9 @xns-official 2025/8/21 21:00
「いいですか! このままでは、日本は終わりですよ!」
喫茶店を出て駅前まで歩く途中、政党の支部会員らしき人々が辻立ちをしていた。最近勢いのある政党だが、幟が裏返ってしまっていて党名が読めない。眼鏡をかけた背の高い男性がマイクを持ち、年配の女性たちが周囲でビラを配っている。
「我々が納めている税金! その多くが外国人に流れているんです!」この党は外国人排斥を打ち出していると言われて、〈あれ〉でよく叩かれている。「我々が爪に火をともすような生活をしているのに、国富が流出しているんです! 先祖代々、我々が守り抜いてきた土地も、どんどん外国人に買われている! こんなことが許されてなりますか! なりませんよね!」
結構な盛況だった。二十人ほどの人々が足を止めて、拍手を送っている。
「生活保護もそうだ! いまや生活保護の三割は、外国人が受け取っているという統計もあるんです。この責任は、長年腐った政治をやり続けていた政府にある! 僕たちは、外国人を排斥しようとしているんじゃないんです。外国人のやりたい放題をやめさせろと言っているんだ! 何か間違っていますか!」
見回してみると、観客は皆、同じ顔をしていた。一切の疑いを持っていない、無垢で綺麗な顔をしていた。
――間違ってるよ。
生活保護の受給で外国人が優遇されているという話は、最近〈あれ〉でよく流れている有名なデマだ。テレビや新聞でファクトチェックが行われているので、そこまでニュースを追いかけていない私でも知っている。ただ、あの観衆たちにそんなこと言っても意味はないだろう。〈メディアが嘘を流している〉と言われたら、それ以上は何も言えない。
「この国は日本人の国だ! 俺たちの国だ! 余所者は出ていけ!」
笑ってしまいそうになる。洋服を着て、アメリカや中国が作ったスマートフォンで己の演説を撮影し、政党名には漢字を使っているくせに。外国人の働いているコンビニや飲食店に入り、外国産の野菜や肉や雑貨を買っているくせに。
――でも。
彼らとほかの人との間に、そこまでの違いはあるのだろうか。
〈あれ〉では、排外主義を唱える政治家や支持者たちに向かって『人権の概念も理解できない馬鹿だ』と罵る人が多くいるが、そういう人間も馬鹿だろう。特定の党の政治家や支持者が全員馬鹿ではないことくらい、普通に考えれば判る。
結局人間など、たいして違いはないのだ。みんな、信じたいことを信じて生きているだけだ。
私は、教会を思い出していた。
聖堂の長椅子に座り、祈りを捧げている人々がいた。自らの原罪と向き合い、真摯な態度で祈りを捧げるその姿は、聖なるものの結晶のようだった。
その姿が、先ほどの支持者の姿とオーバーラップした。
そう。あれは、信仰する者の顔だった。
私は電車に乗りながら、スマートフォンの写真アプリを開いていた。
保存してある〈XROS〉のコンサート映像をタップすると、両耳のイヤフォンの中で『King』がかかる。ダンサブルな曲調で、お気に入りの楽曲だった。
音楽は、暴君だ。人々の心をまとめ上げ、同じ動きにいざない、私たちは個性を失って音楽の足元にひれ伏す。私たちは溶け合い、やがて〈観客〉という名の〈群〉になる。ファシズムに染まることが、いかに楽しく甘美であるかを、私は知っている。〈XROS〉のコンサートで、楠木藍という暴君を戴いたのだから。
その暴君は、もういない。
世界には、ダーウィンの進化論を教えない国や地域がたくさんあるらしい。世界は神が作ったという教えが傷つき、信仰を保てなくなるからだ。宗教と科学とを、なんとか折衷して信仰を続けている人も大勢いる。信仰とは、クリエイティブなものだ。神が死んだのなら、甦らせればいい。
窓の外を見ると、窓ガラスに反射した自分と視線がぶつかる。
濁った目をしていた。
さっき、街頭演説を聞いていた人たちの澄み切った目とは対照的だった。大切な何かを失った人間は、淀み、停滞し、濁っていくのだ。
熱い。
人間は強い痛みを覚えると、アドレナリンやベータエンドルフィンが大量に分泌され、痛覚が麻痺するようになっている。脳を浸すほどの脳内麻薬――その分厚い壁を突き破り、痛みが肉体に突き刺さる。私の深い部分がえぐられていくのが判る。熱い。痛い。
私は、炎に囲まれていた。
壁のような炎の舌が私の肌を舐めるごとに、刃物のように皮膚が切り裂かれる。自分の大半が水分で構成されていることを思い知らされる。身体が乾く。壊れる。
