全身から力が抜けて座り込みそうになる。

 違う。太一じゃない。

 言葉なく立ち尽くしていると看護師は無言で会釈をし、ベッドを押して遼子たちの前を通り過ぎていった。静まった廊下にキャスターの回転する音が響き、次第に遠ざかっていく。

 チン、とエレベーターの到着を知らせる音がした。複数人の足音とひそやかな話し声が続く。それらがぴたりと止んで、一瞬完全な静寂が訪れた。

 静寂を切り裂くような叫び声が轟いた。

「お父さん!」

 若い女性の声だった。「お父さん」「あなた」「よかった」と声が重なる。呼びかけとすすり泣く声が追い打ちのように遼子の耳に聞こえてきた。

 

 外村がいてくれてよかった。

 そうでなければ、遼子は、おそらく康介も、長椅子から立ち上がることができなかっただろう。いつまでも戻ってこない遼子たちを案じて、様子を見に来てくれたのだった。

 支えられるようにして病院を出ると外は真っ暗で、雨は上がり……空には星が出ていた。横浜で見上げるよりずっとたくさんの星々が、雨で洗われた夜空で、明度の高い澄んだ光を湛えて震えるように輝いていた。信じられないくらいに綺麗で悲しい、残酷な光だった。

 そして今、遼子はホテルのベッドに腰かけて呆然としている。新谷駅前に唯一あったビジネスホテルで、外村が手配をしてくれたのだった。外村自身も別室を取り、今後どうするかは明日話しましょうと言ってくれた。

〝その後〟のことを何も考えていなかった。太一ではないかもしれないなどと口では予防線を張りながら、その実、覚悟なんてできていなかった。

 康介は、隣のベッドのさらに向こう、窓際の椅子に座っている。椅子の背にもたれ、腰をずらした姿勢で窓の外を向いていた。暗いガラス窓に映る表情は虚ろで、その目には何も映っていないように見えた。あれから、一言も声を発していない。

 自分がしっかりしなければ。

 その思いが唐突に猛烈に湧き出してきた。

「康介」と呼びかけたが応答はない。

 遼子はリュックから水筒を二つ取り出して窓辺に近づき、一つを康介に差し出した。

「お水。飲みなさい」

 康介は黙ってゆっくりかぶりを振る。その両手は太腿の上にだらりと投げ出されている。遼子はその左手を取って、水筒を握らせた。

「飲みたくなくても飲みなさい」

 手の中の水筒を、康介はだまって見下ろした。

「脱水症にでもなったら、明日お父さんを捜せないよ」

 康介が顔を上げてゆっくりとこっちを見る。

 その目の前で遼子は水筒の蓋を開け、ごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。倒れてなんかいられない。明日の為に、今できるのはまず水を飲むことだった。パーキングエリアを出てから一滴も飲んでいなかったから、ひと息に半分ほど飲んで手の甲で口をぬぐうと、体に少し力が戻った気がした。

