22 @noa-ano-days 2025/10/11 19:15
母は、歩道橋の上に立っていた。
あたしを見下ろして、こっちにおいでよというように手を振っている。太陽が母の肩越しにある。眩しくて、顔がよく見えない。
母は、お洒落な人だった。インドの雑貨が好きで、よく行く店で虹色のケバケバしい服を買ってきても、小物や靴と組み合わせて上品に着こなしてしまう。あたしには絶対こんなことはできない。母のコーディネートは、魔法みたいだった。
でも。
歩道橋の上に立つ姿は、なんだかぼんやりしている。服も、何色かすら判らない無地のワンピースだ。母はこんな服を、着ていたっけ。
――ああ、そうか。
母の姿が見えづらいのは、逆光だからじゃない。
あたしが母のことを、よく覚えていないからだ。
あたしは茜や心春と一緒に、母が殺されたのをなかったことにした。陰謀論で傷口を塞ぎ、痛みをなくして生活していた。あんなことをした報いだ。母の記憶や思い出自体が、あたしの中から薄れている。
ああ。
母は、どんな顔をしていたっけ――。
あたしはベッドに寝転がり、天井を見上げて泣いていた。
職場から帰ってきて、すぐに眠ってしまったことを思い出した。このところ、嫌なことを忘れたくて毎日出勤しているので、すごく疲れている。
スマホを充電ケーブルから抜いて、母の写真を探した。黒をベースにした、エスニックプリントのワンピースを着た母の写真が出てくる。そうだ、この顔だ。写真を見れば、母の顔はすぐに思い出せる。忘れるはずなんかない。
あたしは、写真を目に焼きつけるつもりで見つめ続けた。
定期的にこういうことをしないと、いつか母の顔が判らなくなるのではないか――あたしの中に、嫌な予感が渦巻いていた。
「わ」
思わず声を上げたのは、手のひらの中のスマホが振動をはじめたからだ。
「乃愛さん、いまちょっといい? いくつか聞きたいことがあって」
電話をかけてきたのは、令那さんだった。
「いいですけど……どうしたんですか」
「心春さんって、以前はどこで働いていたんだっけ?」
「はい? どこでって……ガールズバーですよ。もうとっくにやめてますけど」
「そのお店って、客層はどんな感じなの? 芸能人は来る?」
「あたしとは違う店で働いてたので、よく知りませんけど……来ることもあるんじゃないですか。うちの店にも芸能人は来ないけど、誰かとつながっていそうな社長みたいな人なら、よく来るかなあ」
「心春さんは廃墟マニアだった。確かそんな話を聞いたことがあるけど、それは合ってる?」
「はい?」
立て続けにわけが判らない質問が飛んでくる。なんでそんなことが知りたいのだろう。
「マニアかどうかは判りませんけど、結構好きでしたよ。ちょくちょくひとりでも行ってたんじゃないのかな」
「そうだよね……やっぱり……」
「あの、どうしたんですか。変ですよ、今日の令那さん」
問いかけても返事がない。あたしは不安になった。しばらく会わないうちに、どうかしてしまったんじゃないだろうか。
「いまから〈望幻楼〉に行こうと思うんだけど、来てくれない?」
「は?」
ますますわけの判らない話が出てきた。それでも、令那さんの口調は真剣だった。
「〈XNS〉が活動をしているの。私は心春さんに、会う必要がある……」
あたしは〈望幻楼〉の門の前で、令那さんを待っていた。
来るのは初めてだ。〈XNS〉はいま、こんなところを拠点にしているのか。心春と横浜に行ってから一週間しか経っていないのに、もうずいぶん遠くに来てしまった気がする。
「乃愛さん」
道の向こうからやってきた女性が、私の前に立った。
あれ、と思った。令那さんの雰囲気が、だいぶ変わっていた。前まではもっと大人の色気が漂っていたのに、いまはなんだかこざっぱりしている。令那さんも〈XNS〉の活動を離れて、少し時間が経っている。何か心境の変化があったのかもしれない。
「どういうことなのか、教えてくれませんか」
門を開けて中に入る令那さんの背中に声をかけたが、返事は来ない。黙ってついてきてほしいと、背中が言っているような気がした。
小さな森を抜ける。初めて見る〈望幻楼〉の姿に、あたしは少し驚いていた。こんな死体みたいな建物を見るのは初めてだった。近づくのが怖くなるくらい、嫌な雰囲気が出ている。
