20 @noa-ano-days 2025/10/05 16:35
『認知症の妻の介護を、もう八年くらいやっていてね』
去年くらいだったか。あたしが働いているガールズバーに、痩せたおじいさんが来て、認知症の奥さんの話をはじめた。
物忘れがはじまった最初のころ、申し訳なさそうに『迷惑かけちゃってごめんね』と言っていた奥さんは、徐々に怒りっぽくなっていった。財布や時計を置いてきてしまったことを忘れ、『あんたが盗んだんだろ』とおじいさんをなじり、認めないと外に出て『うちに泥棒がいる!』『私は夫に虐待されている!』と騒ぐ。警察を呼んだことも、一度や二度じゃないらしい。優しかった奥さんが別人のように変わり果て、おじいさんは気がふさいでいった。
『それがあるとき、収まったんだよ』おじいさんは言った。『妻が、初恋の人と暮らすようになってからね』
奥さんはあるときから、おじいさんのことを『ヒロシくん』と呼びはじめた。奥さんの中で、おじいさんは初恋の相手のヒロシくんになったようだ。それからは、夫に当たり散らしていたのが嘘のように機嫌がよくなって、リハビリにも積極的になって精神状態も落ち着いた。セックスをせがんでくることもあったらしい。
『妻は幸せそうだよ』
そう語るおじいさんもまた、どこか嬉しそうだった。
『妻の中には、もう僕はいない。でも彼女が幸せなら、それでいいんだ』
あたしには判らない気持ちだと思った。おじいさんは愛が深かったのか、絶望が深かったのか――どっちだったんだろう。
「――心春先生」
久しぶりにおじいさんのことを思い出したのは、心春の前に跪く楓を見たからだった。
「子供のころ、私はおばあちゃんに『クソババア!』って言ったことがあります。そのときはなんかイライラしてて、『ちゃんと靴を脱がないと駄目だよ』って言われただけで、キレちゃったんです。おばあちゃんは哀しそうな顔で『ごめんね、おばあちゃんが悪かったね』って言いました。おばあちゃんのことが好きだったのに……まだあのときのことを謝ってないのに、おばあちゃんは去年死んじゃって……」
〈カフェ・ノーブル〉白山店の会議室A。奥に座る心春の前に、五人が一列に並んでいる。
「なかったことに、できませんか」
楓は涙声になっていた。
「私はそんなこと言ってない。おばあちゃんは哀しい顔なんかしてない。私が大好きだったおばあちゃんに、ひどいことを言うはずがない。そういうことに、なりませんか……」
「なるよ」
心春は、優しい顔で微笑みかける。
「楓ちゃんは優しい人だもん。そんなことをするはずがない」
「ありがとうございます……」
「大丈夫、安心して。もう変なことを考えなくていい。ありもしないことに悩まなくていいから……」
心春の声は、怖さを感じるくらいに慈愛に満ちていた。そばで聞いているだけで、気持ちがふわふわと軽くなってくる。涙声になっていた楓は、いつの間にか安心したように目を閉じていた。
後ろに並んでいたメンバーが、心春に頭を下げて過去の恥を告白していく。思わず変なことを口走って、誰かを傷つけた。ミスをしてみんなの前に立たされ、なじられた。心に引っかかっている棘たちは、心春が祈りを捧げるとともに抜けて、消えていく。
異様な光景だった。それでもあたしは、みんなのことを非難できない。
私も全く同じことを、高校生のときにやっていたからだ。
「何やってるの……」
令那さんが会議室に入ってくるなり、目を見開いた。
「皆さん、心春さんに勝手なお願いをしないでください。彼女の負担になります」
「別にいいじゃないですか」舞依がすかさず言った。
「会の趣旨とは違うかもしれませんけど、結束が深まると思いますよ。心春先生も別に嫌がってないし、たった五人ですし」
令那さんは反論しようと口を開いたけれど、言葉は出てこなかった。これ以上口論を続けたくないみたいだった。
心春は、何を考えているんだろう。
対応を終えた心春はただ仏像のように、何かを見通すような目でじっと座っているだけだ。
「今日も、集まってくださってありがとうございます」
令那さんが心春の隣に立ったところで、全員が椅子に座る。会議室にいるのはざっと二十五人、ロの字型のテーブルは満席だ。
「皆さん色々大変なことがおありだと思いますが、会の規律は守っていただきたいです。この会はあくまで藍の命を感じ、彼の復活を待つためにあり――」
「オニマルのことを、なぜ放っておくんですか」
舞依がスマホを掲げる。令那さんがうんざりしたように、そちらを見た。
今朝、オニマルが〈あれ〉に新しい燃料を投下していた。
『【超緊急】藍の生存を唱える陰謀論集団に大川誠也が参加! 楠木藍は本当は生きている!? 詳細は追って発表する。チャンネル登録をして待っていてくれ』
投稿には、マスク姿の誠也が街中を歩いている写真が載っていた。〈XNS〉の名前は出されていなかったが、これは意図的な気がする。オニマルはあたしたちをなぶって、楽しんでいるんじゃないか。
「反応しないんですか。私たちのことを言ってますよね、これは」
