4 @ritsu.xros 2025/06/07 20:35
藍の死は、自殺じゃない――。
岡居さんにおかしな投稿を見せられてから、私は久しぶりにネットの海にダイブしていた。
藍が死んでから、見るのが怖くてずっと情報を遮断していた。毎日のように鑑賞していた〈XROS〉の映像も、一秒も見ていない。久々に水門を開けると、大量の情報が洪水のように流れ込んできた。
SNSを見ると、藍の自殺に疑問を呈している人がたくさんいた。私はそれをひとつひとつ読み、精査をしていった。
藍は、遺書を残していない。
これは警察が発表しているので、確定している情報だ。同時に、警察は藍の死を〈自殺だ〉と断定している。遺書がないのに自殺という結論が出るのはレアケースだと、警察OBを自称するアカウントが書いている。自殺説が疑問視されているのはこの部分の不可解さが大きいけれど、それ以外にも色々な理由が挙げられていた。その中には頷けるものもあれば、首をかしげるものもある。
私は中学生のころ、911陰謀論にハマりかけていたことを思い出した。
あれはアルカイダのテロではなく、アメリカの自作自演だった。ワールド・トレード・センタービルにはもともと爆弾が取りつけられていて、飛行機が突っ込んだあとに爆破された。語られている根拠も私の目には確かなものに思えて、一時期は陰謀論のほうを信じ込んでいたほどだった。
今回も同じだ。藍は自殺ではない――その結論に向かって様々なことが語られていて、中には読んでいると信じてしまいそうになるものもある。陰謀論とはそういうものだ。真実の断片と、信憑性のある嘘と、いい加減な嘘が、コラージュのように組み合わさり、読むものを惑わせる。
やはり藍は、自殺したのだ。
頭の悪い人たちがそれを受け入れられず、陰謀論に走っている。そんなことは自明だ。判っている。
判っているのに――。
私は〈カフェ・ノーブル〉白山店の前に立っていた。
まだ売れていなかった藍が、二十歳のころに働いていたことでファンの間では知られているチェーン店だった。最近もたまにやってきては作業をしているという噂もあるが、本当かは判らない。ただのデマな気もする。
――どうして、来てしまったのだろう。
自分の気持ちがよく判らなかった。何か見えない力に、引きずり込まれているみたいだった。
カフェの入り口は閉ざされている。ここで引き返すべきだ。いますぐ振り返って、立ち去れ――。
「こんにちは」
背後から、声をかけられた。
「もしかして――XNSの参加者のかたですか?」
振り返ると、ピンクのワンピースを着た背の低い女性が立っていた。私よりも少し若いくらいだろうか。キャスケットをかぶり、大きな黒眼鏡をしている。
「あー、ひょっとして、DMをくれた律さんですか?」
「あ、ええと、もしかして……」
「はい。XNSのアカウントを管理してる、松田美保です。本当に来てくれたんだ、嬉しいな。どうぞ、入って入って」
美保はカフェのドアを開け、私の背中を押す。いまさら帰ると言い出すわけにもいかず、私は店の中に入った。
XNS――X is Not Suicide――〈楠木藍は自殺していない〉という説を唱えている集団だった。藍の自殺を疑問視しているアカウントはいくつかあったけれど、ここが一番活発で、定期的にオフ会までやっているとのことだった。参加希望者はDMをしてくれれば開催場所を教えると書かれていて、送ってみたところ、この店を指定されたのだ。
「あの」
店の奥に進んでいく美保の背中に向かって、話しかけた。
「この会合は、美保さんがリーダーなんですか?」
「んー? 私じゃないよ。嘉神令那さんって人がリーダーで、私は広報担当」
「令那さん……」
「すっごく素敵な人だよ。色々なことに詳しくてね、きっと気に入ると思う!」
美保の雰囲気は独特だった。会ったばかりで、DMも二度ほどしか往復していないのに、昔からの友達みたいにフレンドリーに話しかけてくる。私は以前、家にやってきた宗教の勧誘を思い出していた。適切な距離感が測れずにコツコツぶつかってくる感じは、あのときのおばさんを思い出す。
