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くるくるドライヤーでサイドの髪を巻きながら、渡辺瑠璃は「ああ今日はダメだ」と独り言ちた。今日は、というより、今日もか、とまたつぶやいてドライヤーのスイッチを切る。柔らかくてコシのない髪は、どんなにしつこく熱風を当ててもダメなときはダメでペシャンコのまま。だが、まあいっかとも思う。どうせ職場ではひっつめの一つ結わきで、毛先を遊ばせようが、ふんわり仕上げようが、どのみちそうなる運命なのだ。
コンセントをプラグから抜いた瞬間、リビングのほうでガッシャンと嫌な音が立った。何かが割れたような音だ。瑠璃はドライヤーを洗面台に置き、あわててリビングに向かった。
「どうした?」
その呼びかけに、一拍遅れてうわーんと泣き声が響く。
芹菜が天井を見上げるようにして泣いていて、その周りの床に、陶器のアロマポットが割れて散乱していた。
お気に入りの雫型のアロマポット。身長九十五センチの芹菜の手が届かないよう、収納チェストの一番上のさらに一番奥に置いておいたのに。
芹菜はチェストのすぐそばで椅子の上に立って泣いていた。食卓の椅子をあそこまで引きずっていき、座面にのってアロマポットに手を伸ばしたのだろう。
「だいじょぶ? ケガしてない?」近づこうとして顔が歪んだ。「てか臭っ」
大好きな香りのはずのアロマオイルがおぞましい臭気となって、嗅細胞を刺激してくる。
瑠璃の「臭っ」で、芹菜の鳴き声はひときわ大きくなった。
「ああ、もう。泣かない」
急いで芹菜を抱え上げて、ケガをしないよう隣接している四畳半に移動させた。手足を表裏と念入りに確かめたが幸いケガはない。
雑巾で拭くと布が死にそうだ。瑠璃は台所でキッチンペーパーを四、五枚手早く引き抜いてきて、アロマ浸しの床の前にしゃがみこんだ。そのまま、体をひねって掛け時計を見上げる。二時五十分。もうすぐ母親の信枝が帰ってくる時間で、瑠璃は出かける時間だった。任せてしまおうか。でもパートから疲れて帰ってくる信枝にいきなり丸投げするのはさすがに気が引けた。
自分で拭くにしてもゴム手袋をはめてからだ。アロマのにおいプンプンで仕事するなんてご法度だった。瑠璃は床はそのままに、とりあえずよっこらしょと立ち上がった。
水玉模様のクロスをかけた食卓の上で、携帯が鳴った。着信音はインディーズバンド「sloppy tidy company」の曲で、最近好きでよく聴いている。年末には宇都宮でライブがあって絶対に行くつもりだった。
立ち上がって画面をのぞき込むと、見知らぬ携帯番号が表示されていた。どうせ迷惑電話だろう。ここのところ本当に多い。後でブロックしておこう。
着信音はひとしきり鳴って止んだ。と思ったらまた鳴り出した。
「もう何。怖いんだけど」
無視していると今度はSMSに着信があった。さっきの番号からメッセージが届いている。瑠璃は、芹菜が台所セットの前にしゃがみこんで何やら手を動かしているのを確認してから携帯を手に取った。
――渡辺瑠璃さん、こんにちは! 私は彦川中学第五十三期生、渡辺さんが一年生のときに三年生だった香田英司です! 覚えてますか? お元気ですか? 突然の連絡ですみません!
香田のことは覚えている。接点はあんまりなかったけど、香田は生徒会長でサッカー部のレギュラーで、男子からも女子からもけっこう人気だった。
なので迷惑メールでないことはわかったが、なんかもう文面が、最初から最後まで残念だった。ビックリマークを多用する人を、瑠璃はあんまり好きじゃない。こういう文章の人なのかと、謎に落胆しながら続きを読む。
――渡辺さんの携帯番号は、糸山翔平くんから聞きました!
