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第三章 和解(承前)


 藪と誓は今仲を伴い、向島警察署に顔を出した。
「名前を見るたびにイラっときそう」
 誓は『向島警察署』という銘板を見てつい毒を吐いた。
「そもそも向島一家の初代が向島という苗字なのもできすぎですよ。初代も養子縁組した口でしたっけ」
「いや、初代の向島昭雪は木更津の愚連隊だった。賭博場の警備をやっているうちに胴元にスカウトされて弟子入りした。自分の賭場を持ちたいと上京して、自分の苗字と同じ向島地区に根をおろしたんだ」
 昭和四、五十年代の話だ。この界隈はテキ屋が多くて博徒はおらず、参入しやすかったらしい。
『向島一家襲名披露銃乱射事件』と記された垂れ幕が捜査本部にかかっていた。
 現場も凶器も判然としている上、犯人は現在入院中ということで、事件の大きさのわりに初動体制は小規模だった。
 幹部が集う上座に情報が集約されている。出入りの刑事たちが戻ってきては報告を上げ、再び現場に向かう。上座には刑事課長と副署長の他、乗鞍と麻布署の刑事課長がいた。
 抗争の始まりは海竜将の顔面遺棄事件だ。体が流れ着いたのは隅田川の下流だから東京湾岸署管内となる。署はお台場にあるので本部から遠く不便だ。体の方の遺棄事件も麻布署で引き受けることになっていた。
 今回、報復によって発生した千住射殺事件は六本木の事件と繋がっていて、別々に捜査するわけにはいかない。どちらに本部を置くのか調整のために、麻布署の刑事課長と乗鞍が話し合いに来ているらしかった。
「捜査本部が落ち着くまで時間がかかりそうだね。私たちは先に向島一家の幹部連中に抗争指定が出たと警告に行こう」
「千住体制での若頭は山城の予定でした。山城はいま自宅ですか」
 山城は曳舟駅の目の前にある中古マンションに女と住んでいる。座敷遊びで知り合った向島地域の芸妓だ。
 今仲が遅れて戻ってきた。
「これから山城拳一の自宅へ警告に行く」
「山城はいま自宅におらんで」
 今仲が今朝のうちに様子を見にいったらしい。芸妓がゴミ捨てに出てきたところに出くわしたそうだ。
「今仲君、勝手に接触しないでほしい」
 藪が注意した。
「仕方ないですやん。偶然、居合わせてもうたんですから」
「芸妓の方から今仲さんに声をかけてきたの」
「そうですよ。警視庁に出向してきた府警の本家担当マル暴刑事ってことで、顔写真がわっと東京のヤクザ界隈にも広まったらしいですわ」
 藪は腕を組んだ。
「君のお披露目、早すぎたかもね」
「いずれにせよ、自宅にしばらく帰らんからと山城は当面の生活費も女に渡しとります」
「地下に潜ったということか」
「曳舟ボクシングジムに入り浸っておるらしいですわ」
「ならそっちに行くか」
 曳舟ボクシングジムにはエスの佐々岡雷神がいる。まだ二十歳の雷神が誓と他人のふりができるとは思えなかった。誓との関係が山城にバレたら、雷神の命が危ない。
「私は遠慮しときます」
 理由は聞いてほしくなかったのだが、今仲が「なんでや」と突っ込んでくる。
「エスがいます。彼を危険な目に遭わせたくないので」
「ボクサーか」
「さあ」
「俺は教えたやろうが」
 珍しく今仲が声を荒らげた。藪が「まあまあ」と今仲の腕を引く。
「誓ちゃん、蛇沼が搬送された病院へ行って医者から様子を尋ねてきて」
 上座で話し合いをしていた乗鞍がこちらに叫んだ。
「病院には行くな。蛇沼は三十分前に死んだ」
 これで死者が三名に増えた。

 誓は夜、レンタカー会社でプリウスを借りて曳舟ボクシングジムの向かいにあるスーパーマーケットの路肩に停車した。
 ガラス張りのジムだが、サンドバッグが邪魔してリングは見えづらい。
