遼子は二階のベッドで布団をかぶって体を丸めていた。こうしている場合ではないのに体が言うことを聞かない。早く起きて、行かなければ。でもどこに? とにかくどこか、太一のもとへ。だって太一は――。
そこで思考は停止する。とてもその先には進めなかった。
あさひ屋のバスに太一が乗っていなかった理由について、五十嵐は「間に合わなかったようだ」と説明した。太一がバスへ乗り込む前に土砂崩れが起きた、と。
なんで。どうして。太一だけ?
――ご主人と、男性がもう一人、計二名と聞いています。
もう一人って誰。他の宿泊客? 従業員?
――不明とのことです。
意味が分からなかった。
素性の分からないその誰かとともに、太一は置き去りにされたというのか。
混乱して、電話口で何を言ったか自分でも覚えていない。一方、五十嵐は冷淡とも思える生真面目さで説明を続けた。
――バスは午後十時過ぎにあさひ屋を出発したそうです。
九時二十分に避難を開始したのではなかったのか。そう聞いても返事はなかった。分からないという。
――避難途中に落石で進路をふさがれて立往生し、今なお身動きの取れない状態だといいます。場所は彦川山の北側、五代展望台付近とのことですが救助隊もまだ到着できておらず、電話連絡を通じて宿泊客らの安否を確認していると。その中で聞き取った支配人らの証言をもとに、今後太一さんを捜索する予定です。
証言とは、どういう?
――詳細はまだ。ホテル側から入った情報は、現段階では以上です。
そしてまたあのフレーズだった。
――詳しいことが分かったら連絡します。
連絡なんて要らなかった。太一を帰してさえくれれば。
ドアをノックする音がして、「入るわよ」と徳子の声が続いた。ドアが開いて人の近づいてくる気配があり、すぐそばで声がした。
「どう、具合は」
「……大丈夫。今、何時」
「十時ちょっと過ぎたところ」
布団から少し顔を出すと、ほうじ茶の香りが鼻腔をくすぐった。
「梅干し食べる? 眩暈に効くのよ。須美江さんからもらった梅で、ちょっとしょっぱいけど」
遼子は静かに頭を横に振った。
「お茶と一緒に、ここに置いとくからね」
瞼をこじ開けると、目の前の景色はぼんやりと霞がかっていた。白いはずの天井に緑色やオレンジ色の閃光が走っていて、揺れて歪んで回っている。遼子の額に、徳子の分厚い手が伸びてきて前髪をかき上げながらゆっくりと動いた。
「青い顔して、かわいそうに。なんでこんなことに」
徳子は今朝がた一人でうちへやってきた。五十嵐との電話を切った直後というタイミングで、太一が行方不明だと知ると色をなした。
――どういうことなの。
遼子こそ知りたかった。が、とにかく今は分かっている範囲で説明をしなければと、ぐちゃぐちゃの頭を整理して、一緒に聞いている康介のことも考えながら言葉を尽くしていたら、突然目の前が暗くなった。景色が白黒になって、壁も床も天井も溶けたように崩れはじめた。たまらず座りこむと、寝てきなよと康介が言って体を支えてくれた。
遼子は徳子のほうに顔を向けて声を絞りだした。
「……康介、どうしてる?」
「二階の部屋にこもってるよ。一階で一緒にいたほうがいいんじゃないかって、私は言ったんだけど」
「朝ごはんは、食べてた?」
「キッチンにあったパンと牛乳で済ませてたわ。作ろうかって言ったんだけど」
部屋に一人でいる康介の姿が浮かんで、居ても立ってもいられない気持ちになる。
「あんたも何かお腹に入れないと」徳子はベッド脇から立ち上がって、隣の太一のベッドに腰かけた。「とにかく、無事を今は祈るしかないよ」
「うん……」
「それにしても、なんだって栃木に」
遼子もずっと考えている。
「心当たりは本当にないの?」
