「康介くん、ほら食べて食べて。遠慮しねえで」

 そう言って座布団の上で腰を浮かしたのは、香田の母親だ。名前は千代子さん。近所の人がそう呼んでいた。

「なんてったって揚げたてが一番うまいんだから」千代子は天ぷらが盛られた大皿を、こちら側にずいっと寄せてきた。「特にこのアスパラ。英司のアスパラは日本一だかんね」常に笑っているみたいな目や口元が香田そっくりだ。

「母さん」香田が隣から子供に言い聞かせるような口調でたしなめる。「さっきから食え食えってさ。康介くんが困ってるだろ」

 まったく、とビールを手酌で注ぎながら赤い顔で付け足した。

「ま、うちのアスパラはたしかにうまいんだけどさ」

「ほだよ、いいんだよ食べ盛りなんだから。ねえ康介くん」

「あ、はい」康介は首を縮ませてアスパラの天ぷらに箸を伸ばした。「いただきます」

「無理すんな」コップを傾けながら香田が言う。「好きなもん食えばいいんだぞ」

「はい。でもほんとに美味しいから」

 千代子は我が意を得たりという顔でうなずいた。

「そうだべ。遼子さんもほら」

 勧められて、遼子も康介の隣で箸を伸ばす。

 サクサクの衣に包まれたアスパラは、シャキッとしていながら味が濃く、甘くて薫り高かった。

 おいしい、と思わず遼子がつぶやくと、香田も一本つまんで言った。

「揚げるとまた水分が飛んで旨味が凝縮するんですよ」

「アスパラギン酸っつうの」千代子は中腰の姿勢を解いて、やれやれと座布団に腰を下ろした。「それにしても二人とも今日はこわいんべえ。方々行って農作業までしたんだから」

「〝こわい〟は疲れたって意味ね」香田が補足した。

 夕方の農作業に遼子と康介も加えてもらい、二時間ほどビニールハウスで収穫を手伝ったのだ。アスパラが一日十センチほども伸びて、朝夕と二回収穫できるなんて知らなかったし、穫ったものをその場で食べさせてもらったら甘くて瑞々しくて驚いた。

 生で食べたのは初めてだったと遼子と康介が言い合っていると、香田の小学二年生の娘、英美莉が、康介を向こう隣から見上げて言った。

「あのね、英美莉はね、生のアスパラはあんまり」

 顔の前でバツ印を作っている。

「そうなの? おいしいのに」と康介。

「焼いたほうがおいしいよ。炭火焼き」

「通だね」康介の顔がほころぶ。

 英美莉は、会った瞬間から「お兄ちゃんお兄ちゃん」と康介に懐いてくれていた。弟の真司も同様で、庭に康介を引っぱっていって柴犬の麦ちゃんとともに夕飯前まで遊んでいたが、疲れたのか食事をとり終えた今は縁側でうつぶせになって、手の中のミニカーを時おり思いだしたように動かしている。香田の父親と祖父母もさっきまで一緒に食卓を囲んでいたが、各々切りあげて母屋へ帰っていった。みんな現役の農家で、朝早くから毎日働いている。遼子などたった二時間の作業で腰がぎしぎしいっていて、頭の下がる思いだった。

「いやいや今日は助かりましたよ」香田が自家製の茄子の漬物をぽりっと噛む。「アルバイトの子が急に来られなくなって、どうしたもんかと思ってたんです」

 康介が小さく手を上げた。

「自分、明日も手伝います」

「お、ほんとか。朝早いぞ?」

「およしよ英司」千代子が間髪容れずに割って入った。「康介くんは今それどこじゃねえ、大変なんだから。ゆっくり寝かしといてあげなさい」

 香田は首の後ろを撫でながら、そうか、と小声になった。

「そうだな、そうだった」

「いえ、大丈夫です」康介は斜め下に目を落とし、座布団の上でゆるりと座りなおした。「体動かしてると気が紛れるし、普通に接してもらえるのも、なんていうかラクだし。でも、ありがとうございます」

