11 @xns-official 2025/8/30 21:00
「いらっしゃいませ」
〈カフェ・ノーブル〉白山店のドアを開けると、顔馴染みのウェイトレスと目が合った。彼女の大きな目が、驚いたように見開かれる。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
「ご無沙汰してます。色々ありましたけど、なんとかやってます」私は、奥の会議室を指差した。
「〈XNS〉、今日もやってますか?」
聞くと、女性は「あー……」と微妙に語尾を濁した。
「はい、会議室Aです。今日ももう、はじまってるんじゃないかな」
「どうしました? 何かありましたか」
「何もご存じないんですか?」
「ええ、少し会から離れていまして」
女性は数秒、戸惑ったように何かを考えていたが、迷いを振り切るように「実は」と切り出した。
「あの会合、この一ヶ月くらいの間に、結構変な感じになってて」
「変?」
「はい。もともと、アイドルの映像を見ながらお茶を飲む会だと思っていたんですけど、最近はちょっと客層が変わっているというか……怖い人が出入りするようになったんです」
「どんな人ですか」
「店長は、マルチ商法の業者だって言ってました。うちの店、マルチとかネットワークビジネスとかの勧誘に使われることがすごく多くて、そういう人が来るとピンとくるんです。いまは全店舗で禁止させていただいていて、今回も、そろそろ注意をしないとなという話になっていまして」
「そうでしたか……」
何が起きたかは容易に想像がつく。栗林さんが連れてきたのだ。もともと彼女は、藍にはさほど思い入れがないようだった。会合でも、ゴム人間やRNAワクチンや地球温暖化陰謀論説について熱心に語っていた。もともと陰謀論が好きで、その流れで〈XNS〉に合流しただけだったのだろう。会を乗っ取り、自分の活動に引き込むことも、最初から視野に入れていたのかもしれない。
こうなってしまったのは――。
「私のせいだ」
「はい?」
「私が悪いんです」
言い聞かせるように念じた。公平性を優先し、入れるべきではない妖怪を招き入れてしまった。こうなったのは、私のせいだ。私のせいだ――。
「あの……注意してもらうことって、できないですよね」
女性が遠慮がちに切り出す。
「すみません、こんなことをお願いするのもどうかと思うんですが、私どもが注意するよりも話がスムーズに行くかと思いまして……それとなく、やんわりとで構いませんので……」
女性の気持ちは理解できた。店の規約を持ち出したとしても、厄介な客を追い出すのはそれなりに骨が折れる。その前に自粛してくれれば、話は早い。
「やってみましょうか」
女性はパッと破顔した。もとよりそのつもりだった。
店の奥に向かう。会議室A――何度も開けた懐かしいドアに、手をかける。
「は?」
ドアを開けると、部屋のあちこちから唖然としたような声が上がった。見渡すと、ざっと十人の人がいて、ロの字型のテーブルを囲んでいる。知っている顔は三人だけで、あとは初対面だ。
「あなた、何しに来たの? いまさら、こんなところに」
騒然とした空気の中、栗林さんが得意げな顔を向けてきた。その余裕のある態度から、いつか私が来ることを予想していたのを感じた。栗林さんは、玩具を奪い取ったいじめっ子のような、醜い顔をしていた。
答えずに、空いている席に腰掛ける。メニューを開き、今日入っているケーキの種類を確認してみせる。
「はは、何やってんだか」栗林さんは心底嬉しそうだった。
「頑張って無視しちゃって、そんなに無理しなくていいのよ。帰りなさい。いまさら何をしにきたのかは知らないけど、ここはあなたの場所じゃない」
「この会は私が作ったものです。あなたこそ、帰っていただいて構いませんよ」
「何を言ってるの? この会を作ったのは、あなたじゃない。〈XNS〉は生まれ変わったの。新しい設立者は、私よ」
「生まれ変わったのなら、看板も変えればいいでしょう? 藍のことなんかひとつも話してないでしょうに、なぜXを名乗るんですか」
「あら? Xという文字は、楠木藍が商標登録でもしてるのかしら? この会は、人と人とをつなぐ交差点を目指してるの。この世界の本当の姿に、目覚めた人同士のね。Xはその象徴。楠木藍なんか、眼中にないのよ」
