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向島春刀は和歌山県の龍神温泉に滞在していた。ようやく本家・関東、双方の吉竹組の特定指定抗争が解除され、大阪府警の監視の人数が大幅に減った。矢島の双子につきまとう監視をまくのも簡単になった。
進捗の報告も兼ねて、矢島の双子を渓流釣りに誘っていた。常にボディガードや幹部などを連れて歩く双子だが、今日の話は極秘事項だ。総本部長の水本のみを連れて日高川の渓流までやってきた。川釣りでも有名なこの界隈は、アユ釣りが解禁になり、休日には釣り人でにぎわう。平日の昼間は閑散としていた。
勇は岩場に腰かけじっと獲物がかかるのを待つタイプだが、進は気が短い。長靴で浅瀬を歩き回ってはテグスを放つ。
「進、あまり歩き回るな。鮎が逃げてまうやろ」
「そうは言うても兄貴、かからんのや」
「ここはじっと待たんか、せっかちやのう」
後ろに立つ向島を勇が振り返った。
「お前もやらんのか」
「右腕だけではどうも」
「そうやな。不便なこっちゃ」
「泉ですが、先週から石垣島に旅行へ行っています」
向島が息抜きに、と勧めた。
「で、いつ奴の顔面の皮を持ってきてくれるんや」
熱海で泉も同じように双子の顔面の皮を欲していたことを思い出す。
「奴を本家に引っ張り込んで皮を剥いで殺すのは現実的ではないでしょう。警察の目をかいくぐるのが難しい」
「確かに」
「石垣島から船で台湾に連れ出し、始末をつけます。マニラの舎兄が諸々、手配済みです」
マニラ在住でフリーのブローカーをやっている山形甲子男は決死十四人衆の一人だ。二十年ほど前に下っ端だった向島は五厘下がりの盃を交わしている。
向島一家の内ゲバの際、山形は山城に協力して若いボクサーをハメていた。堅気に迷惑をかけたことを向島は咎めた。山形は詫びもかねて、こちらの言い値で泉の殺害を請け負った。
「深夜に豪華クルーザーで台湾南部のビーチリゾートにある違法カジノへ案内しました」
フィリピンのセブ島あたりへ旅行させれば山形が手を下すのは簡単だったが、泉クラスのヤクザが出国するのは難しい。沖縄から船でアジアのリゾート地へ行けると聞いて、泉は飛びついてきた。
「うらやましいのう、いまごろあいつはカジノで遊んどるのか」
向島は右腕につけた腕時計を見た。
「カジノは口実です。船の中で始末をつけます。もう死んでいるかと」
「山形が顔面を剥いだんか」
「顔面剥ぎはあきらめてください。いつかのようにあなた方がなんらかのカードに使えると表に出すかもしれない。あのせいで私は警視庁に目をつけられ困っています」
勇は子供のように口を尖らせた。
「それはお前が悪い。東京に行ったきり三週間も音信不通やった。疑心暗鬼になって当然やろ」
「毎日、報告の電話をしました。音信不通ではありません」
「電話なんか信用でけへんのや。一刻も早く泉の顔面を剥いでこな」
こうして疑心暗鬼になった矢島は東京に戻った向島をせっつくため、若い衆に命令して海竜将の顔面の皮を銅像に張り付けたり、遺体を隅田川に流したりした。
「まあ面白かったからええやないか。それにな、お前がやったという証拠はどこにもないんやで。警視庁は海竜の遺体からお前の指紋を採ったか。DNAを見つけたか」
「いいえ」
「現場もない。血を吸った畳は処分し血が飛んだ壁は塗り替えた」
「いずれにせよ、泉は海上で始末が済んでいるはずです。警視庁が遺体を発見することは絶対にできません。骨のひとかけらも無理でしょう」