炎が、一気に膨れ上がった。
座っていた巨大な獣が立ち上がる。こちらに狙いを定めるように。死ぬ。殺される。
目を開けると、全身が汗だくだった。
電車は終点に着いていた。心臓が早鐘を打っていた。
座席から立ち上がり、ホームの反対側に止まっている折り返し電車に乗り込む。それだけで息が上がる。深い疲労が身体の中に溢れていた。
席に座っても、まだ息が整わなかった。
あの火事のことがフラッシュバックしそうになるたびに、思考をすり潰すように強制的に思い出すのをやめている。それでも、無理やり抑え込んだ想念は心の奥にたまっているのだろう。時折、強い痛みを伴って、夢の中に染み出してくる。
『助けて!』
夢の中で、彼女の声を何度も聞いた。
『熱い! 助けて! 死にたくない!』
あれが本当にあった出来事なのかは、判らない。ただ、夢の中の彼女は、いつも絶叫している。その声を聞くのは、炎になぶられるよりも痛い。
私は、心春のことを思い出していた。
自分の信じた人生を生きられる人間。現実を丸ごとそのまま、明晰夢のように作り替えられる人間。
あの人が私の前に現れたのは、運命なのではないか。
信じたいものを信じる――私もそのように、生きてもいいのではないか。
私は、スマホを手に取った。
ホーム画面を開くと、同じ番号から三件の着信が来ていた。最近何度もかかってくる。一度も出ていないのに、ご苦労なことだ。とはいえ、着信拒否できない自分もいる。かろうじて残された他者との接点を断ち切ることを、私は恐れている。
〈あれ〉を開く。
ログイン画面を表示し、ユーザー名に@xns-officialと入力する。パスワードが求められる。運命など存在しない。そう思いながら、タップを続ける。
let there be light
――光あれ。
〈ログイン〉ボタンを押した。認証が成功し、画面が@xns-officialのホーム画面に飛んだ。
私はゆっくりと、ため息をついた。私はいま、巨大な何かに突き動かされている。陰謀論だと笑うなら、笑えばいい。それでも。
新しい世界だ。

10 @noa-ano-days 2025/8/28 14:23
「僕は、木島遙人です」
「ボクのことは、シズクって、呼んでください」
喫茶店の隅。並んで自己紹介をするふたりを前に、あたしは面食らっていた。
遙人は早稲田に通う大学生だそうだ。イケメンじゃないけれど清潔感があって、Tシャツから出た両腕は脱毛されていてツルツルだった。マッチングアプリでモテそうなタイプだ。
シズクは、短い髪をピンクに染めた女だった。リアルで〈ボク〉と言っている女を見るのが初めてで、あたしがたじろいでいる原因はこちらだった。話している最中、ずっとスマホから目を離さないのも気になる。
「〈XNS〉の投稿を見て、びっくりしたんです。僕と同じことを考えている人がいるんだって!」遙人が目を輝かせて言う。「藍が死ぬなんて、ありえないでしょう。彼は殺しても死なない、そういう人間ですよ。きっと彼は消えているだけなんだ。〈XROS〉みたいなくだらない活動に、自分の時間を費やすことに疲れて」
「木島さん。お気持ちは理解しますが、この場には〈XROS〉のファンもいますから」
「あ……すみません」
令那さんに窘められると、遙人は恥ずかしそうに額の汗を拭う。
「あなたは? シズクさん」
「藍は、生きてるよ」
「どうしてそう思うの?」
「ボク、昔から霊感が強いから」
シズクは右手首に山ほど数珠をつけている。少し動くだけで、木やガラスでできた珠がこすれてジャラジャラと鳴る。
「三歳くらいのころ、おばあちゃんが死んだ。それがボクの最初の記憶。おばあちゃんはすごく慕われている人で、葬式には大勢の人が来て、みんなが泣いてた。湿っぽい空気の中……棺のそばにいたおじいちゃんだけが『お疲れ様』という感じで、微笑んでいた。優しい笑顔だったよ。よく覚えてる」
「その話と霊感と、何の関係があるの?」
「おじいちゃんはとっくに死んでいたからね。その二十年くらい前に」
シズクの話に、少し背筋が冷たくなった。心春と令那さんも、目を丸くしている。こんなおかしなやつらが集まってきて、大丈夫だろうか。
『乃愛さんは、窓口になってくれない?』
と、令那さんから言われていた。〈XNS〉の公式アカウントには〈死ね〉だの〈キショい〉だの〈藍くんを冒涜しないで〉だののクソみたいなDMが殺到していて、いちいち読むのも苦痛だそうだ。参加希望者はメールを送ることにしていて、あたしがその選別をしている。〈話を聞きたいです〉と送ってきたのがこのふたりだった。
