親友のサンチェス、幼馴染で代打のアナ、土産物屋のアマンダと次々ハグを交わした。アマンダのときにはもうハグに少し慣れてきて、分厚いその体に包まれて強ばりがふわっとほぐれるのを感じた。

 荷物をフードスタンドに預けると、サンチェスがサービスだといってココナッツジュースと揚げ物をたくさんくれた。マルコと一緒に食べながら浜辺を歩く。潮の香りに包まれ、風に吹かれてきらきら光る海を眺めていると、数時間前までマニラの喧噪の中にいたのが嘘のようだ。

 音楽が聞こえてきた。メインストリートでちょうどパレードをやっているという。

 沿道は鈴なりの観衆でごったがえしていたが、マルコはするりするりと人をかわして最前列に遼子を押しだしてくれた。みんな笑顔で、音楽にあわせて思い思いに体を動かしている。マルコによれば来場者は例年四千人ほど。地元の人を筆頭に、島北部や近隣の島からの来訪者と帰省者が多いが、周辺国のアジア人や、欧米人も訪れるという。パレードはメインストリートの北端にある鎮魂碑からスタートして、教会までのおよそ一キロを練り歩くそうだ。

 次の組の鼓笛隊の演奏が近づいてきて、沿道の観衆から大きな歓声が上がった。黄金色のドレスを着た女性たちが優雅に舞い踊り、顔に赤と黄色のペイントを施した男性たちがアクロバティックに動き回りながら観衆に呼びかける。

「笑え! 笑え!」

 それを受けて観衆も、笑え笑えと呼応する。

「リョウコ!」マルコが笑顔を向けてくる。「笑って、笑って」

 眩しいぐらいの笑顔に、精一杯の笑顔を返したが、うまくいったかどうか。

 お祭りの起源はネットで調べてきていた。フィリピンは世界一災害が多く、台風による被害は特に深刻で、ここティムティム島でも毎年多くの家屋が倒壊し死者や行方不明者が出るという。タワタワフェスティバルのTawaはタガログ語で〝笑い〟の意味だ。悲しみを今日だけは笑って忘れよう、笑って前を向こう――そんな願いがこのお祭りにはこめられている。

 山車が来た。白やピンクや赤い花で作られたスマイルマークのオブジェが載っていて、どこかでホイッスルが鳴ると沿道は熱狂のるつぼと化した。

 マルコが叫んだ。

「弟たちだ!」

 遠方に視線を送り、弟三人の名を順に呼ぶ。青い衣装に身を包んだ彼らは、マルコを見つけてそれぞれに手を振った。マルコも手を振り返し、タガログ語で何か呼びかけている。

「姉のリリアもいるはずなんだ」とマルコは言った。「小学校の教師なんだよ。今日は子どもたちを引率してる」

 そうだったのか。

 遼子は急いでリュックからカメラを出した。動画のボタンを押して、まず弟たちを見守るマルコの横顔を映し、その視線の先にいる彼ら、そしてどこかにいるはずのリリアを必死に撮った。かけがえのないこの瞬間を、彼らが後から何度でも見返せるように。

 

 鷲の鼻と呼ばれる岬にマルコと並んで立った。町じゅうを連れて回ってくれたドライバーのジョンは、遼子たちの後ろ――トライシクルの脇に寝転がっている。マルコが肩越しに振り返って笑う。

「朝からたくさんのお客を乗せて、とうとう電池切れだ」

 そう言って岩の上に腰を下ろした。少し空けて遼子も座った。

 眼下には海が広がっていて、海も空も夕焼け色に染まっている。リュックからカメラを出して構えるとマルコが覗きこんできた。

「さっきも思ったけど、すごいカメラだね」

 少し迷って、応えた。

「夫のなの」

「旦那さんはカメラマン?」

「ううん。自動で誰でも撮れるカメラ。すごく重いのよ」

「触っていい?」

「もちろん」。渡すとマルコは興味深そうに眺めた。

「いいね」

「そう? 私にはよくわからない」

「かっこいいよ。持った感じもすごくいい。プロになった気分だ」

 太一みたいなことを言うので笑ってしまった。

 カメラを返してもらいながら遼子はつぶやいた。

「マルコは、私が捜してるのが誰か、聞かないのね」

「話したい?」

「うーん」アプリを使って答えた。「分からない。自分の中でも整理がついてないからかも」

「話してリョウコが元気になるなら話して。でもそうじゃないなら話さなくていい」

「優しいね」

「普通のことだよ。大事なのは僕のwantより、遼子のwillだから」

 さらりと言われた言葉が、ずきんと痛くなるほどに胸を刺した。

 見て、とマルコが前方を目で指す。

「太陽が水平線に隠れた。このあと真っ暗になるまでのグラデーションが好きなんだ。静かで、澄んでて、少し寂しい」

「私も好き。マジックアワー」

「そう呼ぶの? 知らなかったな」

 マジックアワー、とマルコが口の中で繰り返したとき、背後から気持ちのよさそうな鼾が聞こえた。

 顔を見合わせて、ふふふと笑いあった。

「やり残したことは無い?」とマルコが首を傾げる。

「マーケットでおいしいものをたくさん食べたでしょ。それから教会でお祈りをして」遼子は指を折りながら続けた。「トライシクルに乗って、KTVにも行けた」

 まさかこの地でカラオケを歌うとは思わなかった。それも昔のアニメ『ボルテスV』の主題歌だ。フィリピンで今なお人気があり、数年前には実写化もされたという。リザとマユミ、それから店にいた全員――タレントもお客も一緒になって大合唱した。リザたちが日本の歌を好きでいてくれて、日本を好きだと言ってくれて、嬉しくて泣きそうな気持ちになった。