「いまの段階で何かをするつもりはない。反応なんかしたら、オニマルの言う〈集団〉が〈XNS〉だと認めるようなものでしょう」
「認めて戦えばいいでしょう。誠也は『しばらく会合に出るのをやめる』と言っていましたよ。いいんですか、あんなに〈XNS〉を大切にしてくれた人を守ってあげなくて。それに、この情報をオニマルに流したのは誰ですか。どう考えても内部から漏れてますよね」
「犯人探しはやめて。内部から漏れたと決まったわけでもないわ」
「悠長な。オニマルはこれからも攻撃してきますよ。こんなことを続けられたら、〈XNS〉が分裂するかもしれない」
続く口論に、うんざりする空気が流れる。その中には、舞依に同調するものも、反発するものもある。あんなにもまとまっていた〈XNS〉が、だんだん乱れはじめている。
「そういうの、あとにしようよ」この場を収めるのは、あたしの役割だと思った。
「せっかくみんな集まってるんだから。いつもの会合をやってから、議論したい人だけ残りゃいいでしょ?」
不満そうな舞依とは正反対に、令那さんは安心したみたいだった。あたしに目で〈ありがとう〉と伝えてくる。
「では……今日も〈XNS〉の会合をはじめましょう。今日も皆さんと集まれたこと、とても嬉しく思います」
令那さんの声もまた、最初のころより迫力がある。〈XNS〉の活動の中で、心春と一緒に成長している。
「活動には、いいときばかりではなく、必ず逆境が訪れます。聖書にはこうあります。『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った』。かつてのキリスト教徒たちも、迫害を受けていました。それでも彼らは信仰を捨てなかったことから、いまや――」
「ちょっと待ってよ」
令那さんの言葉を止めるように、手が挙がった。
声の主は、シズクだった。
「令那さんはなぜいつも、聖書の話をするの?」
「はい?」
「だって藍はキリスト教徒でもなんでもないでしょ。聖書と何の関係があるの?」
「それは……藍とキリストに、多くの類似点があるからです。常人にはないカリスマの持ち主であったこと、彼がまだ何らかの形で生きていると思われること……心春さんが藍と一緒に一時期暮らしていたことも、キリスト教の聖霊と重なるエピソードです。藍の周囲には、色々な形の奇跡が起きている。また聖書は人間の営みの土台であり、現代の私たちが生きている姿がすべて書かれているという説もあります。だから聖書を引いてお話をしているんです」
「納得できないな。キリスト教において、神やキリストってもっと絶対的な存在でしょ? キリスト教者がキリストを一般人になぞらえるなんて、そんなことしていいの?」
「別に構わないでしょう。私は藍の偉大さを、キリスト教を知らない皆さんにも判りやすい形でお伝えしたくて……」
「いまの話は、『使徒言行録』の〈ステパノの殉教〉のエピソードだよね」
いつもぼんやりとしているシズクが、何か強い意志を持って話している。あたしが割って入れる空気じゃなくなっていた。
「なんでこんなのを引いたの? 文脈、合ってないよね。ユダヤ社会の律法主義を批判して宗教指導者の怒りを買い、石打ちにあって殉教したのがステパノだけど、ボクたちはただ集まる場所を失って、ネットでユーチューバーに絡まれてるだけでしょ? いくらなんでも重ならないと思うけどな」
「それは……確かに程度は違うかもしれませんが、私たちの状況と同じであって」
「『また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった』――『ヨハネの黙示録』のこの部分なんかを引用したほうが合ってるんじゃない? ローマ帝国に迫害されていたキリスト教徒のことが書かれてるんだから、少なくともステパノのくだりよりは」
「それは、そうかもしれないけど……」
「なんだかなあ。令那さん、本当に聖書を読み込んでるのかな。箔をつけるための虚仮威しに使ってるんじゃないの? キリスト教徒がそんなことをするの、失礼だと思うよ」
「あのー……」
シズクの思わぬ教養と反乱に驚いている中、ひとりの女子が手を挙げた。名前が咄嗟に思い浮かばない。先週くらいから参加している、誰かだ。
「私、藍に会ったよ。昨日」
「会った?」
「うん。ていうか、昨日一緒に寝たの。藍の身体、あったかかった」
場がざわめく中、あたしは女子の名がユカリだということを思い出した。
「ユカリ、夜の十一時には寝るんだけど――なんか気配を感じてね。目を開けたら藍がいたの。『お、また会えたじゃん』って、藍は言ってたよ。藍はユカリのベッドに入ってきて、抱きしめてくれた。すっごくいい匂いがしたよ」
「ちょっと待って……ユカリさんは前に、藍と会ったことがあるの?」
「ある。何回もライブ見に行ったから。ユカリに向かって、手を振ってくれたこともある」
「それは……パフォーマンスの最中よね? プライベートで会ったことは?」
「プライベートって何?」