 リングの奥にオーナーの部屋や応接室がある。山城は名目上、オーナーから外されているので、応接室を使っていると聞いていた。誓はトートバッグから双眼鏡を出した。この場所から応接室は見えなかった。
 昼間、藪と今仲が曳舟ボクシングジムを訪ねたが、山城には接触できなかったそうだ。リングの先には踏み入れさせてもらえず、令状を持ってこいとオーナーに言われたらしい。
 山城は応接室に他の組幹部らと陣取り、町田双蛇会への報復の計画を練っていると思われるが、証拠がないと中に踏み込めない。
 現在、曳舟ボクシングジムの表玄関と裏口には内偵がついている。不審者の出入りや不審物の運搬があれば職務質問し、ブツが出れば万々歳だ。凶器準備集合罪で逮捕できる。向島一家の報復を封じることができるのだ。
 表玄関の自動扉から、アディダスの四十五リットル容量のリュックを背負った佐々岡雷神が出てきた。彼はいつも二十時頃まで練習する。二十一時から明け方まで歌舞伎町のガールズバーで黒服をやっている。午前中は睡眠し、午後からジムで汗を流す生活を送っていた。
 ボクサーは用具を買い替えたり遠征費用の工面をしたりで金がかかる。雷神は黒服で生計を立てていた。ベルトを奪取できればなんとかファイトマネーで食い繋げるだろうが、彼にはそこまでの実力も、スポンサーがつくほどの知名度もない。
 プリウスに向かって雷神が走ってきた。迎えに来ていることは連絡しておいた。
「誓さん、大変なことになってるじゃん」
 雷神は助手席に乗るなり、言った。
「抗争にならないようにがんばって俺は情報を流していたのに、防げなかったの」
 市民からの糾弾は辛い。
「ごめんなさい。完全に私の力不足よ」
「いや、誓さんを責めても仕方ないけど、千住さんは試合のときに差し入れを持ってきてくれたことがあるんだ。見た目は怖いけど優しい人だった。ライフルで蜂の巣なんて、ひどいよ」
 雷神の言い方は軽くて小学生みたいだった。
「バイトは二十一時からだっけ。ファミレスで軽くなにか食べようか」
「うん」
 江戸川橋のファミリーレストランに入った。一階は駐車場になっているが、照明が故障していて、エンジンを切ると真っ暗だった。雷神が運転席の誓にしがみついてくる。誓はアームレストを上げて、雷神の大きな体を包み背中をさすった。
「こわいよ」
「次の抗争は絶対に止める」
 雷神が誓のブラウスのボタンをはずし、胸元をまさぐる。乳首を吸い始めた。たまにこうやって不安がまさると誓の乳首を吸う。かなりの吸引力で乳首がひりひりする。我慢して雷神の髪を撫でた。
「山城さん、今日はジムに来たの」
「来てないよ」
「どこにいるか知ってる?」
「知らない。ネットニュースで千住さんの件を知ってすぐ電話したけど出ないし、メッセージにも既読がつかない」
 雷神のジャージのズボンが勃起ではちきれそうになっていた。乳首から口を離したと思ったら激しく唇を吸い始める。誓を軽々と持ち上げて太腿の上に乗せた。
「ダメだよ、今日は。もうすぐバイトでしょ。夕飯食べにいこう」
「夕飯いらない。誓さんが欲しい。怖いよ」
「雷神が狙われているわけじゃないよ」
「お願い挿れさせて。そしたら俺がんばるから。山城さんの居所を探すよ」
「そんなことしなくていい。危なすぎるから」
「挿れさせて、お願い」
 誓は雷神の手を振りほどいてプリウスの外に出た。衣服を整えながら、先にファミリーレストランに入る。雷神は食事の間中ひとことも口を利かず、ふてくされたままバイトに行った。

 曳舟を中心に墨田区界隈で山城の行方を捜す日々が続いた。もう一人の幹部、倉敷和成は自宅で大人しくしている。まだ四十代なのに、七十一歳にして精力的に動き回る山城とは対照的だった。
 被疑者死亡で書類送検の準備が進む中、誓は向島警察署の捜査本部に戻った。乗鞍が栄養ドリンク片手に上座で送検書類に印鑑を押しているところだった。
「お疲れ様です」
「うん。今日何日だっけ」