 今日はこれから花火を見て、そのあとマルコの家で歓迎会をやってくれるという。そして明日の朝一番のフェリーで帰る。

 ニィヤウに会えなかったことと、ジープニーが混み過ぎで乗れなかったことは残念だったが、これ以上望んだらバチが当たりそうだ。大満足だと答えると、マルコはハーフパンツのポケットから名刺を取り出した。シムラの名刺だ。

「じゃあこれももう要らない?」

 名刺の裏面には、マルコが画像に黒塗り加工する前の単語――嫌な奴を意味するタガログ語「クパル」の文字がある。

 要らない、と遼子は答えた。

「オーケー」マルコは名刺をポケットにしまった。「帰ってヤギにでも食わせるか」

「ダメよ」焦って言った。「お腹こわしちゃう」

 マルコが声をあげて笑った。

「冗談だよ」

 そのとき、遠くからうなるようなエンジン音が聞こえてきた。振り返ると、坂を下ってくる車が見えた。マルコが目を凝らし、ジープニーだ、と叫ぶ。

「行こう」マルコが立ち上がって、大きな手を遼子に差し伸べる。「あれに乗れば今日がより完璧になる」

「でもジョンさんは?」手を借りて立ち上がる。

「大丈夫」マルコは通りすぎざまに、おい、とジョンの体を揺すった。目をこすりながら起き上がるジョンに、走りながら振り返って言う。「ここでいったん解散だ。トライシクルを置いてビーチに再集合」

「ジョンさんごめんなさい。ありがとう。また後で」

 手をつないで走って、ジープニーをつかまえて後部から飛び乗った。十人ほどが座れるひと続きの長椅子は、左右とも信じられないくらいぎゅうぎゅうだった。おかしくておかしくて、遼子は息を切らしながらいつまでもマルコと笑っていた。

 

 花火が始まるまでまだ時間があるというので、アマンダの店でお土産を見た。ジョンには貸し切り料金を払ってはいるが、お礼とお詫びをかねて何か贈ろう。マルコへは、実はもう考えてあった。マルコの家族にもさっき大衆食堂のレチョンを予約した。幸い丸ごと一頭の在庫があり、弟くんたちが取りに行ってくれるらしい。

 マルコがお面を手に取って自分の顔に当てて見せる。笑顔のお面だけど、能面のように、下を向くと悲し気な表情になる。『上を向いて歩こう』、坂本九の曲、リザたちは知っているだろうか。

 前面にTAWATAWA、背面にTIMTIMとロゴの入ったTシャツを手に取った。これを康介と色違いで買おうか、嫌がるかなと思いながら、白と水色と黄色を見比べていたら声がした。海辺のほうからだった。

 この声――。

 遼子はTシャツから顔を上げて、声がしたほうに目を向けた。

 

***

 

 レオがマーケットをそぞろ歩いていると、隣のエマが急に立ち止まった。

「レオ、見て」

 エマはホテルで施術してもらったジェルネイルを陽にかざしている。

「きれいなブルーだね」レオはその小さな手を取って言った。「エマの指先に海が広がってるみたいだ」

「ありがとう。こんなの初めて。嬉しい」

「明日はエステも予約するといいよ」

 その間にちょっと行かなければいけないところがある。

 去年訪れたKTV、そこのタレントのマユミに会いにいくようシムラに頼まれたのだ。なんでも最近見知らぬ人間からシムラ宛に妙なメールが届いたらしい。新手の詐欺か、あるいはスピリチュアル系か、とにかく気持ち悪くてすぐブロックしたらしいが、マユミが一枚噛んでいたようだ。どういう筋の話なのかマユミに探りを入れ、個人情報を見境なく漏らさないよう釘を刺し、ついでに名刺を回収してこいと言われている。

 今朝もシムラから念押しの連絡があった。そんなに心配ならシムラ自身でマユミに電話の一本でも入れるか、あるいはティムティム島はかなり気に入っていたのだから自ら来ればいいのに、今週はナイトクラブ『トウィンクルスター』のキャサリンが誕生日ウィークでそれどころではないという。

 あの女好きは病気だ。金蔵さんから聞いたところでは、日本でヤバい筋の女に手を出して、逃げるようにこっちに来たらしい。金蔵さんは嘘つきだけど、この話に関しては当たらずとも遠からずじゃないかと思っている。なぜなら現在進行形で気に入った子がいれば手あたり次第だし、エマを狙っているのだってバレバレだからだ。エマは歯牙にもかけていないが、いい気はしない。