「……ライブ以外で会ったことは?」
「だから、昨日会ったって言ったじゃん」
「結局あなたは何が言いたいの?」
「え? だから、藍はもう復活したってこと。これ以上続ける意味は、ないんじゃないかなって思って」
「〈XNS〉をやめたいってこと?」
「え? なんで? ユカリ、そんなこと言ってないのに……」
ユカリは瞬間的に涙声になった。半笑いを浮かべていた舞依が、心配そうな眼差しをユカリに送る。混沌とした会議室の空気の中、あたしは悟った。
――もうとっくに、〈XNS〉は分裂してる。
藍の復活を願う人たちが集まっていたはずなのに、いつの間にかあたしたちはバラバラになっている。
静かに泣きはじめたユカリの周囲に、慰める人たちが集う。舞依が令那さんを睨みつける。圧倒的な白けた空気が、会議室を覆う。令那さんは困ったように立ち尽くし、心春はただぼんやりとしている。あたしは何をすればいいのだろう。判らなかった。自分のなすべきことが、見当たらない。
終わりだ、という言葉だけが、頭の中に浮かんでいた。
もう〈XNS〉は終わりだ――。
そのとき、部屋の扉が開いた。
誰かが遅れて来たのだろうか――入り口を振り返ったあたしは、息を呑んだ。
「おー、大勢集まってるね」
見たことがない、中年の男性だった。異様に人懐っこい笑顔を見せながら、スタスタと入ってくる。
「興田と申します。皆さん、よろしくね」
不思議な体形の男だった。
背は高くなく、おなか回りにかなり肉がついている。それでも、ただのデブとは何かが違う。カバやゾウみたいな、動物としての強さが伝わってくる身体をしていた。
「マロンさんにこの店を教えてもらってから、たまに仕事に使ってたんだけど……〈XNS〉の会合をやってるって店員さんに聞いたから、来ちゃった。少しお邪魔してもいいかなあ?」
みんなが対応に困る中、興田は悠々と空いている席に座った。知らない人に囲まれて、ここまで堂々とできる人間がいるのかと、あたしは驚いていた。興田がゆったりと見回した視線が、あたしを捉える。
「んで、代表は誰?」
「は?」
「君たちの代表はどなた? その人と話がしたいんだが」
「私です」
答えた令那さんを見て、興田は「あなたかあ」と歯を見せて笑った。金歯が、唇の間からキラリと光った。
「早速なんだけど、この会合、解散してくれない?」
興田が笑いながら言った内容に、令那さんが面食らったのが判った。
「マロンさんをやりこめたのは、君だろ? あれからマロンさん、すっかりメンタルぶっ壊れちゃってさ。君が〈あれ〉に投稿しているのを見ると、イライラして朝まで眠れないんだって。マロンさんは還暦を超えた初老なんだ。かわいそうだと思わないかい」
「そんなの知りませんよ。見なければいい」
「っていうか――」
あたしはそこで、こいつの異常性に気づいた。優しく微笑んでいるのに、目には何の感情も浮かんでいない。黒目のところに、穴が開いているだけという感じだった。
「こんな会合、やっても意味ないでしょ? 楠木藍は死んでいるんだから。死者は戻ってきたりしないよ」
「そんな大本営発表を信じている人は、ここには誰もいませんよ」
「大本営ねえ」興田が、馬鹿にしたように笑う。
「みんな〈大本営発表〉ってよく言うけど、じゃあ大本営発表って何? 説明できる?」
指名された令那さんは、口を開こうとしなかった。返事がない時間をたっぷり取ってから、興田は続ける。
「大本営っていうのは、日本軍の最高司令部のことね。太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、大本営の皆さんは嘘の情報を流すようになった。『空母を十一隻撃沈した』と言ったのに一隻も沈められていなかったとか、撤退を〈転進〉に、全滅を〈玉砕〉に言い換えてポジティブな空気を出すとか……まあ、いまで言う陰謀論を国が流してたってわけだ。ひどい話だよねえ。ただ、このときの国にはこういうものを流すメリットがあったわけだよ。海戦で負けた、確保している拠点を奪われた……そんなニュースを流したら、国民の士気も新聞の売り上げも落ちる。翻って考えると――楠木藍が死んでいる件が嘘だったとして、警察やメディアがそんなものを流す理由は何? 何のメリットがある?」
「そんなことは判りませんよ。そもそも藍が〈自殺した〉とされるシチュエーションがおかしすぎます。〈死体が身代わりだった〉という説を唱えている人もいる」
「説明になっていないな。いいかい、社会経験の乏しい君たちには判らないかもしれないけど、警察や企業だって一枚岩じゃないわけだ。警察やトップワンが何かを仕組んで〈自殺〉だというデマを流したとして、それぞれの組織の中には、そんな決定を不服とする人間が必ずいる。反発が起こり、内部情報もリークされるのが当然だが、なぜ今回はそうなってないのか?」
「言ってることが矛盾してますね。さっき、大本営は陰謀論を撒き散らすことができたと言っていたのに」
