窓の外が白みはじめた。

 とうとう一睡もできなかったと思いながら、遼子は手をついてゆっくりと上半身を起こした。壁を背にして部屋を見通すと、すぐ隣でリリアが、その向こうで弟たちとマルコがぐっすり眠っている。頭側のソファベッドではマルコのお父さんがいびきをかいていた。

 遼子はそっと立ち上がって、リリアたちの足を踏まないように慎重に歩いた。

 この十畳ほどの空間がマルコの家のメインの居室で、あとはスーツケースを置いてもらっている納戸がある。竹とニッパヤシの葉の屋根でできたバハイクボという伝統的な民家らしいが、一昨年の台風で吹き飛んで、建て直したばかりだという。高床式で涼しく、竹を編んだ床はきれいに磨かれ艶々している。

 開け放たれている玄関に腰かけ、足を投げ出して、明けようとしている空を見あげた。木々の合間の高いところに、きれいな半月が出ていた。

 広場をはさんだ向かい側にもバハイクボがある。この集落には八家族が住んでいて、日中、共同キッチンのある井戸のまわりには洗濯ものがたなびき、鶏とヤギが歩きまわっているらしい。それらのすべてが今は静かに眠りについている。

「リョウコ?」と小声がした。マルコだ。「もう起きたの?」

 うんと応えると、マルコは起き上がって目をこすり、大きなあくびをした。

「オーケー。海辺の散歩でもしよう」

 音を立てないように、ゆっくりとハシゴを下りる。一メートルほどのハシゴを順番に下りてから、遼子はログハウスのような外観の家を仰ぎ見た。

「私の父はもう、とてもここを上り下りできないわ」

「お父さんは何歳?」並んで歩き出しながらマルコが尋ねた。

「八十一歳」

「すごい」マルコは両手を上げた。「村の長老より上だ」

「マルコのお父さんはいくつ?」

「四十八歳」

 遼子より五つも年下だった。

「ナナイはタタイと同い年だったけど、四十二で死んだ。病気だった」

 そんなに若く。家族思いのマルコもリリアたちもつらかっただろう。

 月明かりの下、広場をつっきって、背丈ほどの草の生い茂る小道を一列で歩く。ここを抜けると海に出る。先を行くマルコが肩越しに言った。

「日本人は寿命がすごく長いと聞くよ。家族と一緒にいられる時間が長くて羨ましいな」

 明るい笑顔で言われて、複雑な気持ちになった。真っ先に浮かんだのは正のことだった。

 日本では、長く生きて、体が動かなくなり、頭が働かなくなり、経済的な不安や孤独に悩む人たちがたくさんいる。その家族もまた多く苦しんでいる――とても英語で説明できないし、今話すことでもないと思ったから、いい面も悪い面もある、とだけ遼子は答えた。

 昨日あれほど賑やかだったビーチは、ひと気がなくガランとしていた。

「桟橋に行こう。朝日が一番きれいに見えるんだ」

 シーサイドアベニューから砂浜へ下りると、マルコはサンダルを脱いで裸足になってみせた。遼子もならって裸足になると、足の下でキュッキュッと白砂が鳴った。

 桟橋の先端まで歩いていき、「あっちから日が昇るよ」とマルコが指さしたほうを向いて桟橋の縁に腰を下ろした。海面まで二メートルぐらいあるだろうか。もう少し明るくなったら魚が見えるかなと、海面を覗きながら足をぶらぶらさせていたら、なにやらマルコが笑っていた。服を裏返しにでも着ただろうかと、あわてて全身をチェックする。

