加賀見司は、東武線で遼子が到着するのを待ち構えていた。

「とにかく向かいましょう」

 そう言って挨拶もそこそこに歩きだす。

 向かうのは打越の自宅だ。ここ新谷駅から歩いて二十分強の場所にあるという。道を知る加賀見が前を行き、遼子は少し後ろをついて歩く。

 銀色のスニーカーを履いた加賀見の足は、不安と焦燥をにじませながら広い歩幅でどんどん進む。年齢は一回りほど上だろうか、すらりと背が高く、白いポロシャツにベージュのパンツという姿だ。

「向かいながら少し話しますか」

 加賀見が振り向きざまに言ったとき、その肩に下げた黒いトートバッグの中で着信音がした。

「すみません。大家さんからです」

 加賀見はそう断ると、携帯を耳に当てて歩きながら話しはじめた。

 一週間前に瑠璃から紙をもらったとき、その司という名前からとっさに男性だと思った。が、コンタクトをとってみると加賀見は女性で、遼子たちの話に真摯に耳を傾けてくれ、打越が望めばという条件のもと、双方のメッセージを伝えたり、対面の機会を設けたりすることは可能だと言ってくれた。

 ――ただ、今はひどいケガを負った上に記憶を失くし、とても混乱しておられます。打越さんの心身が癒えて生活が落ち着くまでは、私どもの方でお世話をしながら見守って、お二人に会ってもいいとご本人が思える時が来たらそのようにする、そういった流れでよろしいでしょうか。

 もちろんだった。いくらでも待つこと、焦らず大事にしてほしいということを伝えて電話を切った。

 そして昨夜、加賀見から連絡が入った。

 こんなに早くとひそかに心が沸き立ったが、用件はまったく違った。

 ――打越さんと連絡が取れないんです。

 予想もしていなかった第一声に遼子の胸は乱れた。

 ――三日前から、電話しても訪問しても応答がなく、夜も電気が消えたままで。事情が事情ですし、大家さんに話をつけて、お部屋の中を確かめさせてもらうことになりました。

 部屋の中で倒れているのではないか、動けなくなっているのではないか、あるいは、ひょっとしたら亡くなっているかもしれないと加賀見が訴えると大家は最初、たった数日連絡がとれないくらいで大げさな、と取り合わなかったらしい。打越の近況を知らなければ、普通はそう思うだろう。

 同行させてほしいというのは遼子の方からお願いした。今回は、康介は来させなかった。

 左折してきた軽トラックに行く手をさえぎられて足を止める。ひどく蒸し暑かった。照り付けてくる太陽と、路面から立ち上る熱気に挟まれて、息苦しいほどだ。遼子はガーゼハンカチで汗をぬぐいながら、この暑さのなかもし部屋で一人倒れ、エアコンもついていなければと想像して怖くなった。

 向こうから赤や緑のスポーツウェアを着た若者たちが走ってくる。加賀見は道端に寄って彼らをよけながら、通話を終えて携帯をしまった。大家とは現地で落ち合う約束になっているが、少し遅れるそうだ。

 大通りを折れて平坦な小道を行く。畑の合間にぽつりぽつりと民家の立つ、静かな通りだ。すれ違う人や車はなく、真っすぐ延びた道の先、はるか遠くの正面には山がそびえている。

 加賀見は「この通り沿いにある一キロほど先のアパートです」と漠然と前方を指差してから切りだした。

「長くこの仕事をしてきて、病気や事故で記憶障害になってしまった方々と日々接していますけど、無力さを痛感するばかりですよ。寄り添うにも限界があって、できないことのほうがはるかに多いですし、そもそも――これを言っては身も蓋もありませんが真の苦しみはご本人にしかわかりませんから。打越さんもそう。ある日を境に自分が誰でどういう人間かまったく分からなくなるなんて、どれほどの恐怖だろうかと思います」

「恐怖は……和らいでいくものですか」

「どうでしょうね。そうであってほしいですし、もちろん打越さんも日ごとに少しずつ落ち着いてきてはいましたが、それが、恐怖が和らいでいる証左としての穏やかさかどうかはわかりません」

 遼子は黙ってうなずいた。たしかに、感情と状態の相関関係なんて自分自身だって正確に把握できない。

 加賀見は続けた。

「打越さんを傍で見ていて痛切に感じるのは〝自分のことがわからない、しかしわからないことはわかっている〟という状態で生活することの、心もとなさや不安定さです。自分の中の大事な核のようなものを失って、自信が持てなかったり、自分や周囲を疑ったり恐れたりしている。そういう部分を時間と努力と周囲の協力で小さくしていく――恐怖を和らげていくことは可能でしょう。ただ完全に払拭することは難しいだろうとも思います」