「頭悪いなあ。時代背景とか考えないの? 軍隊が国を仕切っていて、新聞とラジオくらいしかメディアがなかった時代と、表現の自由が尊重され、スマホを使えば一秒で全世界に発信ができるいま、情報コントロールの難易度は天と地だろ。ベトナム戦争で戦地にカメラを入れたアメリカがどうなったのか、知らないの?」
興田は立ち上がり、講義をするように全員を見回す。
「君たち、もっと素直に、常識的に考えなさい。警察は嘘のニュースなど発表しない。死んだ人間は生き返らないし、霊魂が現世に留まって語りかけてくることもない。それが真実だ。こんな会合は、もう……」
「興田昌弘」
とめどなく続く興田の言葉に水を差したのは、シズクだった。
「どなた? おれ、君に会ったことがあったかな」
「〈希望の世界〉、前に読んだ。たぶん全部」
「ああ、懐かしいなあ。ていうか、あんな昔のサイト、君みたいな若いオナゴがどうやって読んだの?」
「アーカイブサイトにログが残ってた。すごく勉強になったよ。ボクは『日本のパワースポット一覧』って記事が好きだった。あれを読んだおかげで高麗神社にも行けたし、白神山地の青池にも行けた。どっちの場所にも、すごくエネルギーが滾ってた」
「お役に立てたならよかったよ」
「でも、興田さんは色々な生存説を唱えていたよね。〈ヒトラーは本当は死んでなくて、アルゼンチンの隠れ家で暮らしていた〉。〈西郷隆盛は西南戦争を生き延びていて、ロシアに亡命してた〉。どれもすごく説得力があったよ。興田さん、誤解してるんじゃない? 詳しく話を聞けば、藍が生きてるって判ると思うけど――」
「あんなのを信じてるの?」
興田は、呆れたように笑った。
「〈希望の世界〉の内容は、全部出鱈目だよ」
「え?」
「まあロジャー・スクルートンとJTの件とか、北朝鮮の拉致の件とか、本当に当たってしまった記事もあるけど、例外中の例外だな。なんであんな与太話を信じるのかなあ。パワースポット? そんなもん存在しないよ。旅行して気分が上がってただけだろ」
「じゃあなんで、あんなサイトを……?」
「金になるからに決まってるだろ」
興田は白状するように両手を上げる。その左手首に、金色の高そうな時計が嵌められていた。
「おれ、昔から作文だけは得意だったのよ。コンクールで全国大会にも行ったことがある。でも、文字書きなんか儲からないだろ? 何をすればこの技術を一番金にできるかって考えて、試行錯誤していたうちのひとつが〈希望の世界〉だよ。ありもしない陰謀論を色々書いて、信じた人間を取り込んで金をむしる。あんな程度の話を信じちゃうバカって、無限に金になるからね」
愕然としているシズクから目を切り、興田は全員を見回した。
「もうちょっと世の中の仕組みを学びなさい。君たちみたいな弱者のバカは、ぼんやりしていたらおれみたいな輩から搾取されるだけだ。藍が死んだという決定的な証拠はない? そりゃあ『世界は五分前にできたかもしれない』んだから、そうかもしれないね。君たちがなぜこんな極論に取り込まれるか判るか? 君たちには〈他者〉がいないんだよ」
「他者……?」
「君たち陰謀論者は、他者を軽んじている。どんな組織にも、そこで誠意をもって働き、理不尽な命令を跳ねのけて正義を貫く人間が必ずいる。世界がそういう風になっていることを、全く理解できてない。だから上から命令されただけで屈し、偽の発表をしてしまう堕落した組織にリアリティを感じる。本当は死んでいる人間が生きているという妄想に取り憑かれてしまう。早くこんな会合は解散しなさい。おかしな言説が飛び交う集団にいると、脳が完全におかしくなるぞ」
「そこまでにしましょうか」
令那さんが、スマホを掲げながら言った。
「全部、録音してますよ」
スマホの画面の中で、録音中を示す音の波形が動いていた。
「あなたの発言の、一部始終を録りました。これを公開されたら、あなたは終わりです。信者は離れ、ひどい痛手を被る。帰ってください。いま帰るなら、この音声は消してあげますから」
「はは、やってみろ。好きに公開すりゃいい」
「強がっても無駄ですよ。〈XNS〉のフォロワー数は、一万人を超えてます。あなたの悪行は広く知れ渡る」
「本当にバカなんだな。切り札を握ったつもりかもしれないが、こっちは最初から録音されてることを前提で話してるっつーの。いいかい、おれのお客さんは、そんなことは気にしないんだよ。〈その音声はおれじゃない〉〈その音声はAIで合成されたものだ〉……強弁すれば、百パーセント信じるさ。みんな、おれのことを信じたい――そういう人たちを集めたんだから」
興田は令那さんを指差しながら、一段階声のトーンを上げた。
「みんな、この人の醜態を見たか? おれは一貫してフェアな論戦を挑んでいるのに、こんな反則技と脅迫を使ってくる。自分が言い負かされているのを認めているようなもんじゃないか。つまり、この人の言ってることは間違ってるんだよ。楠木藍は死んでいる。この会合に意味はない」
さっきまでバラバラだった会の空気が、興田に向かってひとつにまとまっていく。
――どうすればいい?
