会社の人達だって」
「…………」
「私は毎日あなたのことを思って、出会ってからこれまでのことを繰り返し繰り返し思い返してた。会いたくて、思い過ぎて、あなたのこと少し美化しちゃってたかもしれない」
太一はそうじゃなかった。この四年半をドラマチックなものとして振り返り、語った。太一がそんなつもりじゃなくても遼子にはそう感じた。
「まったく違う時間を過ごしてきたんだなって、思い知ってショック受けてる。この四年半の太一の大変さを、もちろん私は知らないよ。それと同じで、太一も私たちの大変さを知らない。当たり前でどうしようもないことだけど、その上で言うけど、太一、本当にひどい。本当にわかってない。わかってないだけじゃなくて、わかろうともしてない」
遼子たちがどんな思いをしてきたか。
康介がどんな思いをして、どれだけの涙を流したか。何をどれくらい諦めて、我慢して、失ってきたか。
ダメだ。康介のことを考えると涙があふれてしまう。
泣くわけにはいかない。かわいそうなんかじゃない。康介も、自分も。
遼子は海に向かって大きく息を吐いてから、どうにかこうにか微笑んだ。
「まあ、でも、しょうがないのかもしれないね。だって、太一は絶望してないから」
「したよ!」隣で太一が身を乗りだした。「さっき話したでしょ。全財産を奪われて、一文無しになったんだ」
「失くしたのは物でしょう。自分で選んだ道でそうなった。気持ち一つで帰国のカードを切れる状態にもあった。いざとなればいつでも」
「そうだけど、でも」
「あのね」
遼子は星を見上げて気持ちを落ち着かせ、つとめて淡々と続けた。
「私と康介は、ある日突然あなたという、かけがえのない存在を失ったの。お金で買うことも作り直すこともできない、夫であり父親であるただ一人の人を失ったまま、今日まで生きてきたの。怒りや悲しみを抱えて途方に暮れて、投げだしたくなって、でもなんとかかんとか二人で――親子で、やってきた」
遼子は、ゆっくりと太一のほうを向いた。
「比べものにならないと思う。太一には、私たちの絶望は本当のところではわからない」
太一は黙った。
長いこと押し黙っていたが、やがてポツリと言った。
「遼子ごめん。正直に言うよ。そんなふうに考えたことがなかった。二人のことを心配してたのは本当だよ。でも自分はその日その日食べて眠るのに必死で、どこかで二人は大丈夫なんじゃないかって思ってた。ていうか、思いたかったのかもしれない。物質的には豊かな日本で、お義父さんお義母さんがそばにいて、ローンのない家があって、僕の遺族年金も入るだろうからって」
「年金は受け取ってないよ」
「え、なんで」星明りのもとで目を真ん丸にしている。
「太一は生きてると思ってたから。遺族じゃないのにもらえないでしょ」
「もったいない。長い間せっせとおさめた年金だよ。もらえるものはもらいなよ」
太一は眉をハの字にした。くるくる変わるこんな表情も、日本では見たことがなかったなと思いながら遼子は言った。
「私パートから正社員になったんだ」
「ザザクローの会社?」
「そう。経理で働いてて、そのお給料でなんとかやってる」
「そうかあ」今度はぱっと笑顔になる。「経理の仕事、遼子好きだって言ってたもんね」
「好きとか嫌いとか言ってる場合じゃなかったけどね。でもあの頃に比べたら今はちょっとだけ余裕ができて、少しずつお金を貯めてるの。康介の奨学金を早いうちに一括返済できるようにしたいと思ってる」
「すごいな……遼子、なんか変わったね」
「変わらざるをえなかっただけ」
「……そうだよね。ごめん」
また振り出しだ。
どうしよう、と太一がこっちを向く。
「どうしたらいい?」
「そんなの聞かないでよ」
自分だってわからない。これからどうすればいいのか。どうするべきか。太一を日本に連れて帰るのか。不法滞在の問題をどうするのか。申告すれば当然ペナルティがあるだろう。ご近所もマスコミもまた大騒ぎだ。残されたエマはどうなる。
それともあるいは――。
おずおずと太一が聞いてきた。
「――遼子は、僕に、帰ってきてほしい?」
「当たり前でしょう」思わず声が裏返った。「この四年半そのために捜し続けてきたんだから――」
見つけた今、連れて帰ってそして、またあの家で一緒に暮らす……?
