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17 @xns-official      2025/10/01 13:30

 

 ノートを開く。

 何も書かれていない真っ白なページを見つめる。白は、不思議だ。赤や青や緑と変わらない、紛れもない色のひとつなのに、そこには何も塗られていないように見える。『はじめに神は、天と地とを創造された』。ノートの白を見つめ続けていると、創世記の前に存在していた、何も存在していなかった空間みたいだと思う。

 私はそこに、音符を描いた。

 意思はなかった。身体が動くままに、五線譜の引かれていない白紙の上に、ただただ音符を描いていく。四分音符。八分音符。あっという間にノートが音符で埋まっていく。

 私は、藍のことを思い出していた。

 優れた作曲家だった彼の内面には、美しい芸術の水源が豊かにたゆたっていたのだろう。藍は内なる音に耳を澄ませ、水底から旋律を拾い上げる。そこに和音とリズムを重ね、効果音を鏤め、ほかにひとつとしてない音楽世界を作っていく。私の書いている音楽など稚拙なものだが、そうすることで、一流の音楽を作る藍の気持ちと接続できる気がする。

「令那さん」

 頭上から話しかけられ、私は慌ててノートを閉じた。

 カフェの店内。乃愛が怪訝な表情で、私のことを見下ろしていた。

「すみません、ちょっと早く着いちゃって。なんか、邪魔でしたか」

「いえ……大丈夫。気にしないで」

 今後の〈XNS〉について話したい――昨日の会合のあと、乃愛から呼び出しを受けていた。

「今日は、心春さんは?」

「寝てます。最近のあいつ、ちょっと体調悪いみたいで。色々あって、疲れてるのかも」

 大勢で祈りを捧げたあと、心春は精根尽きたように失神し、しばらく横になってしまう。異常なまでの過集中になるからだろうが、最近は疲労の度合いが増している気がする。昨日も祈りのあとは床に突っ伏し、騒ぎが起きているのにピクリとも動かなかった。

「遙人、しばらく休みたいみたいです」

〈XNS〉内での細かい連絡は、いまは乃愛に任せている。初めて聞いた情報だったが、意外には思わなかった。

『開けろ!』

 昨日、遙人の父親が秘書を連れて、突然会合にやってきた。真っ青になった遙人がドアを開けると、私たちに『出て行け!』と怒鳴りはじめた。

 遙人の父親のもとに、警察から連絡があったらしい。

 マンションの一室に、毎日のように大勢が出入りし、おかしな集会をやっている――管理会社を飛び越して警察に通報した住人がいて、物件の持ち主である父親に事情確認の電話が入ったそうだ。遙人に連絡をしてもつながらないから忙しい中わざわざ来たのだと、父親は激昂していた。その場で私たちは追い出され、散会となってしまった。

「もうあの部屋は、使えないわよね?」

「無理でしょうね。いま、代わりの場所を提供してくれる人がいないか、聞いているところです。誠也なんか死ぬほど金持ってるでしょうから、どこか借りてくれるといいんですけど」

「前に〈XNS〉で使っていた会議室でやるのもいいかもしれない」

「でも会議室なんて、そんなに大勢は入れないですよね。このまま募集を続けますか」

「そうね……ちょっと、考えさせて」

「続けるなら、窓口をちょっと増やしてほしいです。あたしひとりでやるのは、キツいです」

「判ってる。ごめんね」

 昨日、入会希望者を迎えに行った乃愛を待っていたのは、おかしな二人組だったらしい。誠也は『トップワンの差し金だ』と言っていたが、真偽は判らない。とはいえ、気丈な乃愛が怯えたように顔色を失っていたのだから、相当怖い思いをしたのだろう。

「トップワンから、こんな連絡が来たの」

 どうせこのあと、トップワンのことも議題に上がる。私はプリントしてきた紙を、乃愛に見せた。「これって……」書かれている内容に目を走らせる乃愛の顔が、どんどん曇っていく。

「まずくないですか。裁判って書いてありますけど……」

 トップワンのアカウントから、『訴訟を検討している』というメッセージが届いていた。藍は生きているという言説を撒き散らし、業務を妨害していることへの損害賠償との話だった。訴状を送るので即刻住所を開示しろという、脅しめいた一文で結ばれている。

「私はそこまで心配してない。〈XNS〉の活動がトップワンの営業妨害になっているとは思えないし、苦肉の策で警告しているだけでしょう」

「でも、昨日変なふたりが来たじゃないですか。誠也も、社内で問題になってるって言ってましたよ」

「その人たちにしても、本当にトップワンの人間かは判らない。全く関係のない人かも……」

「でも、ほとんど言いがかりみたいな内容で裁判を起こす人間がいるって、聞いたことがありますよ。訴えられたら、誰が対応するんですか。あたし? 心春?」

「私がやるしかないでしょうね」

「オニマルはどうなってるんですか」

 そう。憂慮すべきは、トップワンの件だけではない。藍の遺体を写した写真はまだネットにアップされていて、トップワンがオニマルに厳重な抗議をしているが、〈俺がアップしたものじゃありません〉ととぼけている。

「オニマルはたぶん、@mado-blossomに会ったんだと思う」

「誰ですか、それ」

「藍の遺体を最初に見つけて、〈あれ〉に投稿した人。@mado-blossomの本名や家族構成は、特定されてネットに流れてた。彼女を脅して入手したんだと思う」

「オニマルは〈XNS〉を潰しにきてるってことですよね。藍が死んでいるという、確実な証拠を出して」

「そうだと思う。でも、向こうからの連絡はない。私を焦らして、楽しんでいるのかもね」

 彼が@mado-blossomに会っているのなら、ほかにも写真があるかもしれない。それを一枚ずつアップロードして、こちらが藍の死を認めるのを待っている――彼ならそのくらいはやりそうだった。気が重い。トップワンだけでなく、あんな男とも対峙しなければならないかもしれない。

「令那さん。解散しないですよね。〈XNS〉」

 乃愛が、覚悟を決めたように言った。

「こんなことを言ったら失礼かもしれないんですけど……令那さんがどうしてこの活動をやっているのか、判らないときがあるんです。心春をサポートしてくれているのは、感謝してます。でも、もしかしたら……」

 あなたは陰謀論をメンバーに吹き込むことに、喜びを覚えているんじゃないですか。

 乃愛は、勘の鋭い人だ。彼女が飲み込んだ語尾の中に、そんな真意がきらめいていた。

「しないよ。解散はしない」

「本当ですか」

「本当。この活動は、私にとって大切なものだから」

 乃愛は誤解をしている。私は陰謀論を唱えるために〈XNS〉をやっているわけじゃない。安心させるように頷きかけ、スマホを見せ、〈あれ〉を開いた。

「募集は一旦、止めましょうか。一旦〈XNS〉を立て直しましょう」

 

 

(つづく)