令那さんは完全に言い負かされてしまった。この場は興田に支配されて、〈XNS〉が、決定的に割れていってしまうのを感じる。
これをなんとかするのは、あたしの仕事だ。
でも、何をすれば――。
「生きてます」
乱れた世界に秩序を取り戻すみたいに、声が響いた。
心春が、興田を真正面から見据えていた。
「藍は、生きています。間違っているのはあなたです」
「おいおい、おれの説明聞いてた? そんなこと絶対にありえないって判らない?」
「理屈じゃありません。私は藍の存在を、確実に感じていますから」
「おやおや。ついに宗教の領域に入っちゃったの? 君たち、いい加減に」
「真実を見つめなさい」
心春の声が、ぐらりと脳を揺らした。静かに放たれた声はあたしの中で共鳴し、ぐるぐると身体の中を駆け巡る。ホールに響くみたいに、いつまでも声が反響し、あたしの中から出て行ってくれない。
「あなたは、何を怖がってるの?」
「あ? おれには、怖いもんなんか……」
「あなたは怯えてる。あなたは本当は、誰よりも臆病なのね。だからたくさんのお金を欲しがる。何千万も何億円も積み上げても、安心できない。何十億でも、何百億でも」
「安っぽいプロファイリングだ……。そんなので勝ったつもりか?」
「心を解放して」
心春の声は、絶対的な何かからの命令のように聞こえた。
「そんなに無理しないで。私はあなたを、脅かしたりはしない」
「何を言ってるんだ……馬鹿野郎……」
「反発しないで。私を信じて」
興田は明らかに動揺して、顔色が悪くなっていた。あれほど明瞭に放たれていた言葉が、もごもごと口の中で崩れて、溶けていく。
「特別な声の持ち主……だな。ジョン・レノンとヒトラーの声は似ていると言われる……世の中には、聞いただけで人の心を掌握するような、特別なゆらぎを含んだ声を出せる人間がいる。あんたもそのひとりというだけだ。それが真実……」
「難しいことは考えなくていい。心を、解放して」
思わず、あたしの両目から涙が溢れ出た。自分でもわけが判らなさすぎて、あたしは泣きながら混乱していた。優しい声だった。心春の声を聞いているだけで、心の柔らかい部分が、暖かい毛布でくるまれたような気がした。
「大丈夫。この世界はそんなに悪いところじゃない。あなたはこれ以上お金を儲けなくていい。これ以上誰かと戦わなくていい」
全身から力が抜ける。空の上から降ってくるような心春の声に、思わず跪きたくなってしまう。
〈XNS〉は、分裂なんかしない。
あたしは確信した。参加者の間でどんな諍いがあろうが、深い亀裂が走ろうが、バラバラになろうが、心春がすべてを修復してくれる。私たちをひとつにして、すべての境目をなくしてくれる。
ガタンと音が鳴った。
立ち上がった興田は、額にびっしょりと汗をかいていた。恐ろしいものから遠ざかるみたいに、一歩、二歩と後ずさる。何かを言おうと、口を開く。それでも言葉は出てこない。
興田は怯えた様子で部屋から走り去った。
「あ――」
シズクが、心春を指差した。
心春の唇の端から、血が垂れていた。
白い肌をゆっくりと、赤い線がツツツと下っていく。心春は無意識のうちに、唇の端を噛んでいたらしい。赤い血がぽたりと、顎の先から垂れた。
「いてっ……」
別の方向から声が上がった。
ユカリの口元が血に染まっていた。心春と同じになれたことを喜ぶように、ユカリは微笑んだ。
「やめなさい」令那さんが言った。
「みんな、やめて。そんなことをしたら駄目!」
一度生まれてしまった流れは、もう止められなかった。心春に忠誠を示すように、シズクも、舞依も、楓も、ヒマリも、名前をよく覚えていないあの男も、女も、唇の端を噛みきる。コーヒーやレモンティーの香りで満ちていた会議室が、一気に血の臭いで溢れた。胃の底から吐き気が込み上げてきた。
「みんな」
心春の叫びは、脳が揺さぶられたのではないかと思うほどの圧倒的な力に満ちていた。
「祈ろう。藍は生きている。私たちはまた、藍に会える。そのときを待とう……」
〈XNS〉がひとつになっていく。流された血と、心春の声によって。
あたしは、弾き出されるように外に出た。このままいたら、自分が溶けてなくなってしまいそうだった。
令那さんがどんな表情をしていたのかに、気を配る余裕はなかった。
「……いらっしゃいませ」
翌日、あたしは出勤していた。
青みがかった照明に照らされたバーの店内に、スキンヘッドの男性がやってきた。常連のノリオだ。バーカウンターの中にいるあたしに目だけで挨拶をして、隣に立つユイカの前に座る。「今日も来てくれたんですね」というユイカの声は、あざとさと可愛さの境界線をギリギリ攻めるくらいに絶妙だった。
この店で働いていると、気分が落ち着いてくる。
東京に出てきたとき、仕事先に池袋のガールズバーを選んだのにはいくつか理由があった。手っ取り早く金を稼ぐ必要があったこと。あたしのコミュ力じゃキャバやコンカフェは無理だと思ったこと。客との距離がある程度あいていてもいいこと。
