3 @okey*1980 2025/05/28 13:01
「岡居」
モニターを睨みながらキーボードを叩いていると、仲吉部長から声をかけられた。
「たまには昼飯でも行かないか? 〈あすぱら〉の鯛天丼、今週で終わりらしいぞ」
「あー、部長ありがとうございます。でも僕、いま油物控えてて」
「お前さあ、筋トレもいいが、少しくらい脂肪つけろよ。予備タンクがないと、大病したときにコロッと逝っちまう」
「部長こそ、少しは筋肉つけといたほうがいいですよ。五十代からは筋肉量が毎年1パーセントずつくらい減っていきますから」
「俺のことはいいんだよ。別に長生きするつもりはないしな。とにかく美味いもの食いたくなったらいつでも言え。じゃあみんな、行こう」
仲吉部長のあとを、部のメンバーがぞろぞろとついていく。高い昼飯をおごることで、部下の人心を買う――古典的な懐柔策だけど、それだけに有効だとも思う。〈仲よし部長〉などと揶揄されて軽く見られているのに、内心では彼を慕っている人は多い。大丈夫、部長は部長のままで問題ない。
――問題なのは。
正面の席を見た。浅木律が、青い顔でキーボードを叩いていた。
三ヶ月前の楠木藍の自殺からこちら、律はすっかり弱ってしまっていた。もともと細身だった身体はさらに痩せ、頬もこけて腕も枯れ枝のようだ。
六年前――彼女と初めて会ったときのことを思い出す。
律は山陰地方の生まれで、地元の大学を出るタイミングで東京と大阪で就職活動をしていた。もともと編集者志望で、グリーン出版が出している煌びやかな出版物のイメージに惹かれていたようだったけれど、頭の回転やテクノロジー周りの抽象概念の理解力が異様に高く、無理やり情報開発部に引っ張ってきた。入社してからのモサいファッションを見ていても、それは正解だったと思う。女の園である編集部ではやっていけなかっただろう。
〈おせっかいの岡居〉
そう呼ばれていることは知っている。普通の人にとっては嫌なあだ名かもしれないけれど、むしろありがたかった。高校生時代についていたあだ名が、あまりにもひどかったからだ。
――教祖。
〈おかい〉が〈教会〉に変化して、それが〈教祖〉になって定着した。僕の暗黒時代だ。
思えば子供のころから、変な直感が働くことがあった。
最初は五歳のときだ。叔母が結婚することになり、婚約者と一緒にウチに報告にきたときのことだった。ネズミのような顔をした男を見た瞬間、嫌な予感がした。「けっこん、しちゃだめ」「やめなよ、けっこん」。そんなことを言い続けて母に激怒されたことを、いまでも覚えている。
結局男は結婚詐欺師で、叔母は全財産を奪われて一文なしになった。当時の叔母は三十代半ばで、人生の中盤でそれまで積み上げた金や他者への信頼を失うのが応えたのだろう。みるみるうちに弱っていき、五十歳になったあたりでかかった癌を克服できずにそのまま死んでしまった。
それからは、直感が働いたら都度言うことにしていた。〈そいつと付き合わないほうがいい〉〈こっちの部活に入ったほうがいい〉〈いまそれを買わないほうがいい〉――無視するヤツもいたが、従っていたやつは大体いい結果になっていた。だが、禍福は糾える縄の如しだ。そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか〈教祖〉というあだ名がつき、狂信的な信者も発生した。彼らは僕の言葉をいちいち深読みし、解釈の違いで揉めはじめ、ときにはとっくみあいの喧嘩をはじめたりした。高校の卒業と同時に逃げるように東京に出てきたが、あのままだったら殺し合いが起きていたかもしれない。
――信じるものは救われる。
というのは、もとは聖書の言葉で、〈イエスを信仰していれば天国に行くことができる〉というものだけど、ある意味でこの言葉は当たっていると思う。人は信じるものを常に欲している。夢でも教祖でも信念でもいい。信じるものを持たない限り、人は救われない。
血走ったような目で〈私がどうすればいいのか、教えてよ〉と詰め寄ってきた同級生がいた。〈僕の直感は突然下りてくるもので、ポンポン予言ができるわけじゃない〉――そう説明しても理解をしてくれないので、最後は出鱈目な予言を口にせざるをえなかった。そのときの彼女の、安心しきったような顔をいまでも覚えている。あんなにも安らかで、あんなにも恐ろしい表情は、その後見たことがない。
「あのー……」
気がつくと、律がすぐそばに立っていた。
「午後、コードレビューしてもらえませんか。モデルをいくつか改修したので」
「うん、いいよ。お昼は食べないの?」
「食欲がなくて。最近は朝ごはんだけにしてるんです」
もっと食べたほうがいいよ――いまはそんなことを言うのも、何かのハラスメントに当たるのかもしれない。言葉をためらっているうちに、律は自分の席に戻ってしまった。直感が降ってこないのがもどかしかった。彼女は間違いなく、助けを欲しているというのに。
モニターに向き直る。
〈楠木藍 自殺〉
