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「仲吉部長ー、これ見てくださいよ」
喫煙室で〈エコー〉を吸っていると、営業部の田中さんが話しかけてきた。最近育休から復帰したばかりの編集部員で、〈ようやく煙草が吸えます〉と喜んでいたっけ。
スマホを見せられると、二匹の猫が向き合ってウーウーと唸り合っている動画が流れていた。場所はどこかの路上だ。猫たちは額がくっつかんばかりの距離で、膨れ上がった尻尾をブンブン振っている。
次の瞬間、片方の猫が飛びかかった。
たちまち喧嘩になった。二匹は取っ組み合い、四本の足を使ってお互いを攻撃する。路上は、少しだけ傾斜しているみたいだった。ひとつの塊となった猫たちは球体のように、その上を転がっていく。
転がっていった先には、海があった。
二匹の猫は、絡まり合ったまま海に落ちて水しぶきを上げる。田中さんが「ハハッ」と笑った。猫たちは慌てたように泳いで陸地に上がってきたが、もはや喧嘩どころではない。びしょ濡れになった身体をブルブルと震わせてから、別の方向に去っていく。
「メッチャ面白くないですか。ウケるし可愛い」
「面白いねえ。どうやって見つけたのこんなの」
「子育ての合間に、猫が喧嘩してる動画をよく見てるんですよ。猫って怒ってても可愛くて、ずるいですよね。人間は怒ると全然可愛くない」
田中さんはその話を起点に、子育ての愚痴をはじめた。夫がろくに手伝ってくれないとか、保育園の対応が悪いとか、子供の泣き声がうるさいとか、管理職をやる中で百回くらいは聞いてきた内容だ。ただ、不愉快ではない。二十歳も年下の女性社員からこういう話をされるたびに、俺もまだ捨てたもんじゃないなと嬉しくなる。
――人付き合いだけで部長になった、仲よしさん。
そんな風に馬鹿にされていることは知っている。そのことに対しては腹も立たないというか、愚かな意見だなと思う。人付き合いこそが、仕事なんかと比較にならないほど難しいことだからだ。
グリーン出版に就職して二十四年、斬新なアイデアを出す編集者や、天才的な話術を持つ営業部員が、人付き合いをしくじって失脚する例をたくさん見てきた。他人と常に円満な関係を持つためには、まず自分自身と上手く付き合わなければいけない。無理をせずに生きる。好きなことをする時間を作る。自分の機嫌を取る。仕事の能力がある人間ほど、こういう基本的なところを怠り、仕事のみに熱中し、傍若無人に振る舞い、短期的に結果は出すものの長期的には失速して消えていく。
おれはやつらに勝ったのだ。より難易度の高いことをやっているから、当然の話だ。
「話を聞いていただいてありがとうございました」と言い、田中さんは喫煙室を出ていった。彼女の中で、おれへの信頼がひとつ積み上がる音が聞こえた。とはいえ、人の話を聞いていると、煙草を楽しむどころではない。おれはフィルターだけが残った〈エコー〉を吸い殻入れに入れ、次の一本に火をつけた。
「ぶちょうー」
そのタイミングで、岡居が喫煙室に入ってきた。火をつけたばかりだが、この一本もゆっくり吸えないだろうことを、おれは悟った。岡居は喫煙者ではないが、たまに喫煙室に顔を出す。おれとふたりだけの相談をしたいときだ。
「ちょっと相談したいことがあって。これ、見てくれませんか」
「なんだ。また猫の喧嘩か何かか」
「はい? 猫?」
「なんでもない。どうしたんだ」
岡居は怪訝な表情を浮かべながら、スマホを見せてきた。ユーチューブの動画が流れはじめた。
見ていくうちに、眉間に皺が寄っていくのを感じた。
動画はオニマルというユーチューバーのもののようだった。場所は渋谷だろうか。でっぷりと太った男が、路上で行われているデモに突撃し、参加者たちに喧嘩を売りはじめる。
〈藍は自殺じゃない〉
〈警察は真実を発表しろ〉
