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マルコはとても気分が良かった。
さっきリリアから電話があって、何もかもが順調であることが分かったからだ。ニューイヤーミサの祈りが届いた。神のご加護でみんながハッピーになった。リョウコからのDMは福音だったんだ。
マルコはハンモックの上で薄目を開けた。高い空は夕焼け色のグラデーション。その空に向かって梯子をかけるみたいにヤシの木が二本伸びていて、先端の葉を揺らす潮風は、マルコの頬も優しく撫でる。
乾季の夕方、最高……!
瞼を閉じて再びまどろんでいると、猫の鳴き声が聞こえた。
その声の主は少しの間のあと、マルコの右脛にトンとのってきて、膝、太腿、脇腹とゆっくり移動してきて止まった。
「ニィヤウ」
マルコは目を閉じたまま猫の名を呼び、滑らかなその毛並みを撫でた。ニィヤウはされるがまま、喉をかすかに鳴らして大人しくしている。彼女は一歳とちょっとの黒猫で、右目が夕陽色で左目が空色のオッドアイ、食いしん坊なせいか少しぽっちゃりしている。ここハーフムーンビーチで生まれた野良だが、去年の暮れに突如バイラルになって今では世界の人気者だ。
ニィヤウはマルコの脇腹で惰眠をむさぼることにしたようだ。しゃがんで体を丸くした。
ともに至福の時を味わっていると、耳障りな声が聞こえてきた。大股で十歩行ったところにある店先から、サンチェスが自分を呼ぶ声だった。
「マルコ!」
サンチェスは仕事仲間かつ一番の友達だけど、とりあえず無視した。今いいところなんだ。
「マルコ! おい、マルコ!」
声はだんだん近づいてきて、何度目かの「おい」の直後に、右手の甲を何かがかすめた。
手の下のニィヤウが立ち上がり、トン、と脇腹をひと蹴りする。同時に重みとぬくもりが消え去った。
マルコは仕方なしに目を開け、店のほうに顔を向けた。店の前に人だかりができていた。十人ぐらいいる。
反対側の、海側へ頭をひねると、ニィヤウはもう波打ち際にいて、尻尾を高々と掲げて夕陽を背に船着き場のほうへ歩いていく。夕焼け色の景色の中で、ニィヤウだけがくっきりと黒く浮かび上がっている。写真を撮ろうと体をひねって短パンの尻ポケットに手をやったが、携帯がない。店先にまた置いてきてしまった。
軽く舌打ちしてハンモックを下り、そばに落ちていた青いキャップを拾って、白砂をはらってかぶった。
はだしで砂を踏みながら、しぶしぶ店に向かう。
木造の小さな建物で、ニッパヤシの葉で葺いた屋根には「フードスタンド」の白い看板がかかっている。隣に「ティムティム島へようこそ!」の看板が並んでいるのは、ここがビーチの入り口だからだ。
ハーフムーンビーチはその名のとおり半月形をした八百メートルほどの浜だ。浜辺沿いには土産物屋や飲食店が並んでいて、このフードスタンドはその東端、船着き場に近いところにある。売っているのはテイクアウト用のストリートフードで、鶏肉や豚肉の串焼き、魚のすり身団子、それとうずら卵の衣揚げ、バナナのカラメル揚げなんかだ。酒やジュースも置いてる。
サンチェスが店先でマンゴーにナイフを入れながら「遅いぞ」という目を向けてきた。早番のマルコの仕事は今日はすでに終わっている。肩をすくめて返すと、サンチェスは大きな声を張りあげた。
「お待たせしました! かわいいかわいいあの猫ちゅわんの大親友、マルコくん登場です!」
観光客たちがいっせいに振り返り、拍手と歓声が起こった。白い肌と黒髪の女の子たちで――みんなかわいい。
俄然やる気が出た。
マルコは両手をあげて歓声にこたえながら軒下に入り、作業台をはさんで女の子たちと向き合った。オーダーを確認して、ココナッツジュース作りに取りかかる。
作業台の脇に積み上がっている若いココナッツの実の中から、緑色が濃くて旨そうなやつを一つ取り、叩いて音を確かめてから台の上に置く。作業台の下から鉈を取り出し、まずヘタを落とすべく硬い外果皮めがけてカン! と刃を打ちつけると、赤いサマードレスの子の口がOの字に開いた。目が合って、にこっと笑いかけてくる。
かわいいな。
ヘタを落とした断面に、刃を水平に当てて繊維質を削っていく。内果皮にぶつかったら、断面を上にして置き直し、刃先を使って小さな穴を開ける。そこにストローを挿して一丁上がりだ。これをあと二個。他の子たちはサンミゲルのビールを注文していた。
