須永は大きく息を吐き、通話を終えた携帯を制服の内ポケットにしまった。電話は本社の統轄役員からで、稼働率はどうなっているかという質問――いや詰問だった。
数字なんて端末を見ればわかるだろう。さんざん人件費を削ってくれたおかげで今日も手が足りなくててんてこまいだというのに。ヒマなのか。キャンセル件数がそんなに気になるのなら、体裁なんか取り繕わず客からキャンセル料を取ればいい。
客、と心の内で吐き捨ててしまったことに自省とやりきれなさを覚えながら、須永は執務室を出た。
あさひ屋では、天災によるキャンセルは、一定の条件が満たされれば料金を受け取らないルールになっている。その条件の一つが公共交通機関の欠航や運休で、つい数時間前、祈りも虚しく東武日光線の運休が発表された。台風二号の影響だ。想定はしていたものの、ファミリー客中心にキャンセルが相次ぎ、食材のロスやオペレーションの組み直しで頭が痛い。自然相手だ、仕方ない。わかってはいるが、日光や那須のようなインバウンドによる恩恵がほとんどない、山深い立地の古びた温泉旅館には大きな痛手だった。
須永はひと気のないロビーを突っ切ってレストランに向かった。出入口をくぐると肉と脂の焼ける濃厚な匂いに全身が包まれた。樫本俊也がこちらに気づいて軽く会釈してくる。メインディッシュのとちぎ和牛のステーキを供していた。
樫本は入社三年目の社員で一人前とはまだ言いがたいが、二十歳という年齢にしては視野が広く実直によく働く。今もテーブルに目を配りながらきびきびと動き、一人でフロアを切り盛りしていた。今夜シフトに入っているのは彼と、厨房にいるベテランの料理長、熊澤直樹のみで、残りの者はすでに帰宅させてあった。天気予報をにらみ、もともと早めに設定していた退勤時刻をさらに前倒しにしたのだ。遠方から原付バイクで通ってきている者や幼児を保育園に預けている者など皆それぞれに事情がある。大事な従業員を帰宅途中で危険な目にあわせるわけにはいかない。
須永も、できあがった料理を手に各テーブルを挨拶してまわった。今日の宿泊客は五組、計九名だ。
最初のテーブルは当館を初めて利用する、四十五歳の須永と同世代と思われる夫婦だ。周辺の山を縦走しようと東京から訪れたが、目的を果たせず残念がっている。明朝のチェックアウト時に次回宿泊の割引クーポンを渡すつもりだが、また来館してもらえることを祈りたかった。
店の一番奥、半個室の席には、三十代と思しき男性が三人座っている。本当は四人で二部屋の予約だったが、一人が体調不良で欠席、日中のゴルフもキャンセルだったらしく、事前連絡なしのアーリーチェックインで到着早々に揉めた。清掃が済んでいなかったのでロビーで待ってもらったのだが、予約主の山口という男が「いつまで待たせるんだ」とフロントの女性を怒鳴りつけたのだ。三人入れる広い部屋へのアップグレードで溜飲を下げてはいたものの、その後も、冷蔵庫に用意されているドリンクの銘柄が気に入らないとか空調がうるさいとか、都度従業員を呼んで詰め寄った。今も、ビールを注いで回る須永に、料理をサーブするタイミングが悪いと苦言を呈してきたので丁重に意見を賜った。他の二人は黙ってグラスを傾けている。うち一人は酒を飲まないようで、コーラを飲んでいる。
次は渓流釣りの常連客だ。須永より少し年上の寡黙な男性で、いつものように穏やかに酒を飲み食事を摂っていた。干渉を嫌う客なので声かけは最小限にしている。
須永は二皿のステーキを手に、窓際の席へ近づいた。
「ああ、須永さん」前田茂がこっちを見上げて、にこやかに話しかけてくる。「今日は一段と大変そうだね」
妻の八重子も「お疲れ様」と微笑みかけてきた。
夫妻は茨城県からの客で、年に一、二度、当館自慢の露天風呂を目当てに訪れる常連だ。
茂のグラスがほとんどカラになっていた。須永は言った。
「お飲み物を何かお持ちいたしましょうか」
「うーんどうするかな」渡されたドリンクメニューを開いて、料理と見比べながら「ワインをグラスでもらおうか」