頭に血が上ってくるのを感じ、私はゆっくりと深呼吸をした。いまのは私のミスだった。栗林さんは、自らに従わない人間への攻撃性を剥き出しにする。会の名前を変えないのは、私のような人間を傷つけ、貶めるためだ。判っていることを聞く必要はない。
「名前を変えてもらえませんか」
気持ちが落ち着いたところで、切り出した。
「最近、〈XNS〉を復活させたんです。藍について考え、藍のことだけを話す会合です。同じ名前のグループがふたつあるのは、混乱のもとです。メンバーからも困惑の声が上がっています」
「まだそんなことをやってるの? 楠木藍は性犯罪者で、報道に怯えて自殺したの。現実を直視しなさい。名前だって、そっちが変えればいいでしょう? 私は何も困ってない」
「では、新しい〈XNS〉のアカウントで我々に言及するのをやめてください。会員が不安になるんです」
「しつこいなあ。言ってることが判らないの? 頭が悪いのね、かわいそうに」
栗林さんの嫌みを中心に伝播していく忍び笑いに、首の後ろあたりが冷たくなっていく。
笑いは、暴力だ。こんな風に大勢に冷笑されると、こちらが何を言っても冗談のような空気に呑まれ、どうにもならない。私ひとりがおかしなことを言っているふうにされ、即席の陰謀論が、場を支配する。
糞食らえだ。
私は大きな音を立てて、書類を机に叩きつけた。
冷笑をしていた人々が、ビクッと身体を震わせたあと、私を睨みつける。私は構わずに、書類を指先で叩いた。
「判りました。それならば、お金を返してもらいましょうか。二十万円」
「は? 何を?」
「あなたは〈XNS〉のお金を抜いていましたね。即時返却してください」
私は〈X is Not Suicide会計帳簿〉と書かれた書類の束を左の人に渡す。困惑したような空気の中、書類が配られていく。もとのファイルは、かなり細かい文字で書かれたエクセルシートだ。読みづらいのだろう。全員目を細めたり、老眼鏡を傾けたりしながら見ている。
「いつかのデモの際、もろもろの小道具――プラカード、横断幕、幟、フライヤー、その他文房具を手配したのはあなたでしたね、栗林さん」
「は? そうだけど、何か? 一番詳しいのが私なんだから、当たり前でしょう。あなたも同意したはず……」
「プラカードを発注した先は〈株式会社カミネット〉という印刷業者で、帳簿を見ると消耗品費として十三万二千円が計上されています。ところがカミネットのホームページを見ると、A1・アルミ持ち手のプラカードが一万四千三百円で売られている。制作したプラカードは六枚、八万五千八百円なので、四万六千二百円の差額が出ています。これはどういうことですか」
「何よいきなり……プラカード?」
「とぼけるつもりですか。その資料の四ページ目が〈カミネット〉のホームページにある料金表で、五ページ目が〈XNS〉に提出された領収書の写しです。金額が違いますよね。この領収書は、あなたが偽造したものでは? 六ページ以降を見てください。その他もろもろを精査したところ、不透明会計が合計二十万円ある。あなたは領収書の金額を水増しすることで、差額をポケットに入れていた。これは背任ではないですか」
「嘘よ! 何の証拠があってそんなことを言うの!」
「証拠はそこにあるでしょう。領収書、料金表、帳簿。頭が悪くて理解できないんですか」
「こんなもの、偽造よ! 嘘よ!」
「馬脚を露しましたね」私は鼻で笑った。「あなたが以前言ったとおり、2020年のアメリカ大統領選挙は、郵便を使った不正投票が公然と行われた選挙でした。その犯人であるバイデン元大統領も同じことを言ってました――『Big lie』と。確かな証拠を突きつけられた犯人が『偽造だ』と言いはじめるのは、万国共通、人類普遍の定理です。それともあなたは、あの選挙でバイデンが勝ったと言うつもりですか? いままでの主張をひっくり返して?」
栗林さんは口元を震わせるだけで、何も答えられない。それはそうだ。アメリカ大統領選挙の陰謀論は、栗林さんが常々唱えていたことだった。
「そう考えると、あなたが〈XNS〉という名前に固執するのも当然です。名義変更をして一旦〈XNS〉を終了させることになったら、帳簿を整理する必要がある。あなたはそれを洗われたくなかった。だから楠木藍の〈X〉を使い続けているんです」