――どん。
あたしの背後で、音がした。
「何やってんですか。びっくりした」
いつの間にか後ろにいた令那さんが、大きな石の破片を地面に叩きつけていた。
令那さんは、転がった石を見つめている。本当に、今日のこの人はどうしちゃったんだろう。話が通じる気がしない。
「去年、〈望幻楼〉で怪我人が出ているのは知ってる?」
「はい?」
「この辺にいくつか、大きな石が転がっているでしょう? この建物は老朽化している上に、火事に見舞われていて脆くなっている。これは全部、外壁が落ちてきたものなの。去年、ここを見にきた廃墟マニアの人が、剥がれ落ちた外壁にぶつかって怪我をした。ニュースにもなってる」
「はあ……」
「乃愛さん」
令那さんの顔が近くにあった。
「心春さんと藍は、会ったことがあるんじゃないかな?」
「は?」
「週刊誌に書かれていた内容によると、藍はあちこちから女性を集めて飲み会を開いていた。ガールズバーの店員って、お客さんと色々な話をするでしょう? 心春さんはお客さんに『藍のファンだ』と話していた。その中にたまたま藍とつながりのある人がいて、藍の飲み会に呼ばれた……そういう可能性は、考えられない?」
「あるかもしれませんけど……そんな話、あいつから聞いたことないですよ。突然どうしたんですか」
「ひとつ、仮説があるだけ」
令那さんが〈望幻楼〉に向かって歩きはじめる。いい加減、何も教えてもらえないことに苛立ちながら、あたしはあとに続いた。
建物の中に入ると、焦げたような酸っぱいような、嫌な臭いが鼻を突いた。絨毯はグニャグニャになっていて気持ち悪いし、昼間なのに光が入ってこなくて暗い。こんなところにいたくないという心の声を止めて、あたしは令那さんに続く。
三階まで上る。
そこに、心春たちがいた。
三十人くらいの人たちが、一言の声も発さずに、あぐらをかいて座っている。全員死んでいるんじゃないかと思うくらい、誰も身動きすらしない。だんだん怖くなってくる。人間って、こんなにも動きを止めていられるものだろうか。
――もうこの人たちには、言葉はいらないんだ。
ただ同じ空間にいるだけで、お互いが深い部分で結びついている。陰謀論が極まったなれの果ては、こんなことになるのか。同じことを考え、同じものを見て、同じ世界の中にいる。水みたいに溶け合って、ひとつになっている。
――心春。
輪の中心でこちらを向いている友達の顔は、死人みたいに青白い。血が通っている人間には思えないくらい、生気が感じられなかった。
それでも心春は、安らかな表情をしていた。
ここにはもう、心春たちを脅かすものはない。耳に入れたくない情報も、目にしたくない光景も。ここは、楽園だった。心春たちは自分の好きなことだけを信じて生きることができる。深い安息の中にいるんだと思った。
よく判らなくなってしまった。
みんなの様子は、どう見ても異常だった。
あたしは心春にとって、いいことをしたんだろうか――。
「心春さん」
私たちを一切見ようとしない集団に向かって、令那さんは話しかけた。
「あの夜に何があったのか――私なりに判った真実を、いまから言いたいと思う」
真実。
陰謀論を唱え続けていた令那さんからそんな言葉が出たことに、あたしはハッとした。
「あの夜、藍はそこから転落して死んだ」
令那さんは、心春たちが座り込んでいる奥の、破れた窓を指差す。
「警察が〈自殺〉だと発表している以上、他殺の可能性はほとんど考えられない。誰かに突き落とされた痕跡があったのなら、捜査で見つかるはずだから」
「藍は、死んでない」
突然大きな声が上がって、あたしはびくりとした。
黙り込んでいる集団の中から言葉を発したのは、誠也だった。
「あんたも言っていたことだろう。いまさらなんだ」
「ごめんなさい。私が言ったことは、間違いだった。謝ります」
「間違っているのはそっちだ。藍は自殺するような人間じゃない。あなたは藍と話したことがあるのか? 部外者には判らない」
「藍はその窓から転落して、死んだ」
誠也は苛立ったように立ち上がろうとしたが、そこまでだった。ため息をついて、令那さんを無視するように、祈りの輪の中に戻っていく。