 康介もようやく、一口、また一口と水を口にしてくれた。遼子はリュックを取ってきて、康介の向かいの椅子に腰かけた。

「ごはん食べよう」リュックから保冷バッグを取り出す。「おばあちゃんのおにぎり」

 バッグには三種類のおにぎりが二個ずつ入っていた。

「梅干しとおかかと昆布、どれがいい?」

「……どれでも」

「よし。じゃあ私は梅干しから」

 お腹はあまり空いていなかったけど大きな口で頬張った。それでも康介の手が伸びないので、リュックの中から今度はレジ袋を取りだしてテーブルに置いた。

「おにぎりが入らないなら、この中から食べられそうなもの選んだら」

 チェックインしたあと外村が近くのコンビニで買って、届けてくれたのだ。

 サンドイッチ、バナナ、栄養チョコバー、ゼリー飲料、それからお茶とスポーツドリンク。食欲のことや日持ちのこと、いろいろ考えて買ってくれたのだと分かる。

 テーブルに全部並べて遼子は言った。

「外村さん優しいね。十年もお向かいに住んでて知らなかったよ」

「……うん」

「バナナはどう?」

「……おにぎりもらう」梅干しを選んで一口齧る。「すっ、ぱ」

「ほんと須美江さんの梅、酸っぱい。美味しいね」

 康介が食べてくれた。それだけで心がホッとやわらいだ。

 康介がシャワーを浴びている間に、徳子へ電話を入れる。

「遼子?」徳子はすぐに出た。「ああよかった。心配したわよ」

「ごめん、すぐに電話できなくて」

「代わりに外村さんが病院から電話をくれてね。聞いたよ。私もお父さんも本当にがくっときちゃって。あんたと康ちゃんは大丈夫なの?」

「なんとか。康介も少しだけ落ち着いて、さっきやっと食べてくれて。おにぎり三つも食べたのよ。美味しかった。ありがとう」

「あんたも食べたんだね。疲れただろう」

「そうだね。疲れた」言葉にすると疲れが増す気がした。

「太一くんのこと、名前は出ないけどテレビでやってるよ。身元不詳の男性のことも」

「そう……」あれからニュースは見ても聞いてもいなかった。情報を追い続けるには勇気と忍耐が必要だった。

「七十二時間の壁ってのをテレビじゃしきりに言ってる。七十二時間以内だと生存確率が高いんだって」

 何と応じればよいかわからなかった。

「まだまだ猶予はある。大丈夫よ太一くんは」

「……うん」

 シャワーの音が止んだ。

「そろそろ切るね。須美江さんにもくれぐれもよろしく伝えて」

「何かあったらすぐ連絡するんだよ」

 おやすみと言って電話を切ると、浴室から康介が出てきた。

「湯舟には浸かった?」

 こくりとうなずいて答える。

「よかった。温まったでしょ」おにぎりを食べている間にお湯を張っておいたのだ。

 康介は無言でベッドにもぐりこんだ。

「疲れたでしょう」入り口の電気だけ点けて、あとは消した。「私もお風呂入ってくるから先に寝てるんだよ」

 着替え一式を手に浴室へ向かい、服を脱ごうとして、洗顔道具をベッドの上に置き忘れたことに気付いた。そっとドアを開けて部屋に戻ると――隣のベッドからすすり泣きが聞こえてきた。布団を頭からかぶって、康介が泣いていた。

 ベッドのそばにいって縁に座り、掛け布団の上からそっと頭を撫でた。

 しばらくして消え入るような声がした。

「……僕のせいだ」

 遼子は手を止めた。

「僕のせいでこうなった」

「康介」しめつけられる思いで「それは違うよ」と言い聞かせた。

「違わない」

「ちがう」一語一語区切るようにはっきりと言った。「お父さんが出ていったあの晩、私言ったよね、康介のせいじゃないって。康介との喧嘩がなくても、あの日お父さんは出ていったんだって」

 なぜそう思うかも説明した。

 わかったと康介は言っていたけれど、納得してなかったのだ。

「自分はクソだ」吐き出すように康介は言った。「父さんがどうなってるか分からないのに。苦しんでるかもしれないのに。おにぎり三つ食べた。サンドイッチも。あったかい風呂にも入って」

「康介」

「最低だ」としゃくりあげている。

 布団の上から体を覆うように抱きしめた。布団の下で康介の体は震えていた。

 唐突に、車の中で聞いた外村の話がよみがえった。

 二重跳びをやってみせる太一。お父さんすごいと跳ねる康介。まるで一緒に跳んでいるみたいな。

「最低なわけない。康介はお父さんの自慢の子なんだから」遼子は声に力を込めた。

「食べて正解。お風呂に入って正解。だって、元気じゃなきゃお父さんを捜せない」

「…………」

「今日はもう寝よう。寝て元気になって、明日お父さんを捜そう。きっと見つかる。なにせお父さんは――強運なんだから」

 康介は声を殺して泣き続けた。泣き疲れて眠るまで、遼子は布団の上から必死に抱きしめた。そしてそのうちいつの間にか眠りについて、夢を見た。

 あの日の夢だった。

 

