5 @ritsu.xros 2025/06/14 19:12
待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、生のピアノの音が全身を包み込んだ。
奥に小さなステージがあり、女性がグランドピアノを弾いている。その正体が判った瞬間、私はあっと声をあげそうになった。
弾いているのは、令那さんだった。
譜面は置かれておらず、令那さんは目を閉じながら曲を弾き進めている。暗譜で弾いているのか即興なのかはよく判らない。ただ令那さんが高い演奏技術を持っていて、流れるように曲を弾き進めていっていることだけは判った。
奥のテーブルから、美保が手を振ってくる。お洒落が好きなようで、今日は黒い革のジャケットにダメージジーンズと、先週会ったときとはまるで違った印象だった。
「すごいですね、令那さん」
「ねえ。オーナーみたいな人に〈何曲か弾いてほしい〉って頼まれちゃって、急にステージに上げられちゃったの。本人、困ってたみたいだけど」
「ピアニストなんですか? 令那さんは」
「いや、趣味でやってるだけだって。あの人、本業何やってるのかよく判んないんだよね。あと、敬語禁止で行こうよ。私のことも、美保って呼んで」
うん、と言って店内を見回す。この店の客は生演奏に慣れているのか、じっと耳を傾けている人もいれば、ピアノの音を邪魔しない程度に談笑を続けている人もいる。ほどよい空気感の店内に、令那さんのピアノが包み込むように響きわたる。
「よく来てくれたね。嬉しいよ」
隣に座ると、美保はわずかに身体を寄せてくる。柑橘系の香水の香りが、嗅覚をくすぐった。
「XNS、たまに見学者が来るんだけど、栗林のオバさんにびっくりしてみんなフェードアウトしちゃうからさ。りっちゃんみたいに、もう一度会えるのは嬉しい」
XNSの会合に出てから、一週間が経っていた。〈あれ〉にあるXNSのアカウント、@xns-officialから〈私と令那さんの三人で会いませんか〉というダイレクトメッセージが来たのだ。
「あの栗林って人は、どういう人なの?」
「あー、やっぱり気になった?」
「なるよ。ワクチンの陰謀論とか言いはじめて、ヤバいところに来ちゃったって思ったもん」
「あの人は、一月半くらい前から来はじめたひと。でもあの人が入ってきてから、XNSはおかしくなっちゃってね」
美保は水をひと口飲み、顔をしかめた。
「もともとXNSは、令那さんがひとりではじめた活動なんだよ。藍が死んで少し経ったころかな、SNSで〈藍は自殺なんかしてない〉って投稿をはじめて、少しずつ人が集まっていった。私も藍が死んでからメンタルやばくてさ。推しが死んだだけでもしんどいのに、絶対にしてない自殺をどんどん外堀埋められて、ありもしない事実が確定していって――毎日怖くて震えてたから、令那さんと出会えて本当に救われたんだ」
「美保は、なんで藍が自殺していないって思うの?」
「藍と一度、握手したことあるから」
美保は得意そうに歯を見せて笑う。
「一昨年くらいかな、藍が好きだって言ってた写真家の展覧会に行ったんだよ。作品自体は抽象的で難しくてさ、お客さんもほとんどいなかったんだけど――そこに藍がふらっと来ててね」
「えっ。そんなことあったんだ」
「マスクと帽子で変装してたけど、オーラが全然違うからすぐに判ったよ。慌てて話しかけたら、『静かに鑑賞してね』って言われて、握手だけしてくれた」
美保は、大切なものを握り込むように、右手を閉じる。
「あのときの温度が、忘れられないんだ。藍の手は、ものすごく熱かった。普段はあんなにクールなのに、あんな人の中にここまでの熱があるんだって判ったら、なんか感動しちゃってね。色々な創作活動をやってたから悩むことも多かっただろうけど、やっぱりあんな熱の人が自殺するとはどうしても思えないんだ」
美保の話には何の根拠もないけれど、私にはその感覚がよく判った。藍は自殺するような人じゃない――彼を何年も見てきた目が、そう言っている。
「話が逸れちゃったね。令那さんの周りに人が集まって、オフでも会おうってことになったの。それが藍が死んで二週間くらいしたころかな。最初に集まったのは五人くらいだったけど、藍のことを思う存分話せて私は嬉しかった。集まった人たちも、みんないい人だったし」
