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平日の昼間に大っぴらに動けると、活動範囲がグンと広がる。会社はしばらく休ませてもらっている。仲吉部長や岡居さんには申し訳ないと思いつつ、私は外出していた。
週刊誌の記事が出てから、藍の死についてきちんと考える機会がなかった。前提が色々変わったのだから、もう一度最初から論を組み直さなければいけない。
以前、何が問題になっていたのか――。
まずは、遺書もないのに〈自殺だ〉と警察から発表があったことだ。
次に、藍の死んだ経緯だ。彼の死が自殺だったとしても、極度の高所恐怖症だった彼が、なぜ飛び降り自殺を選んだのか。
そして、なぜ死に場所に〈望幻楼〉を選んだのか。廃墟マニアだったとはいえ、そこで自殺をする理由もよく判らないし、〈望幻楼〉はたかだか三階建ての建物にすぎず〈凶器〉としては中途半端だ。飛び降りても死に切れず、一生ものの障害を負うかもしれない。自死を選ぶ人は、もっと確実に死ねる場所から飛び降りるのではないか。
ここに週刊誌報道が出たことで、前提が狂った。
藍は週刊誌報道が出ることを知り、自死を選んだ。トップワンと警察はその事実を把握していたので、藍の死を自殺だと発表した――遺書もないのに自殺だと発表された理由は、いまはそんな風に説明できる。
だが、ほかの疑問はどうだろう。高所恐怖症の藍が、なぜ飛び降り自殺を選んだのか。なぜ廃墟で自死を選んだのか。それはまだ、解決していない。その答えによっては、自殺という説も揺らぐのではないか――そんな予感があった。
〈望幻楼〉の黒い門が見えてきた。
今日はもう一度現場に来ようと思い、ひとりでここまで来たのだ。意味があるのかは判らない。ただ、自分のできることをコツコツと進めるだけだった。
門の前にたどり着いたところで、私は異変を覚えた。
前回来たときにはあった献花台が、撤去されていた。ふたつの花束が、直に地面に置かれている。
その脇に、木彫りの人形が三つ置かれていた。
以前来たときもあった、こけしから手が出ているようなデザインの小さな人形だ。前回と同じく、どれも〈X〉と書かれた服を着せられている。前には献花台に大量の花束があったせいでそこまで目立っていなかったが、今日は人形たちの存在感が不気味なほどに増している。
〈X〉という服を着せられていることから、これらは藍を象徴する人形なのだろう。彫刻ができるファンが、追悼のために彫っているのかもしれない――ただ、それにしては、クオリティが低い気もした。私が彫ってもこの程度のものは作れるのではないか。
とはいえ。
不気味な人形を見ているうちに、少しだけ前向きな気持ちにもなってきた。いまでも藍のことを見捨てずに、好きであり続けている人はいるのだ。見知らぬ作者に、自分の感情を肯定してもらっている気がする。
私はそこで、周囲に目を走らせた。
黒い門は閉じられ、〈警視庁 立入禁止〉と書かれた黄色い規制テープが張られている。だが平日昼の住宅街は、歩いている人もほとんどおらず、静かだった。少なくとも、こちらを見ている人はいなそうだ。
私は門の横にある、背丈ほどの石塀に手をかけた。
飛び上がり、腕に力を込めて身体を上に押し上げる。運動不足の身体が、張り裂けるように軋みを上げる。震える腕に力を入れ、なんとか塀に上る。私は、〈望幻楼〉の敷地側に身体を躍らせた。
着地する。痛みが走る。痺れる足を引きずりながら、監視カメラがないか目を走らせる。目立つものはなかった。見つけられないほどの小型カメラがないことを祈りながら、私は〈望幻楼〉に向かって走り出した。
入ってすぐのエリアは、木が鬱蒼と茂っていて森のようだ。昼間でも暗いので、夜にこんなところを通っていくのはかなり怖いだろう。やはり現地に来てみると、見えてくるものがある。藍は適当な気持ちでここに来たわけじゃない。強固な意思を持って、〈望幻楼〉に向かったのだ。
森が、開ける。
〈望幻楼〉の全容が、私の目の前に広がった。