「でしたら」と須永はメニューの中のある銘柄を、揃えた指で差した。「こちらの二〇一九年ものの赤はいかがですか、口当たりがよくスッキリしていて、本日のお肉料理にも合うと思います」
「ほう。じゃあそれをいただこう」
「奥様はいかがなさいますか」
「私はもう結構」
かしこまりましたと厨房に戻り、ワインを用意する。グラスに満ちていくワインのように、胸に苦さが湧いてくる。
チリ産のこのワインが安くて美味いのは確かだ。ソムリエ資格を持つ須永自身が、料理長とともに選んで仕入れた。しかし――ちらとでも原価が頭をよぎりはしなかったか。茂はどちらかといえば、よりしっかりとした味が好みではないのか。例えばもっと原価が高く儲けの少ない、ワインリストの下の方に載せてあるボルドーの二〇一八年、クラレンドル・ルージュのような。
須永はワイングラスをトレーに載せてバックヤードを出た。今うちにあるワインの中で一番粗利率の高いチリ産のそれを、笑みをたたえて茂のもとへ運ぶ。
「やあ、ありがとう」茂はナイフとフォークを動かしながら窓の外に目をやった。「それにしてもひどい天気だね」
目の前の大きな窓ガラスはつなぎ目のない一枚ガラスで、そこへ強い雨と風が容赦なく吹き付けている。
空気の塊が体当たりしてくるようなドンッという音がして、八重子が肩をすくませつぶやいた。
「実を言うとちょっと怖いぐらい。ほんのついさっきまで、ここまでじゃなかったのに」
「奥のお席に移られますか?」と須永は提案した。
「お仕事増やしちゃ悪いし、いいわ」
「恐れ入ります」須永は八重子に恭しく頭を下げた。「おっしゃるとおり本日は少々迫力の過ぎるお天気ではございますが、当館のこちらの窓ガラスは水圧や風圧に強い厚さ九ミリの強化ガラスですので、どうぞご安心ください」
「あら。なら良かった」八重子はほっとしたように微笑んで口をすぼめた。
「だから言っただろう。足元のおぼつかない年寄り二人がえっちらおっちらあばら屋に帰るより、ここでもう一泊したほうが安心だ。須永さんもいることだし」
なあ須永さんと水を向けられる。
「光栄です。私どもとしましても、前田様に安心してご滞在いただけることが使命であり喜びですので」
夫妻は二泊三日の滞在を終えて今朝帰る予定だったが、この天気を受けてもう一日延泊することにしたのだった。
八重子がナプキンで口を拭ってこちらを見上げた。
「露天風呂も朝入っておいてよかったわ。これも須永さんのおかげね」
この荒天で夜には閉鎖の可能性があると朝食時に伝えてあったのだ。
前田夫妻のテーブルを離れ、空いた皿やグラスを回収してまわった。樫本も休む間もなく次から次へと料理を運んでいる。その樫本をすれ違いざまに呼びとめて、少し離れた窓側席、M3卓を視線で指しながら小声で尋ねた。店に入ってきた時から気になっていたことだった。
「あちらの、副島様は?」
いないのだ。食べかけの皿や椀がテーブルに並んでいるのでトイレか何かで中座しているのかと思っていたのだが、いっこうに戻らない。
「お部屋に戻られました」と樫本は答えた。
「お食事をもう済まされたということ?」言いながら左袖をずらして腕時計を見る。七時三十分だった。「ずいぶん早いな。七時スタートだったよね」
「それが、六時にいらしたんです。しかもコース料理を全部一度に出してほしいって。熊澤さんが何とか対応してくれましたけど。三、四十分で食べて出ていかれました。」
「そうか」改めてテーブルを見やった。「お食事の途中か後に、何かおっしゃってなかったか」
「何も。ご馳走様とだけ」樫本はひょこっと首をすくめた。「すいません気にはなったんですけど。余裕なくて、バッシングも全然追いついてなくて」
「いや、よくやってくれてるよ。バッシングは俺がやっとく」
須永は副島のテーブルに向かい、皿やグラスやカトラリーをトレーに載せていった。揚げ物とステーキとデザートは完食しているが、前菜と焼き物は半分ほど、煮物、ご飯、味噌汁に至ってはほとんど全量残っている。
ダスターで卓上を拭きながら、料理が口に合わなかったのだろうかと考える。年々業績が落ちているうちとしては、リピート率は命綱だ。明日の朝食時に必ずフォローを入れなければ。