「そのあとに、栗林さんが入ってきた?」
「そう。何回か会合をしているうちに人数が膨らんできて、その中にあの人が交ざってた。あのオバさんは、ガチで頭おかしい。いまは暴力団がどうこうって話をしてるけど、前は〈レプティリアンが藍を殺した〉って言ってたから」
「レプ……何?」
「地球には人の形をした爬虫類がたくさんいて、この世界を乗っ取ろうとしているんだって。ゴム人間が藍を殺したとか、イルミナティの陰謀だとか、来るたびにクソみたいな話を聞かされるから、もう頭がおかしくなりそうだった。あの人が会合に来るたびにメンバーが抜けていって、同じような変な人が増えていって……最近の悲惨な状態は、この前見てもらった通り。XNSはもう、本当にひどいことになってる」
美保の言葉に、怒気が宿った。
「私は、許せないんだ。私の真剣な気持ちを、トカゲ人間とかゴム人間とか、そんなくだらない妄想と一緒にされるのがすごいムカつく。XNSをやめちゃおうかと思ったこともあったけど、私がいなくなったら令那さんは孤立しちゃう。だからまだ続けようと思ってる」
美保の気持ちはよく判った。トカゲ人間がどうこうなど、子供でも判るような馬鹿げた妄想だ。藍を信じる純粋な気持ちを、そんなものと一緒にしてほしくない。
――私も、陰謀論に片足を突っ込んでいるのだろうか。
自分の中の冷静な部分が、そう問いかけてくる。藍が自殺をしていないと信じる根拠など、薄弱なものしかない。それでも、藍を長年見ることで培われてきた感覚を、粗雑な陰謀論などと一緒にしてほしくない。時間をかけて醸成された感覚は、きっとあるはずだ。
「実は、令那さんにも少し腹が立ってる。参加メンバーを絞って、会の民度を保つのも、リーダーの仕事じゃん? あの人が栗林なんかさっさと追い出してれば、こんなことには……」
「なあに。ふたりして、私の悪口?」
いつの間にかピアノの演奏は終わっていて、令那さんが私たちの背後に立っていた。「いつも言ってることですよ」と美保は悪びれない。令那さんは美保の刺すような目にも、動じた様子はない。
「『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない』」
いつもよりも少し低い声で、令那さんは言った。美保が、軽くため息をついて応じる。
「なんですか。また聖書の引用ですか」
「『ヨハネによる福音書』6の37の51。イエス・キリストはユダが自分のことを裏切ると知っていたのに、ユダの足を洗ってパンをお与えになっている。縁があって来てくれた人を、私の都合で選別したくないの」
令那さんは私たちの正面に座って、ナプキンで指先を拭いた。ピアノを弾き続けていた指が、少し赤くなっていた。
「すごいですね、ピアノ。プロかと思ってびっくりしました。曲もすごく綺麗で……」
「スクリャービンとグラズノフよ。前にお客さんがいないとき、触っていいっていうから遊びで弾いたらオーナーに気に入られちゃって。好きな曲をやっていいっていうから、自由に弾いちゃった。律さんは、作曲家だと誰が好き?」
「ええと……」
最初に頭に思い浮かんだ名前が〈楠木藍〉だったことに、私は少し落ち込んだ。スクリャービンもグラズノフも、人の名前らしいが聞いたことすらない。私には音楽に関する教養がなさすぎる。
それも、当然かもしれない。
私の脳裏に、生まれ育った実家のことがよぎった。
――女は勉強なんかする必要はない。
それが父の口癖だった。女はいずれ結婚して子供を産み、家の中に入る。女は頭が悪いくらいが可愛い。お前の母親を見れば判るだろう。なんでそんな簡単なことが判らない――? 土建屋の社長をやっていた父は、理路整然と物事を語る人だった。父と話していると論理の山に押しつぶされる感じがして、すぐに疲れてしまうのだった。
知を憎み、教養を嘲笑う。
父の性質は、私が生まれ育った土地の風土から生まれたものでもあるのだろう。中学生のころ、音楽鑑賞会なるものが催されて、学校の体育館にピアニストが来た。クラシックを何曲か聴く会で、曲名は覚えていない。
覚えているのは、客席の喧噪だ。
ピアニストが曲を弾きはじめると、ガラの悪い生徒が〈帰れ〉コールをはじめた。かえれ、かえれ、かえれ。教師によりすぐに鎮圧されたけれど、モーツァルトだかベートーヴェンだかに合わせて唱和された〈帰れ〉のコールは、私にはすごく怖かった。高尚なものに泥を塗り、足蹴にする――その野蛮な行為に眉を顰めつつも、どこか快感を覚えている自分がいたからだ。