翔平は香田の同級生で、瑠璃の元カレだ。何を勝手に教えているのか。
――このたびお願いしたいことがあってご連絡しました! 彦川総合病院に勤務している渡辺さんにしか頼めないことです! よければ折り返しお電話ください!
こっちに掛けさせるんかいと突っ込みつつ、あの香田が自分に何の用だろうと、怪訝さと同じくらいの好奇心がわいた。家業を継いで結婚して子どももいると噂で聞いている。彦川総合病院に入通院してる患者に関する相談か。あるいは就職したい人でもいるのか。はたまた新規参入したい業者の、口利きを頼みたいとか? 一介の看護師に何の権限もないけれど。
信枝が帰ってきた。買い物袋を手に部屋へ入ってきた第一声が「臭っ」で、親子だなと思う。「後始末はやっとくから、瑠璃はもう出なさい。今日は用があるから早く出るんでしょ」としぶしぶだけど言ってもらい、瑠璃はストローバッグを肩にかけて玄関に向かった。ドタドタと芹菜が後をついて走ってくる。瑠璃はサンダルを履いて三和土にしゃがんで、芹菜の小さな体を抱きしめた。かわいい、いいにおい。アロマオイルはかからなかったみたいでよかった。名残惜しい気持ちで体を離して、両手で包むように芹菜の髪を撫でた。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい。ママお仕事がんばってね」
今よりもっと小さいときは「行っちゃいやだ」と泣かれ、瑠璃も涙をこらえて出勤していた。今はこうして手を振って見送ってくれるが、それでも時折ふと見せる寂しそうな顔に、胸がギュッと締め付けられる。
あちこち染みの浮くコンクリートの階段を、三階から一階まで小走りで下り、目の前の駐車場でアイスグリーンのタントに乗りこむ。エンジンをかけてシートベルトに手をかけて、ちらりと時計表示に目をやった。「今日の用」とは、推しである久遠リョウくんの写真集を買いにいくことだった。何カ月も前に予約して、入荷日の今日を心待ちにしていたのだ。
――お電話ください!
香田の、クソがつくほどさわやかな笑顔がビックリマークとともによぎった。瑠璃は小さく舌打ちし、シートベルトをシュルッと戻して、助手席のバッグから携帯を取り出した。着信履歴の一番上をタップして、耳に押し当てる。
「もしもし! 香田です。渡辺さん?」
「えっと。お久しぶりです」
「いやあ、ありがとう。恩にきる。助かるよ」香田は前のめりに言ってくる。
「いえ、あの、どういうご用件でしょうか」
「実は今、彦川総合病院の前にいるんです。今から会ってちょっと話せないかな」
「いや無理です」即答した。強引にも程がある。「私これから夜勤だし」
「そっか。あ、ちょっと待って」何やら向こうで話している気配があり、「大丈夫。明日でもいいって」
「いえ」誰がいいと言っているのか知らないが、全然話が見えないし迷惑だし勢いがもう本当に怖い。「ちょっと忙しいので。すみませんけど」
切ろうとしたら止められて食い下がられた。早口で事情を説明してくる。
聞けば……たしかに気の毒ではあった。
このまえの台風は大変だった。負傷者が多く出て直後の院内は外来患者でごったがえしたし、そのまま入院した人や、亡くなった人もいた。町内に住む高齢の男性が、家ごと土砂で流されてしまったのだ。あのときの行方不明者のご家族かと、胸が少し重くなる。
香田は言った。
「打越さんのこと、彼らに話してあげてくれないかな」
簡単に言ってくる香田に腹が立ってきて、瑠璃の語気は強まった。
「コンプライアンス上、患者さんのことをペラペラ話すわけにはいかないです。そもそも私は眼科病棟の看護師で、担当外だから打越さんには会ったこともないし。話せることはありません」
そう言って無理やり電話を切った。
シートベルトをし、サイドブレーキを外してアクセルを踏みこむ。これから新谷駅前の本屋さんでリョウくんをお迎えして、病院へ向かう前に『りんりんハウス』に寄ってダブルチーズバーガーを食べてから綺麗に手を洗ってゆっくりページをめくるのだ。至福……!