 ただ、シムラには恩があった。

 マニラでホームレス同然で過ごしていたレオに、声をかけてくれたのがシムラだった。スリにあって全財産を失くし、夜の教会の、硬い椅子の上で小さくなって寝ていた時だった。

 シムラはまず風呂に入れて飯を食わせてくれた。そう、親切な側面もあるのだ。レオは、シムラの伝手でマニラ郊外の長屋を安く借り、時々ちょっとした仕事を割り振られるようになった。仕事の内容はまちまちで、荷物を届けてくれとか、誰それに会ってきてくれとか、謝っておいてくれとかだ。要するに何でも屋だけど、やっぱりたいがい女がらみで、一番嫌だったのはシムラは死んだと嘘を言いにド田舎まで行かされたときだった。相手の女性は自分は婚約者だといって泣いていた。

 シムラは年金が支給される年齢まで、株の運用で食いつなぐみたいだ。気前がいいから儲けが出たときは贅沢させてくれる。去年の今頃も金蔵さんと三人でこの島で遊んだ。シムラがなぜ自分たちを引き連れるかは分かっている。不法滞在の弱みで絶対に逆らってこないから。それと優位に立てるからだ。デブの俺と、ハゲの金蔵さんを連れて歩けば、並みのシムラもそれなりに映える。

 合コンに自分より見栄えのいい同性を連れていかないみたいな姑息なやり口だが、それ以上に厄介なのは、酒が入ると口が悪くなって態度が横柄になることだ。周りの男を下げて自分を大きく見せたがる。ああいうのがこの国では一番嫌われるんだ。シムラの周りにはいつも人がいるけど、金の魅力が自分の魅力だと気づいていない。

 その金回りについても、ここのところの円安でだいぶプランが狂っているらしい。一昨年には念のためといって、BGC(ボニファシオ・グローバル・シティ)の高級コンドミニアムからマルンディ地区の古いコンドに移って、家賃を抑えている。ゆくゆくは分譲物件の購入をと考えていたようだがどうなるか。

 まあ自分は――たぶん金蔵さんも、割のいい稼ぎは失いたくないからうまく付き合っていくつもりだ。

 月に一度のその仕事だけで、贅沢しなければ、そしてボスの機嫌を損ねなければ十分食っていけた。あとは何をしていようが自由なので、レオはたいがい広場でぼーっとしている。ストリートバスケやストリートダンスに興じる老若男女を見ているだけで、いくらでも時間はつぶせた。いや時間をつぶす、というのは違う。そういう感覚はもうなくなっている。

 その広場を、日に二回、通りすぎる女性がいた。毎朝、大きな籠と重そうなプラスチックバッグを両脇に抱えて東から西に向かい、午後は身軽になって西から東へ戻っていく。それがエマだった。

 いつからか、にこっと笑い合うようになった。一言二言、挨拶を交わすようになった。あるとき、腕に提げたプラスチックバッグからフィッシュボールがぽろりぽろりと落ちていたので、穴があいていると教えてやった。

 ――気づかなかった。ありがとう!

 それからレオはしばらくゴミ捨て場やスクラップヤードをめぐった。運よくショッピングカートを見つけることができ、それを直して少し手も加えて移動式販売用カートを作った。よせ集めだし、ろくな道具もなくて仕上がりはイマイチだったが、プレゼントするとエマはとても喜んだ。しばらく嬉しそうに使っていたが、ある日また籠とビニールバッグを手にしょんぼり歩いてきた。家の中にしまうことができず、屋外に置いておいたら盗られてしまったという。それでレオは、今度は少し時間をかけて廃材を吟味して、シムラからの報酬もためてそれなりの道具を買い、折り畳み式のカートを作った。今エマが使っているカートだ。

 レオの手は魔法の手。

 エマはそういってレオを称え、労ってくれる。純粋で優しくてかわいくて愛情深い、エマは天使だった。

 今回の旅行も泣いて喜んでくれた。初めて乗ったフェリーからの景色に目を輝かせていた。もっともっと喜ばせてあげたい。

 レオはバーベキューを五串買って、浜辺を歩きながら食べた。海は広く牛串はうまい。至福だ。カラマンシーソースの四本目を取り出して食べようとしたとき、エマが突然「あれかわいい!」と叫んで駆け出した。あっという間に土産物屋の店先にたどりついて、こっちこっちと手を振っている。

 仕方なくレオは体を揺らして小走りした。串の入ったプラスチックカップを抱えて、足は砂に取られてしんどい。

「待ってよエマ。僕、息が切れちゃって、もう大変だ」

 店先では太った女が椅子に座っていて、扇風機の風にあたっていた。

 やっと追いついて、どれ、と商品を見る。淡いベージュの麦わら帽子で、エレガントな白いリボンが付いていた。

「かわいい帽子だね。きっと似合うよ」

 手に取って頭にかぶせてやろうとしたときだった。

 刺さるような視線を感じた。

 

(第23回につづく)