言葉が続かなかった。
「少し時間をくれる?」と太一が言う。
「もちろん。私も康介と話さないと」
「その康介だけど――」
レオ、と背後で声がした。振り返ると、エマがこっちに歩いてくるのが見えた。すぐ後ろにマルコもいる。太一がエマのほうに目をやりながらそろそろと立ち上がった。
「レオ!」
エマが駆けてくる。砂に足をとられて走りづらそうだ。向こうでどういうやりとりがあったのか、今は笑顔だった。
エマは太一の前まで来ると、息を弾ませながら明るい声で尋ねた。
「話は済んだ?」その目は遼子を向いている。
「うん。まあ」と太一が答えた。
「あのね。扇風機が壊れて困ってる人がいるの。レオなら直せるでしょ? ねえ行こう?」
切実な目でそう言って、エマは太一のTシャツの裾をきゅっと握った。
絵本の中で浦島太郎はこんな気持ちだったのだろうかと、遼子はフードスタンドのそばのハンモックに座ってビールを傾けながらぼんやりと思った。
どれぐらいの時間、入り江にいたのか正確にはわからないが、太一と話す前と後とで、自分の中で何かががらりと変わっていた。景色まで違って見えた。
マルコは砂浜に足を投げ出し、海に顔を向けて座っている。そぐそこにある背中に向かって、遼子は声をかけた。
「このビール、おいしいね」
「だろ?」マルコが肩越しにこちらを見上げてくる。大きなその手は、遼子が飲んでいるのと同じ、氷入りのサンミゲルビールを持っている。「フィリピンではこのスタイルがポピュラーなんだ。日本はどう?」
「グラスをキンキンに冷やしては飲むけど、氷を入れて飲んだことはない」
「遼子が流行らせたらいいよ」
「いいかもね」まずは里美に教えよう。
マルコは静かに海を見ている。
こんな時にも詮索してこず、自然な笑顔と言葉を振り向けてくれるマルコの、優しさと寛容さを改めて感じた。遼子はプラスチックカップを揺らして氷の音に耳を傾けながらつぶやいた。
「さっき私が〝彼は元夫だ〟って打ち明けても、マルコあんまり驚かなかったね」
「死んだ夫って聞いたときはめちゃくちゃ驚いたけどね」
マルコは右膝を立て、ビールを持つ手をそこにのせた。
「実はエマと二人になったとき、遼子のことを聞かれたんだ。僕は、遼子が日本から男の人を捜しに来ていたことと、ずっと捜し続けていたらしいことしか知らないって答えた。そうしたら彼女、こう言った」
――遼子はコースケのお母さん?
驚いた。
なんで康介のことを?