〈リリィ〉に雇われたのは、運がよかったと思う。出勤やドリンクバックのノルマもないし、店員同士もそれなりに仲がいい。ミニスカワンピを着なければならないのが嫌だけど、こんな仕事じゃ仕方がない。メイド服イベントとかがある店よりはマシだ。
「ユイカのハイボール、俺が作ってやるよ」
「え、いいですよそんな。自分で飲むやつくらい、自分で作れます」
「お前のハイボール、まずいんだよ。俺のやりかたを見とけ。グラスに氷入れて、マドラーを差せ。レモンはまだ切るなよ」
「ひどいなあ。でもノリオさん、ほんとなんでも知ってますよね。頼りになるなあ」
「お前がバカなんだよ。もう令和なんだ。女だからって、頭が悪いのは許されねえぞ」
ノリオは何かの会社をやっていると言っていた。〈リリィ〉の客層は若いサラリーマンが中心だけど、たまにこういう経営者とか、何をやっているのか判らないけど金だけは持っていそうな客が来る。
グラスの氷をマドラーでかき回すノリオを、ユイカは頼もしそうに見つめている。裏でいつも〈モラハラクソ坊主〉と悪口を言ってるのに、そんなことはおくびにも出さない。ユイカは本当は大学に行っているくらい頭がいい。店では〈頭が悪くてノリオを慕っている女の子〉というキャラクターを作り、ノリオは虚像を相手に酒を作っている。ふたりをつないでいるのも、小さな陰謀論みたいなものなのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
店のドアが開いた。珍しい、若い女性のひとり客が入ってきた。ノリオの近くに座るのが嫌なのか、女性はまっすぐこちらに近づき、あたしの前に腰を下ろした。
「当店は初めてですか? 一セット五十分で三千円、タックスは二十パーセントです。ダーツをする場合は一回……」
「乃愛って呼んでいいの?」
あたしは顔を上げて、女性の顔をじっくりと見た。
「……ここでは〈アオイ〉って呼んでくれる? 茜」
「アオイ? あはは、ちょっと私と被ってるじゃん」
高校を出てから一年半、久しぶりに会う茜だった。心春との会合が終わってから、なんとなく気まずくなって連絡も取らなくなっていたのだ。
高校生のころは地味だった茜は、別人みたいに垢抜けていた。べったり重たかった黒髪にレイヤーが入って立体感が出ているし、ダーク系のネイルが白い手によく似合っている。
「今年から、美容学校に通ってるの。いま、赤羽に住んでる」
「え、東京に住んでたんだ? あたしがここで働いてるって、なんで知ったんだよ」
「〈あれ〉、見てるよ」注文したカシスソーダを飲みながら、悪戯っぽい表情になる。そういえば茜とは〈あれ〉でつながっていたっけ。
「ていうか、あの独り言みたいなアカウント、なんなの? 意味不明な投稿ばっかで、ちょっと怖いんですけど」
「いいんだよ。なんか吐き出したいときに書いてるだけ。この店のことなんか書いてたっけ?」
「『池袋のガルバで働いてる』って書いてあったから、探した。〈リリィ〉のページに写真と出勤表が載ってたよ。アオイちゃん」
「何しに来たんだよ。嫌がらせか」
「友達に会いにきちゃいけないの?」
「LINEもしてこないのに、何が友達だよ」
あははと笑い、茜はカシスソーダを飲む。あっという間にグラスが空になった。こいつがこんなに酒に強いなんて、知らなかった。
「ところで……心春は元気?」
茜の表情に、少しだけ緊張感が混ざった。この話をしにきたのだと、直感が働いた。
「元気だよー。元気にニートやってるから、あたしが養ってるよ」
「働いてないの?」
「昔、別のガルバで働いてたんだけど、使いものにならなくてクビになったって聞いた。接客とかできないと思ってたから不思議じゃないけど、想定を超えてたわ。ほかにできる仕事もないだろうし、東京にいても意味ないよ。お前があいつを連れ帰ってくれよ」
「乃愛」
茜はそこで、内緒話をするみたいに顔を寄せてきた。
「心春に謝りたい。場をセットしてくれない?」
「謝るって……何を」
「通り魔事件は起きた。私たちは母を殺された。それが実際にあったことだよね」
茜の真面目な表情に、あたしは少し怖くなってしまった。
心春を中心に四人で祈りを捧げていたとき、あたしたちの世界では通り魔事件は起きていなかった。あたしたちは母と暮らしていて、事件について書かれた新聞記事や、『もう大丈夫?』と慰めてくる同級生の言葉は、ありもしないことを信じている変な人たちということになっていた。
先生に注意され、会が開催されなくなって、いつの間にかあたしたちは〈通り魔事件が起きた世界線〉に戻ってきていた。どこでそうなったのか、よく覚えていない。それくらい自然に、陰謀論は消え去っていた。
「心春はまだ、向こうにいると思う」
口に出すことすらも怖いというように、茜は怯えた口調で言う。