「どこから来たの?」最後の一個を手渡し、バナナキューの代金とあわせて三十五ペソを受け取りながら英語で聞いた。韓国だというので「アニョハセヨ」と言ってみたら、嬉しそうに笑ってくれた。彼女たちはパオワイ島出発のアイランドホッピング中で、今日はT&Tアイランドリゾートホテルに泊まるらしい。島一番の高級ホテルだ。お金持ちなんだな。
ニィヤウのことを聞かれた。マルコのインスタを見てティムティム島に来ることを決めたという。サンチェスが口を挟んだ。
「さっきまでこいつと一緒にうたた寝してたよ」
また歓声が上がった。ニィヤウに会いたいというので、居そうな場所を教えてあげる。
「さっき船着き場のほうに歩いていったから、桟橋のあたりにいると思うよ。入り口の木の柱で時々爪研ぎするんだ」
一緒に探そうかという提案は、かわいい笑顔で断られたけど、チップをいっぱいもらえたからまあいいや。
「俺に感謝しろよな」サンチェスが分け前の半分をポケットにねじこみながら言う。
「ニィヤウのおかげだろ」
「ふん」サンチェスは鼻の横に皺をよせた。「彼女たちが会いたいのは仔猫のニィヤウだろ。さっきハンモックにいたのにも気づかなかったじゃないか」
それはまあたしかに。今のニィヤウはぽっちゃりキュートな大人の猫だって教えたほうがよかったかな。
マルコはガタガタするスツールに座ってぼんやりと海を眺めた。
ビーチは、今は人がまばらだけど、今度の日曜日は大変な賑わいになる。年に一度のお祭り、タワタワフェスティバルの日で、パレードや花火を見に、いろんな国や地域から人がたくさん集まってくる。
隣でサンチェスが携帯をいじりながら「そういえば」と切り出した。
「この前の日本人どうなった?」
「リョウコ?」
「知らんけど。その後連絡あったか」
「いや」マルコは体をひねって、レジ代わりの缶箱の横に置いておいた携帯を掴んだ。「まさかまた勝手にメッセージ送ったりしてないだろうな」
リョウコ宛てに、もっと調べてあげるとか手数料が必要とか、サンチェスが勝手に送っていたのだ。とんでもない金額を請求しようとしていたから送信間際にあわてて止めて――控えめな額に修正した。
早々にGCashに入金があったのには驚いたけど、緊急事態だったから本当に助かった。
「もっともらえばよかったのに」とサンチェスは不満そうだ。「調査の手数料なんだから」
調査と言ったって、家族と友達に画像を見せて、Facebookとインスタのフォロワーに画像を共有しただけだ。手間らしい手間は動画から画像を切りだしてトリミングしたくらいで、お金は一ペソも使ってない。そして〝横顔の男〟を知る人は誰もいなかった。
さっきより空の青が濃くなって、水平線すれすれのところにいる太陽の光が海面に細長い道を作っている。海はマルコにとって砂やヤシや空気と同じようにただそこにあるもので、わざわざ泳いだり潜ったりする観光客の気持ちは分からないけど、夕方のこの時間の海は飽かずに見入ってしまう。だって毎日違うんだ。ニィヤウもそう。猫なんて好きでも嫌いでもないけど、ニィヤウだけは特別に感じる。
マルコは海に向かってスマホを構えた。
撮ったばかりの写真をいつものようにすぐ確かめてみるけど、今日もやっぱり納得がいかない。自分の目で見た景色と、画面におさまった景色とで、どうしてこんなにも違ってしまうんだろう。スマホが中古の廉価版だからかな。だったら最新式が欲しい。機能はそんなに要らなくて、カメラスペックの高い、景色が最高に綺麗に撮れるやつ。
隣から「えいくそこのおんぼろ」とアマンダおばさんの声がした。また扇風機が止まりでもしたんだろう。マルコは立ち上がって隣に向かった。アマンダの店は、ティムティムと大きくロゴの入ったTシャツや、貝殻でできたアクセサリーなんかを売る土産物屋だ。夕方になるといつもアマンダは軒先に椅子を出して、延長コードでつないだ扇風機の風にあたる。
今日はその太い膝に、動かない扇風機をのせて、角度を変えながら眺めていた。
「見てやろうか」
「ああマルコ。頼むよ。まったく、このまえ電気屋が修理したばっかりなのに」