 康介がペコリと頭を下げると、場はしんと静まった。

 千代子がぐずっと鼻をすする。

「そうかい。ここじゃ好きにするといいよ。何でも英司に言うといい」

「母さんが泣いてどうするの」

「だってあんまりにもいい子で健気で。私はもう、胸が痛くってしょうがねえの」

 首にかけた手ぬぐいで涙をぬぐっている。「ばあば痛いの?」と英美莉は心配そうだ。

「大丈夫だよ」と香田は英美莉に笑いかけ、コップのビールをあおると、声を明るくして話題を変えた。

「明日はいろいろ、うまくいくといいよな。今日はちょっと残念だったけど」

 今日、工事現場を出たあとすぐに、事務員の女性に教えてもらった彦川総合病院へ向かった。しかし打越には会えなかった。窓口でこう言われたのだ。

 ――打越さんなら昨日退院されました。

 当然ながら自宅の住所など教えてはもらえず、ひと足遅かったと肩を落として駐車場に引き返したのだが、香田は遼子と康介を先に車に乗せると、「ちょっと伝手をあたってみます」とドアを閉め、車の外に立ったまま電話をかけはじめた。

 香田はかけては切り、かけては切りを繰り返しながら、途中で一度窓越しに「栃木には明日まで?」と聞いてきて、遼子が頷いて答えるとまた電話に戻り、そのまま長いこと誰かと話をした。

 どれぐらい経っただろう、香田は汗だくで運転席に乗り込みながらグッと親指を立てた。

「後輩がつかまりました。彦川総合病院で看護師をやってるんです。今日は夜勤でNGだけど、勤務明けの明日の朝なら時間が取れるって。話、聞いてみたらいいですよ」

 さらに「宿決めがまだなら、康介くんも遼子さんも今日はうちに泊まればいい」と言ってもらって今ここにいるのだった。

 香田の妻の真美が、大きなお盆を手に居間に出てきた。

「はいはいお待たせ。本日の大トリ、唐揚げよ~」

 トリの唐揚げだけにね、と茶目っ気たっぷりに言い、大皿をテーブルの真ん中に置いた。

 すると縁側の真司がむくりと起き上がって、目をこすりながら康介と英美莉の間に体をねじこむようにして座った。

「痛いー真司。横入りやめて。英美莉がお兄ちゃんの隣なんだから」

「やだ真司が隣」

 香田が自分の隣の座布団をぽんぽん叩いて言った。

「お父さんの隣が空いてるぞー」

「いや!」「やだ!」と体を押し合っている。

「ほーらー喧嘩しないの」と真美が一喝する。「ごめんね康介くん。二人とも私に似て正直者で」

「なんだよ」と香田が下唇を突きだす。

 遼子が場所を一つずれて、康介の左右に子どもたちが座ることで収まり、香田の隣には真美が腰を下ろした。

 その後、近所に住む香田の従兄が、穫れたてのブルーベリーを持ってきてくれた。新鮮なブルーベリーは弾力と程よい甘味と酸味があって、康介は「何これ、うま」と次々口に運んでいた。そうやって大量の料理をみんなで平らげ、空いたお皿を一緒に運んだ。

 台所で、真美が洗い物をし、遼子は洗い終わった食器を拭いていく。

「みんなよく食べるでしょ」

 真美はテキパキと手を動かしながら、義父は町内の大食い大会で優勝したことがあるのだと言った。さらに、義祖父は天気予報より天気をよく当てるとか、自分は日焼け止めはもう諦めて塗っていないとか笑顔で話していたが、ふと真面目な声になった。

「今日、大丈夫でしたか」

 咄嗟で漠然とした問いにすぐ答えられないでいると、真美は口調を戻して続けた。

「うちってほら、こういう感じでガチャガチャしてるし、全員うっすらデリカシーがないし。遼子さんも康介くんも、無理やり連れてこられて疲れちゃってるんじゃないかと思って。強引だからあの人」