「ただ自殺だったと仮定しても、不思議なことがある。藍は極度の高所恐怖症だった。二、三階にある喫茶店に入っても、窓際の席には座らなかったくらいに――そんな彼がなぜ〈自殺〉の方法に、飛び降りを選んだのか」
令那さんの言葉を聞いている人は、誰もいない。それでも彼女は、続けた。
「この建物は、だいぶガタがきている」令那さんはふと、〈望幻楼〉の内部を見回す。「内装はぐちゃぐちゃで、ボロボロの外壁もたまに剥がれ落ちて、外は石だらけになってる。去年は怪我人まで出た。つまり――ここで剥がれ落ちた外壁に人が当たったとしても、それは事故だと見做される可能性がある。たとえその人が、死んだとしても」
令那さんは、窓のほうを見つめるようにして言った。
「藍は、誰かを殺そうとしていたんじゃないかな? 事故に見せかけて」
「まさか――」あたしは思わず、口に出していた。令那さんはひとり頷いてから続ける。
「藍は地面に転がっている石を拾って、三階から落として誰かを殺そうとした。そのときにバランスを崩して、転落した。この建物は暗いでしょう? 夜になると何も見えずに、目測を誤ったんだと思う。藍の遺体を最初に発見した人は、何かが地面にぶつかったような音を二回聞いている。藍と、石。ふたつのものが落ちたから、二回音が聞こえた」
祈りを捧げているメンバーが、少しずつ令那さんの言葉に耳を傾けはじめている気配を感じる。固く結びついていた塊の中に、小さな波みたいなものが立っている。
「じゃあ藍は、誰を殺そうとしていたのか。誠也さんの証言では、週刊誌の記事が出ることを知っても、藍はあくまで強気だった。〈週刊誌の記事は全部でっち上げだ〉と言って、トップワンの面々を鼓舞し続けた。実際、証拠はなかったんだと思う。あの記事を読む限り、藍は周到に女性を連れ込んでいたから。実際に、藍が本当に女性を漁っていたのかどうかは、〈あれ〉でも見解が分かれている」
でも――。
「証拠が、残っていたら?」
集団に呼び掛けるように、令那さんは言う。
「藍はどんな障壁をも排除しようとする――。だから藍は、証拠を消そうとした。殺そうとした。心春さん、あなたを」
覚悟を決めたような口調で、令那さんは言った。
「心春さん――妊娠しているんじゃない?」
音が、うるさい。
集団が令那さんを見て、ざわついている。その音がうるさいんじゃない。
音の発信源は、あたしだった。荒くなった息の音が嵐みたいに、耳の中に溢れていた。
騒がしくなった世界の中、心春だけが、違う世界にいるみたいだった。
「ここからは仮説だから、間違っていたら訂正してほしい。あなたは以前、ガールズバーで働いていた。そこに来たお客さんか誰かを経由して、藍に会ったんじゃない? あなたは性交渉をして妊娠した。
あなたは藍に連絡を取って、そのことを伝えた。当時スマホを持っていなかったから、経由した人を介したか、トップワンに直接連絡したか――方法は判らない。藍はきっと慌てたことでしょう。そしてその直後、例の週刊誌記事が出ることになった。藍は複数人と性的な関係があったという事実自体を否定しようとしたけれど、あなたとの〈子〉は、確実な証拠になる。藍はどんなことをしてでも障壁を取り去ろうとする人で、当時興奮状態にあった。異常な心理状態の中、藍は、あなたを消すことにした」
「ちょっと待ってくださいよ」
思わず、あたしは口を挟んでいた。
「なんで心春なんですか? 藍が誰かを殺そうとしたとしても、ターゲットは心春以外だったかもしれないでしょう」
「それは、藍がこの場所を選んだことと関係している」
「どういうことですか」
「心春さん――あなたは廃墟マニアだった。普通の人が夜にこんな場所に忍び込むのは変だけれど、あなたなら〈事故死〉したとしてもおかしくはない。それにあなたは当時、スマホを持っていなかった。連絡の履歴が残らなかったことも、藍の犯行の後押しになったはず」
令那さんは続ける。
「あなたはこのところずっと、体調が悪そうだった。〈XNS〉の活動にのめり込みすぎているからだと思っていたけれど、これは妊娠の影響なんじゃないの? あなたが人形を作って〈望幻楼〉によく置いていたのもそうだった。あなたは自分の子供を表すものを、藍が死んだ現場に置いておきたかったんじゃないの?
