菊の独白 五
平成六年度の入学式を迎えた。私は担任を持たされず、一年生と三年生の現代文の担当を任された。クラス担任はないから暇だろうし、文学に詳しいなら、と演劇部の顧問を押し付けられた。演劇の経験などないから、体育館の舞台で発声練習している学生たちを見てぼーっと突っ立っているしかない。
三年生が部を仕切っている。十八時前になると「ほな今日は終わろか」と下級生を舞台中央に集めた。
「最後に、顧問の桃川先生からひとこと」
話を振られて困り果てる。
「なにか困ったことあったら言うてね。先生あまり詳しくないんやけど」
三年生の部長がフォローする。
「僕らは先生が来てくれるだけで盛り上がりますよ。桃川先生の桃尻を拝めるだけで元気もりもり、股間もりもり」
みんな大笑いしていた。昨年度の陰湿ないじめとは違い、明るくて悪気がないだけに余計に質が悪い。私は気分が悪くなり、トイレで吐いてしまった。
自宅に帰り、胸やけしたまま洗濯物を取り込む。また下着だけがなくなっていた。
下着泥棒は二月に大阪府警の桜庭功が逮捕していたはずだ。もう釈放されてしまったのだろうか。警察に確かめたいが、また桜庭が出しゃばってくるに違いない。
玄関扉のドアノブに鍵が差し込まれる音がした。扉が開く。
「あかん、誰ッ」
私は悲鳴を上げた。光沢ある黒いスーツに髪をジェルで逆立てたコオロギだった。黒いシャツに白いネクタイを下げてサングラスをかけている。
「なんや、こっちがびっくりするで」
私は心の底から安堵し、四か月ぶりに彼の胸に飛び込んだ。
ベッドに辿り着けないまま互いにむさぼるように体を求め合う。彼は大人のように、「落ち着かんか」と欲しがる私をいなす。
「たまにしか連絡くれへんし、住所も電話番号もわからへん。私、都合のいい女にされたんかと思ったで」
久しぶりに体を重ねた後、私はコオロギの背中を叩いた。彼は下半身は真っ裸なのにシャツを脱ぐのを嫌がった。刺青を見せたくないのだろう。
「あほか、ドラマの見過ぎや」
去年、『都合のいい女』というドラマが流行っていた。
どこからか聞き覚えのない電話の音が鳴った。コオロギはくわえたばこのまま面倒そうにスポーツバッグの中を探った。電話の子機みたいな受話器を取り出し、アンテナを伸ばして通話に出た。携帯電話だ。
最近、北新地で金持ちそうな人が使っている姿を見たことがある。ほとんどの人がポケベルを愛用している中で、携帯電話を使っている人はイケイケすぎて引いてしまう。
コオロギが通話を切った。
「携帯電話、持っとるやん」
「仕事用や。番号は教えられん。教えたらかけまくるやろ。ベルも入れまくってよ」
額をこづかれた。いつの間にか先生と生徒だった立場が逆転したようだった。コオロギはとても大人びていた。四か月で二十年くらい年を食ったように見える。
「今日帰ってくるなら、言うてよ。ごちそう用意しとくのに」
「いや、八時に親分のところへ挨拶にいかなあかん」
もう夜の七時だった。
「挨拶が終わったら、ここに戻ってな」
「親分次第や。久しぶりやし、仕事の報告もせなあかんし。今日は新世界で約日の盆があるさかい、お供もせな」
「何時になってもええから、帰ってきてよ」
「せやから、わからん」
コオロギは丁寧に髪形を整え「ほな」と出て行ってしまった。荷物は置いたままなので、戻ってくる意思はあるようだ。
私はいけないと思いつつも彼のスポーツバッグを探ってしまった。洗面用具や着替えの他、ブランドもののジャージもあった。ルイ・ヴィトンのセカンドバッグには夜の街の女たちの名刺が大量に入っている。一枚、血染めの名刺があった。本多義之とあった。本多という人を殺したのだろうか。
実話系雑誌が丸まって入っていた。表紙には時間か電話番号か、数字のメモが書いてある。中を捲ると、新宿区歌舞伎町の住所なども余白にメモされてあった。
