顔を上げて――心臓が止まるかと思った。いや一瞬本当に止まったかもしれない。
遼子がいた。何故こんなところに?
派手なティムティムTシャツを手に、ものすごい形相でこっちを見ている。レオはパニックになりかけながら考えた。逃げるか。いやこの人混みだ。エマを連れて逃げ切れる気がしない。
どうしよう。頭が真っ白になる一方で、そうだ、と思い直した。長らく忘れていたが、自分は〝記憶喪失〟だった。
遼子がおそるおそるという足取りで近づいてくる。蛇ににらまれたカエルのようにレオの体は固まった。
「……太一なの?」
声が震えてる。それに……痩せたなあ。胸がずきんと痛んだ。がしかし心の準備というものがある。ここはひとまずなんとかやり過ごして退却だ。
ハローという顔で笑いかけ、帽子の代金を早々に払おうと財布に手を伸ばした。
すると――
「3001」
遼子の声に思わず手が止まった。
「PINコード。ニャンの体重」
ハッとなった。
しまった。反応してしまった。
それにしても……よくわかったな。そしてわかったということはパソコンを開けたわけで、つまりあの日記を見たということか。
「太一でしょ? 太一なんだよね?」
「え、と。その、何というか」
日本語丸出しになった。
その日本語を聞いた瞬間、遼子の目が大きく見開き、唇がわなわなと震え、やせて萎んだ頬の上をぼろぼろと涙が流れ落ちた。
「太一。太一の声だ。――太一だ」
遼子は両手で顔を覆った。
「よかった……よかった……よかった……生きてた。やっぱりそうだった」
やっぱり、とは?
そう声にする前に遼子は言った。
「ごめんなさい」
「え」
「あの夜引き止めなくてごめん」
謝らなきゃいけないのは、どちらかといえば自分のほうかと思うのだが、遼子はぼろぼろ涙を流しながら、まるで用意していた台詞かのように淀みなく一息に言った。
「一人にさせてごめんね。辛い思いをさせてごめんね。すぐに見つけてあげられなくてごめんね。本当にごめんね」
ぐしゃぐしゃの顔で右手をそっと伸ばしてきて、レオの左の二の腕をさすってきた。四年以上も前の、あの晩のことをそんなに気に病んでいたのかと思うと、引き絞られるように胸が苦しくなった。
横を見ると、エマがまた見たことのない顔をしていた。不安、恐怖、疑心、そしておそらく怒り。
「違うんだ」タガログ語でエマに話しかける。「これにはわけがあって」
「違うって……何が?」エマが声を震わせる。激しくかぶりを振って、レオの反対側の腕――右腕を強くつかむ。ジェルネイルの塗られた爪がレオの肌に食い込んだ。「嫌。レオは私の王様。どこにも行ってはだめ」
「当たり前だよ。僕はエマのものだ。どこにも――」
またもやすごい視線を感じて振り向くと、今度は遼子の隣にいた高身長の男――睫毛の長いイケメンがこっちをにらんでいた。遼子の肩を抱いて、なだめるように撫でている。おいおいどういう関係だ。まさか若いツバメってやつか。
いや、それを言う権利は自分にはないのだった。
とにかくとんだ修羅場だ。店先の太った女がすぐ脇で挑むように見あげてくるし、隣の店先からも、くりくり頭の男と結構かわいい女がじろじろ見てくるし、いたたまれない。
レオは喉をひくつかせた。
「久しぶり……!」
われながらわざとらしい明るさで続けた。
「場所をちょっと、変えないか?」
日本語だとエマがいぶかしむ。タガログ語だとイケメンがにらんでくる。だから英語で提案した。多国共通の英語、すばらしい。ありがたい。
人の少ない穴場だということで、ココヤシに囲まれた小さな入江に連れていかれた。ひと気がなくてうら寂しくて、中二のとき先輩に呼び出された学校の中庭を思い出した。半月型のこぢんまりした浜には、ベンチにおあつらえ向きな流木が横たわっていて、イケメンに言われるがままそこに座った。遼子も、流木の一番向こう端にゆっくりと腰かけた。エマは自分の肩に手を置いてぴったりくっついて立っている。
「リョウコ、大丈夫?」イケメンが砂にひざまずいて尋ねている。「二人きりで話し合う? それとも、僕や彼女がいたほうがよければそう言って。リョウコにとって一番いい方法を選んで」
できたイケメンだ。斎藤工に似てる。どういう関係なんだ。
遼子はしばらくうなだれていたが、やがてぽつりと言った。
「ありがとう。大丈夫。二人で話してみる」
するとエマがノーと叫んだ。
イケメンが立ち上がって今度はエマに近づいた。落ち着いてとか大丈夫とか優しく言い聞かせながら、エマの背中を支えて今来た道を戻っていく。途中で振り返って言った。
「リョウコ。何かあったらすぐに呼んで。僕たちはすぐそこにいる」
何かあったらって何だ。まるで自分が悪者じゃないか。