 

 遼子はキッチンで炒め物をしていた。火を消して皿に盛ろうと顔を上げたら、リビングの入り口に太一が立っていた。

「びっくりした」遼子は大げさに驚いてみせた。「気づかなかった。おかえり」

 笑いかけると太一はただいまと返事をした。声に少し元気がなかった。木曜日だし、仕事で疲れがたまっているのだろうと思った。

「今日は蒸し暑かったよね」労いをこめて遼子は言った。「台風の影響かな。熱帯低気圧ってやつ」

 返事はなかった。太一は黒い鞄をソファの横に置き、スーツの上着を脱いでソファの上に置くと、ワイシャツの腕をまくりながら廊下に出て洗面所に向かった。

 遼子は炒め終わったきんぴらごぼうを器に盛りながら、リビングの掛け時計を見あげた。八時少し過ぎ。ここのところの平均的な帰宅時間だ。結婚したばかりの頃は、あちこちの現場で電気工事士として働いて遅い時間に作業着で帰宅することもあったが、四十代に入って管理職になると、スーツで都内の本社に通勤するようになった。今は空調設備部門の課長職だ。

 太一が戻ってきたので遼子は声をかけた。

「今ごはん作ってるから、先にお風呂に入っちゃってね」

 思い出して、そうだ、と問いかけた。

「ビール買ってきた?」

「ビール?」

「うん。飲むなら買ってきてって、さっきLINEしといたんだけど」

「見てない」

「嘘」

 キッチンカウンターに手を伸ばして携帯を確かめると、たしかに未読のままだった。

「ごめん電話すればよかったね」

「まだあるでしょ」太一はキッチンに入ってきて冷蔵庫の扉を開けた。「一本残ってたはずだよ」とドアポケットを覗きこんでいる。

「……ごめん」正が夕方テレビを見ながら飲んでしまっていた。

 冷蔵庫を覗いた姿勢のまま、太一は押し黙った。そして聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で言った。