 そう言って居間のほうを振り返った。

 つられて遼子も振り返ると、香田は縁側にいて、ビール片手に胡坐をかいていた。隣には康介もいて、二人で肩を並べて庭の方を向いている。

 その後ろ姿を見やりながら遼子は静かにかぶりを振った。

「楽しかったです。とても」。英美莉や真司に話しかけていたときの、康介の柔らかい表情を思い出していた。「康介のあんなリラックスした顔、久しぶりに見た気がします」

「そっか。ならよかった」

 真美はうんうんと頷いてから、洗い物の手際と同様、流れるような口上で、同居の苦労話や田舎のあるある話を披露した。深刻そうな話題も真美が語ると軽やかで、なんなら面白おかしく聞こえ、気づけば遼子は笑っていた。

 片付けもあと一息というところで、パジャマ姿の英美莉がパタパタと母屋の方から走ってきた。

「お母さん! 真司が寝ちった。歯磨きまだなのに」

「ばあばは?」

「お部屋に行っちった」

「えー」真美は蛇口をひねって、シンク下の扉にさがったタオルで手を拭くと、英美莉に腕を引かれて台所を出た。ややあって遠くで声がした。

 ――ちょっくら真ちゃん、こんなとこで寝ねえで。起きなさい。

 ぐずぐずと声がしたあと、真美が真司をつれて戻ってきた。

「遼子さんごめんなさい。子どもたち寝かせてくるから、あと、お願いしていい?」

 もちろんだった。

「テキトーでいいから。北の離れはどうぞ自由に使って。お風呂も沸かしてあるからゆっくりしてね」

 おやすみなさい、と三人で二階へあがっていく。ここ――東の離れの二階が真美たちの生活空間らしかった。

 遼子は残りの食器を洗って、拭いて、作業台の上に伏せて置いた。すごい量だった。

 真美はこれを毎日やっている。子どもを育て、畑仕事をして、ご飯を作って洗って片付けて――自分にはとても無理だ。香田家に満ちる明るさと健全さは、真美の器に拠るところが大きいにちがいない。

 自分が、真美のような人間であったなら。太一と康介の間を、もっとうまく取り持てていたら。

 家出などさせずに済んだだろうか。

 遼子は布巾を洗ってハンガーに干し、台所の電気を消した。

 縁側では、二人が顔を突き合わせるようにして話しこんでいた。

 

 北の離れ、十五畳ほどの和室にはすでに布団が敷かれてあった。康介は遼子と入れ替わりでお風呂に入っている。

 一人になったとたん、さっきまで賑やかだった分の、反動のような静けさが迫ってきた。

 ジーッという虫の声だけが聞こえていて、他には何の物音もない。

 目を閉じて耳を澄ますと、暗く重たいものが自分の上に下りてきて、気持ちがまた沈んでいくのがわかった。

 太一の暗い横顔が浮かぶ。運転席でまっすぐ前を向いた横顔。その横顔に向かって遼子はひたすら詫び続ける。

 引き止めなくてごめんなさい。一人にしてごめんなさい。見つけてあげられなくて、何もできなくて、なのに食べて笑っていてごめんなさい。ごめんなさい――。

 庭で、ワンッと麦ちゃんが吠えた。

 はっと目を開け、静かに頭を横に振る。

 遼子は緩慢な動作でバッグからノートを取りだして、ちゃぶ台に広げた。鈍く痛む右手でボールペンを握り、今日あったことと明日のことに思いを馳せていると、康介がお風呂から戻ってきた。筋肉痛がエグいと言いながら右腕を左手で揉み、大きなあくびを一つする。遼子は床の間の置き時計に目をやった。

「寝ようか。明日早いもんね」

 吊り下げ照明の紐を引っ張り、常夜灯だけ残して布団に入る。昼間はあんなに暑かったのに、今は少し肌寒いくらいで、康介は薄手の掛け布団を頭からかぶっている。遼子も首まで引き上げて天井を見上げ、薄明りのなか視線で木目をなぞった。