どれ、と受け取り、羽を指で回したり、ひっくり返して底面を見たりしてみたけど、さっぱりわからなかった。台風で飛んだ屋根を葺きなおすのとか、ひびのいった壁を直すのとかは得意だけど、電気系統はさっぱりだ。
そういえば、アマンダにまだ男の写真を見せていなかった。マルコは右の尻ポケットから携帯を出して画面を見せた。
「おばさんこの日本人知ってる?」
「有名人?」
「たぶん違う」
「知るもんか。いくらマイナーな島のマイナーなビーチだって、それなりに人はくるんだ。いちいち覚えてらんないよ」
「だよね」
あきらめて扇風機を返そうとしたら、アマンダが付け加えた。
「日本人のことならKTVで聞けばいい」
「なんで?」
「カラオケテレビの、カラオケは日本発祥なんだよ」
「へー」知らなかった。
扇風機は、手渡す前に強めに叩いたら動きだした。
お礼にタマリンドの飴玉をもらった。舐めながら戻って、携帯に目を落としているサンチェスに聞いた。
「ねえ、KTVって行ったことある?」
「ない。けどうちのボスはマニラのKTVに行ったことがあるらしいよ。セクシーな美女がたくさんいて、一緒にカラオケ歌ったり酒飲んでしゃべったりするんだって」
「カラオケ付きのナイトクラブってこと?」ナイトクラブも知りはしないが。
「まあそんなとこだろ」にやりとこっちを見上げた。「何、お前KTVに行くの」
「行かないよ。ていうかそんな金ないし」
「なあ、だからもっと請求しようぜ。緻密な調査が必要だからとか何とかいって」
「緻密な調査って?」
「それはお前が考えることだ。頼まれてるのはお前だから」
「何のプランもないのに知らない人から金だけもらえないよ」
「いいんだよ。日本人は金持ちなんだから。持てる者が持たざる者に分け与えるのは神の恵みの共有、愛の実践だ。ましてやこれはギブ&テイク。なんかワケもありそうだし、面白そうじゃんか。俺は恋愛のもつれと見たね」
サンチェスはいたずらっぽく目を見開いた。
「その男の居場所を突きとめたら、どえらい報酬が出るかもしれないぜ。そしたらまた山分けだ。KTVにも行けちゃうね」
二歳上のサンチェスの頭の中は泉みたいだ。自分はそんなに次々アイデアは湧かない。
それより、報酬といえば今日のこれ――マルコは左の尻ポケットに触れて、さっきもらったチップを手で確かめた。
「ちょっとバイク借りるね」
「おう」サンチェスは携帯に目を戻した。「店を閉める八時までには戻せよ」
そんな遅くまで出歩いたりしない。リリアや弟たちが心配するし、首尾よくアレを手に入れられたら、一刻も早く帰るつもりだ。
マルコは店の脇に駐めてあったバイクにまたがり、エンジンをかけて砂の上を走りだした。海を背に走ると右側にはココヤシの林があって、木の根元のそこここに花火や爆竹の燃えカスが吹き溜まっている。年越しイベントで出たゴミだ。
砂浜を突っ切って公道へ出る。シーサイドアベニューという名の通りをマルコは左に曲がり、海を左手に見ながらゆっくりと走った。五百メートルほど行くと突き当たりにマーケットがあって、食料品や日用品はいつもここで買う。マーケットを右に折れた先が、この町、ダガットタウンのメインストリートで、道沿いには役場や診療所や小学校、それからダガットタウンで一番どころか、サウスコースト州で一番大きな教会がある。
マルコは教会の前を過ぎ、食堂や屋台から漂ういい匂いをかぎながら、サリサリストアの隣の、雑貨屋の前にバイクを駐めた。ニューイヤーミサの日、父親は前日のケガで右足を引きずってはいたけどまだ元気で熱もなかった。だからみんなでここを歩いて、そうしたらリリアがこの店の前で立ち止まって、目をきらきらさせてショーウィンドウにおでこをくっつけた。
そのショーウィンドウを同じように覗きこんで、マルコはホッとした。リリアが見ていたウッド素材の黄色い花のペンダントがまだあったからだ。急いで店に入って、ペンダントを買った。今日もらったチップに、手持ちの金のありったけを足してちょうど買えた。リリアは美人というよりキュートだから、可憐なこのペンダントはきっとすごく似合うと思う。
マルコはバイクにまたがった。リリアの勤め先の学校はすぐそこだ。学校の教師で、頭が良くて優しくて、五つ上の姉リリアはマルコの誇りであり自慢だった。もちろんタタイも弟たちも、そして天国にいる母親も。
リリアからメッセージが来た。
――万歳! タタイが起き上がったよ!