デモ隊が掲げるプラカードが見えるが、文脈がよく判らない。困惑しながら動画を見続けた先で、おれはようやく事態を把握した。
デモ隊の中に、浅木律の顔があった。
会社で見せている感情を押し殺したような表情とは違い、目が据わっていた。鬼のような形相で、こちらを睨みつけている。
「どういうこと? 意味がよく判らないんだけど……」
「浅木さんが楠木藍の大ファンだということを知っていますか?」
「ああ。アイドルか何かだろ?」
「楠木藍が四ヶ月前に、自殺したということは?」
喫煙室の雑談でなんとなく聞いたことがあるが、詳しくは知らなかった。岡居はスマホを何やら操作して、再びおれに向けてくる。
「浅木さん、陰謀論に取り憑かれているんです。〈楠木藍は自殺なんかしていない〉と、芸能事務所にまで抗議に行っています」
「なんだって――」
スマホには、今度はSNSが表示されている。名前が頻繁に変わるせいで、なんと表記すればいいのか編集者泣かせである〈あれ〉の画面だ。
〈藍の死からもうすぐ4ヶ月。トップワンは藍の死の真実を隠している。真実が明らかになるまで、私は負けない!〉
そんな激しい口調の投稿が断続的になされている合間に、ほかのアカウントの同じような意見が拡散されている。荒廃したタイムラインだった。ひと目見るだけで、投稿主の精神状態が異常なものであることが判る。
「これ、まさか浅木さんのアカウントなの――?」
「はい。仕事中に開いているのをたまに見かけていたので、間違いありません。グリーン出版の社員がこんな活動をしているなんて、取引先にバレたら問題になりますよね」
「うむ……」
〈グリーンブック〉の誌面作りは、芸能プロダクション各社の協力がなくてはやれない。最近は映画化されるような小説が文芸部からも出るようになっていて、芸能界との関係もますます密になっている。トップワンと進めているプロジェクトがあるのかまでは判らないが、社員が芸能事務所を攻撃しているなど、言語道断だ。
「岡居くん、このことを知っているのは、ほかに誰だい?」
「誰にも言ってません。部長に言うのが最初です」
「判った。浅木さんにはおれから注意しておく。ただ、もうちょっと材料が欲しい。浅木さんの投稿を、まとめてもらえるかな?」
「はい。話し合いの場には、僕も同席させてもらえませんか。直属の上司として、彼女の気持ちを聞きたくて」
複数人でひとりを注意するとなると、いまは下手したらパワハラで告発されかねないご時世だ。だが、自分と岡居ならばそこまで圧迫的な空気にはならないだろう。それでもリスクはあるので、事前にコンプライアンス室に話を通しておいて、当日の会話は双方で録音する必要がある。こういうところを怠ると、一回のミスで退場する羽目になる。
「判った。詳細は後日セッティングするよ。教えてくれてありがとう」
「本来の浅木さんは、こんなことをする人じゃありません。どうか寛大な処置をお願いします」
「判ってる。おれに任せてくれ」
岡居はホッとした表情になり、喫煙室を去って行く。おれは自分のスマホを取り出し、昔アカウントだけを作ったことがある〈あれ〉を見た。
「ひでえなこりゃ……」
浅木さんのことじゃない。〈あれ〉のホーム画面に表示された投稿を見て、思わず声が漏れていた。
不倫した芸能人をクソミソに叩く投稿。
特定の人種や民族を攻撃する投稿。
もはや文脈すらもよく判らない、誰かと誰かが何かの議題で口汚く罵り合っているだけの投稿。
誰もが誰かを攻撃している。現実世界ではほとんど聞かれないような悪口や嫌味や当てこすりが、画面を更新するごとにウジャウジャと湧いて出てくる。無限に痰が湧いてくる、悪夢の痰壺のようだ。おれは一瞬で気分が悪くなった。
――お前ら、どうかしてるよ。