フロアで忙しく動きまわりながら、副島という人物を脳裏に思い起こしてみる。須永は人の顔と名前を覚えるのには自信があった。
副島は今日の午後四時頃にやってきた。
その二時間ほど前にネット予約が入り、須永が三階の三一〇号室を割り当てた。他の客と同じ二階にまとめたかったが、関東圏からの新規客だし、エレベーターから近くてなるべく静かな、あの三人組からは遠い部屋を、と考えてそうした。
チェックインの手続きも須永が行った。副島は黙って宿帳に署名して、こちらの質問に「はい」か「いいえ」で短く答えた。伏し目がちだったので視線はほとんど合わず、だからか、直接やりとりをしたというのに副島の像はぼんやりしていた。声もあまり記憶にない。白いTシャツに黒いリュックサック姿だったのは覚えているが、支配人としては忸怩たる思いだ。
せめて部屋まで案内することができていたら良かったのだが、ルームキーを手にカウンターから出ようとしたタイミングで、前田夫妻が家族風呂の予約を取りにやってきた。他にも聞きたいことがいくつかあるというので須永は夫妻の対応に回り、副島の案内は樫本に任せた。「今日はどちらへ」とか「栃木にはいつまで」とか、部屋までの会話が定型内に終わったとしても、客の人となりを知る好機であり、どういうスタンスで接すればいいかのヒントにもつながるので惜しく感じた。
八時が近づくと、レストラン内の客は食事を終えてぽつりぽつりと部屋へ戻っていった。最後の前田夫妻が退出したのは八時半。須永が見送り、ドアを閉めて「CLOSED」の札を下げた。フロア清掃を樫本に、厨房の片付けと仕込みを熊澤に任せて、須永は執務室へ戻り、事務机にどっかりと腰を下ろした。何時間ぶりに座っただろう。高校時代のアルバイトも含めて長く接客業をやってきたから立ち仕事には慣れているが、今日はさすがに疲れた。少ない人数で回していたのと、台風に関連する問い合わせやキャンセル、不具合への対応や、人員の変更などに追われたのとで、気づけば食事を取り損ねていた。
静まり返った執務室に、雨風の音が届いてくる。
須永は慢性的に痛む腰をさすり、引き出しの中から菓子パンを取りだして、かぶりつきながら端末に向かった。期限が二日過ぎていたが構わなかった。
予約状況、清掃状況、食事の手配などが一元管理できるソフトが導入されてから作業自体は楽になったが、反面シビアにもなった。サンホテルズコーポレーション傘下のホテルや旅館の業績はリアルタイムで把握され、売上比較もオンライン上で容易になされるようになったからだ。同じ新谷市内に系列ホテルのニューあさひ屋があるが、あちらの満室を受けてこちらが客を受け入れることはあっても、その逆はめったにない。ただそのニューあさひ屋も、今日は台風の影響を受けて空室が目立っていた。
帳票の出力をしていると、ノックの音が響き、開いたドアからコック服の熊澤が現れた。太い顎に白い髭、名前に似つかわしい体躯の熊澤はのしのしと歩いてきて、「ほれ」と小盆に載った天むすを差しだした。須永は腰を浮かして手を伸ばした。
「今日はよかったのに」調理アシスタントを夕方には帰してしまったから熊澤も大変だろうと、まかないを今日は辞退していた。
「いいってことよ。どうせロクなもん食べてないんだろ?」机上の齧りかけパンにちらりと目をやりニヤリとした。
「わざわざ申し訳ない」
ありがたく受け取り、熊澤にも椅子を勧めたが、仕事がまだ残っているからとそのまま簡単な報告を受けた。今日のディナーは結局全員が六時スタートとなり、大きなトラブルはなかったものの、三人組の要望と、副島のイレギュラーな対応に苦慮したらしい。
今年六十になる熊澤は、有楽町の小料理屋で十年勤めた腕利きで、何を作らせてもうまいうえに機転が利く。今日も、天候の影響で明朝ここへ車で上ってこられなくなるリスクを考え、泊まりで対応すると早い段階で申し出てくれた。
「ま、俺は独り身だから」
「助かります」と須永は言った。「清掃が終わったら、そのまま仮眠室に向かってください。作業完了のシステム入力だけお忘れなく」