山形は船内で泉の遺体を八等分すると言っていた。台湾沖からフィリピンのマニラ港まで八百キロある。百キロおきに一部位ずつ捨てていくと笑っていた。フィリピン海の水深は六千キロ以上だ。海底にたどり着く前に血に誘われた魚に密集され、食いつくされることだろう。勇はうなった。
「あいつの顔面の皮を祭壇に飾り、関東吉竹組の面々と親子盃を交わすのが夢やったが、ま、欲をかいたらあかんな」
関東吉竹組は若頭の本多義之が引き継ぐが、名前を変える。そして跡目の本多が矢島の双子と盃を交わすという密約を取り交わし、双子を納得させていた。
「それにしても本多とやらをよう懐柔したものや。あいつは埼玉が本拠地やったろ。関東吉竹組きっての武闘派や」
平成初期の吉竹組東日本進出のことを、勇は懐かしそうに話した。決死十四人衆の中で殺した人数が最も多いのが、最年長の本多だった。リーダー的な存在だったから、率先してやらねばならないと思っていたのだろうが、あの時、本多は薬物でその重圧をはねのけていた。東日本制覇を成し遂げたのを境にきっぱりと薬物と縁を切っている。いまだ誘惑はあるだろうに、本多はカウンセリングも治療も受けず気合いひとつで薬物から脱した豪傑だった。
「盃の前に一度、ご挨拶させていただきたいと本多は言っておりました」
「ほんまかいな。泉を討てたとしても本多が一番難しいと進は言っておった。なんなら泉と一緒に消すべきと――」
渓流から進の叫び声が聞こえてきた。
「なにするんや、くそボケッ」
進が、対岸の茂みから現れた黒ずくめの男に襲われていた。石で頭を殴打されたのか、頭から血を流し、釣竿を離して浅瀬に尻もちをついた。
「おい、あれは誰や」
勇が慌てて岩から立ち上がり、足を滑らせた。なんとか着地し、弟を助けに行こうとする。向島は、年老いて細くなった勇の腕を掴み上げた。
「さっき言った通りですよ。本多です。早々に挨拶に来たようですね」
「挨拶て、あれのどこがや」
向島は勇を引き倒し、尻を蹴って川の流れの中に落とした。
「む、向島ッ」
浅瀬に顔を半分沈められ、勇はもがく。
渓流の真ん中では進と本多がもみ合っている。進は高齢とはいえ、まだまだ腕力はある。本多は相当な抵抗にあっている。黒い上衣の襟ぐりを引き回され、破かれた。背中の刺青があらわになる。
稲田九蔵新助が描かれている。英名二十八衆句の中で最も残酷と言われる、吊るした女を日本刀で斬り刻んでいる浮世絵が、彫られて三十年経った今も色鮮やかに浮かぶ。
向島は右足で勇の背中を踏みつけ、右手で頭部を渓流に押し付ける。勇は川の中の石を掴んで投げつけたり、体を回転させようとしたりして、何度も水面から顔を上げようとする。
「水本、助けろ」
河原で折り畳み椅子に座り、スマホをずっと触っている水本は、一瞥しただけだ。勇は抵抗する力が徐々に弱まっていく。
「後悔するぞ、コオロギ」
息も絶え絶えに川面に顔を出す。
「お前は普通の男やからな」
向島はカッとなって、右手に一層力を込めて矢島の頭を川底に押さえつけた。
向島は、普通の男になれなかったのだ。菊美と愛を育んでいたとき最も欲していた『普通』、それを手に入れられなかったのに、死に際に矢島が正反対のことを口にした意味に、向島は少なからず動揺していた。
なにを意味する言葉だったのか、訊くべきだったのかもしれない。向島が冷静さを取り戻したときにはもう、矢島勇は死んでいた。
本多は渓流の真ん中でまだ手こずっていた。いまや六十七歳と高齢者になった本多は衰えている。
向島は勇の死体の首根っこを右手で掴み、渓流の中を引きずりながら、本多と進の高齢者同士がもみ合う場に近づいて行った。
「コオロギ、兄貴になにしたんやッ」