かぶりを振って答えた。親類にも共通の知り合いにも栃木在住の人はいないし、仕事やプライベートで特に縁があったという話を聞いたこともない。
「あさひ屋のバスの人たち」独り言のように徳子はつぶやいた。「午後にでもヘリコプターで救出されるって」
「……………」
「天気が回復して、視界が良くならないとダメらしいけど」
そうなんだ、早く救助されるといいねと、きっと応じていただろう。何の関係もない第三者であったなら。いや、今だって思っている。早く助かったほうがいいに決まってる。
けれどどうしても、そうではない思いもこみあげてくる。太一を置いて自分たちだけ。ずるい。ひどい――こんなことを一瞬でも浮かべる頭と心をどこかに捨ててしまいたい。
「なんだかね」徳子は出窓のほうに顔を向けた。「複雑な気持ちだよ」
その視線の先――遼子の頭上の出窓には、黒猫の置物がある。「ニャン」と名の付くその猫をひと目見たくて、遼子は枕の上で首を伸ばした。
ニャンは前足を揃え、背筋を伸ばして泰然と座っていた。太一が遼子に初めてくれた贈り物で、出張先のお土産だといって、ウェットティッシュボトルくらいの大きさの箱を、洋食屋のテーブルの上におずおずと出した。引き寄せると予想外に重くて驚いた。
「鋳鉄製のそういうのが好きなんです」と太一はうつむきながら首の後ろをかいた。「重たい硬質な感じの、だから機械の部品とか工具とか、あとマンホールとか、そういうのを見たり触ったりするのも好きで」と。一息に話した。
箱から出したニャンは寸胴で無表情でふてぶてしい風体をしていた。後で計ってみたら三キロもあって、友達や徳子からはセンスがないと酷評されたが、遼子には面白く、可愛く思えた。何より出張先からこの重たい猫と一緒に帰ってきたのかと思うと心が温かくなった。
二十年も前、遼子が信金に勤めていた頃のことだ。
太一との出会いはたまたまだった。昼休み、同僚たちとのおしゃべりに少し疲れて外階段に出たら踊り場に太一がいて、何をするでもなく空を見上げていた。太一は総合設備会社の社員で、電気工事でそのビルに訪れていた。一週間ほどの工事期間中、三度そこで立ち話をした。太一の話には親近感をおぼえる点が多かった。しゃべるのが苦手で大勢も苦手で、猫が好きだがアレルギー持ちで飼えないのだと。聞いて、似ていると思った。遼子の場合は、アレルギーではなく両親の猫嫌いが飼えない理由だったが。
あれから二十年。ニャンも二十歳で、そのニャンを最近ではまともに見ていなかったことに気づく。出窓のカーテンを開けたり閉めたりするとき、拭き掃除をするとき、必ず目にして持ち上げてもいたのに、ニャンが三キロあることにも不愛想なことにも無頓着だった。
目の前にあってたしかに見ていたのに、何とも思っていなかった。
「遼子? 聞いてるの」
「……ごめん。何の話?」
「だからね、さっきお父さんと話したのよ。お父さんの会社の人とか業者さんとか、議員さんとか商工会とか、伝手を頼ってできるだけ多くの人に協力をお願いしたらどうかって。建設業界だから地元に精通してるだろうし、いろいろ融通が利いたり優先してもらえたりするんじゃないかって」
融通や優先が具体的に何を指すかは分からなかったが、手を差し伸べてもらえるのならすがりたかった。
「それでね、関係先にお願いするにあたって、一つ提案があるのよ。太一くんが栃木にいる経緯のことなんだけど。家出っていうのはちょっとほらアレでしょう。何か他の理由、たとえば人に会う予定だったとか、栃木に用事があったとかにしたほうがいいと思うの。仕事でっていうのが本当は一番いいんだろうけど」さすがにそれはアレだからと小声で挟んで、「もともと予定してた休暇だったってことにするのはどう」
「そんなの……こんな時に……」