 するとマルコは、違う違うと愉快そうに言った。

「リョウコはいつも僕からちょっと離れて座る。まるでここに一人、透明人間がいるみたいだ」

 そういってマルコは二人の間に空いた、ちょうど一人分ほどのスペースを指して笑った。

 思いもかけない指摘に、遼子は思わず口を片手で押さえた。

「ごめんなさい。嫌な感じがする?」

「別に。ただ面白いなと思っただけ。それは遼子の癖?」

「私のっていうか……日本人の、癖というか性質? 電車とかバスとか、空いていたらだいたい一つおきに座る」

「信じられない。どうして」昨日今日と一緒にいる中で一番食いついている。

「空けたほうが落ち着くというか、心地よいと感じるというか。マルコたちは常にくっついて座るの?」

「そうだよ。くっついて座るし、くっついて寝るし、とにかくいつもくっついてる。それが普通で、幸せで、安心なんだ。日本人は家族でもくっつかないの?」

「人によると思うけど、私は電車やバスはくっついて座るほう。食べるときはちょっと離れる。寝るときも離れる。子どもは早々に部屋を別にするし、夫婦で別々の人もいるよ」

「ありえない」

「マルコは、いつも一緒で嫌になることはない?」昨夜の雑魚寝をうっすら思い浮かべながら尋ねた。なにせ寝返りを打てば体がぶつかる距離だ。

「ない」とマルコは即答した。「だって家族は一番大切なものだ。誰よりもそばにいて、わかり合って支え合いたい。同じ場所にいながら離れてるなんて寂しいし悲しいよ」

 遼子は、康介と正と徳子とくっついて眠る場面を想像してみた。無理だ。

「くっついてると相手のことがよくわかるよ。体調がいいか悪いかとか、気持ちが安定してるとか揺れ動いてるとか」マルコは上を向いて少し考えて言った。「遼子たちはくっつかずに、どうやってそういうことを分かち合うの」

「考えたことなかったけど……相手の表情とか仕種とか……あとやっぱり言葉かなあ」

「へー」とマルコは感じ入っている。「じゃあ、たくさん話さないといけないね。ちゃんとわかり合うために」

 さらりとまた刺さることを言う。

「そうだね」と答えながら遼子は思った。

 自分が言葉を尽くしてこなかったから、だからこうなっているのだろうか。太一とのことも、親とのことも。そしてもしかしたら康介とのことも。

「明るくなってきた」水平線に向かってマルコが目を細める。「もうすぐ日の出だ」

 遠くから、ニャ、と声が聞こえた。

 見ると桟橋のたもとに、ぽっちゃりとした黒猫がいた。まさかと思った瞬間、マルコが叫んだ。

「ニィヤウ! おいで!」

 マルコが指笛を吹くと、ニィヤウは尻尾を立ててゆっくりゆっくり歩いてきた。

 遼子の後ろを通り過ぎ、マルコとの間――一人分あいたスペースに、しゃがんで前足を畳んだ。彼女のためのスペースだったかと、マルコが嬉しそうに笑った。

 ニィヤウは二重顎になって目を糸のように細くしている。マルコが背中を撫でると気持ちよさそうにゴロゴロ言った。遼子もこわごわ背中を撫でてみる。

「サンチェスの手は絶対に嫌がるんだ。ニィヤウはリョウコを好きみたいだね」

「嬉しい。ニィヤウってどういう意味?」

「ngiyawは鳴き声だよ。英語でいうとmeow」

 ニィヤウ、ミヤウと、マルコは鳴きまねをしてみせた。

「そうか」遼子はニィヤウを撫でながら、「日本語でいうと、ニャーとかミャーとか、ニャン――」

「リョウコ?」

 ――そうか。

 そうだったのか。

 胸がいっぱいになって、遼子は言葉が出てこなかった。

「マルコ」

 遼子はマルコをまっすぐ見て言った。

「ありがとう。この島に来て、私よかった」

 ニィヤウがコロンと横になってお腹をみせた。

「こいつ甘えてんな」

 マルコがお腹をわしゃわしゃと撫でて抱きかかえる。そして遼子に手渡してきた。

 遼子は慎重に受け取って、ニィヤウを縦に抱っこした。ふわりと、康介が赤ちゃんだった頃の重みとぬくもりがよみがえった。柔らかなその体にそっと頬を寄せると、クッキーみたいな甘いにおいがした。張りつめていた体と心が、ほぐれていくのを感じた。

 朝日が昇る。頬が照らされて、力がみなぎってくるような気がする。ニィヤウの小さな体にも陽が当たって、黒いなめらかな毛がつやつやと輝いた。

「あなたがここに連れてきてくれた」

 小さいけれどずっしり重いその体を、遼子はぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう。ニャン」

 

