最初から読む

 

 

 

12 @noa-ano-days     2025/9/15 15:01

 

『この陰謀論者ども!』

 ユーチューブの動画の中で、ラグビー選手のような体格をした大きな男が吠えている。

『人生が上手くいってないから陰謀論にハマるんだ! 少しはまともな生活しろよ! アイドル見て発情してないで、結婚して子供を作ってみろ! 負け犬ども!』

 今朝、〈XNS〉で検索して見つけた動画だった。令那さんたちが渋谷でやったデモに、炎上系ユーチューバーのオニマルが突撃してきたのだ。再生数は三十万回を超えている。ユーチューブはあまり見ないから、これが多いのか少ないのかよく判らない。

 人生が上手くいくって、なんだろう。

 結婚しようが子供を作ろうが、出世しようが大金持ちになろうが、傍から見てどれほど上手くいっても、五秒後に突然どん底に落とされるのが人生だ。電波を受信したヤバい人間が、人混みに向かってアクセルを踏み込む――たったそれだけのことで、すべて順調だった人生は壊れる。そう考えると「人生が上手くいっている」というのも、陰謀論なのかもしれない。地獄はいつでも、すぐそこにあるのだから。

「乃愛さーん」

 リビングのソファから、遙人が手を振ってくる。

「すみません。冷蔵庫から炭酸水、出してくれませんか?」

「ええ? 自分でやれよそのくらい」

「ごめんなさーい。いま『スプラトゥーン』の試合がマッチングしちゃって……」

「知らねーよ、ったく……」

 苛つきつつも、物件を提供してくれている遙人には強く逆らえない。あたしはバカでかい冷蔵庫のドアを開け、炭酸水のボトルとコップを四人分、お盆に載せた。

「ほらよ」

 何インチか判らない大きなモニターの前で、遙人と心春と楓とヒマリがテレビゲームのコントローラーを握っていた。ムカつく。あたしのほうには目もくれやしない。

「藍が生きているなんて、私には信じられないんですよね」

 少し離れたところにダイニングテーブルのセットがあって、今日来たばかりの女性が、令那さんに食って掛かっている。舞依というアラサーの会社員だ。

「藍が自殺じゃないことは、信じています。でも、藍が死んでいるのは間違いないでしょう。報道もされてます。いくらなんでもこの状態から生きているなんて、ありえなくないですか」

「いい質問ですね。その点に関しては、私たちも見解が分かれてます」

「死亡説を信じている人もいるってことですか」

「違う。藍が生きていることは、この会の総意。ただ、どう生きているのかの意見が割れているの。藍の死自体が誤報で、彼がニューヨークで生活をしている説もある。藍は肉体的な死を迎えたのかもしれないけど、残留思念が漂っている説もある。でも、これだけは確かよ。私たちは藍の復活を、信じている」

「馬鹿馬鹿しい。そんなことがあるはずがない」

「ところが、聖書には死者が復活した記述がいくつもある。ラザロの蘇生、会堂司ヤイロの娘を生き返らせた、イエスの〈タリタ・クミ〉という言葉。『使徒言行録』にはエウティコという青年が三階建ての建物から落ちて亡くなったのに、預言者パウロが抱きかかえたら生き返った話もある」

「ちょっと待って。三階建てって……?」

「そう。藍は聖書に書かれていた通りの方法で〈死んだ〉。これはただの偶然かしら? 『聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ』ていると、『テモテへの手紙』にも記されている。藍の死がもしも聖書に予言されていたことなら……」

 ――落ちるな。

 このところ新しい人がどんどん来ているので、会に居着くかそうじゃないか、なんとなく判るようになってきた。最初は舞依のように食って掛かってくる人は入らないと思っていたけれど、実は違う。それだけのエネルギーがある人は、矢印の向きが変わると熱心な会員になる。

 令那さんは、すごいと思う。ネットでよく見るような安っぽい生存説は口に出さないし、聖書を引用した色々な話を聞いていると、そういうものなのかもしれないと思わされる。心春にはあんなことはできない。やっぱりこのふたりは、ふたつでひとつだ。令那さんの語るストーリーが、心春が羽ばたくための土台になってくれている。