写真も来た。タタイがベッドの上で体を起こして、学校から帰った弟たちがボードゲームのマンカラをやるのを見ている。思わず目頭がじんと熱くなった。弟たちの手前、平気なフリをしていたけど、本当は不安だったのだ。あんなふうに弱っているタタイを見たことがなかったし、マーケットの肉屋のおじさんはタタイと同じようにガタガタ道の泥水の中で足の裏を切って、小さなその傷のせいで足を切断してしまった。診療所も薬局も、お金がなければ行くことはできない。
いいものを持って帰るよとリリアに返事をして、ペンダントの入ったプラスチックバッグを風になびかせながら、今来た道を戻っていく。
マーケットの前でジョンに会った。ジョンはトライシクルのドライバーだけど、今日はもう仕事が終わって帰るところらしい。買ったばかりのランツォーネスを一つ投げてよこしてくれた。じゃがいもみたいなそれを片手で持って、走りながら口にもっていく。薄皮を歯でむいてペッと出して透明の実をかじると、ライチの味に似た果汁が口に広がった。おいしいけど小さすぎて一個じゃ足りない。
フードスタンドが近づいてくる。バイクを返すために公道から浜へ右折で入ろうとして――そのまま通りすぎた。海を右に見ながら直進して、坂道を上がっていくと、鷲の鼻と呼ばれている岬にさしかかる。減速して眼下を見ると、沈んだばかりの太陽が、名残惜しそうに水平線を染めていた。
鷲の鼻を過ぎると、道はいったん海から離れて内陸に伸びる。
民家も商店もない、森に挟まれたエリアを抜け、高台のリゾートエリアに入った。海を見下ろす高級ホテルが立ち並んでいて、今日の女の子たちが泊まると言っていたT&Tもある。通りの向かいには洒落た雰囲気のレストランやバーが連なり、賑わっていたが、マルコはそれらを素通りし、少し行った先でバイクを減速させた。KTVの看板が、ナイトクラブを挟んで二つあった。
二つ目の店の前で、マルコはバイクを駐めた。
せっかくアマンダが教えてくれたのだし、何より、タタイに薬を買ってあげられたのは送金のおかげで――つまり遼子は恩人だった。サンチェスの言った〝報酬〟のことが、まったく頭に無いと言ったらウソになるけど。
なのに目の前のKTVにはシャッターが下りていた。休みだろうか。
隣のナイトクラブにはピンク色のネオンがともっていて、坂を下って近づいていくと中から女の人の笑い声が聞こえた。ここはちょっとハードルが高そうだ。
通り過ぎて、二軒目のKTVの前に立った。コンクリート造りの建物で、アルミ製のドアの横に「ハッピースクエア」と看板がかかっている。文字が青く点灯しているから営業しているみたいだけど、こちらは物音一つ聞こえてこない。
おそるおそるという感じで玄関ドアに手をかけた。静かにゆっくり手前に引き、隙間から中をのぞこうとした瞬間、「いらっしゃいませ!」と大きな声がして、びっくりして慌てて閉めてしまった。
ドアが向こうから開いて、茶色い髪と赤いリップの女の子がひょこっと顔を出した。
「いらっしゃいませ?」
ちょっと上を向いた鼻がかわいくて、友達のアナに似てる。
マルコは右頬をかいた。
「ごめんなさい。客じゃないんだ」
「あらそうなの? 残念」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「へー、何ナニ。お姉さんが教えてあげられること?」彼女は楽しそうに言ってドアを大きく開けた。「ちょうどよかった。すっごくヒマだったから! あ、私はリザね」
「マルコです。ありがとう」
入ってみると店内は横に長く、夕焼け色の照明がともっていた。正面にマイクスタンドとアンプを置いたステージがあって、あそこでカラオケをするのかなと思う。ステージの真ん前のテーブル席に女性たちがかたまって座っているが、一人だけ、寝ているのか隣のテーブルにつっぷしていた。その人を含めて女性は全部で九人、テーブルは八席。VIPルームのプレートがついたドアもある。
マルコは、花みたいないい匂いのする女の人たちに囲まれて小さくなって座った。サンチェスが言っていたとおり、みんな超のつくミニスカートを穿いている。露出でいえば水着のほうがずっと高くて、しかも仕事で見慣れてるのに、目の前のこれは種類が違う感じでドキドキした。隣のリザは黄色いタンクトップにデニムのホットパンツで、マルコはこっちのほうが好きだ。
リザがぎゅっと体を寄せながら、顔を覗きこんできた。
「そ・れ・で、教えてほしいことって?」
頼まれて人を捜してる、と、事情を説明するとリザは探偵みたいだと目を輝かせた。
マルコは尻ポケットの携帯を出してリザにあの男の写真を見せた。
「この日本人なんだけど。見たことない?」