グーグルで検索すると、『ひとりで悩まないでください』というおためごかしのような警告文が出たあとに、ニュースへのリンクが出てくる。
『楠木藍さん(28)が東京都杉並区で倒れているのが見つかり、死亡が確認された一件で、杉並警察署は現場の状況などから自殺と断定し、捜査を打ち切った。
藍さんは杉並区にある個人宅の三階から転落し、亡くなったと見られる。遺書など、自殺を直接的に示す証拠は見つかっていないが、現場や遺体の状況などから自殺と判断したと明らかにした』
男性アイドルの知識は全くなかったけれど、律を心配して調べているうちにだいぶ詳しくなった。楠木藍は〈XROS〉においては脇にいて、グループに色を加えるような役割だったようだ。クリエイター肌の繊細な人で、〈自殺してもおかしくない〉というファンの評価も多く見た。
傍流にいたとはいえ、彼の存在は重要だったようだ。残された〈XROS〉のメンバーは『藍のいないXROSは考えられない』と、一ヶ月も経たずにグループを解散してしまったのだから。
律にとって楠木藍とは、〈信じて〉〈救われる〉対象だったのかもしない。
だとすると、信じるものを失った人が人生や生活を立て直すのは、並大抵のことではない。結婚詐欺に遭った叔母は、無惨に崩れて早死にしてしまったのだ。大切な部下をそんな目に遭わせたくない。だが、他人が心のそんな奥深くまで潜り込むのは、不可能だ。
「――ん?」
ふと、マウスを操る指先が止まった。
SNSのある投稿が、目に留まっていた。
『楠木藍の死は自殺ではない。警察やトップワンは真相を明らかにする義務がある。私たちは今後も藍の死の真相を追究していきます。
#月命日 #XisNotSuicide』
〈楠木藍は自殺していない @xns-official〉というアカウントの投稿だった。〈トップワン〉とは、確か彼らが所属していた芸能事務所だ。
――あれ。
一条の光が下りてきて、内面世界を照らす。自分の中が白い光で満たされていくような、独特の感覚。
〈直感〉が降ってきた。
僕は改めて、投稿に目を向けていた。
書かれているのは、ただの陰謀論だ。ケネディやダイアナの例を紐解くまでもなく、有名人の不可解な死は陰謀論の温床になるものだ。昨今のSNSではタイムラインが同じような意見で埋め尽くされるよう設計されているので、自分がもともと信じていることがどんどん補強されるエコーチェンバー効果によりあちこちで陰謀論が発生している。
――律にこれを教えれば、彼女は救われる。
そんな直感が下りてきていたけれど、躊躇してしまう自分もいた。信じるものを失った人は、美しい幻想の中で生きていけばいい――それも確かにひとつの解なのかもしれないが、そんな毒を飲ませてもいいのだろうか。
そもそもあの冷静な律が、こんな稚拙な陰謀論を信じるものだろうか。藍の死が自殺であることは、警察が報じているのだ。
「あのー、ちょっといい?」
判らなかった。判らないなりに、僕は律に声をかけていた。
「ちょっと見てみてくれない?」
「なんですか。もうコードレビューですか」
「いや、違うんだけど……」
律は覚束ない足取りで立ち上がり、僕のパソコンを覗き込む。その瞬間、ヒッと息を呑んだ。
「なんですか、これ……」
「いや、例の楠木さんが亡くなった事件、そのあと気になって僕なりに調べてて……検索してみたら、こんなことを言ってる人を見つけたんだ」
律は目を見開いてモニターを凝視している。書いてある内容を理解することができないみたいだった。
「陰謀論だよね、これ」僕は言っていた。「とはいえ、よく考えてみると確かに不思議な点もあるんだよね。遺書が残されてもいないのに、警察が自殺だって発表したり……そもそも……」
言いながら、しどろもどろになってしまう。思ってもいないことを口走っているのだから当たり前だ。
「あんなに成功していた人が自殺しちゃうのも、なんか変だよね……まあ、自殺なんてそんなもんなのかもしれないけど。過去にも」
「不愉快です」
律は、ぴしゃりとシャットアウトするように言う。
「なんでこんなものを見せるんですか。藍が自殺じゃないって……警察が発表してるんですよ。それ以外の可能性はないでしょう」
「あ、いや、まあ、そうだよね……」
「藍は自殺したんです。私はそれを飲み込んでいる最中なんです。おかしなものを見せないでください」
「ごめんなさい……」
全く、信じられない……そう言いながら律は自分の席に戻る。荒々しく座り、机の引き出しからクッキーを取り出して食べはじめる。抜け殻みたいになっていた律から、久々に活力が溢れている気がした。
――こういうことだったのか。
律のような聡明な人が、陰謀論にハマるはずがない。バカみたいな投稿と、楠木藍の死を受け入れられない人間の醜態を見せて、発奮を促す――僕の〈直感〉は、そのために下りてきたのだ。
ホッと一息をついたところで、昼休みが終わった。結局昼食を食べそこねてしまった。あとでカップ麺でも食べることにしよう。
僕はそのまま自分のSNSアカウントを開き、投稿した。

(つづく)