「えー横顔だけ? 画像も粗いし。さすがにこれじゃ分かんないよ」

 動画も見せたけど首をひねっている。

 携帯は女性に次々わたって全員が画像を確認したが、知っている人はいなかった。

「日本人なのは間違いないの? 他にヒントは? ヒント、ヒント」リザが手を叩く。

「残念ながらこれだけなんだ」

「しょうがないなあ。かわいいマルコに免じてオーナーにも聞いてきてあげる」

「ありがとう。去年のタワフェスの日に撮ったものなんだ」

「OK」リザは携帯を手に立ち上がりかけて、すとんと座り直した。「待って。一年前?」

「そう」

 するとリザは右手の人差し指をこめかみに当ててつぶやいた。

「なんか……もしかして……」

「会ったことあるの?」思わず身を乗り出した。

「ていうかここに来た人かも」画像を開いてもう一度じっくり確かめてから、顔を上げてぐるりと女性陣を見まわした。「ねえ、みんな覚えてない? タワフェスの夜にさ、三人組の日本人が来たじゃん」

 反応は薄い。

「すごい気前がよくてさ、VIPルーム貸し切りで楽しい楽しいって、メンバー入れ替えながら全員指名して、テキーラも入れてくれて。そのうちの一人がこんな感じじゃなかった?」

 すると何人かから「あー」と声が上がった。

 リザは体を反転させて座席に膝立ちし、パーティションに手をかけて隣の席に話しかけた。

「ねえ、マユミちゃん、覚えてない?」

 返事はない。

「マユミちゃんてば。起きて!」

 パーティションから身をのりだして、女性の体を揺すっている。マユミと呼ばれた女性はうめきながらのろのろと体を起こした。リザがマルコの携帯を握って隣の席に移動する。

「マユミちゃんのことさ、すっごい気に入ってた人がいたじゃん。その人じゃない?」

 マユミは眠そうに目をこすりながら画面を見ていたが――。

「ぽいね」

 まさかのビンゴだった。

 マルコも急いで立ち上がって、リザの反対側、マユミの左隣に座った。

 動画のほうも確認したマユミが、うん、と大きくうなずく。やった。報酬!……じゃなくてリョウコに報告だ。ところで今気づいたけど、マユミはすごい美人だった。ニィヤウが伸びをするときみたいな、綺麗にしなった眉毛と切れ長の目、艶々の口元にはほくろがある。

「間違いない?」とマルコは尋ねた。

「たぶん」

「名前わかるかな」

「そこまでは。あ、でも名刺もらったと思う」

 そういってバックヤードから箱を持ってきてくれた。二十センチ四方ぐらいの紙の箱に、ぎっしり名刺が詰まっていた。いつか何かの役に立つかもしれないと、取ってあったらしい。まさに今日役に立った。探すのを手伝おうとして、マルコは気づいた。

「名前が分からないのにどうやって探すの?」

「日付と特徴を書きこんであるの」

 そう言って一番上にあった名刺を細くて長い指で取り上げて、裏側を見せてくれた。12/29/25、スケベ(中程度)、オーサカ、四十代日本人と書き込んである。

「なるほど」

「君なら」マユミがじっと見つめてくる。「長い睫毛、セクシーな唇、かな。背高いね。年はいくつ?」

「二十歳。背は百七十六センチ」どぎまぎして、慌てて名刺に視線を向けた。「えっと。去年のタワフェスは一月十二日だから」

「その日付のを探せばいい」

「他に何て書きこんだか覚えてる?」

「お金持ちとかVIPとかじゃない?」マユミは一枚一枚名刺を見ながら、「ああ、なんかだんだん思い出してきた。もしかしたら捨てちゃったかもしれない」

 顔がちょっと険しくなったように見えたのは気のせいか。

「あの人さ」カードゲームみたいに一緒に探していたリザが言った。「気前がよくて、そんなにスケベじゃなくて、いいお客さんだったよねえ」

「私たちにはね」とマユミ。

「どういう意味?」マルコが聞くと、マユミは肩をすくめた。

「お客さんのこと、あんまり悪く言えないから」

 めちゃくちゃ気になって、全部じゃなくていいから教えてと食い下がり、思い出したというエピソードをなんとか聞かせてもらった。端的に言って最低だった。一番嫌われるタイプだ。

 リョウコに何て報告しよう。ていうかリョウコはそいつの何なんだ。

 

 

***

 

 

「勘弁してよ。先方、カンカンなんだけど」

「すみません」遼子は頭を下げて書類を繰った。営業課の杉山に背後に立たれて、冷や汗がにじむ。

「年内ちやつきんで回してたでしょ?」

「あの、急いで捜して、見つかり次第処理して連絡しますので」

「頼むよ。新年早々支払い漏れとかさ」

 すみませんとまた頭を下げる。パッケージメーカーの今田工業所から来ていた十一月の請求分が未払いだという。が、未処理ボックスを何度捜しても見当たらない。営業から上がってくる請求書は必ずここに入るのだが。

 隣の島で電話中の里美と目が合った。口の動きで「大丈夫?」と聞いてくる。遼子はこくりとうなずいてから、他の書類に紛れてはいないかと、決済済のボックスの中も見ていった。すると、PC画面の端に新着チャットが表示された。杉山からだ。

 ――申し訳ない! こっちに残ってました。これから請求あげるんで、よろしくです!