就職を機に東京に出てきたけれど、希望していたファッションやグルメの仕事には携われなくて、会社の片隅でプログラムコードを書いている。無教養だが頭の回転だけは速かった父の呪いが続いてるみたいで、向いていると判りながらも、自分の仕事は好きになれなかった。でもいま、私を取り巻いている環境は昔とは違う。クラシックを当たり前のように聴く人たちがいて、その中心で音楽を奏でていた人と普通に会話をしている。私はいま、そういう場所にいる。
私はいま、教養を笑わなくていいのかもしれない。
「作曲家のこと、全然知らないんです」
素直に認めると、令那さんは受け止めるように微笑んでくれた。
「〈楠木藍〉って名前が浮かんじゃって。クラシックとか、全然判らないんです」
「藍も、優れた作曲家だったと思うよ」
「そうなんですか。令那さんの目から見ても?」
「〈優れた作曲家〉をどう定義するかにもよるけど、楽曲を提供する相手の長所を引き出すことには、間違いなく長けてたと思う。藍はトラップも作るし、オルタナ系に振ることもある。ミニマル音楽にも詳しくて、スティーヴ・ライヒとかが好きだったんじゃないかしら。色々な引き出しを持っていることが、彼の多彩な創作活動につながっていた」
出てくる知らない単語を、脳内のメモ帳に書きつけた。家に帰ったら、ライヒとやらを聴いてみなければ。
「お喋りがすぎたかな。改めて、今日は来てくれてありがとう」
「いえ、こちらこそです。お誘いいただけて嬉しいです」
「XNSに参加してみて、どうだった? 何か思ったことはある?」
「はい。藍が死んでから落ち込んでいたんですけど、少し前を向けたと思います」
この一週間、ネットに書き込まれていた藍に関する情報を片っ端から読んでいた。SNS、匿名掲示板、映像や配信……レコーダーに撮りためていた、藍が出演した番組なども、時間があったら見返していた。生活に、久々に活力が戻ってきた気がする。
「それでひとつ思ったんですが――藍、〈望幻楼〉のことを知ってたと思うんです」
興味を惹かれたように、令那さんと美保が表情を変える。「これを見てください」と、私はスマートフォンに入れてきた映像を見せる。
三年前に、藍が学校の怪談系のホラー映画に出演したことがあった。ゲストとしてほんのワンシーンに出ただけだったけれど、そのときに芸能ニュース番組から三分ほどの短いインタビューを受けていたのだ。
「僕、結構廃墟マニアなんですよ」
藍はインタビュワーに向け、リラックスした表情で語っている。
「定番のところだと、軍艦島なんかはもちろん三回くらい行ってますし、化女沼レジャーランドとか、奥多摩のロープウェイとかももちろん行きました。マイナーなところも掘ってますけど、地上波ではあまり教えたくないかな」
「それは、写真のロケーションを探しているんですか」
「んー、それもありますけど……廃墟にいると、いまは失われてしまった人間の営みにどうしても思いを馳せるじゃないですか。強制的に過去に思考が導かれるあの感覚が、すごくいいんですよ」
令那さんと美保が、私の顔を覗き込んでくる。ふたりとも、このインタビューのことは知らなかったみたいだ。その目が、驚きに満ちていた。
「藍はあの日、〈望幻楼〉に写真を撮りに行っていたんじゃないでしょうか」私は言った。
「〈望幻楼〉って、廃墟マニアには有名な場所だったみたいですね。廃墟サイトのランキングとかを見ると、必ずベスト二十くらいには入ってます。廃墟マニアだった藍は、絶対に〈望幻楼〉のことを知っていたと思います」
「すごいよ、りっちゃん。それだとしたら、夜に行ってることも説明がつく」
「そう。藍は夜に廃墟を見に行って、あちこちで写真を撮っていた。藍が転落したとされる建物正面の三階には、大きな窓が開いていました。藍は三階の窓から身を乗り出して、何かを撮ろうとしていた――それで少し無理な姿勢になって……」
「足を滑らせた!」
美保が興奮したように言うと、お店の中から白い目が注がれた。「ごめん」と、美保は苦笑いする。
「でも、あの写真にはカメラなんか写ってなかったわよ」