「払拭するには記憶を取り戻すしかないんでしょうか」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「どういうことですか」

「過去の記憶というのは生きていくために必要なものですが、望ましいものであるかどうかはまた別です。手放しで歓迎することのできない過去を持つ人――たとえば多額の借金を抱えていたり、犯罪をおかしていたり、つらい別離があったり、天涯孤独であったり――そういう人たちにとっては現実を改めて知ることになる。徐々に戻ってくる記憶が受け入れがたいものであると知ったときの失望や絶望は計り知れませんし、紛れもなく恐怖でしょう。真新しい恐怖です」

「そういう記憶が、打越さんに戻ってきたかもしれないと?」

「わかりません。ただ記憶が戻ってきたにせよ、そうでないにせよ、身体的にも精神的にも打越さんは極めて厳しい状況におかれています」

 昨日の電話で加賀見は、打越の自死を懸念していると言っていた。部屋の鍵を消防に開けてもらったほうがよいのではと大家に提案もしたそうだが、大事にしたくないとの意向で退けられたらしい。

 苦しくなって遼子は尋ねた。

「打越さんは、どういう方ですか」

「穏やかで優しい人物という印象を受けています。口調は丁寧で礼儀も正しく、靴などきちんと揃えて置かれていました。真面目で、几帳面な方なのではないかと思います。が、これもまた私の主観であって、実際はわかりません」

 そこまで話して加賀見は大きく一つうなずいた。

「とにかく、打越さんに会わなくてはいけません。心配している人間がいることをお伝えしないと」

 遼子も同じ気持ちだった。話を聞きたいから会うというだけでは、もはやなかった。せっかく助かった命を手放してほしくない。あの日あのとき打越と同じ場所にいた太一は……もういない。あなたは奇跡の人なのだと、あの土砂の中から助かった人がいると知って胸が震えたのだと伝えたかった。

 遼子たちが足を止めたのは、駐車場と空き地に囲まれた二階建てのアパートの前だ。雨だれや錆が目につく古い建物で、クリーム色の壁に、レンガ色のドアが四つ、一階と二階それぞれに並んでいる。打越の部屋は二階の一番右端、二〇四号室だという。日中ということもあるが、部屋の電気はついていないようだ。

「先にお訪ねしてみましょうか。もしかしたらひょっこり出てくるかもしれません」

 そうであったらどんなにいいだろう。

 錆びた鉄骨の階段を、加賀見に続いて上がる。一段のぼるごとに心臓の音が大きくなっていく。

 通路の突き当たりまで進んで二〇四号室の前に並んで立つ。加賀見が一歩ドアに近づき、臭いはないようですね、とつぶやいてからドアをノックした。

「打越さん?」

 応答はない。

「打越さん。いらっしゃいますか」

 何度かノックしていると、二〇三号室のドアが開き、若い男性が顔を出した。

「こんにちは」と加賀見が声をかける。「打越さんを訪ねてきたのですが」

「ウチコシサン?」

「はい。ご在宅ではないでしょうか」

 通じなかったのか、頭をかしげている。

「打越さんを、見かけませんでしたか?」

 加賀見がゆっくりしゃべったが、男性は肩をすくめて引っ込んでしまった。言葉が通じなかったか。あるいはひょっとしたら見ていないという返答だったのか。

 静かだった。ドアを見つめて加賀見は言った。

「初めて私がここを訪ねたとき――打越さんが退院された日の晩のことでしたが、なかなか玄関口まで出てきてもらえませんでした。やっとドアが開いたときも、チェーンごしに隙間から目だけが覗いて、何とも言えない不安そうな怯えた目をされていて。その状態のまま私はドア越しに自己紹介と、生活のサポートに関する説明を一通りさせてもらって、それで少し信用していただけたんでしょうかね、しばらくしてドアを開けてくださって」

 そのときのことを思い出したのか、顔をしかめてかぶりを振った。

「ひどいケガでした。顔を何カ所も骨折されたそうで、ガーゼの下であちこち青黒くパンパンに腫れているのも分かりました。痛いみたいで、ゆっくりとしか動けないんですよ、話すのもおつらそうでね」