……まあ、悪くなくはないか。
太腿の上で両拳をにぎって、レオはちらりと左を見た。
遼子はうつむいて洟をすすっている。
「いやー……びっくりしたな……」
反応はない。
「その、なんだ、元気だったか? いや、まあ、元気だからこそ、こうしてここにいて、会えたのかな、なんて」
ちらっと眼をやると、遼子はさっきまでと打って変わった表情になっていた。思いつめたような頑なな横顔だ。
「……康介は、どうしてる。元気か」
遼子はしばらく黙っていたが、大きく吸った息を静かに吐くと、リュックサックを開けてデジカメを取りだした。SDカードを入れ替えて再生ボタンを押す。
――康介が写しだされた。
成人式の写真。初めて見るスーツ姿。すっかり成長して、なんて立派な。
大学の、入学式の写真。第一志望校に合格したのか。すごいじゃないか。
高校の卒業式。懐かしい制服姿の写真が現れて、あの頃の記憶が一気に蘇った。希望していた公立高校に入った康介と、入学式で肩を組んで写真を撮った。あのときの康介は自分よりまだ少し身長が低く、肩も華奢だった。
泣けて泣けて、涙が止まらなかった。
会いたいと思わなかったわけがない。でもしょうがなかったんだ。事情があった。
話さなければならないだろう。あの日から、今日までのことを。
レオ、いや太一は、腹を決めた。
***
雨の中、ハンドルを握りながら、太一は舌打ちが止まらなかった。
ネットカフェで一晩過ごして、体のあちこちがギシギシ言っている。いくらフルフラットの椅子でも、寝づらいし腰は痛いしでほとんど眠れず気分は最悪だ。
それもこれも、康介のあの生意気な態度が原因だ。親に対して、それも一家の大黒柱にあんな口を利くなんて。誰のおかげでまあまあ広い家で飯を食えてると思ってるんだ。そりゃ土地も家も親父から譲り受けたものだけど、維持してるのは自分だ。毎日毎日、意地の悪い上司のもとで働いて家族を養っているのに、感謝するどころか見下げるような視線を送ってくる。
小さいころ、庭で康介と縄跳びをした記憶がよみがえった。
――お父さん、すごい!
なかなか跳べるようにならない康介に、太一は何度も二重跳びの手本を見せてやった。思い出して、不覚にも目頭が熱くなる。
すき家に入って、まず温かいお茶を頼んだ。本当はキンキンに冷えたシュワシュワがいいが体のためだ。
牛焼鮭まぜのっけ朝食を注文した。ごはんはミニ。五十手前ともなると、炭水化物をあまりとるわけにいかない。本当は白米が大好きなのだが、すぐ太るので自制している。そういえば祖父はぽっちゃり気味だったし、親父が中肉中背なのは節制のたまもので、この太りやすさは家系なのではないかと恨めしく思う。
出されたお茶をすすって、すき家オリジナルの湯呑に目を落としていたら嫌なことを思い出した。今年の正月、傑の帰省にあわせて隣の家に集合したときのことだ。正と徳子と遼子は町内会の誰それと玄関先で立ち話をしていて、康介は自室で勉強中、ダイニングには珍しく太一と傑だけがいた。
食器棚の奥に、太一はごつくて大きな湯呑を見つけた。手に取ってみるとズシリと重く、瓢箪柄で縁起もいい。徳子に断って今日はこれでお茶を飲もうと考えていると、傍で見ていた傑が言った。
――懐かしい。それ姉ちゃんの日光土産だよ。親父全然使ってないし、姉ちゃんも忘れてそうだけど。
遼子が小学校の修学旅行で買ってきたものだという。傑はこの手の記憶力がいい。
少し酒が入っていたのもあって、太一はつい余計なことを口走った。
――俺、実は日光って行ったことないんだよね。
やはり小学校の修学旅行先だったが、高熱を出して行けず、その後も訪れる機会がないままこの歳まで来た。単に縁がなかっただけで、行こうと思えばいつでも行けるのに、傑は、まじで? と鼻で笑った。
――関東住みで華厳の滝見たことないとかあるんだ。
太一は湯呑をそっと棚に戻した。元あった場所よりもっと奥にしまった。
傑のことが苦手だった。苦手というか、はっきり言って嫌いなタイプだ。ずるい、と何となく思ってしまう。全然うらやましくないし、ああなりたいわけでも全くないのに、甘やかされてうまく渡り歩いているあの感じに神経が逆なでされる。そしてそんなふうに思う自分に嫌気がさす。だいたいだいぶ年上の自分のことを、気安く太一くん呼びして――。
いや、傑のことはどうでもいい。それより康介だ。最近のあの態度の悪さや不機嫌さの理由を自分はわかっている。正と徳子。あの二人が引っ越してきたときから、我が家のバランスは崩れだした。
おふくろが死んで半年もしないうちに、徳子たちがうちにやってきて、だしぬけに「大宮のアパートがそろそろ更新時期で」などと切りだした。
――幸い、隣が空いてるじゃない?