「昔、心春の犬が死んだって話があったよね? 心春は犬が死んでないことにして、生活をしてた。私、高校を出るときに心春に聞いてみたんだ。『まだワンちゃんは元気なの?』って。心春は、『すごく元気だよ、朝早くから散歩をせがむから大変なんだ』って言ってた。私、怖くなっちゃった。心春はずっと、死んだ犬を飼ってるんだよ。十年近くも」
少し、背筋が冷たくなった。
心春の飼い犬だったジュンの話は、もうずっとしていない。あいつの中でどうなっているのか、思い出すこともなかった。
「心春はたぶん、一度思い込んだことを、ずっと信じ続けているんだと思う。心春が生きてる世界と私たちが住む現実とは、すごくズレちゃってるんじゃないかな。もしそうだとしたら、悪いことをしたなって思って……すごく後悔してるんだ。私たちはあんなことを、すべきじゃなかったのかもしれない」
「いまさらそんなこと言うなよ」
あたしの中で、感情が沸騰しはじめていた。
「もしそうだったとしても、どうすりゃいいんだよ。謝っても心春がこっちに帰ってくるか、判らないだろ」
「そうかもしれないけど……」
「あの会合を、そんな失敗みたいに言うなよ。あたしたちはつらい現実を紛らわせられた。心春は祈りの中心になれて、みんなから求められて、生き生きしてた」
「そうかな?」茜が反発したように言う。
「あのときの心春、私はちょっと怖かったよ。確かに活動的にはなってたけど、変な教祖様みたいな感じで……あの会合は心春にとって、本当によかったのかな?」
「よかったよ。お前に何が判る」
「乃愛も本当は、気づいてたんじゃない? 私たちは心春に危ないことをさせていたって。不安から目を逸らすために、心春も幸せだったって自分に言い聞かせているんでしょ? 乃愛の中には罪悪感があって……」
「ふざけんな!」
思わず強く言うと、ノリオがすかさず囃し立てるように指笛を吹いた。そっちに向かって「殺すぞ」と叫んでしまいそうになり、なんとか踏み留まる。水を飲む。気持ちを落ち着けてから、茜の目を睨みつける。
「帰れよ。心春のことはあたしが一番判ってる。くだらないことを自分に言い聞かせているのは、茜のほうだろ」
びっくりしたように固まっていた茜は、少しずつ、軽蔑するような目をあたしに向けはじめた。何も言わずに五千円札をカウンターに置き、お釣りを出す間すら与えずに、鞄をひったくって、店の外に出て行ってしまう。
違う世界に、行ってしまった。
あたしと茜の住む世界は分裂して、もう交わらない。長年LINEしてなくても存在していた、目に見えないつながりが、プツンと切れた気がした。
あたしは茜のことを、ずっと友達だと思っていたんだな。
気がついたときにはもう遅かった。切れてしまった心の部分が、少し疼いた気がした。
ガールズバーにはトラブルがつきもので、一番多いのはセクハラだ。
〈リリィ〉では、客が女の子に触っただの触ってないだののトラブルが週に一度は起きるので、ちょっと大声を出したくらいのことは問題にならない。あたしは出勤表通り朝の五時まで働いて、自宅に帰ってきていた。
「――心春?」
アパートの外階段を二階まで上がったところで、玄関のドアにもたれかかるように、心春が倒れていた。慌てて駆け寄り、顔を覗き込む。「乃愛ちゃん……」と答える声には、力がなかった。
「ごめん、鍵なくしちゃって……家に入れなかった」
「バカかお前。店に取りにくりゃいいだろ」
「ごめんね……迷惑、かけたくなくて」
頬を触ると、秋の冷たい空気に長い時間触れたせいか、冷蔵庫の中の鶏肉みたいに冷たい。時刻は六時を回ったところだった。近くのファミレスはまだ開いてない。
「とりあえず」
あたしの家で、風呂でも入れよ。
「――温泉でも行く?」
言おうと思ったことと全然違う言葉が口から出てきて、あたしはびっくりした。心春も目を丸くしている。
「ほら、最近色々あって、疲れてるだろ? あたしもちょっと、ゆっくりしたいし……」
言い訳のような言葉を呟きながら、こういう時間を欲していたことに気がつく。心春と過ごす時間が、最近足りていなかった。隣に住んでいるのに、結構遠い存在になってしまったみたいな気がする。
「うん、いいよ」と心春は言った。
「その前に、おにぎりか何か食べさせて」
温泉はあまり興味がないと心春が言うので、電車に乗って横浜に行くことにした。東京に出てきてから、近くの名所にまだ全然足を運んでいない。横浜に行くのも初めてだった。
朝の空いている車内で席を確保し、コンビニで買った鮭のおにぎりを食べる。心春は安心したのか、すぐに眠りはじめた。口を大きく開けて、たまにいびきをかきながら、子供みたいに無防備に寝ていた。〈XNS〉にいるときの、教祖みたいに祭り上げられている心春とは違う。昔から知っている、友達の顔だった。
中華街で朝粥を食べた。