「あ」

 突如、心春が呟いた。

「藍が、近くに来てる」

 遙人が慌ててテレビ画面を消した。令那さんと舞依も、すぐに立ち上がってソファのほうに集まっていく。

 令那さんが心春の横に立つ。それ以外のメンバーは、心春を中心にしてあぐらをかく。あたしはダイニングテーブルについて、集まりの外から全員を見る。

「皆さんは、私が聖書をよく引用することを、訝しんでいるかもしれません。キリストと藍とに何の関係があるのかと」

 令那さんが、説教のように話しかける。

「一方で、〈聖書とは世界の縮図である〉と言っている宗教学者もいます。いまこの世界で起きていることは、すべて聖書に書かれているのだと。藍が特別な人間であることは、言うまでもありません。そして藍の周辺で起きていることは、聖書に書かれた内容とあまりにリンクするのです」

 心春が静かに頷いた。ふたつの歯車が噛み合って、この部屋に神聖な空気が漂う。

「〈神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です〉――と、ペンテコステの日にペテロは言いました。心春さんは、預言者のような力を持っている。彼女を通じて〈わたしたち〉は証人となり、聖なるものに接続される」

「藍を感じよう。みんな、心の中で話しかけて……」

 心春の力は、最近ますます迫力を増している気がする。ほんの一言二言話しただけで、これ以上ないくらい静かだった部屋が、もっと静かになる。全員が、少しの音も出さないように、自分の動きを殺している。心臓すらも止めかねない勢いだった。

 ――聞こえる。

 誰かがそう囁いた気がした。

 ――藍。聞こえるよ。

 あたしの気のせいかもしれない。でもたぶん、藍の声が聞こえている人はいるはずだ。だって。

 

 

 あたしは、近くの公園に来ていた。

 祈りの輪の中には加わらない。みんな心春を囲むと、ぐったりしてしまって使いものにならなくなる。〈窓口〉はいつも冷静じゃないといけない。

 ――よくまあ、あんなに集まったな。

 遙人とシズクが来て二週間とちょっとで、〈XNS〉のメンバーは三人増えて八人になっていた。そのタイミングで、遙人が自宅をポンと提供してくれたのだ。父親が投資家で、大学生のくせに四谷に2LDKのマンションを買ってもらったと言っていたから、まったく、ふざけてる。

 遙人は大学受験のときに〈XROS〉にハマって、試験勉強を一時間やったら二曲〈XROS〉の曲を聞けるという勉強法で早稲田に受かったそうだ。受験も終わって、本格的にコンサートに行けるぞと思っていたところ、藍が死んだ。そこからはすっかり抜け殻になってしまって、大学も行けたり行けなかったりという感じらしい。

 楓はガールズバーで働いていて、稼いだ金を〈XROS〉に突っ込んでいたアイドルオタク。ヒマリは底辺高校に通う女子高生。舞依は会社員で、職場は教えてくれなかったけど、役所とかの堅い仕事だと思う。唯一正体が判らないのがシズクで、話を振っても黙るだけで何も教えてくれない。地下アイドルか何かなんじゃないかと、あたしは見ている。

 藍の死を受け入れられていない人は、たぶんもっと大勢いる。心春と令那さんという特別なふたりがいる限り、この会はもっと大きく膨らんでいくだろう。

 ――藍も本当に、生き返ってしまうんじゃないか。

 そんなことを考えて、ブルッと身体が震えた。おいおい。あたしまでおかしくなってどうする。

 そのとき、公園の入り口に、人影が見えた。

 今日は舞依のほかにもうひとり、新しい人がやってくる予定だった。その待ち合わせに来たことを思い出し、顔を上げる。

「えっ?」

 思わず、あたしは叫んでいた。

 マスクとサングラスをつけ、ハットを被った男が立っていた。変装しているのに、それでもいまのあたしには、彼の正体がひと目で判った。

〈XROS〉の大川誠也だった。

 

 アイドルに全く興味がないあたしでも、さすがに知っている。

〈XROS〉のツートップは、陸尚人と大川誠也だ。ふたりはあまり仲よくなくて、ドラマやCMに競うように出まくっている。育ちがよく、名門高校でボクシングをやっていた尚人と、養護施設で育った誠也。その片割れが、いまあたしの前にいる。

 ――やっぱり、芸能人は違う。

 身体の作りからして、遙人とは別の生きものだ。背が高く、手足が長くて、頭が小さい。地球が滅亡したあと、宇宙人が来て誠也と遙人の骨を掘り出したら、違う種類のサルだと思うんじゃないだろうか。