あなたはあの夜、藍につれられてこの場所に来た。藍はあなたの頭に大きな石を落として殺すつもりで、『玄関先に立ってて』みたいなことをあなたに言い、〈望幻楼〉に入った。しばらく待っていたら、バランスを崩した藍が突然落下してきて、地面に頭を打ちつけて動かなくなった。あなたはそこで、藍が自分を殺そうとしていたのだと悟った。そこに、第一発見者の@mado-blossomがやってきた。あなたはどうしたらいいのか判らなくなり、夜の闇に紛れて逃げた。
あなたは藍を失い、落ち込んだ日々を送っていた。彼が自分を殺そうとしたことも、認識していたのかもしれない。そんなときにあなたは、私に会った。そしてキリストの復活の話を聞いて――現実をねじ曲げることにした。〈藍は自分を殺そうとしたんじゃない。復活するために、死んだんだ〉って」
『藍は生き返る! 聖書にもそう書いてあった!』
令那さんと会ったときの心春は、異様な興奮状態でそんなことを言っていた。納得できる物語を、見つけたとでも言うように。
「そのおなかの子は、藍じゃない」
令那さんの声が、切実な色を増していた。
「藍は復活したりしない。これ以上どうするつもりなの? この会合を、どこで終わらせるつもり? その子を藍として、育てていくつもりなの?」
「うるさいなあ」
悲鳴のような声を上げたのは、舞依だった。
「何の証拠もない憶測を、ぺらぺらと……何がしたいの? 大体、心春先生のおなかは全然出てないじゃない」
その通りだ。外側から見て、心春は妊娠しているようには見えない。
つまり――。
令那さんが、覚悟を決めたように頷いた。
「おなかの赤ちゃんはもう、亡くなっているんじゃない?」
ぐらりと、視界が揺らいだ。
「あなたはそのことに気づいているんじゃないの? おなかの子供は、もう活動していない。だからあなたは、〈XNS〉にここまでのめり込んでいった。藍は復活する――あなたの祈りは、子供が亡くなったという事実から目を逸らすためのものでもあった。
でも、胎児が子宮の中で亡くなっているのなら、あなたも危ない。合併症を起こせば、あなたも危険に晒される。私の言っていることが間違っているのなら、それでいい。だから、あなたは――」
「何を言っているんですか」
ずっと閉じられていた心春の目が、少しだけ開いていた。
聞いたことがないほど、冷たい声になっていた。
「私は藍に会ったことなんかないし、妊娠もしていない。どうしてそんなことを思ったんですか」
「じゃあなぜあなたの体調は、急激に悪くなったの? 藍がこの場所で〈自殺〉したのは? 高所恐怖症の藍が、窓から落ちて死んだのは? 落下した音が二回聞こえたのは? どう考えれば辻褄が合うの?」
「体調が悪いのは、疲れているだけです。藍は自殺などしていませんし、高所から身を投げたのは藍の身代わりになった死体のほうです。落下した音が二回聞こえたのは、二回地面にぶつかったからかもしれないし、聞き間違いかもしれない」
「そんなの、詭弁にすぎる」
「令那さんがいつも言っていたことでしょ? 何の証拠があって、そんなことを言うんですか」
私の知っている心春じゃないみたいだった。こいつがこんなにも早口でまくし立てるのを見るのは、初めてだった。
「私は、感じるの」
心春は嬉しそうに、薄く笑った。
「藍はこの世界のどこかで生きている。私たちはいつか、復活してきた彼に会える。そのときが来るのを待っているんです。邪魔しないで」
「心春さん、私の話を聞いていた?」
「はい。陰謀論はもう結構です。私たちの祈りを、邪魔しないで」
令那さんは、諦めたようにがっくりとうなだれた。舞依が、ふっと馬鹿にしたように笑い、祈りの輪の中に戻った。
あたしたちはみんな、違う世界に生きている。
〈XNS〉の活動を見ているうちに、そんな風に思うようになった。あたしたちは同じ時間、同じ空間を生きているように見えて、実は全員、違う世界にいる。ある事実を、ひとりの人は真実だと思い、ほかの人はデマだと思っている。ある人をひとりは善人だと思い、ほかの人は悪人だと思っている。あたしたちは全員違う世界にいるのに、みんなその事実に目をつぶって、なんとなくつながっているような気になっている。