なのになんだかもう心が晴れない。
打越の存在を、知ってはいた。ある特殊な事情から、院内で情報共有されていたし電子カルテを閲覧したこともある。
本屋に到着し、ガラガラの駐車場に頭から停めたタイミングで携帯が鳴った。また香田だ。用件はさっきと一ミリも変わっていなかった。
「どうしてもダメかな」
「会うだけ会って話さないってほうがお相手に失礼だと思います」
「そんなことないよ。渡辺さんが会って話すだけで、彼らにとってきっと力になる」
たまらず瑠璃は聞いた。
「どういうご関係の方たちなんですか」
聞いて驚いた。ツイッターで知り合って、今日初めて会ったという。
香田という人間を見くびっていた。そうだった。こういう――そういう人だった。
改まって香田は言った。
「彼らを手ぶらで帰したくないんです」
体力には自信のあるほうだが、夜勤は年々キツくなる。
十六時半から翌朝九時までの勤務の間に、休憩は取れたり取れなかったり。ブラックなことに最近はほとんど取れず、取れても五分十分と小刻みであるなか、昨夜は幸いまとまって取ることができた。仮眠室で横になりたかったのに、香田の笑顔が脳裏に現れて、気づけばPCの前に座って電子カルテを覗いていた。形成外科病棟の後輩にも話を聞きにいったりして、結局一睡もできなかった。
瑠璃はあくびをかみ殺しながらハンドルを切り、職員専用駐車場を出た。待ち合わせは駅前の喫茶店『トムハット』だ。
運転しながら、一夜漬けで得た情報を整理する。
土砂崩れに巻き込まれた打越のケガは上半身、特に顔に集中していて、上顎骨、鼻骨、頬骨を骨折、創傷も筋肉や骨に達する重度のものだった。手術は形成外科、耳鼻咽喉科、歯科口腔外科が合同で行い、脳神経外科と眼科も連携して術後丸一日ICUで加療を行ったあと、形成外科病棟に移されている。特筆すべきは、この段階で判明した例の症状だ。この症状によって、打越の名前は院内で広く共有されることとなった。
警察によると身よりはなし。入院保証人は勤務先の総務部長で、その人物以外、見舞いに訪れた人はいなかったようだ。不安感や警戒心の強い不穏の状態で、人に対する怯えが特に顕著だったため、退院まで個室で療養した――。
話せることと話せないことを頭の中で分けてみたが、やはり話せないことのほうがどう考えても多い。
トムハットに到着した。約束の時間から三十分も遅れたのは、病院を出る前、地域連携室に立ち寄ったためだ。瑠璃は助手席のバッグを取りあげ、中に、折りたたんだコピー用紙が入っているのを確認して車を降りた。
遼子さんと康介くん。二人の特徴は香田から聞いていたから、喫茶店を見渡してすぐにわかった。いや、特徴を聞いていなかったとしてもわかっただろう。
二人は喫茶店の一番奥、四人がけの席で、身を寄せ合うようにしてひっそりと座っていた。その姿を見て、ふたりぼっちという言葉が浮かんだ。
ああ、二人はふたりぼっちなんだと。
その言葉は、瑠璃と芹菜にも重なった。自分たちの場合は、旦那の借金グセが原因の決裂であったし、「私がいるでしょ」という信枝の声も聞こえてきそうだが。
三人顔を合わせて挨拶と注文を済ませたところへ、香田から瑠璃に電話がかかってきた。よほど心配らしい。伝言を二人に伝えようとしたら、その前にぼそりと康介がつぶやいた。
「sloppy tidy company……」
瑠璃は目を見開いた。
「知ってるの?」携帯を持ち上げてみせる。
「はい」康介は小さくうなずいた。
「いいよね、この曲」思わず笑顔になった。「今度ライブにも行こうと思ってるんだ」
「自分、去年行きました」
康介はそう言って微笑んだ。その笑みは控えめで、そしてひどく寂しげに見えた。
我ながら単純ではあるけれど、心が決まった。