「それは、言ったでしょう! この会は交差点で」
「皆さんはこんな出鱈目に騙されるんですか? さっき店員さんと話しましたが、この人、マルチ商法の会社と皆さんをつなげようとしているみたいですよ? 疑うなら、@xns-official2のフォロワーを見てみるといい。ネットワークビジネスの会社、新興宗教、怪しげな政党……おかしなアカウントをたくさんフォローしています。あなたたちは、食いものにされているんですよ」
栗林さん、と私は身を乗り出した。
「あなた、ディープ・ステートの構成員ですね」
「何が! 何を馬鹿な!」
「最初から疑っていたんです。あなたがよく身につけている三角のペンダントはフリーメーソンの象徴である〈プロビデンスの目〉を象っている。両者の構成員が重なっていることは、よく知られている事実です。また、よく右手でメロイックサインをやるのはなぜですか? 明らかに、ここにいない誰かにアピールしていますよね」
「メロイックサイン? そんなものは……」
「しらばっくれるつもりですか。DSの構成員がDS脅威論を唱えるのも、よくある隠蔽工作の手口です。あなたは純朴な人々を騙し、怪しげな会社につなげて資金をDSに送金しようとしている。悪魔ですね、あなたは」
「いい加減にしなさいよ!」
栗林さんの側近である田島明世が、口を挟んできた。いつも黙っているが、ここぞというところでは同調してくる人だ。
「マロンさんがDSだなんて、そんなことがあるわけない。出鱈目を言うのも大概にして」
「あなたが教えてくれたのに?」
私は、スマホを素早くタップして、音声を流した。
『……知ってる? 栗林さんはね』くぐもったような明世の声が流れはじめる。
『ディープ・ステートの構成員なのよ』
田島さんが一瞬で青ざめた。栗林さんが信じられないという顔で、そちらを睨みつける。
『びっくりよね……私も最近知ったんだけど、あの人、財務省の財務官だか官房長だとかとつながりがあって、そこを経由してディープ・ステートとつながってるのよ。〈XNS〉から抜いたお金も、DSの秘密の口座に送金しているわ。とにかく、あの人には気をつけて……』
「何よ、これは。私はこんなことは言ってない! 捏造だ!」
「これだけ確かな証拠を突きつけられているのに、そんなことを言うんですか」
「私が証拠だよ。私はこんなこと言うはずがない!」
「はは、それで証明できると思っているんですか。論理的に考えられない人は、かわいそうですね」私は、周囲を見回した。「例えばゴム人間の存在は、数多撮られた写真により証明されています。疑うなら、ネットで検索してみるといい。証拠を突きつけられた否定派の言うことは、いつも同じです。『こんなものは本物の証拠じゃない!』。この人たちを信じてはいけません。論理的に考えれば、判りますよね」
真っ青になっているふたりをよそに、場には私に同調する空気が作られていった。ひとりの女性に至っては、全身を震わせて栗林さんを睨みつけている。その姿を見ながら、私は湧き上がるものを感じていた。
快感だった。
私の語った話に多くの人の心が動かされ、場の空気がひとつにまとまっていく。ファシズムに染まるのは、楽しい。だがそれよりも、何かを発信して人々を動かすほうが、よほど楽しい。
――デマなのに。
栗林さんの前に出した料金表も帳簿も領収書も、私が生成AIを使って適当にでっち上げたものだ。帳簿を読める人がいたときのために次のデマも用意していたが、そこまでは要らなかった。
田島さんの音声も、AIで合成したものだ。栗林さんのことを〈マロンさん〉と呼んだときにはヒヤリとしたが、誰も違和感を覚えなかったようだ。
「名前を変えてください」
陰謀論は楽しい。湧き上がるような興奮を抑え込みながら、なんとか言った。
「あなたが何をやろうと勝手ですが、もう二度と〈XNS〉と関係しないでください。でないと、もっと色々な真実を明らかにしなければいけなくなりますよ。それでもいいのか、よく考えてください」
立ち上がり、その場をあとにする。憎悪の視線が背中に刺さるのを感じる。それすらも気持ちよかった。私を肯定してくれる、スパイスの一種に過ぎなかった。
私の身体すべてに充満していた快楽物質は、店を出てからも失われることはなかった。

(つづく)