 日付を答えたが、朝か昼かもわからないようだ。
「夕方の四時ですよ」
 外はもう暗い。日付も、朝と夜の区別もつかないくらい、管理官の乗鞍は働き詰めのようだった。
「町田の方はどうなっていますか」
「会長の稲峰は詐欺罪で逮捕した。町田署内の留置場にいるから向島一家が報復することは不可能だ。残りの幹部三名の自宅に念のため警備をやっている。第七機動隊に出動してもらった」
 第七機動隊は府中市にある。
「七機は八王子双竜会の警備も担当していますよね」
 乗鞍は栄養ドリンクの瓶を叩きつけるようにデスクに置いて、弱音を吐いた。
「抗争指定を連発したらマル暴刑事はもっと楽になると思っていたよ」
 事務所を封じ、暴力団員に五人以上の行動を禁じるのだ。事実上、抗争させないように法律で縛るのだから、確かにそう思うだろう。
「逆だった。その法律を破っていないか終始見張る人員が更に必要だ。警視庁管内はこれで関東吉竹組、八王子双竜会、向島一家、町田双蛇会に抗争指定を出している。これ以上増えたらパンクする」
 町田署はパニック状態らしい。
「多摩西部屈指の繁華街を抱えているとはいえ、八王子ほど治安は悪くないし、八王子警察署ほどの人員もいない。曳舟のヤクザがカチコミに来たらどうしようと現場は震えあがっている」
「町田署にもマル暴はいるでしょうに、情けない」
「刑事組織犯罪対策課にいるのは殆どが強行犯係だ。マル暴はひとりだけだった」
 ベテランだが定年間近の痛風持ちらしい。通院で休暇を取りたがっているのをなんとか拝み倒し、現場に出てもらっている。
 乗鞍がいま印鑑を押している書類は、防弾チョッキや拳銃などを警視庁本部から町田署に貸与するための書類だった。これが必要である根拠を示すため、雑誌一冊分くらいの書類がつけられている。
「警察ってホント事務仕事が多いですよね。町田署に貸与するための書類を誰が何時間かけて作ったのか」
「俺が寝ないで作った」
 乗鞍は涙目になっている。
「抗争が始まったら、ヤクザは書類なしに、電話一本で銃器を仕入れるんでしょうね」
 いまごろ本家吉竹組から相当数の銃器が向島一家に流れているのだろうか。
「事実、これまで大人しかった町田双蛇会がM4カービンなどを持っていたし、潜伏先アジトの買収に二千万円も使っていた。関東吉竹組が仕切っているんでしょう」
 違法銃器をどのように手に入れたのか、金の流れも銃器薬物対策課が調べている。これも証拠がないと、関東吉竹組をつつくことができない。
「仕方がない。我々は公的機関だ。常に行動や決断に客観的な根拠を求められ、その経緯を記した公的書類を残さねばならない」
 今仲が捜査本部に飛び込んできた。右耳のガーゼが外れかけるほど焦っていた。
「管理官、府警から緊急連絡が入っとりますか」
 うなだれていた乗鞍は背筋を伸ばして立ち上がった。
「いや。何の話だ」
 同時に電話が鳴る。乗鞍は受話器をつかんだが、今仲に内容を促す。
「本家の双子が動き出しました」
「今度はなんだ」
「双子は和歌山の虎伏神社で生活しておるんですが、たったいま、和歌山から特急くろしおに乗車したそうです」
「特急くろしおがわからん。どこからどこへ向かう路線だ」
「京阪と南紀を結ぶ特急列車です。新大阪経由で東京に向かうようです」
 乗鞍は立ち上がっていたのに体を大きく震わせた。椅子が倒れる。
「なんだって、東京だ」
「僕のエスの情報です。東京行きの相談を昨夜になって突然し始めたとか」
「だからなんのために東京に来るッ」
「新大阪駅で新幹線に乗り換える際に、府警が一旦足止めし、行き先と要件を尋ねます。場合によっては和歌山に帰すつもりらしいです」
 乗鞍は受話器を上げた。やはり相手は大阪府警のようだ。乗鞍の対応は冷静だったが、目は血走っている。
「なにしに来るのよ、抗争真っただ中の東京に」
 誓は呟いた。今仲が腕時計を見る。