進までもが古い名前を使う。当時の恩を思い出させようとしているのかもしれない。
だが伝統ある日本一の任侠集団、吉竹組を混乱させ分裂させた責任は重い。豊原の遺書を信じず、劣勢なのにいつまでも意地を張って男を見せなかった泉もまた、双子に並ぶ諸悪の根源だ。代理戦争と分裂抗争を引き起こし、社会に大きな迷惑をかけた。
和解せぬのなら、みな殺す。
向島ひとりで三人の暗殺はできても、その下にごまんと蠢くヤクザたちを混乱なく配下に置き、ひとりで組織を統一することは不可能だ。
決死十四人衆の力が必要だった。
向島が海竜を殺害し、本家吉竹組の若頭として盃を交わしたあの瞬間から、この絵図が浮かんでいた。
すぐさま地下に潜り、矢島の双子のご機嫌を窺いながら、全国に散らばっている決死十四人衆とコンタクトを取った。東日本を制覇したあと、それぞれの組に戻った十四人は、本家吉竹組側についた者が八人、関東吉竹組に回った者が四人いた。残りの一人、山形は誰とも盃を交わさず、金でしか動かない。本家だろうが関東だろうがどこの組の依頼も引き受ける自由人だ。
決死十四人衆のリーダーだった本多は、関東吉竹組の若頭になっていた。向島の誘いにすぐさま乗った。
「決死十四人衆が吉竹組を統一するのか。おもしろいじゃないか」
向島は関西にいる間に本家側についた八人とコンタクトを取り、抗争を終結させるために親三人を殺害する計画を持ち掛けた。こちらも異論は出なかった。そもそも矢島の双子から倍の上納金をせしめられ苦しんでいた。誰かが暗殺を言い出すのを待っていた節すらある。決死十四人衆の再集結という言葉に血を沸き立たせる者ばかりだった。
難しいと思われた関東吉竹組側についた三人の説得は、本多が行った。金で釣ったようだ。泉が死ねば組が持っている都心の不動産が手に入る。都心の地価が高騰しているいま、意地っ張りの親分の命など軽い。
東京に戻り、ひそかに本多らと接触して策を練っている間、矢島の双子の疑心暗鬼を買い、海竜の死体を晒される混乱があった。そのせいで町田双蛇会を刺激してしまい、向島一家の内ゲバにまで発展した。
信頼する千住と倉敷にはこの計画を話していた。山城は電話好きで口が軽いから言わなかった。千住が死に、山城がのさばって倉敷と対立し、暴走を許してしまった。決死十四人衆の再結集を水面下で進めながら、向島一家の内ゲバを抑えることはできなかった。
不幸中の幸いだったのは、警視庁も大阪府警も町田双蛇会と向島一家の抗争にかかりきりで、水面下の向島の動きに気がつかなかったことだろう。
向島は矢島勇の死体を引きずったまま、石を拾った。暴れる進に本多がヘッドロックをかけている。向島は進の顔面を石で殴打した。鼻の骨が砕け、皮膚が破れて血が噴き出し、頭蓋骨がずれる音がする。
進は意識を失ったが、まだ心臓が動いている。
「すまんな。俺も年を取った」
本多が進の首根っこを掴み、渓流に沈めた。ほんの少し手足の抵抗があったが、ようやく進は溺死した。本多とそろって双子の遺体を渓流に引きずり、水深のあるエメラルドグリーン色の川面へ遺体を流した。二人の遺体はぶつかったり離れたりを繰り返し、やがて激流に飲まれていった。勇の釣り用ジャケットが脱げて、川岸の木の枝に引っかかる。この先の激流で全ての衣類がはぎ取られ、二人が発見されるころにはほとんど裸で傷だらけになっていることだろう。
警察は顔面や頭部の殴打が人的なものと断定できないはずだ。岩場には釣り道具が残され、靴で滑った跡も残っている。自分たちの痕跡を消すことは慣れている。