「私の立場を説明しますね」令那さんが言う。
「私はもともと藍のファンで、彼が自殺したという報道があったあとすぐに〈XNS〉を作りました。彼の死に不審なものを感じて、真相を究明しなければならないと思ったからです」
遙人が真剣な目をして頷く。シズクはスマホをタップし続けているけれど、それでも聞いてはいるみたいだ。
「ただ、私のような素人がいくら調べたところで、限界がありました。そんな中、例の週刊誌報道があって、〈XNS〉は仲間割れをして、バラバラになりました。それから色々あり……藍を失った虚無の中で生きていかなければいけない――そう思っていたところ、心春さんに出会ったんです。彼女の〈藍は生きている〉という説を聞くうちに、それが真実なのかもしれないと思いはじめたんです」
「生きている、生きている……」
間に入ってきた心春は、味を確かめるみたいに言葉を舌の上で転がす。
「正確には、〈これから復活する〉ということです。いまは生きてるのか生きてないのか判りません。どっちとも言える状態です」
「どういうこと?」シズクが言う。「藍が生きているって書いてあったから連絡したんだけど。生きてるのか生きてないのか……どっち?」
「それが、判らないんです。生死を超えた曖昧な状態で、存在しているのは感じるんですけど」
「聞いてた話と違うな。ボク、そんなんじゃついていけないよ」
「シズクさんは、〈聖霊〉って知ってますか」
令那さんが、すっと間に入る。
「何、それ? アニメか何か?」
「キリスト教の話です。キリスト教には三位一体という考えかたがあります。簡単に言うと、神という絶対的な存在が、神・キリスト・聖霊の三種類の形をとってこの世に現れる、という考えです」
スマホに目を落とすシズクの横で、心春は興味を惹かれたみたいだった。瞳孔が少し開いている。
「聖霊の概念もまた難しいのですが……私は〈神が、この世界に遍在する形で現れるもの〉と考えています。シズクさんは、説明のつかない不思議な力が湧いたことはありませんか? 怖いことに勇気を振り絞って立ち向かえたり、他人を慰めるための言葉が自然と湧いてきたり」
「まあ、そういうことはあるよね」
「それが、聖霊です。遍在する神が、身体の中に入って来ているんです」
「それと藍と、何の関係が?」
「心春さんは、最近まで藍と暮らしていたんです」
〈暮らしていた〉と、令那さんは言い切る。そこに心春を信じる気持ちを感じて、胸が熱くなる。
「ただ心春さんが言うには、その藍には、実体が伴っていなかったそうです。それは、聖霊のようなものだったのでしょう。『ヨハネによる福音書』には、『鳩の形をした聖霊が、キリストの上に留まった』と書かれています。神は様々な形でこの世界に現れる――強い思いや力を持つ人が、同じような現象を起こすのは、心霊の世界も同じなのでは?」
「まあね……」
呟くシズクの対面で、心春は小刻みに頷いている。自分の中にある曖昧な感覚が、クリアになったことを喜んでいる。
あたしは、高校生のころを思い出していた。
茜の発案で、通り魔事件をなかったことにしていた、あのころ。
茜はよく心春に話しかけていた。〈お母さんたちは、しばらくみんなで海外旅行に行ってるんだよね〉〈連絡がないのは、毎日が楽しすぎるからで、私たちのことを忘れてるわけじゃないよね〉。茜が語るストーリーは少しずつ具体的に、細かくなっていった。〈お母さんが帰ってきたよ。ハワイ楽しかったって、いい香りがするボディーバターをくれたよ〉〈昨日は夜食に餃子を作ってくれたんだ。私の好きなしそ入りで、すごく美味しかった。課題が捗ったよ〉。茜はお話を作るのが上手かった。才能があったんだと思う。
「令那さんに説明してもらった通りです」
心春の声が、少しだけ低くなる。
「私には聖霊のことは判りませんけど、藍はいま、曖昧な状態にあるんです。彼には肉体があるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、彼に会うことはできる。彼は、生きているから」
心春の言葉には、わけが判らない力がある。それに捕まると、大きな渦に呑み込まれたみたいに抵抗ができない。
「心春さんが言いたいのは――藍はいつか、完全な実体を持って復活するということです。かつてキリストがそうだったように。彼は、特別な人だから」