 玄関のドアノブが回る音がして、遼子は料理の手をとめた。すぐにコンロの火を消して、いそいそと玄関へ向かう。ドアが開き、スーツ姿の太一が入ってくる。ダイエットの効果があって、ほとんど元の体形に戻っている。

「おかえりなさい!」

 満面の笑みで迎えるが、太一は疲れているようだ。ただいまとつぶやくように言ってから、遼子の脇をすり抜けてリビングに歩いていった。黒い鞄をソファの脇に置き、脱いだコートは背もたれにかけて洗面所へ向かう。

 遼子は急いで夕飯の仕上げにかかった。メニューは太一の好物のハンバーグで、おろし醤油の和風にしてカロリーを抑えた。ビールは尿酸値を気にして一日置きにしていて、今日はサイダーの日だ。冷蔵庫から五百ミリリットルのペットボトルを取りだして、氷を入れたコップと一緒にテーブルに置く。

 手洗いを終えた太一がダイニングテーブルに着いた。掃き出し窓のほうを向いて座っているから、遼子は太一の背中に向かってキッチンから声をかける。

「いただきもののレバ刺しを出すから、先に食べてて」

 プシュッと蓋を開ける音がした。

 太一の肩越しには水槽が見える。なみなみと満たされた水の中ではプラティとネオンテトラが泳いでいる。リビングはまた元通りになって賑やかになった。

 康介が帰ってきた。折り目も真新しいスーツ姿だ。

「ただいま」康介は廊下からリビングに顔を出して、「お帰り」と太一に挨拶した。

「ただいま」太一も康介に顔を向ける。「お帰り」

「先にお風呂?」と遼子は聞いた。

「いや、後にするわ。一緒に食うよ」

 そう言って二階に上がっていく。部屋着に着替えて、すぐに下りてくるだろう。

 廊下で共有ドアの開く音がした。

 徳子が、リビングに入ってくる。

「あら、太一くん帰ってたのね。お帰りなさい」

 太一は小さく会釈を返した。

 徳子は太一のすぐ脇に立って、もう一度ゆっくりと言った。

「お帰りなさい」

 太一は黙々と食べ続ける。徳子が「それ」を切りだすのではないかと、遼子は気が気でない。早く康介が下りてくればいいのに。太一の背中が小さく丸まっている。

 徳子の口がゆっくりと開く。

 止めなければ。

 遼子はあわててキッチンを出ようとする。が、足が鉛のように重くて動かない。手には、木箱入りのレバ刺しを持っている。どうしてこんなものを。太一はレバーを嫌いなのに。

 遼子の手から木箱が落ち、徳子がとうとう口を開く。

 ダメだ、止められなかった。徳子は言う。

「ただいま、は?」

 

 ハッと遼子は目を覚ました。

 一瞬自分がどこにいるかわからなかった。成田へ向かう飛行機の座席の上だった。

 じっとりと全身に汗をかいていた。喉もからからで、前の座席のポケットに差していたペットボトルを抜いて、ごくごくと飲んだ。

 窓のシェードを上げると、外は真っ暗だった。

 暗い窓に不安そうな顔をした自分が映っている。その目をじっと見つめながら、夢でよかったと、遼子は心から安堵した。

 

***

 

 康介は自室のベッドに横たわり、組んだ両手を頭の後ろに敷いて天井を見上げている。

 昨日帰国した母さんがもたらしたのは、良い報せだったのか、それとも悪い報せか。どちらかといえば悪いほうだと康介は思った。

 生きていたのは良かった。もちろんだ。けど理解はできなかった。家族を捨てて若い女と同棲しているという父のことも、それを許す母さんのことも。

 許す、というのとはちょっと違うんだけどね、などと母さんは言う。やけにすっきりした顔で帰ってきたが、出した結論からすれば、許すと同義ではないか。

 父はけっきょく家族を捨てた責任を取らないまま、好きな場所で好きなようにこれからも生きていく。あの日以来、母さんにのしかかった経済的負担や苦悩や不安を知ろうともせず、つぐなうことなく生きていく。