 加賀見は、咀嚼や嚥下が困難な人も食べられる宅配弁当を、一日三食コースですぐに手配したという。

 加賀見は目を険しくして続けた。

「あんな状態で退院だなんて。それに、打越さんの勤務先の楢坂建設、あそこは一体どういう会社なんでしょうか。打越さんを病院から車で連れ帰って、すぐに書類にサインをさせたそうなんです。契約終了のサインをですよ」

「え――」背筋がひやりと冷たくなった。

「私、打越さんに確認しました。サインしたことの意味は分かりますかと」

「打越さんは何て?」

「分かりますとおっしゃいました。私は、すぐに取り下げたほうがいいと申し上げました。職がなくなってしまうんですから。でも打越さんはだまって首を横に振られて」

 ――何も覚えていないんです、覚えていない仕事をできるわけもない。迷惑をかけるだけです。だからいいんです。

 静かな諦めと悲しみ……打越の心中に思いを馳せると言葉がなくなった。

「余計なことかとは思いましたが、楢坂建設に電話もしました。長々待たされて、やっと担当者が出てきたと思ったら慇懃無礼な物言いで、自宅療養のために早期退院したことも、契約終了したことも、すべて本人の希望だと。署名入りの書類もある、何が問題だとすごまれました」

 工事現場で対面した長身の男の、威圧的な態度と言葉が思い出された。

 少しして大家が到着した。小柄な高齢女性で、えっちらおっちら階段を上ってきながら声を張りあげた。

「どう。いた?」

 その問いに、かぶりを振って加賀見が答える。

「困ったねえ。あの打越くんがねえ」

 大家は鍵束の中から一本選びとり、丸い背中で目を細めて慎重に鍵穴に差し込んだ。ドアが、ゆっくりと手前に開けられる。大家が泣きつくように加賀見を振り返った。

「わたしゃ嫌だよ。打越くんのそんな姿、見たくねえ」

 加賀見が先に入ることになり、大家が続いて中へ入っていく。ドアはキイッと悲鳴のような音を立てて閉まった。遼子はすりガラスの小窓の前で固唾を呑んで二人を待った。緊張で手にぬるりと汗がにじんでくる。

 ドアはふたたびすぐに開いた。加賀見が顔を覗かせ、遼子に向かって、ゆっくりうなずいて見せる。

「大丈夫。いませんでした」

 遼子は小さく息を吐き、加賀見に促されて中に入った。もあっとした熱気に全身がたちまち包まれる。

 新聞紙一面分ほどの三和土でスニーカーを脱ぐ。大家と加賀見の靴のそばに、打越のものと思しき紺色のサンダルが揃えて置いてあった。

 大家によると部屋の間取りはユニットバス付きの1K。玄関を入ってすぐが台所で、すりガラスの小窓から外の光が射しこんでいる。台所の奥に六畳間があり、正面に掃き出し窓、左手に腰高窓がある。どちらにも淡い緑色のカーテンがかかっていて、大家が両方のカーテンと窓を開けると、ぬるい風が通り抜けた。家具も物も少ない殺風景な部屋は、これまで聞いて知った打越の人物像と悲しいほどに合致した。

 腰高窓の下に布団が綺麗に畳まれて置かれていて、そのそば、部屋の隅に白いカラーボックスがぽつんとあった。

 ボックスの上には風景写真が一枚、切り紙で作られたフォトスタンドに入れて飾られている。どこか南の島だろうか、青い海と水色の空、白砂のビーチとヤシの木が写っている。

 その写真の前に、茶封筒が置かれていた。宛名はない。ためらう大家を加賀見が促して、中身が検められた。

 一万円札が三枚入っていた。大家によると家賃一ヵ月分の額だという。

 加えてメモも入っていた。

 大家、加賀見とメモに目を通して、遼子にも手渡された。

 ――すみません。ありがとうございました。

 大家は封筒にお金を戻し、原状回復費用のつもりだろうかとつぶやいている。これまでにも店子に黙って出て行かれたことはあるが、お金がおいてあったのは初めてらしかった。

「帰ってこねえつもりかね」大家は三枚の札を封筒に戻した。

「行く当ても伝手もないのに。それとも、どこか誰かを思いだしたのか」加賀見が腰高窓から外を見る。「そうだといいです。そばで支えてくれる人が、一人でもいれば」

 来月いっぱいは、このままにしておくと大家が言う。今後のことを話し合う二人の隣で、遼子の心はあらぬところにあった。打越が心配なのはもちろんだが、それ以上に、手渡されたメモに目が釘付けになっていた。