他には未使用の黒いごみ袋や、タグがついたままの衣類も入っていた。バッグの底板の下から手ぬぐいに包まれた白木の匕首が出てきた。持ち手に幾重にもシミがついている。
折れ曲がり、ボロボロになった一枚の写真が出てきた。隠し撮りしたものだろうか。パンチパーマの男がゴルフをしている。裏にメモがしてあった。コオロギの字だ。私が指導したとおりの美しい字だった。
『平成六年三月二十日、済』
明け方、コオロギはようやく私の部屋に帰ってきた。抜き足差し足でシャワーを浴び、水を飲んでいる。気配はとても冷たく残酷なのに、小さなシングルベッドの中に滑り込むときはとても優しかった。
「起こしてしもた」
「待ち遠しくて寝られんかった。お帰り」
向き直ろうとしたが、ぎゅうと背中から抱きしめられる。彼の大きさで私の存在は押しつぶされかけていた。コオロギは長いため息をついた。酒臭い。
「だいぶ飲まされたの。未成年やのに」
私は下品な冗談を無邪気に言った演劇部の部長を思い出した。彼とコオロギは同い年なのだ。コオロギが本当に本当に、かわいそうだった。
「自分の年齢なんか、忘れてしもた」
コオロギは私を抱きしめたまま、私の後頭部に頬をつけて、かすかに震えていた。
私は六時に起床したがコオロギは起きなかった。よほど疲れたのか、安心しきっているのか、寝顔は少年のようにもろい。彼がダイニングの椅子にかけたジャケットとスラックスをハンガーにかけた。ネクタイの皺を丁寧にのばした。彼の革靴は私のパンプスの倍くらいの大きさがありそうだ。黒光りしていて、いかつい。
「もう行くんか」
ベッドから声がする。
「うん。今日は部活がないから早いで」
「おう。はよ帰ってきてや」
自宅に帰ったらコオロギはなぜか腹を立てていた。朝、ベランダに干した洗濯物が生乾きのまま床に放り投げてある。
「なんで外に干していったんや」
「部屋干ししたら臭くなるやん」
「下着を取ってくれと下着ドロを挑発しているようなもんや」
「盗っていくやつやなくて、私が悪いんか。しかも今日はあんたの下着もあったやんか。男物の衣類も干しておけば、抑止力になるって桜庭刑事が言うとった」
「桜庭の名前を出すな、うっとうしい」
初めて怒鳴られた。こんなに気性の荒い人だっただろうか。
「今度、乾燥機でも買うてやるわ」
「賃貸アパートには取り付けられんやろ」
コオロギは上着を羽織って出ていってしまった。私はひとりでスーパーに行き、夕食の買い物をした。交番の前を通るとき、小走りになった。
二十二時過ぎにようやくコオロギは帰ってきた。「刺身かいな」と上機嫌でダイニングに座ったが、まぐろを口にすると途端に機嫌が悪くなった。
「これどこで買うたん」
「いつものとこやで、駅前の」
「東京はこんな生臭いもん売ってへんで。築地直送のもんしか食わんかったからな」
「ほなら週末、黒門で食べ歩きでもしよか」
「週末にはまた東京に戻らなあかん」
「そうやったん。悲しいわ」
「悲しい言うな。行きにくくなるやろ。仕事やのに」
私はいよいよ腹が立って箸を置いた。
「あんた、なんなん」
コオロギは驚いた様子で、私を見つめた。
「急に帰ってきたと思たら自分勝手なことばっかり言って、なにが気に食わんのか知らんけど、なんで私につっかかってくんの」
「すまん。そんなつもりやなかったんや。ほんま、ごめんな」
上目遣いに許しを乞うてくる。
「東京の仕事、辛いんちゃうの」
「楽しいで」
コオロギは視線を逸らし、テレビを見ながらたくあんをぼりぼり噛んだ。洗い物をしてくれたが、風呂上りに私が洗濯物を畳んでいるとなにかのスイッチが入って、また機嫌が悪くなった。話しかけてもぶっきらぼうな返事しかなく、目も合わせない。
「もう寝よか」
深夜に明かりを消すと、猛獣のように私に襲い掛かってくる。二時間経っても射精に至らず、私は身も心も擦り切れた。
「痛いで、もう無理や」
「がまんせえ。女は黙って足を開いておくだけやろ」
