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7 @koharu*2005     2025/8/21 14:05

 

 私は久しぶりに、電車に乗っていた。

 東京の人の一番いいところは、ほかの人に関心がないことだ。ぱんぱんに泣き腫らした顔で出てきても、誰も注目しない。私の地元の田舎では、こうはいかない。

 電車には、たくさんの人が乗っている。人がいる場所は苦手だった。三年前まで、よく学校に通えていたなと驚いてしまう。どうやっていたのか、まるで思い出せない。

 私は学校が嫌いだった。もっと言うと、大勢の人の中にいるのが苦痛で仕方がない。

 人間はひとりひとり、違うことを考えている。同じ空間にいるのに、見えている景色は全部違う。世界を視認し、思考し、再構成して投影する――私たちの脳は宇宙みたいに複雑で、全員が違うものを見ながら、違うことを考えている。そんな複雑で巨大なものが、ひとつの空間の中にたくさん存在して、多元宇宙みたいにひしめきあっている――この世界にはそういう塊が集まってさらに大きい塊を作っていて、そういう塊がたくさん集まり、さらに大きくなっていって、そういう塊が――車内を見つめていると、いつの間にか無限に膨らんでいく塊のことを考えている。頭がおかしくなりそうになる。

「藍は、どう思う?」

 隣の空間に話しかけて、そこに誰もいないことに気づく。今度は、おかしなものを見るような視線が遠慮なく降り注ぐ。

 ――学校でもこんなことが、よくこんなことがあったっけ。

 お前は異常だ。おかしな人間だ――何も言われていないのに、そう言われることが。

〈よくあること〉と、〈よくあるから傷つかないこと〉は、別だ。私は目を閉じた。嫌なものもこうすれば、何もなくなる。

 

 電車を降りて、静かな街を歩く。日中のこのあたりは人がいないので、気分が落ち着く。空中から降ってくる鳥の声や葉擦れの音に包まれながら歩いていると、傷んだ心が癒やされていく。

〈望幻楼〉――その黒い門が見えてきたときに、私は奇妙な感覚を覚えた。

 藍が〈自殺〉したというニュースが流れたのが、五ヶ月くらい前のこと。いまは静かで花もろくに置かれていないけれど、あのときは大勢のファンがここに詰めかけていた。

 あのときは、あれだけの人がいたのに――私の頭はおかしくならなかった。

 たぶん、みんな同じことを考えていたからだろう。

 全員が藍の〈死〉に傷つき、泣いて、どうか夢であってほしいと思っていた。全員が同じことを考えて、同じように動いていて、私たちは完全に同質な秩序だった。だからあんなに大勢の人がいても、大丈夫だったのだ。

 ――世界中のみんなが、同じことを考えていればいいのに。

 昔からよく、そんなことを思う。世の中では多様性なるものが賞賛されているけれど、本当にそんなものを、みんながいいと思っているのだろうか。戦争も殺人事件も、突き詰めれば多様性があるから起きるのだ。世界の全員が平和を望めば戦争は永久になくなるし、犯罪もゼロになる。そんな世界はありえないことくらい判っているけれど、別々のことを考えている人間たちが平和に共存する世界も同じくらいありえないわけで、どっちもありえないなら、前者を目指したほうがいいのに――簡単な理屈だと思うのだが、なんでそんなことも判らないのだろう?

 ――と、そこまで考えたところで、私は脳に疲れを感じた。駄目だ。こういうことを考えるのに、私の脳は向いてないのだ。

 思考を止めて、私は鞄に手を突っ込んだ。

 持ってきた人形を取り出して、門の前に置いた。

 

 黒い門は、閉ざされている。

 鬱蒼とした木々に遮られて、中はよく見えない。

 ふと、思い出した。前に一度――この門を乗り越えて中に入ったっけ。

 小さな森のようになっている木々の間を抜けると、〈望幻楼〉が目の前に現れた。古い館は、すごい存在感だった。三階建ての建物が、それよりもずっと大きく見えた。のしかかるようなシルエットに、私は少しの間呆然としてしまっていた。