「すみません。ありがとうございました。」の文字。それが、心なしか太一の筆跡に似ているような気がしたからだ。

 

***

 

 徳子は自宅で緑茶をすすり、大きな溜め息をついた。寄る辺のないこの気持ちを誰かとわかちあいたかったが、あいにく今日も一人きりだ。椅子の上で体をひねって、遼子の家へつながる共有ドアを見た。

 いくら鍵が開いていたって、あちら側に行く意味はない。行っても誰もいないからだ。康介は夜遅くまで塾だし、遼子も遼子で忙しくしている。しょうがないことではある。康介は受験生で、遼子はいきなり一家の大黒柱となったのだから。

 太一が土砂崩れに巻き込まれてから一か月半が経ち、遼子はパートの仕事を週三からフルタイムに切り替えた。正社員になるべく求職活動もしているようだが、年齢が年齢だし大した資格もないとのことで苦戦しているようだ。だからあのとき退職しなければよかったのに、と徳子は改めて歯がゆく思う。あのとき、とは、太一の両親のために遼子が正社員の職を手放したときだ。

 遼子は大学卒業後、大宮信用金庫に入庫した。独身のうちは大宮市内の実家で徳子たちと暮らしながら本店に通い、太一と結婚して東京郊外に居を移した後も変わらず働いた。通勤時間が増えて大変そうだったが、向いた仕事で人間関係も良好なのだとがんばっていた。康介を出産した後でさえ続けたのだ。

 それなのに、十年前にあっさり辞めてしまった。太一の父親が体を壊し、その看病のため、介護も見据えて横浜のこの家で同居することになったからだ。大宮信金は神奈川県内に支店がなく、一番近い支店でも通勤時間が二時間近くかかるという。キャパオーバーになるとか、康介に寂しい思いをさせてしまうとかいくつか理由を挙げていたが、徳子は反対だった。簡単に辞めないほうがいい、手に職は必要だと、あれほど忠告したのに。

 昔から遼子にはそういうところがある。

 生真面目なのは良さでもあるが、柔軟さに欠けるというか、変なところで頑固なのだ。それで行き詰まって自分の首を絞めることも多く、言わんこっちゃないと徳子などは思うのだが、口にはあまり出さないようにしている。芯はしっかりしている娘だ、自分で過ちに気づき軌道修正できるはずで、そこは信頼してやりたいと思う。親という字は木の上に立って見ると書く。黙って見守るのも親の務めだ。

 それにしても、世知辛い世の中になったものだ。

 徳子はテーブルの端に置いてある週刊誌を苦々しい思いで見やった。須美江がわざわざ買ってきて置いていった先々週号の「週刊セルフエイト」。清純派女優の不倫疑惑をうたったタイトルのそばに、小さく「発端は親子喧嘩だった!? 災害と家族の裏側レポ第三弾」と見出しがある。

 太一が出ていった原因が康介との喧嘩だったなんて、徳子はついぞ知らなかった。須美江からこの週刊誌を見せられて味わった情けない思いがよみがえって、徳子の口は自然にチュッとすぼんだ。遼子が隠していたのだと思うと、情けなさだけでなく腹立たしさが募ってくる。だいたい最近の遼子は少々自分本位というか、徳子の知らないところで物事を決めたり進めたりする。忙しいのはわかるが、事前に相談があってしかるべきだし、もっと思いやりをもって協力しあうべきだと徳子などは思う。それが家族というものではないか。

 徳子は週刊誌を手元に引き寄せ、安っぽくてざらざらした白黒のページを繰った。報じるべきことを報じず、偏ったくだらない記事ばかり。

 だいたい人が一人死んだというのに、やれ台風のなか遊びに行って被害者ヅラするなだの、やれ自己責任だのと。

 誰が言っているのかと聞けば、SNSが言っているという。SNSって何だと聞いたら、インターネットの中にある集まりだと。集まり? 顔も見えない名前も知らない、得体の知れないそういう集まりが、主を亡くしたこの家を一斉に執拗に糾弾する。この週刊誌が発売になった直後は、嫌がらせの電話がかかってきたり、宗教の勧誘電話がかかってきたり、妙な恰好をした男が長い棒にスマホをつけて家の周りをうろついたりしていた。警察を何度呼んだかわからないが、その時だけ収まっても、妙な輩がまたぞろ湧く。悪知恵だけ働く暇人たちが面白半分にちょっと過激なことをして、平凡な暮らしに手軽な刺激を欲するこれまた暇人たちがもてはやす。傑によれば金儲けの道具にもなっているらしい。