「大事なことよ。方々にお願いをするわけだから、こちらもきちんとしていないと。金土日と観光で、ううん療養で滞在していたってことでどうだろう」
ね、それがいい、と徳子はうなずいてから続けた。
「傑にもこのこと、知らせたほうがいいわね。家族なんだもの」
傑は三つ年下の弟だ。同じ横浜市内に住んでいるが、遼子と会うのは年に一、二回で、前回会ったのはお正月。傑は一月三日の昼過ぎに一人で顔を出し、お雑煮を食べるとお節を手にすぐ帰っていった。結婚してそろそろ十年経つが〝実家〟の集まりに妻の陽菜が来ないのは例年のことだ。
傑のことは任せると遼子は答えた。
「じゃあその方向でお父さんと話すわ。大丈夫。太一くんは必ず見つかる」
徳子が出ていくと室内は静寂に包まれ、遼子の頭の中にまた混乱が戻ってきた。負の思考と感情が次から次へと沸き上がって吹き荒れる。
太一がどこにいるか分からないこと、帰ってきてほしいこと、
帰ってきてくれるのかどうかということ。
徳子に対する感謝ともやもや。自己嫌悪。
焦り、不安、恐怖、罪悪感――。
遼子はきつく目をつぶり、頭の中の嵐が過ぎ去るのを待った。
ベッドの上からサイドボードに手を伸ばすだけの余裕がやっと出て、遼子は携帯を引き寄せてラジオアプリでニュースをつけた。
冠水で軽自動車に閉じ込められていた砂石町在住の三十代男性が、無事に救助されていた。土砂崩れで倒壊した民家から親子とみられる女性二名も救助され、病院に搬送されたという。ヘリによるあさひ屋のバスの救助はまだ始まっていないようだ。
遼子はゆっくりと起き上がり、ラジオのついた携帯を手にベッドから下りた。少しふらつくので慎重に歩いて廊下へ出ると、一階のテレビの音がここまで聞こえた。康介の部屋のドアは閉まっている。覗いて様子を窺いたいが、もし眠れているのであれば寝かせておいてあげたかった。
壁を伝って太一の書斎へと入った。なぜ栃木なのか、もしかしたら手掛かりがあるかもしれない。
電気をつけると、窓のない四畳半の部屋が白々と照らされた。元は物置部屋だったのを太一が使いたいといって昨年片付け、デスクセットと本棚を新たに置いた。
入って正面にデスク、左手に六段組の茶色い本棚がある。
本棚は上から四段目までがすべて漫画で『釣りバカ日誌』『クッキングパパ』『島耕作』などが並んでいる。次の段はゲーム関連の雑誌や単行本で、タイトルに『マインクラフト』と入ったものが多い。一番下の段は実用書や実務書で、電気工事士や電気工事施工管理技士の資格を取ったときに使ったと思われるテキストや問題集もあった。
デスクはL字型で、二十七インチのゲーミングPCとサブモニターが載っている。遼子は背もたれの長いゲーミングチェアを引いてそこに座り、パソコンを起動した。四桁のPINコードを求められ、まず結婚記念日を入れてみる。以前共有していたノートパソコンのそれに倣ったのだが、違った。続けて太一の誕生日を入れた。これも違う。康介、義父母、自分、それから住所、電話番号と心当たりのある数字を入れていったがどれも違っていた。今年の西暦二〇二一もダメ。
諦めて、デスク脇のラックの前にしゃがみこんだ。太一が手作りした黒い三段ラックで、上段には、ニンテンドースイッチや3DS、プレイステーションといった歴代のゲーム機と、コントローラ、綺麗に巻かれたケーブル、充電器などの周辺機器が収まっている。中段は『ダイ・ハード』や『男はつらいよ』などのDVDとともに、『テラリア』『アストロニーア』『ポータルナイツ』などゲームソフトが並んでいるが、最近はもっぱらマイクラだけをPCで楽しんでいたようだ。
勝手に見てごめんと心の中で断って、遼子は下段の引き出しを開けた。