三階建ての、校舎ほどの大きさだった。かつて台湾から来た留学生や労働者の宿舎となっていた建物は、朽ちて黒ずんでいた。窓ガラスはあちこちが割れていて、壁にはカラフルなグラフィティから汚い相合い傘まで、いたるところに落書きが描き込まれている。地面には剥がれ落ちた外壁と思しきコンクリート片が、いくつか転がっていた。
正面玄関の前方。
そこが、藍が倒れていた場所だ。
清掃されたのか血の痕は一滴も残っておらず、何も知らなければ、ここで誰かが死んだなどとはまず思わないだろう。藍の痕跡が残っていないことに寂しさを感じつつも、少し安心している自分もいた。藍の死の一端に触れてしまったら、おかしな世界に引きずり込まれそうな気がしていた。
見上げると、正面玄関の真上に二階、三階と窓が縦に並んでいる。二階の窓は破れているが、三階の窓は閉じられていた。下から見上げると、思いのほか低い。たったこれだけの高低差が藍の命を奪ったのだと思うと、気分が重くなってくる。
私はもう一度、周囲を見回した。遠くから車の音が響いてくるだけで、あたりは静けさに満ちている。玄関のドアに手をかけると、鍵が壊れているのか、施錠すらされていないようだった。
私はドアを開け、〈望幻楼〉に入った。
その瞬間、臭気が溢れかえった。
カビの臭いだろうか。酸味を含んだ饐えた臭いが鼻の奥に刺さり、一瞬で涙が出てきた。口呼吸に切り替えても漂ってくるほどに、臭いが充満している。饐えた臭いの奥に、焦げ臭さがあることにも驚いた。この建物が燃えたのは五年前なのに、その残り香がまだこびりついているのだ。
もともと、台湾からの留学生や労働者を受け入れる宿舎だった〈望幻楼〉の内部は、無機質な造りだった。エントランスには下駄箱と管理人室があるだけで、ホールがあるわけではない。変わっているのは床に赤い絨毯が敷かれていることくらいだ。
一室を覗くと、そこは応接間のようだった。ただし部屋としての体はなしておらず、腐食した棚には何も置かれていないし、革がビリビリに破かれたソファが奥に粗大ゴミのように打ち捨てられている。『廃墟にいると、いまは失われてしまった人間の営みを、どうしても考えるじゃないですか』――藍が言っていたよさは、少なくともこの場所にはない。ここにあるのは、ただ打ち捨てられただけの、生活の残骸だった。
私は、階段を上りはじめた。
延々と敷かれている赤い絨毯は、長年かけて湿気を取り込んでしまったのか、踏むと沼地を歩いているようなグチャッとした感触を残す。歩きづらいし、気分が悪い。照明はすべて撤去されていて、通電されていたとしても電灯はつかない。昼間だというのに薄暗い空間を歩けば歩くほど、違和感が膨らんでいった。
藍は、誰かと一緒だったんじゃないか。
廃墟マニアとはいえ、深夜こんな場所に来るなんて、恐怖を感じるのではないか。誰か同好の士と、廃墟巡りに来た――そう考えれば、藍の行動にも筋が通る気がする。
もし藍に、同行者がいたのだとしたら――。
その誰かは藍の死に対して、口をつぐんでいることになる。
最上階の三階に辿りつく。
廊下を歩き、藍が転落したと思しき窓の前に立つ。
縦長の窓には、曇りガラスがはめ込まれている。窓枠の下辺は私の腰ほどの位置にあり、クレセント錠で閉ざされていた。グチャグチャと潰れる床を踏みながら、私は錠に指先をかける。
窓を開けると、目の前は〈望幻楼〉の森だった。背の高い木々に遮られて、その奥の風景はほとんど見えない。昼間なのにここまで眺望が悪いということは、夜ならただ黒々とした森の影が広がっているだけだろう。
転落しないように重心を後ろ足に置きつつ、窓から顔を出す。横を見ても上を見ても、ただ建物の外壁が広がっているだけで、面白みのあるものは何もない。
藍は夜に廃墟を見にきて、窓から身を乗り出して何かを撮影しようとし、足を踏み外して転落した――実際に来てみると、そんな説が絵空事だったことを実感する。ここには撮るようなものは何もない。ましてや夜になれば、この一帯は闇に落ちる。そんな場所で、何を撮影するというのだろう。
やはり藍は、殺されたのではないか。
