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第二部

 

 

1 @koharu*2005     2025/8/15 22:00

 

 中学生のころ、明晰夢を見る練習をしている同級生がいた。

『夢だと気づきながら見る夢』を明晰夢と呼ぶのだと、同級生は教えてくれた。その夢の中では、なんでもできる。パフェやシュークリームを何十個も食べられるし、片思いの相手とデートもできる。気に入らないやつをバラバラにして殺すこともできるんだよ。

『明晰夢を見るのに大事なのはね、気づくこと』

『気づくって?』

『いま自分が夢を見てるってことに、気づくこと。それができないと、明晰夢は見られない』

『でも、本当にそんなことできるの?』

『あー、疑ってるな、心春っち。ただ寝てるだけだとできないよ。練習方法がいくつかあるんだ』

〈眠る前に、見たい夢の内容を克明に頭に思い浮かべる〉〈夢の中で夢だと気づくように、自己暗示をかける〉〈一度早朝に起き、三十分活動をしたあと、「次は夢を見る」という意志を持って再度眠る〉――明晰夢を見るための訓練方法は色々あって、それぞれに難しい名前がついていた。

『でも、一番大切なことはね』

 秘密を打ち明けるような口振り。

『いま見ているこれが夢なんじゃないかって、いつも疑うこと』

 同級生はそう言うと、私を指差した。念力を飛ばすみたいに、指先に力がこもっていた。

『これは、夢じゃない』

 同級生の笑みに、残酷な色が混ざった。

『心春っち、爆発しないもんね』

 

 その子に影響されて、あのころ私のクラスでは明晰夢を見ることがブームになっていた。〈夢日記をつけると見やすくなるらしい〉という噂が流れて、みんながその日に見た夢をノートに書いては、クラス中で見せ合っていた。

 私は、その輪の中には加わらなかった。

 子供のころから、ほとんど夢を見たことがなかったのが、理由のひとつ。

 もうひとつの理由は――。

 

「心春」

 私を呼ぶ声で、我に返った。

 手元には、人形用の服を編むための、二号の棒針があった。作業の途中で、ウトウトしてしまっていたみたいだった。

「昼飯、ピザでも取るか? それかウーバーでマックでも頼む?」

「ん……マック、食べたいかも。でも大丈夫なの? おなかにお肉をつけたくないって言ってたのに」

「今日、筋トレの日だから。トレーニングする前は、ある程度カロリー摂っといたほうが筋肉も成長するんだ」

「じゃあマックにしよう。何がいい?」

「ダブチのセット。サラダとコカコーラ・ゼロ」

「いつものやつだね。注文しとく」

 ウーバーのアプリを立ち上げ、ダブルチーズバーガーのセットと、自分の分のフィレオフィッシュセットを頼む。到着は四十分後。最近配達員が減ってしまって、注文がなかなか届かないと乃愛が言っていたっけ。

「結構かかるんだな。じゃ俺、ちょっと詩でも書いてるわ」

「歌詞?」

「いや、ノートに書きためてるやつ。たまには好きなものを好きなように書かないと、純度が保てない。注文仕事ばかりやってると、魂が劣化する」

「そうなんだ」

 彼のアーティストとしての姿勢に感心しながら、私は声のするほうに向かって言った。

「偉いね、藍は」

 

「いただきまーす」

 運ばれてきたマックの袋を開けて、リビングで食べはじめる。〈XROS〉のステージ上ではいつもクールなのに、私の家では別人みたいにリラックスしている。穿いているスウェットはダボダボで、トレーナーも毛玉だらけ。「やっぱ美味いな、マック」とガッつく唇の端に、赤いケチャップがついている。

『俺のこと、かくまってくれねえ?』

 藍が来たのは、五ヶ月くらい前の、夜中のことだった。

『しばらく表舞台から消える必要があってさ。ちょっとの間で構わないから』

『消える必要って? 〈XROS〉はどうするの?』

『〈XROS〉は解散だ。俺は、自殺したって発表される』

『自殺?』

『そう決まってるんだ。細かいことはいいからさ。しばらく泊めてくれよ』

 強引に上がり込んできた藍は、〈しばらく〉と言っていたのにずっと私の家にいる。この五ヶ月間、ずっと部屋に閉じこもって作業をしているか、筋トレやダンスの練習をしているかだ。あまりにも外に出ないので、少し不安になってしまう。

 まあ、私も同じようなものだけれど――。

「どうしたの? 俺の顔、なんかついてる?」

 気がつくと、藍の顔を見つめたままボーッとしてしまっていた。「ケチャップ、拭いたほうがいいよ」とごまかしながら、フィレオフィッシュにかぶりつく。タルタルソースの甘さが、口の中に溢れる。

 ――これが、幸せというやつなのかな。

 好きな人と、一緒に暮らしている。お昼にウーバーでマックのセットを注文して、口の端にケチャップがついていることを指摘する。

 なんでもない時間を、特別な相手と共有する。

 世間で言われる幸せの正体ってやつは、たぶん、こういうものなのだろう。

 

 ――でも。

 

 何か、ずっと違和感がある。

 何かが違う。どこかがおかしい。歯車が狂っている――。

 こんな感覚を覚えるのは、生まれて初めてのことだった。

「藍」

 1DKの間取りのうち、藍には寝室を使ってもらっている。私は閉ざされたドアの前に立った。藍はマックを食べ終えて、いまは部屋にこもっている。

「藍」

 返事はない。中で眠っている感じもしないし、悪戯のためにあえて黙っている感じもしない。部屋の中からは誰もいないような、深い静けさが漂ってくる。おかしい。そんなわけがない。藍はさっき、部屋に入っていったのに。

 ――藍。

 もう一度声をかけるのが怖くて、私はリビングに引き返す。

 

 

 

2 @koharu*2005     2025/8/16 22:00

 

 

 

 

3 @koharu*2005     2025/8/17 22:00

 

 

4 @koharu*2005     2025/8/18 22:00

 

 

5 @koharu*2005     2025/8/19 22:00

 

「心春」

 藍が部屋から出てきたのは、部屋に閉じこもってから四日後のことだった。

 彼の顔色に、特に変わりはなかった。飲まず食わずで部屋に引きこもり、ろくに活動をしていなかった影響は何も感じられない。

 いままでも何度か、こういうことがあった。四日どころか、一週間くらい寝室に閉じこもっていたこともある。ただしそういうときも、特に変わった様子もなく、けろりと出てきたものだった。

 今回は、違った。

 藍は、私との間に、きちんと一線を引かなければならないとでも言うような、寂しそうな表情になっていた。

「俺、そろそろ出てかなきゃならない」

「え――?」

「もっと一緒にいたかったんだけど、ごめんな。どうもここまでみたいだ」

「出てくって、どうして? どこに行くの?」

 藍は返事をせずに、儚げに笑うだけだった。意味が判らない。ここを出て、どこに行くというのか。

「心春なら、判ってくれるはずだよ」

「は? 何を?」

「また会えるってことを。すべてはそのためにあったんだってことを」

「どういうこと? 意味が判らないよ」

「僕たちは必ずまた会える。それまでに、心春がやるべきことをやるんだ」

「私のやるべきことって――?」

「じゃあね」

 藍は別れの言葉を呟き、再び寝室に戻っていく。「藍」。私はあとを追うように、五ヶ月間決して開けなかった寝室の扉を、開けた。

 そこには、誰もいなかった。

 藍のつけていた潮風のような香水の匂いだけが、未練のように漂っていた。

 

 

 

6 @koharu*2005     2025/8/20 22:00

 

 

(つづく)