「特急くろしおはあと三十分も経たずに新大阪に停車する。話はそれからや」

 乗鞍ら幹部は一旦、桜田門の警視庁本部に戻った。抗争真っただ中の東京に本家吉竹組の組長二人がやってくるとなれば、要人警護に近い警備体制が必要となる。
 大阪府警が足止めしてくれてはいるが、矢島側は規制を守り、双子とボディガード二人の合計四人で連れ立っている。他の幹部八人は四人二組に分かれ、特急くろしおの別車両に乗っているという情報もあった。五人以上で集まると逮捕されるからだろうが、事前告知がないと警察側は慌てる。警察に移動を事前に告知しなくてはならないという規制まではない。
 双子は関東吉竹組のシマ、港区六本木には入れないが、上京しないように規制する手立てはない。
 幹部はどのような判断をするのか。誓は藪や今仲とともに警視庁本部の五階、暴力団対策課の大部屋のデスクで待機している。
 ひっきりなしに大阪府警から電話がかかってくるので、今仲は席に着いたり離れたりしている。
「全く関西で黙ってられないのかね、双子ちゃんたちは」
 藪がやれやれと首をかく。今仲がスマホを切りながら戻ってきた。
「特急くろしおが新大阪駅に到着。予想通り、双子一行が三組に分かれて新幹線口改札を通ろうとしたので、一二五五ヒトフタゴーゴー、改札口前で府警が足止めしとります」
「双子はなんて言ってるの」
「ディズニーランドに行くんやと言い張っておるらしいです」
「ふざけんな」
 誓は呆れ果てた。
「ギャグですわ。ほんまの目的は言わんでしょう」
「どうするのよ。押し問答になったら止める術はあるのか」
 藪は大阪府の暴力団排除条例の冊子を引っ張りだした。今仲はゆるりとデスクに座る。
「万が一のときのためにカードは持っとります」
 いまや暴力団の動きを封じる法律や条例はごまんとある。
「本家吉竹組の中部支部長が一か月前に名神高速で家族名義のETCカードを使用しとります。電子計算機使用詐欺容疑。これの共同正犯でいけるんちゃいますか」
 めちゃくちゃだが、万が一のとき警察はこういうカードを切ることができる。人権派が暴力団排除条例を問題視するのは、暴力団に対して権力の乱用が可能だからだろう。
「送検することは難しいだろうが、いったん逮捕してしまえば、身柄を四十八時間は拘束できるね」
「裁判所が認めてくれたら二十四時間ずつ延長が可能ですわ」
 裁判所次第だが、最長で二十日間は勾留できる。基本はそれまでに送検するが、先の事例ではおそらく起訴はできないだろう。
「最長で二十日間なら、都内の警備体制は整えられるかしらね」
 藪は少し安心したようだ。
「いま府警は新幹線が通る京都、滋賀、岐阜、愛知、静岡、神奈川、全ての県警本部に警備の通達を出しとるようです」
 通過中の新幹線車内で事件が起きればすぐに対処が必要だ。京都駅からは京都府警と滋賀県警が乗り込み、名古屋で下車する。そこから愛知県警と岐阜、静岡、神奈川県警が乗り込み、新横浜で交代だ。
「我々は新横浜で乗車、東京まで警備か」
 藪は肩を叩いた。
「向島一家と町田双蛇会の抗争を止めなきゃいけないのに、双子め、かき回しやがる」
 今仲が着信しているスマホを持ってフロアを出た。ディスプレイには『C』とあった。コックの略か。双子の専属料理人である情報提供者だろう。
 一歩遅れて、丸田が大阪府警から電話を受けた。今仲と全く同じ報告をみなにした。やはり今仲の方が一歩早く、詳細だ。
 今仲が戻ってきた。表情がこわばっている。
「なにかわかったの」
「双子の上京の本当の理由」
「ディズニーランドじゃなくて、としまえんだったりして」
 藪が揶揄した。
「としまえんはもうないですよ。ていうか黙って聞きましょう」
 誓は今仲を急かした。
「関東吉竹組の泉勝に直接会い、抗争の手打ちを申し出るつもりのようや」

 

(つづく)