私はコオロギの頬をはたいて、体をベッドから蹴り落とした。コオロギだけはこんなことを言わないと思っていたから、ショックだった。コオロギは憤慨して出ていったが、翌日には小さなアタッシェケースを持って帰ってきた。機嫌を窺うように私に中身を見せた。ぎっしり一万円札が詰まっていた。銀行の帯封がついたままだ。
「奥さん、給料やで。三か月分、前払いしてもろた。預かっといてくれるか」
「いやや。怖いわ」
「金の管理はヤクザの女の仕事やで。好きに使ってええし」
コオロギは札束を私に押し付けた。
「ブランドもんは嫌いか。阪急でパーッと好きなもん買うてきたらええやん」
「いらんよ、別に」
「ほな金貯めてマンションでも買うか。キタもミナミも見下ろせる高層マンションの最上階とかな。そこで二人で暮らすんや。子供は四人くらいほしいな」
コオロギは上機嫌に私との将来を語った。私は不安しかないのに、彼は将来に自信があるようだった。
週末は黒田のゴルフに付き合わねばならないとかで、彼は阪神デパートのスポーツショップでゴルフ用品を買いあさり、早朝から出かけていった。ゴルフという言葉であの写真のことを思い出した。私はスポーツバッグの底にあった、『済』と記された誰かの写真をこっそり持ち出し、百万円を封筒に入れ、心斎橋にある探偵事務所を訪れた。
探偵に写真を見せて、この人物が誰なのか調べてほしいと頼んだ。
「どのあたりに住んでおるとか、よく出没する飲食店とか、地域は絞れますか」
「東京の可能性が高いんですが」
「東京支社に依頼をかけますね。ちょっと上乗せさしてもらいます」
「お金は、いくらでも」
私は着手金として帯封が付いたままの百万円を出した。探偵は飛び上がった。
「これは奥さん、もらいすぎですわ。人探しの場合の相場はこんくらいです」
料金表を見せられた。私はまず着手金の五万円を支払った。探偵はカラーコピー機で写真の両面をコピーした。
「裏のメモ書きの意味はなんでしょう」
「ようわからんので、それも含めて調べてもらえますか」
探偵は深刻そうに切り出す。
「うちは守秘義務がありますから、犯罪を突き止めたとしても、警察には言いません。まずは信頼してくださって、教えてほしいんです。お姉さん、ヤクザ関係の方でしょう」
私はびくりと肩を震わせた。
「この商売していると、そっち関係が多いんです。女性は不安になりますからね。極道の旦那がなにをしとるか。町でステゴロ程度ならまだしも、人を殺してへんのか、とかね」
日曜日の早朝、品川ナンバーのベンツAクラスが迎えに来て、コオロギは東京に行った。今回は二か月くらいで戻れるという。アタッシェケースの大金も「使わんのやろ」とコオロギが持って行った。
一週間後、探偵から連絡が入った。コオロギが持っていた写真の男は東京の某組のヤクザで、三月二十日の早朝にジョギングに出たまま行方が分からなくなっているという。
私はコオロギと別れるべきだった。電話がかかってきて彼の甘えた声を聞くと、つい別れ話を言いそびれる。ぐだぐだと迷っているうちに、私は学校から依願退職を迫られた。反社会的勢力と付き合いがあるというタレコミがあったらしい。私はコオロギとしょっちゅうキタの街をうろついていたから、学生や保護者にその姿を目撃されたらクビになるだろうな、とは思っていた。私はさっさと荷物をまとめて学校を去った。ついでに天満のアパートも解約し実家に帰ることにした。コオロギとも別れる。こんな時に限ってコオロギから全く連絡がない。私は待つことにも疲れ果て、コオロギと連絡がつかないまま、電話もポケベルも解約した。
吹田市の千里ニュータウンにある実家の二階には、かつて私が使っていた六畳の子供部屋がある。私はそこで朝からゴロゴロとテレビを見て、昼は冷凍食品をチンして食べ、ワイドショーを見た。夜はドラマを見てのんびり過ごす。
一か月が経ち、夜の食卓で母に小言を言われる。
「今日のハローワークはどうやったの」
「今度面接や。じっくり探しとるよ」