 力が抜けた。杉山とのこの手のやり取りは今回が初めてでもなく、怒る前に確認してほしいと切に思うが、それ以上に書類が見つかってホッとしていた。

 机の上に広げた書類を片付けてから、裏返して置いておいたメモを手に取る。請求書を捜す途中、キャビネットの奥底で見つけたものだ。

 ――大谷課長殿 月次決算チェック完了いたしました! 堂島どうじま

 堂島あまが書いた古いメモで、パッチリ目の女の子のイラストも描かれていた。敬礼のポーズで「ビシッ」という効果音が書き添えられている。

 課長の大谷、それから天音と立て続けに退職し、その補充で、正社員転換した遼子が経理に配属されたのだった。天音とは結局、あれから一度も話す機会がなかった。

 会社帰りにスーパーに寄り、セルフレジでカード決済しながらフィリピンへの送金のことを思う。プライベートで海外に送金したのは初めてで、しかもマルコが口座を持っていなかったから、いろいろ調べて送金した。

 請求額は三千ペソ、日本円で八千円弱。

 この金額を、遼子はどう受け止めていいかわからなかった。

 最初は低い金額を請求し、徐々に吊り上げていく詐欺の手口だろうかとも考えた。そうなら次は迷いなくブロックするつもりだ。

 でも、そうではなく、本当に力になってくれようとしているとしたら。経済的に厳しい生活をしている異国の人に対して、お金を払えるのをいいことに負担を強いているのではないか。そんな心配と後悔にさいなまれていた。

 ――How much should I pay?

 英語で送ってよかった。細かいニュアンスを伝える語学力がなくてよかった。「いくら払えばいいんですか」だなんて逆切れみたいな醜い日本語が伝わらなくてよかった。

 買い物袋を手に門扉を開けようとしたとき、車のライトが辺りを照らし、エンジン音がゆっくり近づいてきた。振り返って、息が止まりそうになった。

 白のインサイトだった。

 運転席に――太一がいる?

 車がきっと音を立てて停まった。窓が開く。いつも太一が座っていた運転席の窓だ。

「あっぶね」顔を出したのは傑だった。「どうしたのフラフラ近づいてきて。超焦ったわ」

 ああ、そうだった。この車は葬儀を済ませたあと、傑に譲ったのだ。

 ただ、傑が引き取りにきた日は遼子は仕事で、帰宅したらもうなくなっていたから、動いているこの車を見るのがすごく……本当に久しぶりだった。

 車はカーポートをいったん行き過ぎてから、バックでゆっくり入ってきた。運転席のドアが細く開いて、そろそろと傑が降りてくる。

「うぃす。あけおめ」

「おめでとう」同じ場所に立ち尽くしていたことに気づき、急いで敷地に入って門を閉めた。「今日はどうしたの?」

「母さんから聞いてない? 近くに用事があったからついでに寄ったんだけど」

「そうなんだ。メールを見落としたのかも。今日はバタバタだったから」

「相変わらずお忙しそうで」傑は車のうしろに回り、トランクを開けた。

「陽菜さんの体調はどう?」

「それがねー」何かをトランクから取り出しながら「ま、家に入って話すわ」

 大きな段ボールを抱えて玄関に向かう。その背中に遼子は声をかけた。

「ねえ、車の鍵、ちょっといいかな」

「へ?」玄関ポーチで立ち止まり、片足を上げて腿で段ボールを支えながら肩越しに言った。「どっか行くの」

「そうじゃないけど」

「尻のポケットに入ってるから取ってよ」

 遼子はジーンズのポケットから飛び出しているグッチのキーホルダーを引き抜いて、車を振り返った。買い物袋をカーポートの隅に下ろし、そろそろとインサイトに近づく。背後で、傑を出迎える徳子の声がしている。そっと車体に触れた。

 冷たい。

 助手席側のリアドアを開けて、ゆっくりと体を滑り込ませる。

 芳香剤のにおいが変わっていた。ダッシュボードにも、アニメキャラクターのフィギュアが並んでいる。

 ドアを閉めて密室になると、静寂の中で懐かしさが一気にこみあげた。この場所が遼子の定位置だった。

 千葉の外房が、みんなで行った最後の旅先だった。

 二泊三日の帰路、康介はわずかに幼さの残る寝顔を見せて、遼子の隣でぐっすり眠っていた。

 義母は助手席で太一にずっと話しかけていて、太一は運転しながらにこやかにそれを聞いていた。その横顔は、柔らかくて優しくて、遼子が一番好きな太一の顔だった。

 家に到着する間際、義母が「旅が終わっちゃうねえ」と寂し気につぶやくと、太一は言った。

 ――次はハワイにでも行くか。

 元気なうちにみんなで行こうと、日程を決めてパスポートも取ったが、直前で義母が体調を崩しキャンセルになった。康介が中二の冬のことだ。

 助手席のシートに手をのせ、ヘッドレストにおでこをつける。帰らない日々を思って胸が詰まりそうになる。

 家に入ると、徳子からメールが二通届いていた。

 ――今日傑が来るって。帰りは何時頃になりそう?