可能なかぎり話す。力になると。
そうして話しだしてみると、二人は打越の情報を思ったより多く持ち合わせていた。
打越が成人男性であること、彦川町の有料老人ホームの建設現場で働いていたこと、台風二号が上陸した日に居酒屋で一人酒を飲んでいたこと、そのさい康介の父親と会話を交わしたようであること、その後何らかの経緯でケガをして彦川総合病院に入院したこと、昨日退院したこと。
遼子が、A4のノートから目を上げて真剣な顔を向けてきた。
「ひょっとして、打越さんは彦川町在住で、土砂の中から救助された五十代男性ではありませんか」
その通りで、五十二歳だった。誰かから聞いて知ったわけではなく、警察からの情報やニュースと照らし合わせて推測したという。
一番驚いたのは康介の言葉だった。
「〝ここはどこ〟って何ですか」
アイスミルクを飲んでいた瑠璃の口から、ふわりとストローが離れた。
「それは、どこで?」
「打越さんを訪ねて工事現場へ行ったとき、作業員の人が言ってたんです。ずっと気になってて。なんていうか、ちょっと馬鹿にした感じで、他の人と一緒に笑ってたから」
勤務先で大っぴらにされているなら秘匿情報でも何でもない、そう解釈して瑠璃は答えた。
「打越さんは記憶喪失障害を発症していました」
「記憶喪失障害」遼子は驚いた顔で復唱し、不安そうな目を康介に向けてから、おそるおそる続けた。「それは、どの程度の……」
「何も覚えていなかったそうです。名前も住所も家族構成も」
絶句する遼子の横で「あの」と康介が聞いてきた。
「何も覚えていないその人が打越さんだって、どうやって分かったんですか」
「打越さんがウエストポーチを身に着けていて、その中に入っていた身分証明書で確認が取れたようです。土砂に巻き込まれた際に体からポーチが外れなかったのは、不幸中の幸いでした」
なるほどというふうに康介がうなずく。遼子がまた質問をした。
「原因は何なんですか」
「一般的には外傷性と心因性にわかれますが、打越さんは検査の結果、脳に損傷が見られなかったので、つまり心因性ということになりますけど、これと原因を特定するのは難しいものなんです」
「退院までに少しは戻っていたんでしょうか」
「いえ。まったくだったみたい」
「でもいつかは……戻りますよね?」
「多くの場合は時間の経過とともに戻りますけど、稀にそのままという方もいます。打越さんがどちらかは、はっきり言ってわかりません」
「そうですか……」
遼子は黙ってしまった。それはそうだろう。会って話を聞きたいと思っていた相手が何もかもを忘れてしまっていると分かれば。
本当に病院というところは。生と死、喜びと悲しみ、再生と喪失。相反するものを混とんのままに内包する。いつまで経っても慣れやしない。
瑠璃はバッグから紙片を取り出して、遼子に差し出した。
「退院後の生活に懸念有りということで、うちのソーシャルワーカーが生活困難者の支援をしてるNPOにつないでいます」
紙には『特定非営利活動法人ベースホーム』のデータが印字してあり、手書きで、代表である加賀見司の携帯番号が添えてある。
それを遼子は受け取って、折り目を開いて中を見た。両の瞳に、ほんの少し光が戻ったように見えた。
「高次機能障害や認知症の患者さんを支援する団体です。一度ご連絡されてみてはどうでしょう。私の名前を出してもらってかまいません」
ひょこっと康介が頭を下げる。瑠璃も会釈を返しながら、いつかどこかのライブ会場で会えたらいいと思った。というより願った。
店を出るとさすがにどっと疲れが出て、とにかく眠りたくてたまらなかった。香田には、電話だと長くなるから、SMSで報告しよう。ビックリマークだらけのメッセージが返ってくることだろう。