勇が岩場から足を滑らせて渓流に落ち、進が助けようとして二人そろって溺れ死んだ。このシナリオでしか警察は証拠を集められない。本多と共に濡れた服を脱ぎながら、川岸に戻った。
「ようやった。ご苦労」
水本がスマホをいじくりながら迎え入れた。暑かったのか、彼もまた上半身裸になっていた。彼の背中には由留木素玄が彫られている。
斬り落とした青白い生首を睨みつけ佇む侍の姿を描いた刺青は、血なまぐささよりも冷酷さが際立つ。
水本は矢島の双子の死体が激流を流れていく様を撮影している。十分でメッセージが消えるテレグラムを使い、本家吉竹組の幹部に一斉送信している。矢島の双子に最も強い忠誠を誓っていた矢島総業にも十四人衆だった男が一人いる。矢島総業の現在の組長、加藤だ。笠森於仙の刺青が入っている、よく日に焼けた男だ。
菊美と一度面識があったからか、向島のその後を誰よりも心配してくれた。だが彼こそが矢島の双子と付き合いが古く、彼の懐柔が最も難しいと考えられた。意外や意外、矢島の双子を「老害」と切り捨て誰よりも忌み嫌っていた。向島が絵図を描いた統一後の吉竹組の新体制を聞くや、目を輝かせて計画に乗ってきた。
乗り気なやつほど危険だ。双子を殺害後、すぐに矢島総業には乗り込むべきだった。
矢島総業の本部は虎伏神社にあるが、幹部らは紀ノ川土建というフロント企業に出入りしている。水本の運転で矢島所有のアルファードに乗り、紀ノ川土建のある紀ノ川の中州への橋を渡った。三十年ぶりだった。
あの時は隣に菊美がいて、ベビーカーの中には誓がいた。ハマーがまだ車庫に停めてあった。そこだけ時が止まっているようだった。
向島は紀ノ川土建の専務でもある加藤に手厚く迎え入れられた。彼は決死十四人衆の連帯を示すためだろうか、上半身裸で腹にサラシを巻き、笠森於仙の刺青を誇示するかのような格好だった。
「よう、コオロギ」
加藤は意味ありげに声をかけた。
「疲れただろう。よくやった」
肩を抱かれる。配下の者たちは壁際に一列に立ち、代紋の入ったジャージを着て並ばされていた。
「今後も死体遺棄はまかせろや。最近は水害が多くて、しょっちゅう山が崩れる。法面工事のとき、一緒に固めてまうからな」
先日は、海竜の殺人を目撃し府警にチンコロした料理人を始末してくれた。
「いつもありがとう。手間をかけた」
翌日の昼過ぎ、水本が運転するアルファードで天王寺に入った。助手席に加藤が座り、向島と本多は敢えて二列目を避け、最後尾の三列目のシートに身を沈めていた。大阪府警の内偵カメラには映らない。
吉竹組のガレージに入るなり、中から若い衆が飛び出してきた。みな向島を前に困惑している様子だ。このクルマにはいつも本家の双子が乗っていたからだろう。
「親父、こちらです」
水本が率先して頭を下げ、奥の院に向島を誘導した。若い衆は呆気に取られている。本多はついこの間まで敵対する関東吉竹組の幹部だったが、我が物顔で本家吉竹組の敷居をまたぐ。戸惑いがちの若い衆の頭を次々とはたいていく。
「体制が変わる。新しい親分に頭を下げろ。さもないと顔面を剥がされるぞ」
三十年前から本多は豪放磊落な性格だった。本多がスマホをいじり、「ほれ」と向島に一枚の画像を見せた。フィリピン海を滑走する豪華クルーザーの広々とした甲板が血に染まっている。サングラスをかけた山形が笑顔で泉の頭部を遺棄するところだった。右手で髪をわし掴みにし、左手でブイサインまでしている。背景に陸も他の船も見えない。燦然と輝く太陽と、海と空の青、そして鮮血のコントラストが残酷だ。
「でかいクルーザーだな。泉の頭でフットサルができそうなくらい広い」
本多と加藤が笑い合う。水本が向島の肩を叩いた。