確かに人間は、争いごとが好きなのだろう。猫の喧嘩を見てストレスを発散している田中さんを見れば判る。おれたちは安全圏から争いを見たり、物陰から人を殴ったりするのが大好きなのだ。
だからこそ――人間の本性が邪悪で攻撃的な猿だからこそ、おれのような昼行灯が重宝され、最終的には上手くいくのだ。なんでこんな簡単なことすらも判らないのか。SNSで人を殴ったところで何も得るものはないし、それどころか、嫌な気分になって一日が台無しになったり、殴った相手に訴えられて人生が終わったりしてしまうこともある。なぜこいつらは――浅木さんはこんな意味のないことをしているのだろうか。
――とはいえ。
嘆いていても仕方がない。浅木さんがSNSで問題行動をしていることは、解決しなければならない。おれは三本目の煙草に火をつけ、画面をもう一度更新した。
「んん?」
時刻は十二時になっていた。
正午に合わせてニュースが配信されるようになっているらしく、画面上に、ある週刊誌の投稿が表示されていた。〈楠木藍〉という名前があるのを見て、おれは思わず目を疑った。
「どういうことだ、こりゃ……」
記事を開く。煙草を吸うことも忘れ、おれは記事の内容に目を走らせていた。
10 @xns-official 2025/06/28 19:00
「美保」
ドアをノックされる音で、強制的に目が覚めた。「もうお昼よ、起きなさい」とドアを叩かれ続ける。母親の声は高くてうるさい。耳を塞ぎたくなる。
「いつまで寝てるの。いい加減に起きなさい」
「うるさいなあ! こっちは疲れてんだよ!」
「朝ご飯、早く食べてよ。台所が片づかないから」
「作らなくていいって言ってんでしょ! 勝手に作っといて、うるせえんだよ!」
二、三度反論すると、母親はしおらしくなって下がっていく。もう一万回くらいこんなやりとりをしたのだから、いい加減学習してほしい――そう思いつつ、私はベッドから身を起こした。
遮光カーテンを開けて、部屋に光を通す。
最初に私が目をやるのは、楠木藍のポスターだ。
「かっこいいなあ……」
武道館ライブの写真だった。マイクを構えた藍の横顔が、アップで切り抜かれている。いつも涼しい顔でパフォーマンスをこなしているように見えるのに、この写真では額にびっしりと汗をかいている。藍はクールに生きているように見えて、実は泥臭くもがき続けているのだ。愛おしくてたまらない。
この人が、もうこの世界にいないなんて――。
考えるだけで苦しい気持ちになるけれど、藍を思わない日はない。藍が死んでから、私の人生はずっと暗いままだ。
藍の顔が、好きだった。
こんなに好みど真ん中の顔を、見たことがない。何を足しても何を引いてもいけない、完璧なバランスによって成立している顔だった。私の嗜好に合わせて、神様が作り出してくれた作品なのではないかと、本気で疑ったことがあるくらいだ。
お笑い芸人のオタクの世界には〈顔ファン〉という言葉があるらしい。ネタの中身に興味を持たずに、芸人の見た目だけで好きになって追いかけるファンのことで、そういう人たちを認めるかどうかで論争が起きているとも聞く。
アイドルを推す行為には、少なからず〈顔面が好み〉という要素があるわけで、こちらの世界で〈顔ファン〉と言われることはない。でも藍に関しては、〈彼の作品を鑑賞し追いかけているファンのほうが、高尚である〉という格差があるような気がしてならない。私は藍の撮る写真なんかには興味がない。〈Indigo〉の写真集も五冊買ったけど、〈なんでもない日常を特別な何かに昇華するのではなく、なんでもないままに切り取ることに苦労した〉という藍のコメントの意味は、よく判らない。別にそれでよかった。藍の顔は、それだけで奇跡なのだから。
「美保」
藍の顔を見る特別な時間の中に、母親の声が紛れてきた。