本当はハローワークには行っておらず、外出しても適当に暇つぶしをしていただけだ。全てをリセットした私はとても疲れていて、どれだけ寝ても足りない。常にけだるくてやる気もでないし食欲もない。ポテトチップスだけはおいしくて夜通し食べていた。
「うちにいる間は家事くらい手伝うてよ」
「はいはい。ご飯盛るわ」
私は炊けたばかりの炊飯器を開けた。においが立ちのぼってきた途端、強烈に気持ち悪くなった。
「お前、ド迫力やな」
父親は私をうざったそうに見た。
「腹が出て。トドかよ」
「年頃の娘に太ったなんて言うたらあかんで」
「なにが年頃や。ただの行き遅れが」
風呂上りに体重計に乗って驚いた。五キロも太っている。翌朝はどうしてか朝からおくびが止まらず、私は国道沿いにあるドラッグストアに向かい、胸やけを抑える薬を探した。男に肩を叩かれる。
「その節は息子がお世話になりまして」
黒田一令だ。白いスーツ姿で、若い衆を連れているから、ドラッグストアの中でも目立っていた。大阪市内ならまだしも、住宅地の吹田市でヤクザを見かけることは殆どない。店員も怯えた様子でこちらを見ている。
「どないしたんですか。こんなところで」
コオロギのことだろう。私がなにも言わずに消えたので怒っているのだ。親分に頼んで行方を探させているのか。
私の胸に広がったのは恐怖ではなく、悦びだった。コオロギに会いたい。黒田が間を取り持ってくれるのだろうか。
実はコオロギに捜してもらうことを期待して自分は姿を消したのだと、自分のずるくてバカな面を再認識した。殺人を犯すことで心が不安定になってしまったコオロギの変わらぬ愛情を、確かめようとしていた。誰か殺すなら死に物狂いで私を愛してほしかった。
「ご相談がありましてね、お手数ですが、クルマに乗ってもらえませんか」
「私も黒田さんとお話ししたいと思とったんです。健優君は元気ですか」
「その件で困り果ててますねん」
黒田は笑顔だったが、子分達にはとても厳しい。表情が瞬時に変わる。その二面性が恐ろしかった。
私は、コオロギが手入れしていたベンツSクラスの後部座席に乗った。コオロギが車内でゲームばかりしていた日のことを懐かしく思ったが、全く彼の話にならなかった。
「実はね、健優のやつ、予備校は無断欠席で家にもおらん。毎日どこをほっつき歩いとるのか」
「ゲームセンターでも行っとったんですかね。最近の若い子はカラオケボックスも躊躇なく行きますからね」
「いやそれもまた違うんですがね。まあ、自宅で説明させてもらいます」
「話というのは健優君のことだけですか」
「他になにがありますか」
黒田は凄味をきかせ私を見た。私はコオロギのことを切り出せなくなった。
ベンツは名神と国道を乗り継ぎ、一時間もかからず大阪市内に入った。新大阪駅や梅田駅界隈の高層ビルの間を抜け、やがて曾根崎に入る。お初天神の森を見たとき、コオロギと初詣した時のことを思い出し、胸が苦しくなった。あの時がいちばん幸せだった。もうあの幸せは戻らないのかもしれない。私が耐えればよかったのに、彼を試したくて手放してしまった。
「先生。そういや、学校を辞めたんですね」
調べたのか。私に用件があれば、学校に連絡するだろう。わざわざ黒田が千里ニュータウンのドラッグストアで私と接触した事実のおかしさに、今更ながら、気が付く。
私が学校をクビになった理由も知っているだろう。アパートも引き払い、いまどこにいてどんな生活を送っているのか、すでに下調べしてきたのだ。
「いま仕事してへんのなら、健優の家庭教師はどうです」
私は肩の力が抜けた。
「報酬ははずみます。月給百万円は出しますよ。場合によっては二百でも三百でも」
運転手の顔がニヤけたのが、ルームミラー越しに見えた。
「先にクルマの中で話しておきましょか。健優の下の世話もしてほしいんですわ」
一瞬、意味がわからなかった。
「あいつ、先生のことずっと片思いしておったの、知っとりますよね」