おふくろが死ぬのを待ってたみたいなタイミングだった。
遼子も遼子だ。ふだんから自己主張が苦手なところはあるけど、あの二人の前になるとほとんど物言わぬ人形のようになる。けっきょく、正と徳子の言い分をほとんど聞く形で、なし崩し的に二世帯同居が始まった。
正の晩酌にしょっちゅう付き合わされるようになった。「どこそこのビルを建てたのは自分」だの「社会的資産を後世に残せた」だの、自慢話を延々聞かされる。あげく「男たるもの目標は大きく持たないと」と説教される。
その正が倒れたのを機に共有ドアがとうとう二十四時間オープン状態になり、リビングでおちおち寝転がることもできなくなった。徳子が「だらしない」と小言をいってくるからだ。ビールは勝手に飲まれるし、禁煙の我が家でスパスパ吸われるし、心の叫びが止まらない。誰の家だと思ってやがる、家賃と光熱費ぐらい入れたらどうだ。
すき家を出て、ふたたびハンドルを握る。腹が立っても行き場はなく、ネットカフェ連泊も耐えられずで、しぶしぶ自宅に向かう。
坂を上りきると、我が家が見えてくる。合わせ鏡みたいに並び立つ二軒の家。自分の家に帰るのに、気が重いと言ったらない。遼子は今日は仕事だし康介も学校だから、正と徳子に会いさえしなければ、書斎に直行して引き籠もることができる。くつろげるのはもはやあの部屋だけだった。
あっちの家の玄関先に須美江がいるのが見えた。傘を差して話しこんでいる。昔から苦手な下卑た笑い声が窓を突き破って聞こえてきそうだ。
太一はそっとブレーキを踏み、十メートルほどバックして、小さな十字路で右折した。話に夢中で、どうせこの車には気づいてもいない。
――ただいま、は?
ほうれい線の目立つ徳子の口元が浮かんでぞっとした。
ああいやだ。帰りたくない。
当てもなく自宅を遠ざかりながら、いいことを思いついた。
そうだ。日光へ行こう。
JR東海のCM「そうだ京都、行こう」のBGMが脳内で再生された。思いつくまま、着の身着のまま、ふらりと日光を訪れる。手ぶらで泊まる。ワイルドじゃないか。太一はアクセルを踏み込んだ。
華厳の滝はすばらしかった。台風の影響で水量が増して大迫力、傑もここまでの景色は見たことがないに違いない。遼子にもLINEをした。
――今どこにいると思う?