「そして私たちにもまた、力があるんです。彼がいる。そこにいる。そう強く願えば、私たちはいまでも藍に会える。私たちには、なんでも叶えられる力があるから」
遙人はうっとりしたような目で、心春を見つめていた。シズクもスマホを見ていた顔を上げている。
――令那さんは、茜だ。
心春のわけの判らない力と、茜が作るストーリー。ふたつの車輪がぐるぐると回って、あたしたちは通り魔の事件を、なかったことにした。どっちが欠けていても駄目だったのだ。
「藍を感じよう」
いつの間にか心春は、目を閉じていた。遙人もシズクも令那さんも、慌てたようにその真似をする。遙人の半開きになった口が、ぴくぴくと動いている。もう、心はどこかに連れ去られているのかもしれない。
「藍はいる。いまも、すぐそこに……」
心春の声に、張りが生まれていた。楠木藍が死んでからずっと抜け殻みたいだった心春に、力が戻っている。
藍をよく知らない自分が、この輪の中にいるのはよくない――反射的に、そんなことを思って、あたしはその場から離れた。なんとなくスマホを手に持って、〈あれ〉に投稿した。

どれくらい時間が経ったんだろう。
心春を中心にはじまった祈りは、いつの間にか終わっていた。全員、ぐったりして椅子にもたれかかり、心春は失神したように目を閉じている。
「……マジで、びっくりした」
遙人は、大量の血を抜かれたみたいに顔色が悪い。
「本当じゃないですか。本当に、藍がそこにいた。怖くて開けられなかったけど……たぶん開けてたら、藍と目が合ってたと思う。すごい、本当にすごかった……」
遙人はふらつきながら立ち上がる。
「俺、百パーセント確信しました。藍は生きてるんだって。令那さん、この会合、またやりますよね。ていうか、絶対にやってください。俺、なんでもしますから」
力が抜けたように頷く令那さんを前に、ぶるっと身体が震えた。
――すごいことになるかもしれない。
高校の片隅で、五人での会合でも、通り魔事件をなかったことにできた。楠木藍のネームバリューと、令那さんが作るストーリーがあればどこまで行ってしまうのか、想像がつかない。
満ち足りた表情で目を閉じている心春を見ると、胸の中に静かな温もりが広がる。藍が死んでから、屍のようだったときとは別人だ。やっぱりこいつは、祈りの輪の中心にいるときが一番生き生きとしている。
高校時代、心春には支えてもらったと思っている。生活の世話をしてきたのは、そのためだ。でも、ようやく本当の意味での恩返しをするチャンスが来たのかもしれない。心春が一番心春らしくいられる場所を、作ってあげる。
心春。
――幸せにしてあげるからな。
「ひとつ、いい?」
シズクが、スマホをこちらに見せながら言った。
「ちょっと、気になってたんだけど……〈XNS〉って、もうひとつあるよね」
スマホの画面に表示されているのは、〈あれ〉の〈XNS〉のアカウントだった。いや、よく見ると、@xns-official2というIDで、令那さんがやっているアカウントと微妙に違う。同じ十字架のアイコンが使われているので、紛らわしい。
「『楠木藍は性加害者で、スキャンダルを恐れて自殺しました。私たちはその現実を受け止め、もっと大きな、世界規模の問題と戦うために新生XNSを作りました』って書いてあるけど……これは、何?」
『百日咳ウイルスは、ディープ・ステートが流している陰謀であり、本当は存在しません。絶対にワクチンを打たないで!』『【工作員速報】当会を攻撃する新たなアカウントが湧いてますね笑。また金で雇い出したか。全部知ってるぞ』『楠木藍は性加害の果てに自殺しました。こんな些末な問題ではなく、もっと世界平和について考えませんか?』。@xns-official2には何を言っているのかすら判らない内容が、書き散らかされている。
『@xns-officialは、危険な集団です。関わり合いにならないでください』
名指しで〈XNS〉を批判している投稿まであった。
「これは、昔一緒に活動していた人たちよ」令那さんが言う。「入れるべきではない人たちを受け入れた結果、〈XNS〉は分裂してしまった。異端は異教より憎し――それ以来この人たちは、藍の自殺説を唱え続けている」
「いいの? 野放しにして」
「私たちと関係ないから」
令那さんはシズクにそう言うと、興味なさそうにスマホから目を離す。
あたしは、ビクリと背筋を振るわせた。
令那さんの目に、これまでなかった凶暴な怒りが湧いていた。
(つづく)