あたしたちは、孤独だ。あたしたちはこんなにも判り合えない。
それでも――。
あたしは、祈りの輪の中に足を踏み出した。
まだあたしにできることがあるのなら――それをやるだけだった。
「赤ちゃんは本当に、死んでるのかな」
令那さんがハッと息を呑んで、あたしを見た。
「ガルバの店員をやってると、色々な人の話を聞くよ。前に〈自分の妊娠に、出産まで気がつかなかった〉人の話も聞いたことがある。心春――お前は何かのタイミングで、赤ちゃんが死んだんだと思い込んだのかもしれない。でもそれは、正しいのか?」
心春はあたしを見ようともしない。苛立ちを抑えながら、あたしは言った。
「病院に行くぞ」
世界の壁を突き破るつもりで、声を出した。
「現実に向き合うのが嫌なのは判るよ。でも、こんなことはもうやめよう。病院に行って、きちんと検査するんだ。自分の状況を認めろよ」
心春が薄く目を開けて、あたし見る。声は聞こえている。でも、心には届いてない。クソ。なんなんだよ、ほんとに。
「心春」
あたしは、詰め寄るように言った。
「お前が妊娠してないなら、いまからお前の腹を蹴るぞ。いいのか」
心春の目には、何の色も浮かんでいない。
「ちょっと痛いかもしれないけど、いいよな。ムカつくんなら、お前もあたしの腹を蹴っていい。それでおあいこだろ」
心春は何も答えない。焦りを感じながら、あたしは言った。
「嫌なら、現実を受け入れろ。お前のおなかの赤ちゃんは、まだ生きてるかもしれない。藍はお前を殺そうとして死んだ。復活なんかするはずがない」
心春は何を考えているのか判らない目で、ただ笑っている。こいつをこんな風にしてしまったのは、あたしだ。罪から目を逸らしてきた、あたしだ。
「心春、あたしと一緒に暮らしていこう。現実に戻ろうぜ。あたしたちならきっと、大丈夫だから……」
「乃愛ちゃん……」
心春の目の色に、少しの変化があった。
向こうの世界からこっちの世界に、足を一歩踏み出している気がした。正気を取り戻したみたいな変化が、目の中にきらめいていた。
「いいよ」
「心春……」
「蹴っても、いいよ」
目の前が暗くなった。
ひらひらとした服をはためかせながら、心春はすべてを受け入れるみたいに、両手を広げた。
「乃愛ちゃんも令那さんも、おかしくなってる。藍は生きてる。それだけだよ」
令那さんが、がっくりと肩を落とす。「はは」と笑い声が聞こえた。
「陰謀論者ども」嘲笑うように、舞依が言った。
「現実を見ずに、ありえないことばかり考えている陰謀論者たち……さっさと出て行きなさい。心春先生と私たちの邪魔をするんじゃない」
「どっちが陰謀論なんだよ。ありえないことばかりいいやがって」
「出て行け。私たちの世界に、入ってくるな」
誠也と遙人が立ち上がった。長身の誠也が、威圧するように詰め寄ってくる。恐怖を覚えた。令那さんが怯えたみたいに、後ろに下がった。
「……心春さん?」
令那さんが、声を上げた。
心春が、床に突っ伏していた。
「おい!」
近づこうとすると、誠也が立ちはだかる。あたしはそれを無理やり押しのけて、心春のそばに駆け寄った。心春は真っ青になっていた。全身が凍えたように震えている。
「大丈夫だよ、乃愛ちゃん……」
搾り出すような苦しげな声で、心春は言った。
「私なら大丈夫。放っておいて……」
「馬鹿言うな。令那さん、救急車呼んで」
「藍は、復活する」
あたしは、心春を抱きしめた。こんなにも近くにいる。それでも、違う世界にいる。
「藍は、生きてるの……私たちはまた、藍に会える」
「ごめん、心春」
抱きしめても、あたしの体温は心春に吸い取られていく。どんなに温めようとしても、冷たいままだ。
「心春、悪かった。あたしのせいだ。あたしの……」
罪が胸の奥から、どうしようもなく溢れ出していた。

(つづく)