〈カフェ・ノーブル〉は、多くの店舗に会議室が設けられているのが売りのひとつだ。美保は〈会議室A〉の扉をノックし、開けた。
「お疲れ様です。今日は新人さんが来てますよ!」
中ではロの字型に並んだテーブルを囲んで、十人ほどの女性が座っていた。年齢層は美保や私よりも一回りくらい上で、アラフォーに見える人が多い。
私は、唾を飲み込んだ。
美保にも増して、集団には独特の雰囲気があった。独特というか、はっきり言えば嫌な雰囲気だ。皆どこか暗い表情をしていて、訝しむような視線を遠慮なく向けてくる。お前は味方なのか、それとも単なる冷やかしなのか――被害者意識の混ざった排他性を、大量に浴びせかけられる。
――藍のファンは、こんな人たちなのか。
まともな人もいることは判っている。でも、自分が五年もかけて藍を追いかけていたすぐ横には、こういう人たちが併走していたのだ。いままでの美しい時間まで、汚されていく気がする。
「こんにちは」
そんな中、一番奥に座っている女性が声をかけてくる。
「代表の嘉神令那です。来るの、勇気が要ったでしょう? 無理やり勧誘したりはしないから、今日は気軽に参加してもらえると嬉しいわ。よろしくね」
この人が、XNSの創始者――。
じめじめとした部屋の中で、彼女の声だけが一陣の風のように爽やかだった。
私は彼女の姿をまじまじと見つめた。
年齢は私より一回りくらい上のようだ。170センチはあろうかという長身で、軽くウェーブのかかったショートカットが、彼女のシックな印象によく似合っている。背筋がシャンと伸びていて、身につけているピアスやリングもいちいち素敵だった。ほかのメンバーとは明らかに違う。〈陰謀論者〉という言葉から連想する粗野で無教養な印象とは、真逆の雰囲気を持っていた。
こんなきちんとした人が、藍が自殺ではないと唱えているのか――。
少なからず萎えていた気持ちが、立て直っていくのを感じた。
「りっちゃんは、どこまで知ってる人?」
令那さんと美保に挟まれるように座ると、美保が覗き込んできた。
「どこまで、って?」
「藍の死の真相のことだよ。警察がめちゃくちゃな発表をしてるじゃん? あのフェイクニュースを、どこまで信じてるのかなって」
基本的には全部信じているけれど、なんとなく来てしまいました――そんなことを言える空気ではとてもない。
「美保さんから見たら詳しくないかもしれないけど、おかしな部分が多いなとは思ってます」
「ほうほう。どういうところ?」
「ええと――まず、遺書がないのに警察が自殺だと発表してるところ。遺書がないケースで自殺だと断定されるのは、珍しいそうですね」
私が冷やかしでないと感じたのか、注がれていた視線が和らいだ気がした。私はネットに流れている説を頭の中で反芻し、言葉を探した。
「次に――藍は、高所恐怖症でした」
美保が笑顔になって頷く。
藍が極度の高所恐怖症だったのは、ファンの間では有名な話だ。バラエティ番組でバンジージャンプを飛ばされそうになったとき、徹底的に拒否をしてロケが成立しなかったことすらある。ステージパフォーマンスにも制約があり、高所でのダンスや、天井から吊るされるような演出も一度もやったことがない。
「高所恐怖症だった彼が、飛び降り自殺を選択するのは変です。もし自殺するにしても、ほかのやりかたを選ぶ気がします」
言葉を紡ぐにつれ、部屋の空気がどんどん変わっていく。この人は信用できる――温かい雰囲気が、みるみるうちに醸成されていく。
私は気を引き締めた。受け入れられていることの喜びが、オートマチックに湧いてくる。この感情に溺れると、深いところまで引きずり込まれる。
「でも、私が知っているのはこれくらいです。ネットではもっと色々な根拠が流れていましたが、正直微妙というか、信憑性の低いものが多くて――」
「あの建物については、どう思う?」
テーブルを挟んで反対側に座る女性が、口を挟む。
六十歳くらいだろうか、金縁眼鏡をかけていて、この会合では一番の年長者に見える。女性は「栗林です」と名乗った。