「気を付けねえとな。しょっちゅう忘れちまうんだ。どうも慣れねえ」
手を上げて立ち去ろうとした熊澤に、お疲れ様でしたと頭を下げたそのときだった。ガゴッと大きな音がした。
上のほうから聞こえたような気がして咄嗟に天井を見あげた。
「なんだあ、今のは」熊澤も眉根を寄せて上を向いた。
「嫌な音でしたね」
風の音とも雨の音とも違う、もっと重たい、何かがぶつかったような鈍い音だった。何が何に? 館内か、外か。腕時計を見ると八時四十八分だった。
携帯が鳴った。客室からの内線で、前田八重子からだった。
「須永さん、今すごい音がしたんだけど」不安そうな声だった。「大丈夫なの?」
「すぐに確認いたしますが、大丈夫です。ご安心ください」
「でも……この建物ずいぶん古いし」
「当館は耐用工事も、法定に基づく点検もきちんと行っておりますので」
「そう……」
「念のためお部屋に留まっていてください。確認でき次第ご報告いたします」
電話を切って、立ち上がりながら熊澤に向かって言った。
「ちょっと、ぐるっと見てきます」
「手分けしよう。一人じゃ大変だろう」
レストランでモップがけをしていた樫本に声をかけてから、まず館内を見て回ったが特に異常は見当たらなかった。
執務室に戻って長靴に履き替え、熊澤と合羽を羽織りながら須永は言った。
「どこでしょうね」
「わからんが、風で飛んできた何かが建物にぶつかったのかもしれんな」
「音の感じからして別館ではない気がします」
別館は渡り廊下をはさんで本館とつながっている。
表に出るとたちまち雨に頬を殴られ、風で体が押し戻された。
暗闇のなか懐中電灯を手に、頭を下げ体勢を低くして足を踏ん張りながら一歩一歩進んだ。腰が悲鳴を上げているがのんびりはしていられない。この強風で飛んでくる何かに激突すれば、物によってはケガでは済まないだろう。
懐中電灯の光をあちこち当てて異変がないか確認していく。玄関周りの植栽、問題なし。常緑樹のソヨゴと並んで立っている銅像は、昨年亡くなった看板猫〝福助〟のそれで、常連客の寄附も受けながらこの春に完成した。福助、異常なし。
外灯や看板も吹き飛んではいない。
エントランスから反時計回りに建物をチェックしていく。館内から漏れている光も頼りにして、本館客室部分の一階から三階までの外壁を念入りに見てまわる。どこも問題はなさそうだったが、本館の裏側に回って少し進んだあたりで、熊澤が足を止めた。視線は上を向いている。
須永も立ち止まり、同じ方角を見上げて、思わずあっと声が出た。
大木が一本、本館に覆いかぶさるように倒れていた。よく見るとそれ以外にも、倒れてはいないものの他の木にもたれかかるように傾いでいる木が数本あった。裏手の斜面に群生しているトチノキで、高さはどれも十五……いや二十メートルほどあるか。
熊澤と顔を見合わせた。
「風でやられたんでしょうか」須永は声を張りあげた。
「窓を直撃されんでよかったな」
「はい」通路側だったのも幸いだ。万が一、客室の窓にあれが突然倒れこんでいたらと思うと背筋が冷えた。「とりあえずいったん戻りましょう!」
須永が叫ぶように答え、踵を返そうとしたとき、「しっ」と熊澤が人差し指を口に当てて、耳を澄ませる表情になった。
唸るような風の音……雨が地面や木や葉を叩きつける音……その合間に、パキッ、パキッという音が微かにした。枝が折れる音のように須永の耳には聞こえた。熊澤は目をつぶってじっと耳を傾けている。
館内に戻り、合羽のフードを下ろした熊澤の顔はひどく強張っていた。ロビーで、びしょぬれの姿で向き合うと、熊澤は合羽を脱ぎながら神妙な声で切りだした。
「須永さん。これはちょっとまずいかもしれないよ」
「まずいとは?」
「音は聞こえたかい」
「あの、パキッていう音ですか」
熊澤は大きくうなずいて、続けた。
「俺は秋田の山奥で育ったんだ。ばあちゃんが、死ぬまで口酸っぱく言ってた。気を付けるのは地鳴りだけじゃねえ。鉄砲水が出たとき、川が涸れたとき、木の裂ける音がしたときは、荷物なんか放ってすぐ逃げろって。なぜならそれは」
唾をのんで続けた。
「土砂崩れの前兆だからって」