揚げパンと干しエビの入ったお粥が美味しくて、電車の中でおにぎりを食べていたのに、ふたりともおかわりをした。おなかが、はち切れそうなくらい満腹になった。
ランドマークタワーに上って、広い港と海を見晴らした。
午前の展望台は空いていて、空を貸し切っているみたいで気持ちよかった。バカでかいクルーズ船が出港するところで、見えるわけがないのに、手を振ったりした。
ワールドポーターズまでゴンドラに乗り、赤レンガ倉庫まで歩いた。
海に近づくと潮の匂いがして、カモメののどかな声を聞いていると、ろくに海なんか来たことないのに、なんだか懐かしい気持ちになった。
心春とは色々な話をした。日本のカレーって横浜が発祥なんだって。あそこの式場で『バチェラー』の収録してるらしいよ。私は焼餃子より水餃子のほうが好きかな。ペリーって横浜に来たんだっけ? どうでもいい話をして、並んで街を歩く。馬車道を、中華街を、コスモワールドを。
楽しかった。

山下公園。
海沿いのベンチに座って、あたしたちは夕日を見ていた。
おやつのアイスクリームを食べたら思い出したように眠気が来て、ベンチで眠っていたら日が暮れていた。あっという間の一日だったけれど、すごく密度が濃かった。
落ちていく夕日が、港の海にあるすべてのものを赤く染めている。真っ赤な光景を見ていると、なんだか無性に泣きたくなってきた。
――現実って、綺麗なんだな。
自分でもバカみたいな感想が出てきたけど、あたしはそれを笑ったりせずに、噛み締めた。母が通り魔に殺されてから、ずっと忘れていたんだと思う。この世界は残酷だ。毎日クソみたいなことばかりが起きている。それでも、こんなに綺麗な顔も持っている。
母は生きていて、死んだというニュースは全部嘘だ――自分もどっぷりのめり込んでいたから、陰謀論の向こうにある世界が、どれくらい居心地がいいかは判っている。いまは綺麗に見えているこの現実が、近くで誰かが刃物を持って暴れ出すだけで地獄に変わることも、知っている。
それでも。
自分は間違っていたんじゃないか――。
ふと、そんなことを思ってしまう。
陰謀論の教祖に祭り上げられて、心春は幸せだったんだろうか。
本当はふたりでこんな一日を持てるだけで、充分だったんじゃないのか。
「心春」
小さく呟いた声は、隣に座る心春に聞こえているのか判らなかった。
〈XNS〉は、終わりにしない?
どこか海が見える場所にでも引っ越そうよ。横浜は高くて無理かもしれないけど、もっとコスパがいいところに。いま思いついただけなんだけどさ――。
「乃愛ちゃん」
心春が言った。
「あたし、家を出て行こうかなと思ってる」
隣を見ると、さっきまでの心春とは違う顔になっていた。
〈XNS〉の心春の顔になっていた。
「いつまでも乃愛ちゃんにお世話になってちゃいけないって、前から思ってたんだ。昨日も夜勤で働いてくれてたでしょ? なんだか申し訳なくてさ」
「なんだよ。そんなこと、気にするなよ……ってか、どこ行くんだよ。実家に帰るのか?」
「みんながお世話をしてくれるって。お金もくれるし、住む場所も貸してくれるって」
みんな。
〈XNS〉の、みんな。
「なんだよ……急すぎて、頭がついていかないよ。ていうか〈XNS〉、続けられんのか? 遙人の家も使えないし、あの喫茶店も、お前たちが血を流して騒いでたから、あのあと追い出されただろ? 公民館だって貸してくれないよ」
「いい場所があることに気づいたの。だからもう、大丈夫。乃愛ちゃんにはすごく感謝してる。いままで面倒を見てくれて、本当にありがとう」
「そんな。水臭いこと言うなよ」
「〈XNS〉の仕事も、舞依さんたちが引き継いでくれるって。藍のことに興味ないのに、ずっと手伝ってくれてありがとう。感謝してるよ」
さっきまで見とれていた世界が、くすんで輝きをなくしていた。
夕日は沈む前の最後の力を使って、世界の隅々までを赤く染め上げている。信じられないくらい美しいはずの光景が、すごく作りものっぽく、あざとく見えた。
心春の中で、あたしはどういう風になっていたんだろう。
自分の面倒をいやいや見て、〈XNS〉の仕事も仕方なく手伝っている――心春の中であたしは、そういうことになっていたんだろうか。こいつはずっとあたしに、申し訳ないと思ってたんだろうか。
ムカつく。
ふざけんなよ、マジで。
でも――それも当然なのかもしれない。あたしは心春に対して、優しい言葉をかけていただろうか。面倒なんかじゃないよ。あたしが好きでやってることなんだ。心春に、そばにいてもらいたいから――そんな風に、伝えてきていただろうか。
あたしのせいだ。
心春の中に、間違ったあたしの像を作ってしまったのは、あたしだ――。
「どういたしまして」
あたしは、すべてをごまかすように笑った。
「判った。舞依に連絡しとく。これから心春をよろしくって」
心春の顔は見られなかった。
何かを言っていたけれど、波の音に遮られて、よく聴こえなかった。
(つづく)