私は少しずつ、背筋が粟立っていった。
「受験勉強の失敗も先生のぷりぷりしたお尻のせいでっせ。そればっか考えよってセンズリこいて、ゴミ箱からティッシュがあふれてまんねや。予備校さぼってどこほっつき歩いとんのか殴って白状させたら、先生のアパートが見える公園におったと言うんです」
私は膝が震えていた。コオロギとの生活も、知っていたのか。
「先生は大胆な人や。夏の日は窓を開けっぱなしでコオロギにハメられまくっとったそうやないですか」
運転席と助手席にいるヤクザたちが卑猥に笑っている。
「コオロギとは別れたんやろ。私はね、愛し合う二人を微笑ましく見とったんです。口出しするつもりはなかったんですけどね」
「彼は、いまどこにおるんですか」
「先生と連絡つかんようになって、荒れまくっとりますよ。東京で必要以上に暴れるもんで、吉竹の親分も苦笑いですわ」
車内のヤクザたちが一斉に大笑いした。
「先生も人が悪い」
突然、黒田に太ももを撫でられた。
「教師やのに、未成年に手ぇだしよって。コオロギはまだ十七でっせ。毎晩淫らに絡んでからに」
黒田が私の足を卑猥に触り続けた。子分たちが次々と賛同する。
「先生、年下が好きならちょうどええやん」
「健優も落ち着きますわ。下着泥棒なんかせんと、目の前の惚れた女から剥ぎ取ればええんやから」
ベンツが曾根崎の豪邸に到着した。私は両腕を子分につかまれて抵抗する術もない。足は恐怖で固まってしまい、殆ど引きずられるようにして、家の中に連れ込まれた。ヤクザと関係するということはこういうことなのだ。息子が片思いしているからといって、ヤクザが堅気の女教師を拉致するはずがない。私はヤクザの共生者だったから、乱暴な目に遭わせてでも、黒田は息子の欲望をかなえようとする。桜庭が言った通りだ。
立派な日本庭園の脇を引きずられ、母屋の引き戸の先に身を放り投げられても、私はまだ、一縷の望みを捨てなかった。
コオロギが東京から駆けつけて、健優や黒田を日本刀で斬る。私はそれだけを願い、母屋の長廊下の突き当りにある、健優の部屋に押し込まれた。
健優は私の下着が敷き詰められたベッドに寝転がり、薄目をあけて自慰行為をしていた。私を見るや慌てて身を起こし陰部を隠す。黒田が入ってきて、「勉強もせんと、ばかもんが」と健優を殴った。
「ほれ。連れ来たで。ヤれよ。はよヤってすっきりして勉強せい」
私は男たちの足の間をすり抜けて、長廊下へ逃げ出した。お茶を運んできた母親らしき女性を突き飛ばして、玄関を飛び出す。門の前にはチンピラが五人もいる。引き返して、日本庭園の中に入った。石畳の急坂の下に茶屋と思しき小さな建物が見えた。私は足を踏み外して、一メートルの高さから坂を転げ落ちてしまった。
気が付いたとき、私は病室のベッドで寝かされていた。土で汚れた衣類が畳んで脇に置いてあった。
私は黒田家の庭園で足を滑らせたが、そこから先の記憶があいまいだった。
起き上がろうとしたが、おなかがピリッと痛んだ気がして、動けなくなった。
扉が開き大阪府警の桜庭功が入ってきた。
「先生。おかげんはどうですか」
「なんで刑事さんが」
「曾根崎の黒田の自宅で足を滑らせたそうですね。下腹部からえらい出血があったとかで、黒田の姐が救急車を呼んだそうです」
健優の母親が助けてくれたようだ。
「暴行された可能性もあるということで、ここの病院が府警に通報したんです。黒田のやつらはみんな否定しとりましたが」
「暴行は、されてません」
「黒田のところでなにがあったんです。先生は息子の住み込み家庭教師やと黒田は言い張っておるんですが、あなたの私物が全然ない。コオロギとはどうなったんです」
私は涙があふれてきた。桜庭には助けを求められない。コオロギが遠ざかってしまう。
桜庭は後退した額に手を当てながら、椅子に座り、私の枕元で言う。
「自分の体のこと、わかっとりますか」
深刻そうに言われた。
「先生、妊娠しとりますよ」