「あなた、どうするつもりなの? つらいからって会社やめてきちゃって、転職活動もすぐやめちゃって……平日の昼間からゴロゴロして、そんなんじゃ結婚もできないし、私とパパもいつまで元気なのか判らな……」
うるさいので、私は母の声を意識から締め出した。自分もろくに働いたこともない、パパの金で生活してきただけのくせして、よく言えるよ。
そんなことよりも、考えるべきなのは――。
ベッドに寝転がり、スマホを手に取る。令那さんから受け継いだ〈XNS〉の公式アカウントでは、昼と夜に定期的に投稿をするようにしている。
といっても、最近は書く内容が似通ってきてしまっていた。藍が死んでから四ヶ月、トップワンにデモまでしたというのに、藍に関する新しい情報は何も出てこない。活動にすごく閉塞感が生まれている感じだ。
藍が自殺なんかするはずがない。
彼の活動は上手くいっていたし、亡くなった経緯も不可解だ。私たちにとっては明白なことなのに、どうしてほかの人は判ってくれないんだろう。どうして関心を持ってくれないんだろう。世間の藍への関心がどんどん失われていることは、毎日投稿している私には肌で判る。憂鬱な思いを抱えながら、私は〈あれ〉を開く――。
「――え?」
思わず、声を上げていた。
〈あれ〉のトレンドに、久しぶりに〈楠木藍〉の名前があった。震源になっているのは、週刊誌のアカウントのようだった。
手が震える。叫び出したくなるほどの恐怖を、私はなんとか堪えていた。
〈楠木藍に性加害疑惑 元アイドルが告発した恐怖の夜〉
※
事案が発生したのは、ちょうど一年前のことだ。
元アイドルのF子(イニシャルと本名は無関係)は知人男性から飲み会に誘われ、西麻布にある会員制のバーに行った。個室に通されると、そこには七人ほどの男女がいた。女性はいずれも誰かに誘われてきた様子で、男性はほとんどが経営者だった。その中にひとり――楠木藍がいた。
〈XROS〉での寡黙なイメージと異なり、藍は高級ウイスキーをストレートですいすいと空け、饒舌に話していた。内容は、メンバーに対する悪口が多かった。特に屋台骨である鈴木アユムへの攻撃がひどく、『あいつは才能がないから、人当たりのよさだけで食っている』など、聞くに堪えない内容だった。
飲み会は二時間ほど続き、徐々に人がいなくなっていく。
気がつくとF子は、藍とふたりで個室に取り残されていた。いま思うと、普通の酔いかたとは少し違う、頭が重たい感じがあった。デートドラッグを盛られていたかどうかまでは判らない。翌日に検査をすればよかったが、あとの祭りだった。
『いいだろ?』
藍の目は、嫌な光を帯びてギラついていた。
『そのために来たんだろ? これにサインしてくれる?』
藍が出してきた書類を見て、F子は驚いた。書類には〈性的交渉同意書〉と書かれていた。
『こういう仕事をしてると、あとから文句言ってくるやつがいるからね。念のため、書いてもらってるんだ』
駄目です、そんなつもりはありません――。
そう口にしたつもりだったが、自分でも呂律が回っていないのが判った。藍は立ち上がり、個室の奥にあるカーテンを開けた。その先にダブルベッドがあるのを見て、F子は愕然とした。ここはただのバーじゃない。そういう目的のために作られた、ベルトコンベアのような場所なのだ。
『書けないの? 手伝ってやるよ』
藍が背後から手を掴み、ボールペンを握らせてくる。握力が全く入らない中、書類にサインをさせられた。目の前が暗くなった。両脇に手を差し込まれ、立ち上がらされた。
そして――。
「こういうことだったのね」
栗林さんが言った。
「〈本来、この記事は四ヶ月前の誌面に掲載予定でしたが、諸般の事情を鑑みて掲載を見送っておりました〉――最後に書かれているのはつまり、藍が死んでしまったせいで掲載できなかったということよね。時間が空いてほとぼりが冷めたから、いま載せたと」