 しばらくそこに佇んでいたと思う。

 ふと、バルコニーのほうで、何かが動いた。

 顔を上げると、こちらを見下ろすような人影があった。

 あの人は――。

 

「あの」

 そこで、声をかけられた。

 振り返ると、背の高い女性が立っていた。

 見たことのない人だった。上品な雰囲気の女性で、すらりとしたスタイルをしていた。つやつやの黒髪。綺麗な人だった。

 女性は、私が置いた人形を見つめている。戸惑った様子で、おずおずと聞いてくる。

「その人形は、あなたが作ったんですか?」

「はい? そうですけど……」

「すみません、いきなり話しかけて……そこに置かれている人形は一体、どういうものなんですか」

「どういうものって……」

 説明が難しかった。

 昔から、自分でもよく判らない直感が囁くことがあった。何かをやったほうがいいという衝動が湧いて、意味も判らずそれに没頭することが。

 人形作りもそうだった。〈自殺〉騒動のあと、藍が家にやってきた。そのときに、インスピレーションが湧いたのだ。人形を作れ。それを〈望幻楼〉の前に置け。意味は判らない。経験上、あとから振り返って判ることもあるけれど、結局なんだったのか判明しないこともある。そんな説明をされたところで、たぶん理解してもらえないだろう。

「藍を追悼するために、その人形を置いているんですか」

 無視して帰ろうとした私の足を、女性の言葉が止めた。

「どうして、そう思うんですか……?」

「だって、〈X〉が書かれた服を着ていて、ここに継続的に置かれてるんですから……藍だと思うのは当然じゃないですか」

「継続的にって……何度かここに来てるんですか?」

「はい。藍のファンなので。前は大勢、同じような人がいましたよね。いまはもう、ほとんど来なくなっちゃったけど……」

「あなたも、藍のことが好きなんですか?」

「はい」

 女性は、私の質問に即答した。

「コンサートにも何回も行きましたし、『Indigo』も初版を持ってます。藍には色々なものをもらいました。落ち込んでいるときに彼を見て、何度助けられたことか。彼が亡くなってから、ずっと暗い気持ちです」

 その声に熱が入ったことに、私はこみ上げてくるものを感じた。

 ――藍はやっぱり、すごいな。

 藍は、人の気持ちを動かせる人だ。みんな藍を見れば、彼のことを好きになる。くだらない多様性なんかはなぎ払われ、人々は同じ色に染め上げられる。五ヶ月前、ここに詰めかけていた人たちのことを思い出す。個性を乗り越えて大勢の人とつながれて、胸が熱くなったものだった。

「藍は、生きてますよ」

 思わず私は、口走っていた。

「いまはどこにいるのか判らないんですけど、どこかで生活をはじめています。新しい生活を。藍は死んでなんかいないんです」

「どういうことですか?」

 女性の声色が、少しだけ変わった。

 私の話を、警戒しているみたいだった。さっきまで同じ側に立っていたはずなのに、壁ができていた。

「藍が生きているって……そんなこと、ありえないと思いますけど……」

「どうしてですか。藍の死体を見たんですか」

「だって、ニュースにもなっているんですよ。警察も死んだって発表しています。それが全部、嘘だってことですか」

「はい。嘘です。だって一昨日まで、一緒に生活していましたから」

「え……?」

「本当です。この五ヶ月くらい、藍と一緒にいました。『かくまってくれ』と言われて、私の家で暮らしていたんです。寝室を彼に与えて、私はダイニングで寝てました」

 言いながら、胸の奥にちくりと針が刺さる。

 一緒に暮らしていたのなら、なぜ藍はたまに姿を現さなくなっていたのか?