 目をつぶって眠気が訪れるのを待っても、虫の音が耳についてなかなか寝付けない。体は疲れているのに頭が冴えてしまっている。

「――康介、寝た?」

「んや」ごそごそと身じろぎをする。

「やっぱり。私も」

「つか」

 だから話しかけてきてんでしょ、を今日も二語で表す。

 瞼を閉じたまま遼子は聞いた。

「さっき何話してたの。香田さんと縁側で」

「言わない」

「えーケチ」

「そっちこそ何話してたの。母さんの笑い声聞こえてびっくりしたんだけど」

「内緒。子どもにはあんまり聞かせられない話」

「何それ。なんか怖」

「そりゃ母さんにだって、康介に言えないことの一つや二つありますよ。ふふ」

「それ言うならこっちだって、学校の俺のほうが若干ワルくて若干イケてっから」

「ほう。どんな感じか見せてごらんよ」

 ウッザ、いいじゃん、今は違えし、なんでよ、と他愛の無い話をしたあと、遼子は目を開け、康介のほうに体を向けて声をかけた。

「康介、大丈夫?」

「何が」

「いろいろとさ」

「具体的にどうぞ」

「だから、たとえば、香田さんのお父さん姿とか家族団欒とか、目の前で見てつらくなったりしなかったかなって」

「それぜんぜん」

「本当に?」

「ほんと。実は自分でもちょっと心配してたけど」

「そっか」答え方や声の感じから言葉通りのようだ。よかった。「香田さん、自分の畑のことがあるのにずっと付き添ってくれて、感謝しきれないね」。露地ものの野菜の多くが冠水被害にあったらしいのだ。

 康介はうんと応えて黙り、少しして切り出した。

「今日、あちこち行って、人に会って、話したり聞いたりしたじゃん? なんかちょっと、父さんのこと捜してるみたいだって。ぜんぜん違うんだけど、そう思った瞬間があった」

「分かる。お父さんが台風の日に一人寂しく居たわけじゃなかったことがわかって、なんていうか……救われたような気持ちにもなったな」

「それに、何があっても、あのときよりマシだって思って」

「あのとき――」

「父さんじゃなかったとき」

 言葉がつかえて出てこなかった。

 今でもつい先刻のことのようによみがえるあのときの光景。

 嵐のなか駆けつけた病院。暗い廊下。手術室から出てきた、太一ではない男性。

 どこか誰かの父親だった別人。

 康介は淡々と続けた。

「そうとう期待しちゃってたから高低差がデカすぎて、一生分のがっかりをあのとき味わったんじゃないかって思うんだよ。一旦からっぽになったっていうか。だから、今もしんどいはしんどいけど、でも、うん。マシ」

〝からっぽ〟という言葉が、静かに腑に落ちていく。

 たしかに自分たちは今からっぽだった。何の前触れもなく、有無をいわさぬ強大な力で胸に大きな穴を穿たれてしまった。

 虚空を内に抱えて途方に暮れながら、それを埋められるはずもないけれど、今はただ太一の痕跡をたどる。どこへでも赴いて、どんなに小さな欠片でも残さず拾い集める。たとえ自己満足に過ぎなくたって、今は康介とそれをする必要がある気がした。

「あのさ」と康介が言った。

「俺やっぱり大学に行きたい」

 遼子はガバリと半身を起こした。

「いいかな」

「もちろん」

 康介のほうに向かって前のめりになりながら言った。

「応援する。ていうか私はずっとそのつもりだったけど? お父さんもきっとそう。がんばれ。がんばろう。お母さんもがんばる」

「うん」

「〝鼻息荒くて草〟とか言わないの?」

 声が湿らないように遼子が冗談めかすと、きっぱり返事がかえってきた。

「言わないよ。ありがとう」

 すぐに寝息が聞こえてきた。健やかな呼吸の音を聞きながら考えたいことはたくさんあったけれど、抗いがたい睡魔が襲ってきて、遼子はすとんと――あの日以来初めて深い眠りについた。

 

(第14回につづく)