〈XNS〉の会合は、最悪の空気に包まれていた。そんな中、栗林のオバさんだけは場違いに浮かれていた。最初から判っていた。この人は、藍のことなんかたいして興味がない。ただ〈権力者と戦う自分〉でいられる場所を探していて、ここに行き着いたんだ。
「藍はこの記事が出ることを知って悩んでいて、自殺をした。トップワンはそのことを知っていて、警察にも教えた。だから遺書は残っていなかったのに、自殺だと判断された」
「待ってください。記事にはそこまでは書いていませんよ」
「そりゃあ書かないわよ」りっちゃんの反論に、栗林のオバさんは余裕で答える。「でもトップワンがこの記事を知っていたのは、間違いないでしょう? だから〈XROS〉もすぐに解散させられた。こんな記事が出たあとじゃあ、グループなんか続けられないもの」
「何の証拠もない話をしないでくださいよ」
「あなたがそれを言う? なら、藍が殺されたなんて話も、何の証拠もないじゃない」
「〈藍が殺された〉と言い出したのは、栗林さんでしょう? 反社やチャイニーズマフィアが犯人だと言っていたじゃないですか」
「やだわあ、私はその時点で一番可能性の高い話をしているだけよ。記事が出た以上、結論も変わらざるを得ないでしょう? だから……」
チッと舌打ちをすると、何人かが驚いたように私を見た。別になんと思われようと構わなかった。〈XNS〉の会合に来れば、少しは傷の舐め合いができると思っていた――そんな自分が、バカだっただけだ。
スマホを見る。
〈あれ〉は蜂の巣を突ついたような騒ぎになっていた。〈XROS〉や藍のアンチが鬼の首を取ったようにはしゃいでいて、テレビ番組のキャプチャーやネットで拾ってきた藍の画像を貼っては、〈性犯罪者の目をしている〉などと勝手なことを書いている。
藍のファンも同じようなもので、〈週刊誌の記事を信じている情報弱者乙〉だの〈本当に性被害を受けたんなら、なんで警察に行かないで週刊誌に行くんだ?〉だの〈こんなの美人局だろ〉だの、この手の記事が出た際のテンプレートみたいな内容を投稿しまくっている。いや、こういうのを書いているのが藍のファンだとは限らず、むしろ藍の評判を落とそうとしているアンチの自作自演である可能性も高い。何も判らない。クソの塊だ。
「たとえこういう記事が出ると藍が知っていたとしても、やっぱりあんな場所で自殺するのはおかしいと思います」
圧倒的不利な状況の中、りっちゃんは頑張っている。
「夜に廃墟に入った理由も、高所恐怖症である藍が飛び下り自殺を選択する理由も判りません。そもそも藍が転落したのは三階の高さからですよ? 本当に死のうと思っているのなら、もっと高い場所から飛び下りるのでは? それに、藍は転落する前に〈アッ〉と叫んでいたという証言もあります。自殺をする人が、そんな風に叫んだりするでしょうか」
「あのねえ浅木さん。人間はそんな簡単に割り切れないのよ。追い詰められた人の行動なんて、矛盾だらけなのが当然よ」
〈この世界はディープ・ステートが支配している〉みたいな、簡単に割り切れる話ばかりしている人間が、よく言うよ――もう腹を立てる気にもならない。私は写真アプリを開いて、藍のアルバムを見た。
はあ。
本当に恰好いい。
〈中性的〉という言葉があるけれど、それは〈優しい顔をした清潔感のある男性〉程度の人に使われることがほとんどだ。でも藍の顔は、本当の意味で〈中性〉だと思う。何の予備知識もない状態で彼とばったり出会ったとしたら、男か女か判らないんじゃないか。
ステージのパフォーマンスでも、藍は尚人や誠也以上に雄々しく見えることもあれば、少女のように可憐に見える瞬間もあった。藍は性別を超えていた。男と女という広いグラデーションの上を自由自在に移動しながら、虹のように色々な顔を見せてくれた。藍の見せる多彩な顔を、私はすべて知っているはずだった。
それでも、この記事にあるような顔は知らない。