ただし誤算もあった。
福助という名の看板猫がいる宿だと、人気の旅ブログで見たからネット予約したのに、その猫が今年に入って老衰で死んでいた。銅像がございますので、と、若いホテルマンが部屋に案内しながら生真面目に言った。今日という記念すべき日に、銅像のためにわざわざこんな、何もかもが中ぐらいの旅館に泊まるわけがない。そうはいってもネット決済済みだし、この雨だ。しぶしぶ泊まるが、寝る前に外へ飲みに行くことにした。
そういうのに、太一はずっと憧れていた。ぶらりと訪れた先で、宿は素泊まり、地元の人が通うような小さな店で一杯飲みながら地のものを頼んで好きなだけ食べる。
これまで家族で出かけたときは、二食付きのプランだからと、おいしいのかおいしくないのかわからない似通った料理をなんとなく食べてきた。遼子はそのほうが悩まなくていいし、らくちんだと言って嬉しそうに食べていたが、太一は不本意だった。
風呂を済ませ、六時十分前には一階に下りて食堂へ入った。まるまるキャンセルしようと考えていたが、いい匂いがしていたしさすがにもったいないので、食べたいものだけ食べることにして、コース料理を全部いっぺんに並べてもらった。
血糖値が上がらないように野菜から、とか、バランスよくとか三角食べとか、親からいわれて守ってきたルールは一切考えない。野菜は堂々と残す。肉、揚げ物、白米、デザートを完食して立ち上がった。うまかったし満足だ。
これから一杯ひっかけに行く。この嵐のなか一人きりで。
経験したことのない非日常感に、体じゅうの細胞が湧きたつのを感じた。
エレベーター前の自販機で追加の缶ビールを買って部屋に戻ったら、打越が畳に倒れ込んで寝息を立てていた。太一はビール缶をテーブルに置いて座椅子に腰を下ろした。
一番手前のビールに手を伸ばしてプルタブを引きおこし、その手で缶を持ち上げて口に運んだ。キンキンのビールを味わいながら、行き倒れたようにうつ伏せで寝ている打越に苦笑する。居酒屋を出てホテルに向かう道中、何度も傘をおちょこにしながら「朝まで飲むぞ」と息巻いていたが、部屋に入ったときにはすでに眠そうだった。
それにしても居酒屋どんちゃんはいい店だった。ぶっきらぼうで強面の店主は理想的で、何より飯が最高にうまかった。あのたまり漬けとイワナの塩焼き、おふくろに食べさせてやりたかったな、とぽつりと思う。晩年は関節痛に悩まされていたけれど、その他はいたって健康で、なのに肺炎であっけなく逝ってしまった。食べることが好きだった人なのに最後の最後は病院食で、結果がああなら自宅に連れて帰って、せめて好物のブリ大根を食べさせてやりたかった。
太一は洟をすすって、ふたたび打越を見た。
太一が居酒屋に着いたときにはたぶん相当飲んでいたんだろう、この部屋に来てから打越は呂律の回らない口でずっと一人語りをしていた。上機嫌でよくしゃべったが、時折漏らすつぶやきに、その人生の苦難と孤独を垣間見る思いがした。
打越は、居酒屋のそばの工事現場で働く作業員だった。県内外の現場を転々としているという。十七歳で母親を亡くして高校を中退してからは、母親の知り合いだった女性を頼り、その女性が貸し出している家賃三万の部屋でずっと一人暮らし。家族はなく、人付き合いも苦手で、友人と呼べる友人はいないのだと薄く笑った。
――俺の人生は上がりのねえすごろくみたいだ。誰かにサイコロ振られて、同じところをぐるぐる回って、所々に落とし穴があって、下には行っても上には行けねえ。だったら早く母ちゃんのところに行きてえなって思うけど、天国に上がれるんかもわからんし、何の因果か体だけは丈夫なんだ。どうしようもねえな。
太一はぐいっと目をこすった。
まったく違う人間なのに、打越の孤独が自分ごとのように感じられた。最初に会ったときに思ったのだ、自分たちは似ていると。
家があって家族がいても、職場にデスクがあって大勢に囲まれていても、太一は孤独だった。毎日満員電車に揺られ、働いて、我慢して、節制して、礼儀正しく生きてそれが何だというのか。同期の丸山は友達だと思っていたが、人事異動の一件でむしろ敵に思えてきた。この気持ちが人事異動直後の今だけなのか、それともこれからずっとそうなのか、わからない。わからないことがおそろしい。
もしかしたら自分はいつか丸山の下で働くかもしれない。そして義両親と完全同居同然のあの家で寝起きし、仕事から疲れて帰っても小言をいわれたりぞんざいに扱われたり、一人息子から冷ややかな目で見られたりする。妻さえも完全なる自分の味方ではない。
Tシャツ姿の打越は寒そうで、一人倒れ込むその寝姿まで自分に重なって見えた。太一は部屋の隅によけて置いてあった掛布団を取って、打越の背中にかけてやった。
打越のビールも自分で飲んで、そうしたらすぐに睡魔はやってきた。昨日ほとんど寝ていないからだ。座椅子に凭れてうとうとしていると、打越の声が聞こえた気がした。「どうした?」と目をこじ開けると、打越は同じ姿勢のまま、しかし布団を蹴とばして寝ていた。もごもごと動く口元が、にやついている気がして太一は笑った。
マリアちゃんの夢でも見てるのか?