「あの建物は〈望幻楼〉っていうんだけど、律さんは知ってるかしら」
「いえ。すみません、不勉強で」
「謝ることないのよ。杉並にある有名な廃墟でね――戦前に台湾の財団が作った建物で、もともとは留学生とか労働者の受け入れ先になっていたの。でも戦後の混乱期に所有者が判らなくなって、所有権を主張した人たちが何人も出てきて――揉めているうちに火事が出てしまって、誰も住まなくなって、国も都も手出しできないまま廃墟になっているのよ」
栗林さんは目を爛々と輝かせながら、身を乗り出した。
「変だと思わない?」
「変、ですか。それはまあ、確かになぜそんなところで亡くなったのかは不思議ですけど……死んだ場所がそんなに重要なんですか」
「藍くんは、殺されたのよ」
栗林さんの確信に満ちた表情に、私は面食らった。
「これは知人の公安関係者に聞いたんだけどね。トップワンは富頭会の二次団体のフロント企業なのよ」
「え、そうなんですか?」
「そう。芸能界が反社とつながりが深いことは常識よね? 藍くんはその闇に触れて消されてしまったの。トップワンの根来社長が警察出身なのは、有名な話じゃない? 彼はいまの警察本部長ともパイプがあるから、人を殺しても捜査もされない。反社絡みだと考えれば、〈望幻楼〉で亡くなったことも説明がつく」
「どういうことですか?」
「決まってるでしょう。富頭会はチャイニーズマフィアともゆかりが深くて、中国政府ともつながっているの。ほら、これを見て」栗林さんは持っていたプリントを掲げる。「これはパーティーでスピーチをしている根来社長の写真だけど、ほら、この手――これは中国の紅僑という組織がよくやっているハンドサインなのよ。嘘だと思うなら、検索してみて」
マイクの前に立つ根来社長は、右手の中指を折ってこちらに向けていた。〈紅僑〉〈ハンドサイン〉で検索を掛けると、何かの集会でこの手を突き上げている集団の写真がヒットする。
――本当なのか?
一瞬信じてしまいそうになった気持ちを、慌てて引き戻す。911を調べていたときと同じだ。陰謀論者はあちこちからそれらしい断片を拾ってきてつなぎあわせ、ひとつの像にしてしまう。それぞれの断片自体は正しかったりするので、余計に惑わされやすい。
「藍くんを殺したのは反社か、チャイニーズマフィアか……」私の心の変化に気づく様子もなく、栗林さんは続けている。「犯人は判らないけど、望幻楼で殺された理由は明らか。彼は何かの見せしめとして、あの場所で殺されたの。こんなことは許してはいけないわ。私たちで藍くんの敵を取らなければいけない」
栗林さんの演説に、彼女のそばに座っている人たちが納得したように頷く。
集団の空気が熱を帯びていくにつれ、私の身体の中にあった熱のようなものが、底が抜けたように下がっていくのを感じた。
私はもう少し、期待していたのかもしれない。
藍が亡くなってから三ヶ月、心に穴が空いたような状態で過ごしてきた。藍の死が自殺だと判断されている理由も、不可解だ。喪失感、哀しみ、この世界への疑い――そういった行き場のない感情を、ここでなら吐き出すことができるのではないか。私はたぶん、そんな期待をしていた。
「この世界は、闇だらけよ」
栗林さんは、いつの間にか立ち上がっていた。
「新型コロナウイルスだって、中国の研究所と製薬会社が組んで仕掛けたって話じゃない? パンデミックを引き起こして、たいして治験もされていないmRNAワクチンを世界中の人に打たせた。おかげで世界中の製薬会社はボロ儲けよね。私たちは政府の言う通りにワクチンを打つというプロセスに慣らされて、次のパンデミックでは何を打たれるか、判ったもんじゃない。十年後に死ぬ毒とかを打たれたら、政府は合法的に人口をコントロールすることが……」
「ちょっと待ってください」
沸騰した場に、水がかけられた感じがした。
令那さんが、毅然とした態度で手を挙げていた。
「ここは藍の話をする場所です。関係ない話に展開するのはやめましょうって、いつも言っているじゃないですか」