令那さんは冷静だった。確かに@mado-blossomというアカウントが上げていた二枚の写真には、倒れている藍の姿しか写っていなかった。
「そもそもあのアカウント、怪しくないですか」美保が言う。
「叫び声が聞こえて〈望幻楼〉の敷地に入ったら、たまたま倒れている人がいて、しかもそれが楠木藍だったなんて……そんなことあります? あのアカウントも藍の死に、絡んでるんじゃないかなあ」
「でもそうだとすると、律さんの言う事故だって説は、成立しなくなるわよね」
「ああ、そうかあ……でもなあ。怪しいんだよな、あのアカウント。もう消えてるんでしたっけ?」
美保の言う通り、@mado-blossomは投稿のあとにアカウントを削除していた。反応があまりにも激しすぎて恐れをなしたのか、それとも遺体の画像を上げたことでアカウント停止を食らったのか、はたまた巨大な陰謀の一部なのか――それは判らない。
「藍が廃墟が好きだったということは、〈望幻楼〉を見に行って事故で亡くなった可能性は高まったと思う。でも、そうだとするとますますおかしい。警察もトップワンも、なぜ藍が自殺したと認めているのか」
令那さんの言葉に頷かされる。藍が死んでから一週間後、トップワンの公式サイトに文書が載り、『死の原因については、楠木本人の名誉のために公表を控えさせていただきます』という一文が書かれていた。事務所は実質的に、藍が自殺であることを認めている。
「トップワンは、藍が廃墟マニアだったことを知っていたはず。事故の可能性を考えるのが普通なのに、なんで自殺だと認めたの?」
「そもそも、例の投稿に書かれていた〈叫び声がした〉というのも変だと思うんです。自殺するために飛び降りる人って、叫びますか? ましてや藍は、叫んだりしないと思うんです」
私の言葉に、美保が目を輝かせていく。この一週間の徹底的な調査が報われた気がして、気持ちが軽くなっていく。
「これは興味があったら、でいいんだけど……」
令那さんが、慎重な口ぶりになった。
「いま、トップワンに抗議に行こうかって話が出てるのよ」
「抗議って……デモってことですか」
「そう。栗林さんたちが提案してくれてね」
美保が顔をしかめる。それでも令那さんは冷静だった。会を混乱させている人の話をしているというのに、あくまで公平性を大切にしているように見える。
「私はデモなんかやったことがなかったから尻込みしていたんだけど……律さんの話を聞いていて、やったほうがいいって思いはじめた。トップワンは何かを隠している。それは間違いないと思う」
「隠しているっていうのは、まさか、トップワンが藍を殺したってことですか……?」
「そこまでは言わない。でも、何かの情報が出てきていない。それを知りたいんだ。美保さんはどう思う?」
「賛成で反対、かなあ」
美保がおかしな返事をしたせいか、令那さんはふふっと忍び笑いをもらした。
「トップワンに抗議することは賛成です。でも、栗林さんが調子に乗る気がして、嫌なんです」
「『しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』」
「なんですか。また聖書ですか」
「『マタイによる福音書』で、イエスもそう言っている。小さなことにこだわらずに、大きな目的のために協力しましょう」
「私は令那さんがやるんなら、ついていきますよ」
――デモか。
賛同の空気が作られる中、私は戸惑いを覚えていた。
東京に来てから、街中で何度かデモ隊に遭遇した。警察に守られながら練り歩く人々を見るたびに、私は心の中で嘲笑していた。戦争反対? そんなことを言うだけで戦争が止まるなら、武器も軍隊もいらないんだよ。増税反対? 働いて給料上げろよ負け組。差別をするな? 人間は差別をするクソみたいな生きものなんだよ。
私が内心で取っていた冷笑的な態度は、父や故郷から無意識的に受け継いでしまったものなのかもしれない。令那さんほどの人がデモをやると言っているのだ。私の態度には、偏りがあったのではないか。
「参加したいです」
私は、そう呟いていた。
「私も藍に報いたい。デモをやるなら、参加します」
「ありがとう。ただ、家に帰ってみたら気が変わることもあるでしょう。そのときは遠慮なく断ってもらっていいからね」
令那さんの心遣いが、胸に染みた。
いい人に出会えたのだと、私は思った。

(つづく)