「大川誠也です。お騒がせして、申し訳ありません」

 あたしたちは、遙人の家のリビングに戻ってきていた。令那さんが慌てたように「頭を上げてください」と言う。こんな彼女を見るのは初めてだ。

「俺がこんな場所に来るのは、よくない。皆さんの邪魔をしてしまうだけだ。それは判っています。判ってるんですけど――来てしまいました。すみません」

「どうしたんですか。私たちでよければ、事情を聞きますけど」

「ありがとうございます」令那さんに言われて、誠也は顔を上げた。「俺、藍が死んでから、ずっと気が滅入っているんです。ネットでは、藍のスキャンダルの影響で色々な仕事を降板させられたとか言われてるんですけど、本当は俺のせいなんです。メンタルやられちゃって、ちょっといま、仕事ができる状態じゃないんです」

「親しかったメンバーが亡くなったんです。当然だと思います」

「最近は起きても一日中ぼんやりしてて、ネトフリ見て、SNS見て、飯食って、寝て……そんな感じで、気がつくと一日が終わってるんです。体形だけは維持しとけって事務所から言われてるんで、週に三回、ジムには通ってるんですけど、外出するのもそのときくらいで。なんかこのまま、終わっちゃうのかなと思っていたら、この会のことを知ったんです」

 誠也は気まずそうに、「いまから、おかしなことを言います」と前置きをした。

「俺も前から――藍が生きてるんじゃないかって思ってたんです」

 え、と声を上げそうになった。誠也の表情は至って真面目だ。

「皆さんの目から藍がどう見えてたのかは、判らないんですけど……あいつ、かなりヤバいやつなんです。確かにあいつにとって、スキャンダルは試練だったと思うんですけど、だからといって自殺なんかするわけがない。あんな狡猾なやつは、いませんでしたから」

「狡猾、ですか……」

「ええ。その証拠に……あいつ、本当はもっと身体動くんですよ。ダンスもすぐ覚えちゃうし、難しいステップも踏める。その気になったら〈XROS〉の中心になれるのに、ずっと脇にいたでしょう? そのほうがオイシイって知ってたんですよ。グループも背負わなくていいし、外の活動も自由にできる。あいつにとって、〈XROS〉は踏み台だったんです。知名度を得て、本当にやりたいクリエイティブな方向にシフトする。写真も作曲も、アイドルで成功してからのほうが、はるかに上手くいきますから」

「でも、そんな片手間でアイドル活動なんて、できるものなんですか。競争も激しいでしょうし……」

「できます。あいつは、特別だったんです」

 あたしから見たら、大川誠也もどう見ても特別な人だ。そんな彼が〈特別〉だと言う楠木藍は、どれほどの怪物だったんだろう。

「あのっ!」遙人が手を上げた。

「大川さんはどうして、藍が生きてると思うんですか?」

「藍が死ぬ少し前……トップワンの本社で、話し合いがあったんですよ」

「本社って、原宿の?」

「ええ。藍のスキャンダルが出るって情報が入ってきて、事務所の偉い人たちと、芸能部長と、マネージャーと〈XROS〉の四人で……偉い人たちはめちゃくちゃ怒ってました。『もう〈XROS〉は解散するしかないかもな』とか『賠償金がいくらかかるのか知ってるのか』とか言われて、絶望しました。それよりも怒ってたのは、尚人です。藍に何回も殴りかかろうとして、あいつ喧嘩強いから、止めるのが大変だった」

 でも、と誠也は言う。

「藍は一貫して主張してたんです。『冤罪だ』って」

「週刊誌の記事は出鱈目だと?」

「はい。そもそも怪しげな飲み会に行ったことはないし、女性と性行為もしていない。どんな証拠も絶対に出てこない、僕を信じろって。タレントにあそこまで反論されたら、事務所も対応に困ったと思います。藍は言い続けました。『絶対に負けない』『トップワンはデマと戦うべきだ。裁判をしてでも』って」

「大川さんはそれを聞いて、どう思ったんですか」

「混乱しました。週刊誌が正しいのか、藍が正しかったのか、今でも判らない。でも、藍は勝つんだろうなとは、思いました」

「勝つ?」

「はい。藍が『絶対に負けない』って言うんなら、そうなるんだろうなって。何の証拠も出てこないし、裁判にも勝つ。週刊誌は誤報を認めて、スキャンダルはなかったことになり、藍はより世間から愛されるようになる。あいつはそういう人間です」