「だから、全部つながってるのよ。ディープステートは、根っこでつながってるの」
「よく判りませんが、中国の研究所と世界の製薬会社が組んでいたなんて事実は確認されていませんし、ワクチンが〈たいして治験もされていない〉というのは間違いです」
「物知らずねえ。普通のワクチンは、十年くらいかけて治験をやるものなの。そんなことも知らないの?」
「そもそもパンデミックがはじまる前に、mRNAワクチンについては長年の研究がなされていました」令那さんは慌てた様子もなく、理路整然と続ける。「新型コロナウイルスは、過去流行したSARSやMERSと似た構造を持っていて、どの部分を標的にすればいいのかもすぐに判ったのです。新型コロナウイルス禍では、臨床試験の対象になる人も大勢いましたし、世界中から多くの研究資金も調達できました。こんなことは普通のワクチン開発ではありえません。期間こそ短かったですが、臨床試験の規模は一般的なワクチンよりも大きかったそうですよ」
「だから何? 拙速に開発されたおかしなものを身体の中に入れられたことには、違いがないでしょう。実際に多くの人がワクチンを打って死んだ。私たちのDNAには、まだワクチンが残ってる。十年後に大量死が出たりしたら、あなたは責任取れるの?」
「ありえないです。mRNAワクチンは一時的にウイルスに似たものを生成して、しばらく経ったら消えてしまいます。私たちの身体の中には、何も残っていません」
「あなたが開発したの? どうやってそれを証明するの?」
「私が開発したわけじゃありませんけど、医学論文はいくつか読みました。本も何冊か」
「話にならないわね。資本側が出してきたそんなもの、全部嘘に決まっているでしょう。あなたみたいな人がいるから、あいつらのやりたい放題になってるの。恥を知りなさい」
栗林さんは心底呆れたように言った。悔し紛れとか、負け惜しみとか、そんな雰囲気は一切なかった。本気で令那さんの勉強不足に呆れ、無知に対して怒っているように見えた。彼女の近くに座る人々も、同調するように頷いている。なぜここまで噛み砕いた話が伝わらないのかと、私は唖然としてしまっていた。
「まあ、この話はこれくらいにしておきましょう」
令那さんは受け流すように言い、リモコンをいじる。
天井からスクリーンが下りてきた。反対側のテーブルにはプロジェクターが置かれ、スクリーンのほうを向いている。
「律さん」突然名前を呼ばれ、背中がピクリと反応した。
「あなたにとって楠木藍とは、どういう人だった?」
「どういう人だったか――ですか」
「この会合は、各自が〈藍とはなんだったのか〉を話すところからはじまった。曖昧な質問で答えづらいかもしれないけど、聞きたいな。あなたにとって楠木藍とは、なんだったのか」
令那さんの心地いい声に促されるように、私は考えはじめていた。〈XROS〉のパフォーマンスを見たときから、私は一貫して藍のファンだ。それでも、〈楠木藍とはなんなのか〉という大きなテーマは、一度も考えたことがない。
「疑似恋愛の対象――じゃなかったと思います」
口にしてみて、生々しい言葉を使ってしまったことに恥ずかしくなった。それでも令那さんは、優しい眼差しで次の言葉を促してくれている。
「藍が恰好よくないと言っているわけじゃないです。そういう目では見ていなかったというか――私、藍が同性だったとしても、たぶん好きになっていたと思うんです」
内側から、言葉が溢れてくる気がした。〈XROS〉のファンクラブにはずっと入っているけれど、同好の士と話したことはない。アイドルにハマっているアラサー女という属性に、後ろめたさも覚えていた。
私の中に、行き場をなくした言葉がたまっていた。藍のことを語る言葉が。
「〈XROS〉の中でも、藍って特別な人だったと思うんです。センターのふたりは、アイドルになるために生まれてきたような人ですよね。華があって、負けん気も強くて――。アユムはグループのまとめ役で、彼がいなかったら尚人と誠也は仲違いして、〈XROS〉は空中分解していたと思います」