 世も末だ。

 徳子は頭を振って、のっそりと立ち上がった。

 台所でせっせと料理を作り、ちょうど完成したところでチャイムが鳴った。さすがは傑、タイミングばっちりだ。足取り軽く玄関へ向かい、ドアを開けると傑が「ういっす」と入ってきた。少し茶色いくせ毛と茶色の目。ハーフみたいだと、小さい頃連れて歩いているとよく声をかけられた。

「傑、久しぶりだね。元気だった?」

 廊下を歩いてきながら「うす」と傑が答える。

「ちょうどお昼の準備が終わったところだったの」

「俺もちょうど腹ペコ」暖簾をくぐって居間に入ってくる。「で? 体調はどうなの」

「ありがとう。おかげさまで元気よ。ちょっと、こっちの肩が痛いけど」

 台所で右の肩を左手でたたいて見せると、そうじゃなくて、と椅子を引いて腰かけながら傑は言った。

「父さんの体調。どう」

 正は今、肺炎で入院している。三週間前に風邪を引いて、そのまま肺炎になってしまった。心労がたたったのだ。件の週刊誌は入院直後に目にしてしまったようで、もっとカンカンに怒るかと思ったが、予想外に静かだった。ショックだったのかもしれない。

 徳子は湯を沸かしておいた鍋をふたたび火にかけながら答えた。

「お父さんなら、熱は下がったし体力もだいぶ戻ってきたよ。咳は少し残ってるけど」

 昨日お見舞いに行ったときはほとんど寝ていたが、一昨日は売店であれを買ってこいこれを買ってこいとやかましかった。ストレスからか怒りっぽくなっている。

「あなたもあとでお見舞い行くでしょう?」

「まあね」

「その前に腹ごしらえだわね。傑の好きなもの、たくさん作ったからいっぱい食べて」

 手早く素麺を茹でて一緒に食卓に着く。こうして傑と向かい合って、おしゃべりしながら食べる時間が、昔から徳子は一番好きだった。傑も鶏のみぞれ煮を頬張りながら「やっぱ母さんの料理が一番だな」なんてことを言う。

「でも」徳子は鶏の大きいのを取りわけてやりながら、「陽菜さんだって普段おいしいもの作ってくれるんでしょう?」

「それマジで言ってる?」傑は箸を止めて顔をしかめた。「それより、姉ちゃんのほうはどう」

「相変わらずよ」

「葬式、やんないの」

「死亡届もまだ出してないんだもの。いくらあきらめがつかなくたって、区切りってものが要るだろうに。葬儀はいつやるんだって、私もあちこちから聞かれて困ってるのよ」

 ちくわの磯辺揚げをつまんで傑が言う。

「太一くんて、会社でどういう扱いになってんの」

「休職扱いになってるって。同期の、何ていったか……ああそう、丸山さん。丸山さんが手配やら何やらいろいろやってくれてるみたい」

 一度挨拶に来てくれたが、頼もしい立派な人物だった。

 やはり男手は必要だ。お父さんにも早く帰ってきてほしい。

「でもさ、休職扱いじゃ、遺族年金とか生命保険とか、何も下りないっしょ」

「そうなの。あなたからも言ってちょうだいよ。そういうのが下りれば、こんな老夫婦から生活費を取らなくてもよくなるのに。来月からお金を入れてくれっていうのよ。急に五万も」

「家のローンはないんだっけ」

「そう。それは幸いだけど」あったらたちまち立ちゆかなくなってしまう。

「ちょっと調べたんだけどさ、災害で死ぬと自治体から災害弔慰金ってのがもらえるらしいじゃん。五百万だって」

「そんなに」思わず箸を止めた。「遼子は知ってるのかしら」

「どうだろうね」

 ひょっとしてまた一人で何か話を進めているんだろうか。

 傑は続けた。

「あさひ屋からの補償金はどうだった?」

「お父さんに言われて無料弁護士に相談した。自然災害だから出ないって。免責なんだって」

「ふーん。法の不備だね」

「まったく法律なんて弱者の味方にはなりゃしないよ」

 しばらく向き合って黙って食べた。

 傑が何か飲もうかなとぼそりとつぶやくのを聞いて、徳子は冷蔵庫からノンアルコールビールを取ってきて渡した。今日のために買っておいたのだ。

 傑は蓋を開けながら、そういえば、とまた話しだした。

「太一くんと部屋で一緒だったっていう男は結局何だったの」

「さあ」里芋の煮物を咀嚼しながら「あれもはっきりしたような、そうでないような、すっきりしない具合だよ」

「記憶喪失で行方知れずだっけ」ビールをあおる。「韓国ドラマかよ」

「ねえ。なんか引っかかるわよね。せっかく助かったのに行方をくらますなんて」ここだけの話、と、徳子は傑に顔を近づけた。「私はね、お金がらみで太一くんとの間に何かあったんじゃないかって睨んでるの。それで後ろ暗くて逃げたんじゃないかって」