マリアとは、現場の先輩に連れていってもらったフィリピンバーで出会った女の子で、明るくて楽しくて本当にいい子だったという。他人からあんなに優しく対等に接してもらったのは初めてだったと、唯一嬉しそうに話していた。打越は給料が入るたびその店を訪れて指名をしたらしい。打越の誕生日には手作りのフォトスタンドを、マリアの生まれ育った島の写真入りでもらったそうだ。
――そのマリアちゃんがさあ、フィリピンに帰っちまったんだ。また日本に来るかなあ。住所教えてもらったから俺があっちに行くかなあ。いつかもう一度会いたいなあ。
太一はふたたび眠りに落ちた。
ノックの音が聞こえたような気がした。が、目が開かない。
またノックだ。太一は顔をごしごしと擦り、這うようにドアの方へ向かった。畳に手をついてゆっくり立ち上がり、よろけそうになりながら入り口に向かう。ドアノブに手を伸ばした瞬間、がちゃりと鍵の回る音がして、ちょっと目が覚めた。
何だ?
ドアを開けると、ホテルマンが立っていた。避難がどうだと言っている。雨風がそんなにひどいのか。すぐに一階へ下りるよう指示されたが……打越が起きない。ホテルマンと一緒に打越を支えて部屋を出ようとしたが、ドアをくぐる寸前で一階から悲鳴が聞こえた。ホテルマンの顔色がさっと変わって、何がなんだかわからないが大変そうだったから太一は言った。
――ここからは一人で大丈夫なんで。
そうは言ったものの、打越の体はおそろしく重かった。全身の力が抜けた状態だから片側から支えて歩きだしても、すぐにずるずると体が下がってしまう。打越、起きろ、と呼びかけ続けているが目覚める気配もない。
壁を使って打越の体を支えた。背負うことにしたのだが、自分の背中のリュックと、打越の腹に着いているウエストポーチがぶつかりあって邪魔だった。
太一は打越の背中を壁に沿わせてしゃがませると、腹からウエストポーチを外して自分の腹に巻いた。リュックも胸の前に抱え直して、打越を背負おうとした、そのときだった。
部屋の電気が消えて真っ暗になった。
停電? 何かの影響だろうか。手探りでリュックから携帯を取り出し、ライトで照らす。
ふと見ると、打越の白いTシャツの裾がめくれて白い腹が見えていた。日焼けした顔の色と違う白くすべすべした肌に、青黒い染みが見えた。太一はおそるおそる手を伸ばしてシャツを胸のあたりまでめくった。あざだった。それも一つだけではない。紫、青、えんじ……いろんな色の、大小さまざまなあざと、それから、この赤い斑点は煙草を押しつけられた痕か? 打越の体を前に倒して背中を見てみたら、こちらにもあざと斑点が一面にあった。きっと脚や肩や尻――見えないところにもっとあるんだろう。
居酒屋を出た直後に打越とかわした会話を思い出した。家はどこだと太一が聞いたとき、打越は苦笑いで答えた。
――今日は現場に泊まり。朝まで資材を見張っとくよう言われてる。
――こんな夜に一人で?
――俺はそういう役回りなんだよ。
それ以上は言いたくなさそうだった。
Tシャツの裾を戻してズボンのウエストに入れてやった。涙が止まらなかった。
起きろと必死に呼びかけ頬を叩くと、打越はうめいて薄目を開けた。その体に少し力が戻る。太一は立てと叫んで渾身の力で打越の体を抱え起こした。びっくりするぐらいの力が出て、打越の体は太一の背中にのった。
太一は上半身を大きく前に倒し、部屋を出て、足元の誘導灯を頼りに、ゆっくりと少しずつ進んだ。打越の体がずりおちそうになって、背負い直そうとしたとき、目の前がぱっと明るくなった。電気が復旧したのだ。
誘導灯は階段のほうに延びていたが、太一は方向を変えてエレベーターのほうへと向かった。
体をより深く折って打越の体を支え、なんとか手を伸ばして、震える指先でボタンを押した。
大丈夫。絶対に助けてやる。逃げるんだ。ここからも、そんなところからも。そしてマリアのところに行こう。一緒に。
轟音がした。
電気がまたたいた。
何だ?
太一は顔を上げた。声をあげる間もなかった。