「でも実際は、藍がいなくなったことで〈XROS〉は解散した」
「そうなんです」
令那さんに心地よく導かれるのを感じる。
「藍はなんていうか――こんな言いかたが正しいのか判りませんけど、ほかの三人とは違う場所にいた気がします。〈XROS〉の真ん中に線を引くと、藍と残りの三人とで分かれてしまうような。彼がいなくても〈XROS〉は成立したはずなんですけど、それでも彼がいないといけない――そういう不思議な、変数みたいな存在だったと思うんです」
「そこに惹かれたの?」
「はい。たぶん」
光の中にいながらも、どこか影を背負っている。そんな二律背反を、矛盾なく内包している――私が藍のことを好きになったのは、そんな部分だ。
「彼の影の中から、色々な作品が生まれたんだと思います」
〈XROS〉で世に出たあと、藍はアイドルの枠を超えた活動を行うようになる。作曲と編曲をはじめ、〈XROS〉のための曲を何曲か作ったのち、外部のアーティストに楽曲を提供した。イラストを描きはじめ、〈X Work〉というブランドを立ち上げて様々なアイテムを展開した。もっとも評価されていたのは写真で、自らをモデルに撮った連作〈Indigo〉が、フランスのコンクールで受賞している。
藍が多方面で評価を得ることになり、私は嬉しかった。こんな才能の塊みたいな人がこの世界にいて、光と影を行き来しながら旺盛な活動をしている。そのこと自体に羨望の眼差しを持っていたし、いつも影に引き寄せられてしまう人間として、藍の存在は救いでもあった。
だから。
「いまはすごく、寂しいです。もっと藍がすごい世界に羽ばたいていくところが、見たかった」
なぜ藍は死んでしまったのだろう――。
話している途中から〈泣かない〉と決めたので、私の声は最後まで冷静だったと思う。それでも美保は、感極まったように目を潤ませていた。さっきまで荒れていた会議室にも、静けさが戻ってきている。
「――藍は、自殺なんかしてない」
令那さんが、確信に満ちた声で言う。
「警察の発表がおかしいからだとか、高所恐怖症だったからだとか、色々理屈をつけることはできるけど、もっと確かなことがある。私たちが見てきた楠木藍という人は、自殺をするような人じゃない。そうよね?」
令那さんの言葉が、心に水が染み込むように浸透していく。同じ言葉でも、SNSで読むのと直接言われるのとでは、雲泥の差だ。
「追悼しましょう。律さんも一緒に」
令那さんがリモコンを操作すると、プロジェクターからスクリーンに光が照射される。
美保が部屋の灯りを落とした。スクリーンに、〈XROS〉のライブが映し出される。さいたまスーパーアリーナの公演だ。
曲は『Blue Black』だった。藍が作曲と編曲をした、重厚なビートと細かく鳴り続けるハイハットが金属的な印象を残す曲だ。刺激的な音楽世界に印を刻むように、尚人と誠也がパワフルなダンスを繰り広げる。
藍はあまりボーカルを取ることはないが、この曲では珍しく最初から最後までひとりで歌っている。細い身体から放たれる野太い詠唱と、中間部に挟まれる水が流れるようなフロウのラップ。それらすべてを歌いこなすにつれ、藍は音楽そのものになっていく。
――ああ。
確信が、私の身体を突き抜けていた。
――この人が、自殺なんかするわけはない。
このステージを見れば、一目瞭然じゃないか。神の子のような尚人と誠也ですら、藍に一旦でも光が当たると脇役になってしまう。
藍は、選ばれし人なのだ。
だから、自殺などするわけがない。
もっと早く〈XROS〉の映像を見返しておけばよかったのだ。そうすればこんな程度のことは、すぐに判ったはずだった。
会議室に集まった全員が、食い入るようにスクリーンを見つめている。楠木藍の魂が降臨して、くだらない争いをしている私たちを仲裁してくれている気がした。
令那さんと、目が合った。
優しい微笑みを浮かべたあと、令那さんはスクリーンに視線を戻し、もう二度とこちらのほうは見ようとしなかった。

(つづく)