 藍は飲まず食わずで部屋に閉じこもり、外に出ていった形跡もなかった。それでも顔色ひとつ変えていなかった。生身の人間に、そんなことが可能なのだろうか。

 私が生活していた藍は、やっぱり――。

「あの」女性が言った。

「もう少し詳しく、聞かせてもらえませんか?」

 私は、顔を上げた。

 女性は、私の話に興味を惹かれたみたいだった。

「五ヶ月前に藍が来たって、なんであなたのもとに来たんですか? 藍と知り合いなの?」

「ええと……まあ、前に会ったことがあるくらいです。藍は『表舞台から消える必要がある』って言ってました。理由までは聞いてません。ただ、『自殺したって発表される、そう決まっている』って言ってました」

「それで、一昨日まで一緒に暮らしていた?」

「はい。なんで出ていったのかも、よく判りませんでした。でも、また会えるって」

「それは、いつ?」

「判りません。でも、前向きな感じでした。私のやるべきことをやれって言ってました」

「そう……」

 女性の反応に、私は少し驚いていた。

 過去何度か、言わなくてもいいことを、勢いに任せて言ってしまったことがある。

 そういうときに返ってくる反応は、大体が嫌なものだった。引きつった顔。こちらを馬鹿にしてくるような、上から目線のニヤつき。嫌な相手を排除しようとする人間の反応は、大体同じだ。そこに多様性はない。

 でも、女性の反応は違った。

 私の言葉に真剣に耳を傾けて、理解しようとしてくれているみたいだった。

「判る気がする」

 女性は、呟くように言った。

「こんなことを言うのは失礼かもしれないけど……あなたの気持ち、判る気がします。私とは方法は違うかもしれない。でも根底には、藍のことを忘れたくないという気持ちがある……」

 女性はそこで、人形に目をやった。

「あの人形は、そのためのものなんですか?」

「え?」

「藍への思いを忘れない……そういう祈りを込めて、人形を作っているんですか?」

「ええと……」

 女性の言葉が、私の脳を揺さぶる。自分でもよく判らず、気持ちの赴くままに服を編み、人形に着させて置いていた。彼女の呼びかけが、色のない衝動に輪郭を与え、意味を吹き込んでくれる。

 私が人形を作っていた理由は――。

「藍の帰りを、待つためだったんだ……」

 それだ。私がやってきたことの意味――。

「いま判りました。藍は、帰ってくる。だから私はこの五ヶ月間、人形を作り続けていた」

「でも……この間、ずっと藍と暮らしていたんですよね? それは?」

「あれは、幻です」

「幻?」

「私は幻を見ていたんです。だから藍は、いたりいなかったりしたんです。それも全部、藍が帰ってくるのを待つためだったんです……」

 話しているうちに、世界が音を立てて組み変わっていく。

 この五ヶ月間、私は藍を待つために生きてきた。そのために藍の幻を見て、衝動に任せて人形を作り続けていたのだ。藍のことを覚えているために。彼への愛情を保ち続けるために。

 そして藍は、いなくなった。その理由は――。

「――復活」

 女性が呟いた言葉に、私は耳を惹かれた。

「いや、ちょっと思い出しただけ……聖書には、キリストの復活というエピソードがある。知ってる?」

「いえ……すみません、勉強不足で」

「磔になったキリストは埋葬される。でもその三日後、遺体が葬られたはずの墓が空っぽになっていることに、墓を訪れた人は気づく。弟子たちがキリストの行方を捜していると、やがて復活したキリストが現れて、最後は天に昇っていく……。あなたが作っていた人形も、イエスの聖像に重なる……見えない神を思い起こさせるための手段に……ごめんなさい、全然関係のないことを言っているかもしれないけど……」

「それです」

 私は気がつくと、女性の手首を握りしめていた。

 びっくりしたのか、女性が両手を反射的に引く。それでも私は、その細い手首を握り続けた。上手くコントロールできない。

「すごいです。あなたは何者なんですか。全部合ってます」

「ちょっと、どうしたの。落ち着いて……」

「藍が消えたのは、今日、私があなたと会うことを知っていたからなんです。もう大丈夫だって……だから、いなくなったんだ」

 心から、言葉が溢れてきた。

「少し、お話しさせてください。少しでいいですから!」

 

 

(つづく)