「ようやく終わったな、コオロギ」
奥の院は明日の襲名披露に向けて準備が整っていた。襖を全て取っ払い、二十畳の和室四つをつなげた大広間の壁という壁に、直参の名前を書いた半紙が張り出されている。全てに『子』の肩書が記されていた。祭壇には今上天皇をはじめ、二人の神の名が記され、榊や家紋が飾られている。柱には赤字で『寿』と大きく書かれた半紙が貼り付けられ、畳の上の赤い敷布に鋲がとめられている。親が座る笹の紋が入った座布団が、まっさらな白布で祭壇と結ばれる。
『親 向島春刀』
若い衆が別の座布団を出し、縁側に促した。
「よい眺めですね、親父。今日はこちらにお座りください。いまお茶を持ってきます」
向島は差し出された座布団に胡坐をかき、明日、自分が座ることになる奥の院の上座を眺める。
ここまで上り詰めたという感慨や達成感はなかった。三年前に分裂した伝統ある吉竹組を、ようやく統一できる安堵感が、ひと握りあるだけだった。
いまはただ首の後ろが寒い。
明日にも正式に向島春刀が吉竹組六代目組長の名乗りを上げることになる。立会人の目途はついているが、吉竹組は合わせて三百以上の組がピラミッドを作っているのだ。一万人近い組員がいる。
決死十四人衆の力を結集し、暴力で組織を統一した。離反者が出ないとは限らない。矢島や泉に恩のある者が、いつ向島の寝首をかくかもしれない。
若頭、総本部長、若頭補佐をはじめとする幹部の名前も張り出されていた。幹部は全員、決死十四人衆で固めた。最年少で発足当時は最も足手まといだった自分が、神輿に担ぎあげられた。向島が統一の絵図を描いた張本人だからというのもあるが、なにより、神輿は軽い方がいいという十四人衆の思惑もあるだろう。
権力闘争は再び始まったばかりなのだ。
インターホンの音が聞こえてきた。若い衆が困惑した様子で水本になにか耳打ちしている。水本の表情が変わった。何事かと本多や加藤が目を光らせる中、水本が向島に耳打ちした。
「桜庭誓や」
なんというタイミングで来てくれたか。
「ひとりや。ジーパン穿いとるから、プライベートやろな」
娘は、まるで友達の家を訪ねるような気軽さでやって来てしまう。
「誰が来たんだ」
本多が迫る。誓と知るや、呆れたような顔をした。
「なんで警視庁が来るんだ」
水本は誓と向島の親子関係を知っているが、本多は知らない。水本が向島と本多に言う。
「いまお前らが出るのはまずいだろう」
誓をはじめとする警視庁は、関東吉竹組が解散し、幹部だった本多が六代目向島春刀体制になった吉竹組の総本部長になることを、知る由もない。関東吉竹組の人間がここにいると知ったら大騒ぎするはずだ。
「あの娘のことだ、若い衆では対応しきれんやろ。俺が追っ払ってくるか」
水本が言った。
「いや」
向島は首を横に振り、立ち上がる。
「私が対応する」
分裂抗争は終わったのだ。明日の襲名を前に向島が表に出るときだった。
向島は引き戸の外へ出た。敷石を渡る。門扉の閂を抜き、手動で扉を開けた。
誓は向島を見るなり二度見した。たじろいで一歩下がる。目を見開いた時の顔は、赤ん坊のときにいないいないばあをしてびっくりした時の顔と変わらない。菊美の面影もある。
「なにしに来た」
「いつからここにいたの」
向島は答えなかった。
「何度もメールしたじゃない」
読んだ。最初はいとおしかったが、途中からはうっとうしくもあった。口うるさかった菊美にそっくりで、結局、いとおしい。
「元気そうで、よかったけど……」
誓は向島を前に動揺している。頭が真っ白になっている様子だった。本家吉竹組でなにか異変を察知してここへ来たわけでも、向島を探しに来たわけでもないようだ。誰と通話していたのか、スマホを握り締めて汗ばんでいた。