「でも藍は、〈自殺〉した」

「はい。その数日後に」

 言葉を挟んだ令那さんに、誠也はため息交じりに言った。

「一報を聞いたときは、本当にびっくりしました。敵を前に逃亡するなんて、一番あいつらしくない行動です。尚人もアユムも、そこだけは一致してます」

「つまり、誰かに殺されたと思っているんですか」

 誠也は令那さんを睨みつけた。いきなり放たれた怒りに、令那さんが怯えた。

「〈XNS〉って、トップワンに街宣かけてきた団体ですよね」

 さっきまで見ていた、オニマルが突撃したデモのことだ。令那さんは気まずそうに頷く。

「これも断言しますけど、トップワンは藍の死と何の関係もないっすよ。中国のマフィアとか公安とかとつながってると言ってましたけど……そんな変な事務所なら、俺たちタレントにも少しはおかしな噂が伝わってくるでしょう。そんな話、全然聞いたことないです。信じてください」

「すみません。私たちが、浅はかでした」

「それに、もし殺人だったとしても、藍が誰かにむざむざ殺されるなんて思えないです。誰かにあんな館に呼び出されて、背後を取られて突き落とされるなんて……そんなの、藍らしくないです。でも、警察は自殺だと判断した。その矛盾を解消するには、答えはひとつしかない」

「なんですか、それは」

「身代わりですよ。藍は、他人の死体を置いておいたんだ」

 誠也は大真面目に言い切った。あたしにはバカバカしい妄想にしか聞こえないけれど、この半年くらいをかけてたどり着いた答えの、重みみたいなものがあった。

「藍の〈死体〉がスマホを持ってなかったって、知っていますか?」

「え、そうなんですか?」

「はい、まだ見つかっていません。おかしいですよね。電話かけても繋がらないけど、藍が持ってたんじゃないかな。藍は身代わりの死体を用意していて、それを自分の死体だと誤認させたんです。論理的に考えたら、それしかない」

「そんなこと、本当に可能なんでしょうか。顔が似た人を用意できても、DNAとか生体情報とかは?」

「詳しい手口までは判りません。でも藍はどんな手段を使っても生き延びる――そういうヤツなんです」

「だからって、いくらなんでも……」

「誠也」

 突如名前を呼ばれ、誠也が打たれたように背筋を伸ばした。

 心春が、目を細めて誠也を見つめていた。

「あなたは、正しいです」

 部屋の空気が、たったそれだけで一気に変わった。

「ありがとう。いま、すべてがつながりました。藍は、全員を騙して生き延びたんです。どうしてそれに気づかなかったんだろう」

「信じてくれるんですか」

「もちろんです。いま、生き延びた藍は、復活のときを待っています」

「藍は、帰ってくるんですか」

「帰ってきます。私たちは、それを待つためにここにいるんです」

「また藍に会えるんですか」

「会えます。私たちが望むなら」

「会えるのか……」

 私はそこで、ギョッとした。

 誠也の両目から、涙が流れていた。

 誠也は嗚咽を漏らし、泣きはじめる。駄々をこねる子供のように、大きな口を開けて涙を流す。さっきまで漂っていたカリスマの空気は、完全に消えていた。

 ――この人は、藍のことが好きだったのかもしれない。

 何の根拠もないけれど、そんな気がした。

 大好きだった人がスキャンダルを起こして〈自殺〉した。とんでもない哀しみだっただろう。母が殺されたとき、あたしも死ぬほど哀しかったけど、種類が違う気がする。もっと見捨てられたような、苦い味があったんじゃないだろうか。

 誠也は泣き続けている。愛そのものを流している気がした。

「誠也。大丈夫だよ」

 心春が、優しい声で言った。

「こっちを向いて。藍は生きてるから」

「それは、本当ですか」

「本当だよ。強い気持ちがあれば、どんなこともかなう。また、藍に会うこともできる」

「はい」

「藍に会いたいよね?」

「はい」

「うん」

 全員、自然と心春を中心とした扇みたいな形になっていた。誠也もその中に加わる。完全に心春の下僕になっていた。

「藍の声に、耳を傾けましょう」

 声が響く。

「藍はそこにいる。帰ってくる日を、待っている」

 あたしは、心春たちから少し距離を取った。

 目を閉じると藍の気配を感じてしまいそうで、まばたきすらできなかった。

 

 

(つづく)