 康介は、あの台風の晩のことを、大げさでなく一日たりとも忘れたことはない。後悔して、反省して、懺悔しながら生きている。かつての父からの教え――道理をわきまえ、人に迷惑をかけず、礼儀正しく生きろという教えはそれまで以上に守ってきたつもりだ。母さんのことを、父の分も支えなければという責任も感じていた。

 それが、何なんだ。真面目に生きるのがばからしくなってくる。

 相手がフィリピン人女性というのも、康介がこの現実を受け入れられない大きな要因だった。金にものをいわせて東南アジアの女性をどうこうする一部の日本人男性に、康介は激しい嫌悪感を持っている。だから今回、真っ先に胸に湧いたのは怒りや呆れやましてや喜びではなく、嫌悪感だった。

 そうじゃないの、と母さんは言った。

 ――不法滞在者だからお父さんはまともな仕事にはつけない。エマさんとエマさんの家族のおかげで、ホームレスにならずに済んでいるようなものなのよ。

 不法滞在者。ホームレス。

 かつて父が悪しざまに言っていた存在ではないか。母さんや康介が彼らについて「事情があるのでは」「冬の寒さは気の毒だ」などと口にすると、父は甘えだ自己責任だと反論した。

 考え出したらまた腹が立ってきた。

 ――そう言わずに、一度、お父さんと話してみて。その上で、お父さんは帰国するべきだと康介が考えるのなら、お母さんも改めて考えてみる。

 息子次第で結論を変えるというのだろうか。それはあまりにも主体性に欠けるのではないか。

 ――とにかくビデオ通話してみよう。明日の夜また予定しておいてね。バイトがあるなら夜遅くてもかまわないって、お父さんが。

 それがつまり今日だった。

 対面ならまだしもビデオ通話で、どんな顔をして相対すればいいのか。

 正直気が重かった。が、これからのことはともかく、自分には言わなければいけない一言がある。

 康介はベッドからゆっくりと起き上がり、大きく息を吐いて立ち上がった。

 自室を出てリビングに行くと、母さんはすでに席についていて、ダイニングテーブルの上にはタブレットが横向きに立ててあった。母さんの右隣に、康介は腰を下ろした。母さんがアプリを起動する。約束の十時までまだ十分ほどあるが、父さんはもう待機室にいた。

 康介は画面を見てつぶやいた。

「ミーティング名、親子会議。家族会議じゃなくて?」

「私はもう向こうで話したし、今日は康介とお父さんの対面がメインでしょ」

 母さんはそう答えてから、急に変なことを聞いてきた。

「ねえ康介。あなた常々、私に気を遣ってる?」

「何の話」

「私が康介の人生の、なんていうか障害になってやしないかとちょっと気になって」

 母さんは時々こういう突拍子もないことを言い出す。

「笑いたいときに笑って、好きなことを好きなようにやればいいんだからね」

 ぴんときた。

 きっと、康介も気がかりに思っていたこと――小骨のように心に引っかかり続けていたことだ。

「あのさ」ちょうどいい機会だと思ったのに、つい愛想のない切り出し方になった。

「俺がバイトばっかりするのも、友達が少ないのも彼女がいないのも全部自分由来で、母さんは別に関係ないよ。ていうか全然関係ない」

「あら、そう」素っ気ない相槌とは裏腹に母さんは少しホッとした顔になって、「何かあったときは隠し立てしないで言ってね」

「こっちのセリフ」

「あと。誰といて、どんな話をするかで、気持ちや考え方や人生は変わってくるものだから。あなたにいい出会いがあることを祈ってますよ」

 改まってそんなことを言い、「じゃあお父さんの入室を許可するね」と宣言した。

 ほどなくして、父が画面に現れた。下から仰ぎ見る角度で映っていて、その姿に、康介は驚いた。ものすごく太っていた。聞いて想像していた以上だった。おまけにまた、とんでもなく狭そうな場所で、物という物に囲まれてちんまりと座っている。

 画面ごしに目が合った。

 あ、父さんだ、と思った。

 その目が、大きく見開いた。

 

(第28回につづく)