「なにしに来た」
向島はもう一度、尋ねた。
「石垣島で泉が……」
言いかけた誓の表情が変わる。なにかを嗅ぎつけたかのように小鼻がひくりと動いた。
「中でなにかあったの」
「なにもない」
「矢島の双子は」
向島は答えなかった。誓は逡巡したのち、こう切り出す。
「お母さんのことを聞きに来た。矢島の双子が詳しく知っているようだったから」
彼女は捜査と生い立ちのはざまで揺れている様子だ。不安定な少女のような表情をしていたのに、一瞬でまた、刑事の顔に戻る。その瞳の鋭さは、血縁がないくせに桜庭功そっくりだった。泉の行方不明を知っているふうなのに、とりあえずは情報をひっこめた。この一年ほどで彼女はマル暴刑事としてまたひとつヤクザとやり合う術を身に着けたようだ。
執念深かった桜庭功を彷彿とさせる。彼はマル暴人生の晩年を決死十四人衆の解明に注いでいた。叶わず、最終的にはメンツを重んじる大阪府警にやってきたことを否定され、悔しさのあまり憤死したのだとヤクザの間では有名だった。
今度は娘の誓が、決死十四人衆に噛みつくのだろうか。彼女はいま、なにを考えたか上目遣いになっていた。
「いつかのように入れてよ」
ずるいなと思う。向島の前で娘と刑事をうまく使い分ける。
「中に入らせて、お願い」
「入れない」
誓は手を前にもじもじと組み、娘らしい仕草をするが、目にまた刑事の光が宿る。
「抗争は終わったのよね」
「終わった」
「あなたはこれからどうするの」
向島は言わなかった。
「もう帰りなさい」
今度、誓は菊美の顔になった。目や鼻は自分に似たが、輪郭と口が菊美と全く同じだ。
「お願い」
「だめだ」
誓は渋々といった様子で、踵を返した。背は菊美よりずっと高いが、尻の形がそっくりだった。自分と、自分が唯一愛した女性の遺伝子がまぜこぜになった無二の存在に、向島は目を細める。
振り返り、誓は尋ねる。
「ねえ。向島一家をどうするの」
向島一家は倉敷が四代目を襲名する予定だ。向島が六代目吉竹組組長の名乗りを上げたら、天王寺の総本部も引き払うつもりだった。
この総本部は広すぎる。建物だけで百坪あり、庭師に払う管理料など年間二千万円も維持費がかかっていた。警備のために全国からやって来てただ働きさせられる直参や子分たちの負担も大きい。矢島の双子は上納金を釣り上げて庭と屋敷を維持しようとしていたが、もうそんな時代ではない。
曾根崎へ吉竹組の拠点をうつすつもりだった。ヤクザのシノギが先細り、法律で縛られ続ける以上、拡大路線には走らない。組織の効率化を図り、総本部の規模を小さくする。枝の組の負担を減らし、弱きを助け悪をくじく任侠の伝統を後世に残す。
曾根崎の旧黒田邸が手付かずで残っている。黒田が病死したあと、向島が不動産屋に手を回して居残っていた姐さんを追い出し、土地と建物を手に入れている。
いつかあの因縁の土地に自分の城を建てて菊美の慟哭を慰めてやりたかった。
向島のそんな夢を娘に語ることはできないが、彼女の血の中に確かに存在する菊美に語ってきかせるつもりで、ただじっと、娘の顔を見つめる。
「もう帰らんか。誓は刑事やろ。長くいる場所やないで」
封印していた関西弁が口を出た。誓は変な顔はひとつもせず、受け入れた。
「せやけど……。せやな。ほな帰るわ」
娘は再び踵を返そうとした。
「お父さん」
娘はたった数歩で立ち止まり、涙目で振り返った。彼女はとても悔しそうだった。
「また誰か殺したやろ」
向島は動揺した。また菊美に泣かれた気がしたのだ。