藍は誰かの手でここに連れ込まれ、窓から突き落とされて殺された。そして藍が死んだころ、彼には〈自殺の動機〉が生まれてしまっていた。警察は、週刊誌による性加害報道が予定されていたことを知り、自殺だと判断した――それが真実なのではないだろうか。
いや。
警察が、そんな杜撰な捜査をするのかという問題がある。第三者がこの場にいて藍を突き落としたとして、その痕跡を見逃してしまうことなどあるのだろうか。ましてや藍は、多くの女性の恨みを買っていたのだ。
首をひねったその瞬間、私の全身が硬直した。
森から出てきたあたりの地上に、ひとりの女性が立っているのが見えた。
女性は、驚いたような目でこちらを見上げている。
小柄なショートカットの女性だった。遠目から見ても、幼い顔立ちをしていた。シャツにジーンズというこざっぱりした恰好で、小さなバッグをぶら下げている。女性刑事――そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
「あのっ……」
観念して話しかける。不法侵入で逮捕される覚悟を、すでに決めていた。
女性は、私の応答に答えなかった。
慌てたように踵を返し、森の奥に消えていく。足音は、すぐに聞こえなくなった。
――藍のファン、か。
私と同じ属性の人間が紛れ込んだだけのようだった。ホッとため息をつき、窓を閉じる。油断して窓を開けっ放しにしていたのが間違いだった。
進展は、あったのだろうか。
現場に来てみて、むしろ判らないことが増えてしまった。ただ、現場に来てみないと掴めない感覚があったのも間違いない。やはり藍の死は、ただの自殺じゃない。まだ見えていない真実が隠されている。
令那さんに報告したかった。彼女と一緒に考えれば、何かがはっきりするのではないか――。
そのとき、鞄の中でスマホが振動した。
着信が来ていた。発信者の名前を見て、私は軽く息を呑んだ。
美保が、LINEで音声通話をかけてきていた。
「あ、りっちゃん? ヤッホー」
軽い口調で呼びかけながらも、美保の言葉には力がなかった。〈XNS〉で話していたときの明るさは、どこかに行ってしまっている。
「どうしたの? 何かあった?」
「〈あれ〉、見たよ。新しいアカウントで再開したんだ」
「うん……フォローしちゃってよかった? 迷惑なら解除するけど」
「全然いいよ。もうそっちの活動には、協力できないと思うけどね」
新しく作った@asa.rrrrrxから、美保の個人アカウントをフォローしていたのだ。美保からのフォローバックはなかった。藍に関する投稿で溢れかえっていた彼女のアカウントからは、ほぼすべての投稿が消されていた。
「あのさ」美保が、言いづらそうに口ごもる。
「令那さんが前に、占い師だったのは知ってる?」
「え?」
「〈シリウス・ミラージュ〉って名前で占いをしてたんだよ。メールで占って、そのたびにお金を取るような、ちょっと変な感じのやつをね」
告げ口のようなことを言いながら、美保の口調には意地悪な色はない。むしろ、私に令那さんの悪口を吹き込むことに対して、罪悪感を覚えているようでもあった。
「それでね……占い師になる前に何をやっていたのか調べてたんだけど……令那さん、小説家だったんじゃないかな」
「小説家?」
「そう。加賀美玲っていう作家がいて、何冊か本を出してるんだけど、これ令那さんだと思う。一枚だけだけど、顔写真も出てた。若いころの令那さんだよ、加賀美玲は」
私、気づいたんだ――美保は、言葉を選ぶような口振りになる。
「小説家、占い師、陰謀論を広める人……どれも、ストーリーを作る仕事だよね」
〈陰謀論を広める人〉という呼びかたが気になったが、美保が言いたいことは判った。小説家は物語を書き、占いは占った内容を物語にして客に伝える。令那さんは〈XNS〉でストーリーを作っていた。藍は自殺なんかしていないという、物語を。
「令那さんは、本当に藍のファンなのかな」
気持ちを抑えきれないというように、美保は言った。
「物語を作って、誰かを動かしたい――令那さんはそのために、〈XNS〉をやっていたんじゃないかな」
(つづく)