『いいだろ? そのために来たんだろ?』
藍は嫌な光を帯びた目で、そう言ったらしい。真摯さの欠片もなく、気遣いも優しさもない。ただただ騙し討ちの卑怯をベースに、性欲と支配欲に突き動かされた暴力的な言葉だ。ステージで見せるパフォーマンスの神秘性も、彼が作る写真や音楽の深遠さも、欠片も存在しない。そんな動物みたいな言葉を、藍が言っていた。私の知らない表情と、声音で。
いいなあ。
――藍のそんな表情が見られて、いいなあ。
F子が羨ましかった。どうして藍は私ではなく、こんな女を呼んだのだろう。私なら喜んで抱かれたのに。私なら週刊誌に売り込んだりしないのに。藍が生きているうちにこのスキャンダルが出ていたら、私にもチャンスがあったかもしれないのに。
ああ、ムカつく。すべてがムカつく――。
「――嘉神さんは」
栗林のオバさんの声が、私の思考を破る。
「どうするつもりなの? まだ〈XNS〉を続けるつもりなの?」
全員の視線が、令那さんに集中した。さすがの令那さんからも、いつもの落ち着いた雰囲気が失われている気がした。
「はい。続けます」
「なぜ? 藍が自殺していないという説は、もう崩れたでしょう?」
「週刊誌に書かれているのは、藍が女性トラブルを起こしていたことだけです。スキャンダルを気に病んでいたとか、そのせいで自殺をしたとか、そこまでいくと推測にすぎないですよね」
「相変わらず物知らずねえ……ネットを見なさい。みんなそう言ってるわよ」
「栗林さんのタイムラインでは、そう言っている人が多い――それだけの話です。全体的な発言の傾向を知りたいなら、きちんと統計を取らないとミスリードされます」
「私たちはもっと、大きな問題に取り組むべきだと思う」
目を爛々とさせながら、栗林のオバさんは言う。
「例えば、地球温暖化。地球には氷河に閉ざされていた時代があったくらい、気候変動なんか当たり前のことなのに、〈やつら〉は二酸化炭素が問題だとデマを流しているのよ。そうやって炭素税を作ったり、原発を作ったりして利権をすすっているの。藍くんのことなんかより、こういう問題を扱うべきじゃないかしら? IPCCの報告書も怪しいし、NASAも絡んでいる。私たちにはもっと大きな敵が――」
「いい加減にしてください」
令那さんが、珍しく声を荒らげた。
栗林さんはビンタをされたみたいに、呆然としていた。
「〈XNS〉は藍の死について語る場です。関係のない話は慎んでください」
「関係なくなんか、ないわよ。全部つながっているんだから……」
「そういう活動がしたいなら、ご自分で組織してやったらどうですか。ここは私が作った場所です。あなたの話に付き合うつもりはありません」
りっちゃんが同意するように頷くのを見ながら、私は鼻で笑いそうになった。いまさら何を言ってんだよ。もっと早く栗林のオバさんを叩き出しておけば、こんなことになっていなかった。今日も藍のファンたちだけで、思う存分心の傷を舐め合えたはずだった。この場所をこんな風にしたのは、あんたじゃないか――。
「令那さん」
もう、どうでもいいや。
「私はシリウス。ミラージュのこと、知ってますからね」
呟いた言葉が、波紋のようにメンバーに伝わっていく。誰も返事をしなかった。ずっと黙りこくっていた人間の、意味のよく判らない発言を、みんなどう捉えればいいのか困っているみたいだった。
ひとり――。
令那さんだけが、信じられないものを見るように私を見ていた。
「……私は令那さんに賛成です」何事もなかったかのように、りっちゃんが言う。
「私は、藍についての話だけがしたいんです。だからそういうよく判らない話をされると、困ります……」
令那さんはもうもとの表情に戻っている。私のおかしな発言は、見えない穴に呑まれて消えてしまったみたいだった。
まあいいや。
もう、どうにでもなーれ。

(つづく)