 ――三人で少し話そう。荷物を置いて落ち着いたらうちにおいで。

 言われたとおりに向かうと、徳子は台所で湯を沸かし、傑はダイニングテーブルで携帯をいじっていた。

「遼子お帰り。疲れたでしょう」

 和室への折り戸は今日も閉まっていて、テレビの音が漏れ聞こえている。遼子は戸を少し開け、隙間から顔だけ出して正に声をかけた。

「お父さんただいま。体調はどう?」

 反応はなく、ぼんやりした顔でテレビの画面に向かっている。今日はあまり調子が良くないみたいだ。

 徳子は傑の隣に座って急須でお茶を淹れながら、華やいだ声をあげた。

「三人でこうして顔を合わせるのはいつぶりだろうね。康ちゃんも早く帰ってくればいいのに」

 康介は今日から三学期で、夜は塾講師のバイトが入っていると言っていた。

 徳子は湯呑をそれぞれの前に置いてから「ビッグニュースがあるのよ」と顔の前で手首を返した。

「陽菜さん、妊娠したって」

 えっと声が出た。

「今つわりがひどいんだって」

 そうだったのか。徳子からいろいろ――離婚するかもしれないなどと聞いていたから予想外の展開だが、よかったね、おめでとうと素直に思ってそう言った。

「何カ月なの?」

「今九週だって」徳子が答える。

「そっか。大事にしないとね」

「うす」傑は顎を突き出して、茶菓子の入った籐籠に手を伸ばした。

「ほんとよ」徳子がお茶をすする。「安定期までは油断できないからね。それなのに、今行ってる産科があんまり良くないらしいの。で、調べたらここの近くにすごく評判のいい産院があるのがわかったんだって。きらら産婦人科っていうところ」

 知ってる。全部屋個室、豪華な食事で有名なセレブ産院だ。会社の人がそこで出産して、写真を見せてもらったことがある。

「陽菜さん、三十九でしょう。体のことも心配だし、そこで産みたいらしいんだけど、傑の家から通うのはちょっと遠いからねえ。道が空いてても四十分くらい、混んでたら一時間はかかるのよね?」

「ん」傑がせんべいを齧りながらうなずく。

「だから、ここから通ったらどうかっていう話。いずれにしても産後はしばらくここで過ごすだろうし、陽菜さんのご実家はいろいろ複雑な事情があるから」

 徳子はお茶をすすって続けた。

「幸い、うちの二階は空いてるし」

 遼子は言葉が出なかった。

 そしてさっきの段ボールに思い当たった。身の回りのものを、すでに運びこんでいるのではないか。

 胃のあたりがむかむかしてきて、話を続けようとする徳子を、遼子は遮った。

「ちょっと具合が悪いからその話はまた今度でいいかな」

 二人の顔を見ずに立ち上がる。

「ごめんね。傑、陽菜さんお大事に」

 家へ戻ってすぐ、衝動的に共有ドアに鍵をかけようとして――止めた。本当なら鍵をかけてしまいたかった。せめてこのドア一枚分くらいの距離を置きたい。

 冷蔵庫を開けて水のペットボトルを取りだす。お雑煮用に買った三つ葉が、ラップに巻かれた状態でくったりしていた。

 別に、一目置かれたいわけじゃない。雑にしないでほしいだけだ。

 コタツに入り、布団を肩まで引き上げて卓上におでこ付ける。指先が氷みたいに冷たかった。陽菜は義母の葬儀には来なかったから、結婚したときと義父の葬儀のときの二度しかこれまでに会っていない。

 徳子からメールが来た。

 ――体調はどう? 前から思ってたけど、遼子、更年期じゃない? 命の母が効くから飲むといいよ。それと傑たちのことだけど、陽菜さん、来週にもきらら産婦人科を受診してみるって。ねえ遼子、私だって思う所はあるけど、気持ちよく迎えてあげましょうよ。傑の子で、あなたの甥っ子か姪っ子になるんだから。布団を用意するのは私がやるので、二階の片付けを一緒に、今週末か、遅くとも来週末にどうですか。

 おでこをつけたまま顔を横に向けて、卓上のカレンダーを見た。今週末は三連休だ。なんだかんだで三日間、片付けでガッツリ潰れる未来が見える。

 今度はホイッスルの通知音だ。卓面に頬を付けたまま、虚ろな目でマルコからのメッセージを読んだ。

 ――リョウコさん、あの男性の名前と連絡先がわかりました!

 

(第20回につづく)