「警察からその手の情報でもあったわけ」

「いいや、何もないよ。警察には遼子が電話してあれこれ聞いてはいたけど。人物認定の件で」

「何それ」

「あれだよ、〝居酒屋で太一くんと呑んでた人〟が〝あさひ屋で太一くんと一緒に土砂で流された人〟で、なおかつ〝その後発見されて助かった人〟だって警察が調べて確定したのさ」

「本人いねえのに?」

「持ち物でわかったらしいよ。あと周りの人の証言ね。会社の人だろ、ホテルの人だろ、それから居酒屋の人」徳子は指を折ってから続けた。「だからあの台風の行方不明者は二人から一人になって、残るは太一くんだけってわけ」

「もう一人だって行方不明のままじゃん」

「そりゃお前、行方不明の種類が違うんだよ。いったん見つかった大の大人が自分の意思でまた行方をくらましたんだから。捜索願も出てないみたいだし」

「ふーんよく分かんねえけど」傑は素麺を豪快にすすり、咀嚼しながら続けた。「人生なんてわからんもんだね。真面目一筋の姉ちゃん夫婦がこうなるなんてさ」

「あなたも気をつけなさいよ。命をなくしちゃ終いなんだから」

「んー」

 食事を済ませたあとは、車で正の見舞いに出かけた。傑が運転する車の助手席に乗るのも徳子は好きだった。

 鼻歌まじりでハンドルを握る傑に、徳子が話しかける。

「そういえば、この車、栃木まで取りに行ってくれてありがとうね。助かったよ」

「その後姉ちゃんは乗ってんの?」

「全然。栃木へボランティアに行くのも毎回電車」

「動かさないとバッテリーが上がるし傷むから、いつでももらい受けるよ。なんなら今日乗って帰るけど」

「それがねえ、聞いてみたんだけど、思い出の車だから乗らなくても手放したくないって」

 ふうん、とうなって傑は黙った。

 徳子は話題を変えた。

「ところであなた最近仕事はどうなの?」

「まあぼちぼち」傑は交差点でハンドルを切りながら、「それよかさ、実は俺、離婚するかもなんだよね」

 徳子は咄嗟に言葉を失い、真横を向いて傑をじっと見た。

「どうして」

「まあ、いわゆる性格の不一致?」

 真っ先に浮かんだのは、なぜか須美江の顔だった。きっと興味津々に聞いてくるだろう。しかし、かといって傑に「考えなおせ」と諭すほど陽菜と添い遂げてほしいとも思っていないので「それは困ったね」とだけ答えた。しかし傑の次の言葉で、にわかに心が浮き立った。

「もしそうなったら、俺この家で暮らそうかな」

 傑が。この家で!

 行ってらっしゃいお帰りなさいと、見送り出迎える自分の姿を徳子は想像した。それだけで、最近ふさぎがちだった心が上向いた。傑がいれば、ごはんの作り甲斐もあるというものだ。正は黙々と食べるだけで張り合いがない。

 徳子は声を弾ませないように気を付けて「困ったときこそ家族を頼りなさい。遠慮は無用だよ」と諭した。

 労災病院に到着し、内科病棟のナースステーションで受付をすませると、看護師に、あっという顔をされて呼び止められた。

「ご連絡しようと思っていたんです。少しお時間いただけますか?」

 少々お待ちくださいと告げられたまま長々放置されたので、とりあえず先に正の顔を見にいくことにした。面会時間開始後すぐに顔を出さないと怒るのだ。買い物リストを手に待ち構えている。

 病室に入ると、正は昨日のようにベッドに横たわっていた。が、今日は目が開いていて、起きてはいた。徳子が「お父さんどう?」と声をかけるが反応しない。傑が近づいて「おやじ」と声をかける。正はゆっくりこっちを向いた。ぼんやりした顔をほとんど動かさずに言った。

「どちらさん?」

 

(第16回につづく)