カラフルなファイルがグラデーションで並んでいて、一冊ごとに不動産関連、保険証書類、取扱説明書といった具合にまとめられていた。その中の黄緑色のファイルが名刺入れだった。名刺に印字されている住所は神奈川と東京がほとんどで、千葉、埼玉、それから関西方面もあったが、栃木のものは一枚もなかった。
住所録も見つけた。青い表紙で少々古びている。あ行から順にめくっていくと、出てくる地名は名刺よりは広範囲にわたっていたが、それでも栃木県は一件もなかった。
遼子も見知っている親友二人の名前もあった。どちらも大学時代の同級生で電気工学科卒、年に数回二人か三人で会っていて住まいはそれぞれ東京と千葉だ。
他にも何かないかと引き出しを探っていると、つけたままのラジオから「速報です」と聞こえてきた。
――彦川町の土砂崩れの現場から、三十代から四十代とみられる男性一名が発見されたもようです。
容態は不明でこれから救助が始まるという。息を止めるようにして耳を傾けていたがそれ以上の情報は流れてこず、遼子は携帯を手に立ち上がって廊下へ出た。康介も同時に部屋から出てきた。
「康介、今――」
「見たネットニュース。ツイッターにも流れてきた」携帯を手にしている。
階段の下では徳子がこちらを見あげて手招きしていた。
「遼子、康ちゃん。今呼びに行こうと思ってたのよ」
正がテレビのボリュームを上げる。正以外の三人はソファの横に立ち尽くしてニュースに見入った。
「ねえ」徳子がテレビに目を向けたまま遼子の腕をつかんで揺すった。「これって太一くんかしら。太一くんかもしれないわよね。そうだといいんだけど。でも違うかもしれないし」
よさんかと正が一喝する。だって、と徳子は正の隣に腰を下ろした。
続報が出ず、五十嵐からの連絡もないので、こちらから問い合わせることにした。が、なかなかつながらない。
「電話が殺到してるのかな」
電話を切りながら遼子がつぶやくと、康介が携帯を差し出してきた。
「かもしれない。こんなのもアップされてるし」
見せられた画面には、ツイッターのとある投稿が表示されていた。
――この人、取り残されてるっぽい。 #SOS #台風二号 #豪雨災害 #土砂災害 #栃木県新谷市彦川町 #あさひ屋
画像も投稿されていて、建物の屋根の上のような所で男性が膝を抱えて座っている。写っているのはその背中と横顔。周囲を濁流に囲まれて身動きが取れないようだ。
かなり遠くから撮影したものらしく被写体が小さいうえ画質が粗くて、顔を判別することはできない。白っぽい半袖の服を着ている。
遼子は画像を拡大して目を凝らした。
「救助されたのってこの人、なのかな」太一の面影をなんとか見出そうとする。
「投稿されたのは一時間前。拡散されて万バズしてる」
「これ、どうやって見つけたの?」
「〝あさひ屋〟で検索した」
目の前で携帯を操作して検索結果を見せてくれる。
――ねえ待って。あさひ屋が消えてるんだけど。
――あさひ屋終了のお知らせ。
――これはひとたまりもないかもしれんね。
胸を突きさす言葉とともに、現地の写真や動画が無数に投稿されていた。冠水した田畑や住宅、堤防すれすれまで嵩を増した濁流、そして土砂崩れの現場。
「こんなのも見つけた」淡々と示したのは、プロフィールに彦川町消防団員とあるアカウントだった。「さっきDM送ってみた。父さんのこと何か分かったら教えてほしいって」
遼子は苦しくなって康介の横顔を見た。
「ねえ、こうやってずっと調べてたの」
「ずっとってわけじゃないけど」と携帯を閉じる。
「ありがとね」自分のふがいなさに申し訳なさがこみあげてくる。「でもあんまり根を詰めないで。こういうの、これからはなるべく……分担しよう」
SNSをまったく見るなというのは無理だろうが、康介の心が心配だった。