太一はエマには何も話していないと言っていたのに。なぜ康介のことを知っているんだろう。
マルコは続けた。
「彼女、こうも言ってたよ」
――子どもにはお父さんが必要。コースケに返してあげなければいけない。
「彼女、うすうす勘づいているんじゃないかな。どこか覚悟してるみたいに見えたよ」
遼子は思わず胸が詰まって、言葉にも詰まってしまった。エマの苦悩と葛藤がわかりたくないのにわかってしまう。
マルコは、お代わりを持ってくるよ、とフードスタンドへ歩いていった。
花火はまだ始まらない。遼子は右後方の、アマンダの店を振り返った。
店先には人だかりができていて、その中心で、胡坐をかいた太一が、黒い眼鏡をかけ背を丸めて扇風機の修理をしていた。その傍らにエマはしゃがみこみ、携帯のライトで太一の手元を照らしている。そのエマの表情が、遼子の場所からはよく見えた。なんて幸せそうな顔でそうしているんだろう。両手で携帯を持って、太一の作業にあわせて細やかに角度を調節している。太一の顔は、ここからは見えないけれど想像がつく。手作業に集中しているときの顔――上唇を軽く噛んでちょっと受け口になる、真剣な表情をしているにちがいない。
その太一が「オーケイ!」と工具を手放し、扇風機を店先の椅子の上に置いた。ギャラリーが口々に何か言い、太一はドラムロールの音を口で真似た。
「ドゥルルルルル…………ジャジャーン」
古い扇風機のつまみをエマが回すと、ひゅる、ひゅる、ひゅる、と羽根が回りはじめた。わっと歓声があがり、太一はみんなとハイタッチをしている。
「センキュー、リーディンググラス!」
太一が叫び、黒眼鏡を外してギャラリーの一人に渡した。どうやら借りていたもののようだ。エマが手を叩いて飛び跳ねている。そのエマをアマンダがハグして、陳列棚の袋菓子を二つ取って手渡した。
エマから袋菓子を一つ受け取った太一が、振り返り、ゆっくりと顔を上げた。屈託のない、無邪気な笑顔だった。
目が合った。
太一は満面の笑みをひゅっとひっこめ、唇を一文字に引き締めた。気を遣ったというよりは、ヤベエという声が聞こえてくるようだった。
遼子はハンモックの上でひねっていた上半身を、元に戻して海のほうを向いた。何なんだ。自分の前では笑顔は厳禁、みたいに思っていそうで心外だ。
ふと思った。
康介もそうなのか? もしかして普段から、自分に気を遣っているのだろうか。
後ろから、人が近づいてくる気配がした。
リョウコ、とかわいらしい声で呼ばれた。エマだった。
「ハイ」
「――ハイ」
何となく遼子はハンモックから下り、隣にエマが並んで立った。
二人の間に沈黙が流れる。気まずい。フードスタンドを振り返ったが、マルコはサンチェス、アナ、それからいつの間にか合流したジョンと、楽しそうに話していた。
「リョウコ、おこっていますか?」
日本語だった。びっくりしてエマを見た。黒くて大きい、吸い込まれそうな瞳だった。
「日本語をしゃべれるの?」
「すこしだけ」右手の親指と人差し指で、少し、を表現してから「おこっている、おもいます」と言った。
遼子は首を横に振った。
「ほんとに?」
「本当に」
半分本当で半分嘘。エマへの怒りはもうないが、太一にはやっぱり腹が立っている。
「レオを、にほんに、つれてかえるますか?」
「わからない。これから考えなければなりません」
正直に答えてから、今度は遼子が尋ねた。
「康介のことをあなたはどうして知っているのですか?」
エマは日本語で答えかけてから、英語で言い直した。
「レオは寝ている時、よくうなされる」
そして寂しげな顔で続けた。「そのときにコースケの名前を呼ぶ」
そうだったのか。
ほんの少し救われた気持ちになった。康介に聞かせてやりたい。
「コースケは何歳?」とエマが聞く。
「二十二歳」
エマは一つうなずいてから「うらやましい」とまた日本語でつぶやいた。
「リョウコはレオを長く深く知っている。二十二年以上、もっと前から」
たしかに長くは知っている。
しかし深く知っているといえるだろうか。
――あなたのほうが、本当の彼を知っているのでは。
胸に湧いたその思いはしかし声にはしなかった。
アマンダの店のほうにちらりと目をやると、太一が袋菓子を握りしめて、心配そうにこっちを見ていた。そんなに心配しないでよという目を向けてから遼子はエマに質問した。
「彼を好きですか」
エマがこくりとうなずく。
重ねて聞いた。
「彼はどんな人?」
エマは微笑んで答えた。
「いいにんげん。そして、おおきなこども」