「またかよ」

「ごめん」エプロンの腰紐に手を回しながら「コンビニ行って買ってこようか」

「いいよ」

 太一は静かに扉を閉めて立ち上がると、鞄と上着を取って二階へ上がっていった。

 買いに走ろうか迷ったが、太一が飲むのは週に三、四日というところだ。昨日飲んでいたし、冷蔵庫に炭酸水も入っているしで、今日はいいかと調理に戻った。

 お風呂から上がってきた太一は不機嫌そのものだった。というより無表情に近かった。

 炭酸水のペットボトルとグラスをテーブルに出したが手をつけない。

「飲まないの?」

「要らない」

「じゃあ……ごはんよそうね」

 お味噌汁も並べて、遼子も向かいに腰を下ろして食べはじめたところへ徳子が来た。

「さっきお土産渡すの忘れちゃったわ。あら太一くんおかえりなさい」

 太一は黙って頭を下げた。

 トーンを上げてもう一度徳子は言った。

「おかえりなさい」

「……ただいま戻りました」

 徳子は大きくうなずいてこっちを向き、袋を手渡してきた。

「これは康ちゃんとあんたに。鳩サブレー」

 それから、と別の袋を取り出してテーブルの太一の前に置いた。

「これは太一くんに。柿の種。好きでしょ。有名なおかき屋さんの人気商品なの。おつまみにどうぞ」

 あまり良いタイミングではなかった。往々にして徳子は、そして遼子も、こういう間の悪さを引き寄せがちだった。

 食卓を見て徳子は眉を上げた。

「あら須美江さんからの頂き物、さっそく出したのね。高級品らしいからよく味わうといいわよ」

 白い平皿に赤黒くテラテラしたレバ刺しがのっている。

「それじゃあね、おやすみなさい」

 徳子が手をひらりと振って帰っていく。

 見送りながら遼子は耳打ちした。

「無理しなくていいからね」

 太一はレバーが苦手だ。

 だからもう一品、一口カツを並べてある。油をだいぶケチって揚げ焼きにしたせいか仕上がりがイマイチだけど、太一の好きなヒレカツだ。

 太一は黙々と食べ続け、時おり遼子がしゃべりかける。天気のこと職場のこと康介のこと。レバーにも箸をのばしたが、遼子もあまり得意ではない。ごま油と塩をたっぷりつけて二切れ目を飲みこんだところで、がちゃがちゃと玄関のドアノブが回る音がした。康介だ。遼子は箸をおいて玄関へ向かった。康介が今日もむっすりと帰ってきた。

「お帰り」

 返事はない。

「一緒にごはんにしよう。荷物置いといで」

 康介はローファーを雑に脱いで遼子の脇を通り過ぎ、廊下を進んでいった。リビングの前も素通りして階段に向かう。一段目に右足をかけたその時だった、太一の声がした。

「ただいま、は?」

 康介は、足は止めたが黙っている。

 もう一度太一が言った。

「ただいまは?」

 返事はない。

「挨拶ぐらいしたらどうだ。基本の基だろう」

 聞こえるか聞こえないかの声で、うぜ、と康介が言う。

「何て言った?」

 椅子とフローリングがこすれる嫌な音がした。

「今何て言った」

 太一が廊下に出てくる。

「何と言ったか聞いてるんだ」

 康介は答えず、階段に足をかけたまま肩越しに太一を見やった。

「二人ともちょっと」と間に入る。「ごはんにしよう。食べながら話そう」

「レバーと柿の種をサイダーで食いながらか」

「何それ」康介の口元が緩んだ。無理もないが遼子はこらえた。

「なぜ笑う」

「いや笑うでしょ」

「人をなめやがって。誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」

 康介は口をまた引き結んで、さらに冷ややかに太一を見た。

「自分一人で生きてるみたいな顔して。この家から一歩でも出てみろ。やっていけるとでも思ったら大間違いだぞ」

「なんか」康介は右手で左の肘をかいて「大丈夫?」

 それはまずいと思ったが、遅かった。

 長い睨みあいのあと、毅然と太一は言った。

「出ていけ」

 康介は心底面倒くさそうに溜め息をついて、階段にかけていた足を下ろすとこっちへ歩いてきた。太一の前を素通りした直後、「待ちなさい」とその太一に引き止められた。

「もういい。俺が出ていく」

 太一はそう吐き捨てるとダイニングテーブルから携帯を取って戻ってきて、大股で三和土に下りた。そして青のスニーカーを履いて、飾り棚のキースタンドから鍵束をつかんで出ていった。

 康介は康介で、無言で二階へ上がっていく。

「もう何なの今日は二人とも」遼子はサンダルをつっかけて外へ出た。太一は運転席のドアを開けて乗り込もうとしている。

「ちょっと待ってよ」

 急いで近寄って助手席側の窓を叩いた。反応がない。ドアに手をかけたがロックされていた。窓におでこを付けて中をのぞくと、太一の暗い横顔が見えた。

 太一はまっすぐ前を向いたままエンジンをかけ、ライトをつけて、静かに車を発進させた。こちらのほうは一顧だにしなかった。

 生ぬるい風が肌にまとわりついて、じっとりと息苦しかった。あっという間に遠ざかっていくテールランプを遼子は呆れた思いで見送った。

 子供相手に子供以上に子供になるなんて。

 帰るまでに頭を冷やしてほしいものだと肩をすくめながら家に入り、玄関のドアに鍵をかけた。

 

(第8回につづく)