菊の独白 三
アパートの部屋の扉が激しく叩かれた。日曜日の朝、日本刀特別展示販売も終わってしまったし、浮気をしていた彼氏とは別れたし、友達はみな夫の世話や子育てに忙しい。なんの予定もない私は、前髪を分厚くおろしたださい髪形にパジャマのまま、録画しておいたトレンディドラマを見ているところだった。
「いま出ます」
インターホンがあるのに、こんなふうにドアを激しく叩かれたら近所迷惑だ。ドアスコープを覗く。コオロギだ。私はすぐさまチェーンを外して扉を開けた。
「先生ッ」
コオロギは興奮状態だった。
「俺に勉強を教えてくれへんか」
「なに急に」
「勉強を教えてほしいんや。昼には親父を起こしに行かなあかん。あんまり時間がない」
隣に住む女性がうるさそうに見ていた。
「とにかく、入って」
「おおきに」
部屋の中に入ったコオロギは鼻をくんくんさせた。
「わ、甘いにおいがしよる」
「なんで私の住んどるとこ知っとんの」
「ヤクザはなんでも知っとる。ていうか先生、パジャマやんけ」
「あなたが来るなんて思わんもん」
「そうやな。ベル持っとるやろ。番号、交換せんか」
「ちょっと待って。着替えてくるから」
なんて一方的で性急なんだろうと思いながらも、私は脱衣所でモスグリーンのワンピースに着替えた。
コオロギはテレビの前のちゃぶ台にあぐらをかいていた。勢いがよかったわりに、いまはもじもじしている。
「コーヒーでも淹れよか。レーコー、ホット?」
「なんでもええわ」
私はアイスコーヒーを出し、メモ用紙にポケベルの番号を書いて渡した。自分のアドレス帳のページにコオロギのポケベルの番号を書いてもらったが、彼が書く数字は読みにくくい。ペンを握るように持っていた。
「持ち方、変やで」
「よう言われる」
勉強を教えてと言っていたが、コオロギにはペンの持ち方から教えなくてはならなそうだった。
「名前も書いてよ」
「コオロギでええか」
「本当にそれ以外の名前がないの」
「そうや」
書きかけたコオロギだが、途中でやめてしまった。
「先生、書いてくれ。下手やから恥ずかしい。わしは書き順も変やと言われるし」
私が『蟋蟀』と漢字で書いてみせたら、コオロギは「うひょー」と驚き、なぜか喜んでいた。彼の生い立ちを聞く。健優が言った通りだった。学校にも通ったことがないし、予防接種も受けたことがない。それでも風邪ひとつ引いたことないで、と威張っている。
「まずは役場で戸籍を作った方がええんちゃうの。名前がないなんて大変や」
「おもろいやん。千円札の人の本の、主人公みたいやろ」
「あれは猫やで」
戸籍がないことで困った経験がないのかもしれない。
「なんで勉強を教えてほしいと思ったん」
コオロギはまたもじもじする。たばこに火をつけた。
「まだ十七なんやろ」
やんわりとたばこを取り上げた。コオロギは困ったように私を見つめてくる。
「あかん?」
「あかん。法律で酒もたばこも二十歳からって決まっとるでしょ」
「わしは戸籍がないんやから、治外法権やろ」
「そない難しい言葉、知っとるの?」
「アニキがそう言うとった。ほら、でっかい指輪つけた」
ベンツSクラスの運転手だ。
「アニキはああ見えて高校は卒業しとるし、親父は大卒や。法律習っとったらしい。正直な、アニキや親父の会話が、さっぱりわからんときがあるんや。大卒の新入りなんか来ようもんなら外国語のように聞こえんで」
「ヤクザでも大卒がおるん」
「最近は増えてきとる。これからのヤクザは腕やなくてコレや」
指でお金のマークを作る。
「金を稼ぐヤクザがシマを大きくしていく時代なんやと。つまらんな」
コオロギはぼそっと愚痴をこぼした。
「大卒たちはな、なんでわしに話が通じへんのかと変な顔をする。面倒やからこれまでは聞き流すか、適当に相槌打つか、もめたら殴るか、それでええと思とったんやけど」
コオロギはジーンズの尻ポケットから『吾輩は猫である』の文庫本を出した。
「読んでくれたん」
「すまん、三ページで無理やった」
あれだけフリガナをふり、意味を書いても、やはり小学校さえ行かなかった青年には文字を追うことすら辛いらしかった。
「せやけどな、“名前はまだない”で話が通じた人がおった。うれしかったんや」
コオロギは目を輝かせた。
「物を知っとるというだけで、誰かと通じる。それがこんなうれしくて楽しいことなんやと、先生のおかげで気づけたんや」
私は感動してしまった。あぐらをかいていたコオロギが正座する。三つ指をそろえて私に頭をさげた。
「先生。わしに勉強を教えてくれ」
ためしにコオロギに五十音を書かせてみた。書き順がめちゃくちゃだった。足し算引き算はできたが、掛け算は怪しい。漢字は山と川くらいしか知らないが、『黒憂会』や『任侠』は書ける。
私はコオロギを連れて近所の本屋に出かけた。小学校二年生の算数のテキストや子供向けの国語辞書とノートも買い込んで、自宅に帰った。
その日は午前中にひらがなの書き順の練習をしただけで親分に呼び出され、コオロギは帰ってしまった。
コオロギは基本、親分のボディガードか、姐さんの買い物や掃除を手伝っているという。休日というものがなく、「休んでいい」と親分か姐さんが許可したときしか休めないらしかった。
翌日の夕方に194、『行くよ』とポケベルが入った。こちらの予定を聞くでもなく一方的なのは、集団行動を経験したことがないからだろうか。
「時間が余ったらここに飛んでくるわ」
夜になっていたので私は夕食を作ったが、食べることなく、コオロギは親分に呼び出されて飛んで帰っていった。
それから一週間、なんら音沙汰がなく、私も十七歳の青年に期待するほど愚かでもなく、なんとも思わなかった。十日後にまた194と唐突にポケベルが入ると、十秒後には扉が叩かれた。
「すまん、連絡するの忘れてしもて、下の公園の公衆電話からベルした」
「別にええけど、インターホン押してや。近所迷惑やから」
「ヤクザはインターホン押さんのや」
「なんで」
「怖がらせるためやろな」
「私を怖がらせてどうすんねん」
私はアイスコーヒーとテキストを用意しながら、噴き出した。
「先生はわしのこと、怖くないんか」
「あなたが私に乱暴する由縁がないやろ」
「ユエンってなんや」
「理由。もっと簡単な言葉でしゃべろか」
「ええで。覚えるから」
コオロギは単語帳を持っていた。
「淀川のオジキが大量にくれたんや。息子に買うたのにひとつも使わんから、と」
「ほなら、わざと難しい言葉いっぱい使うたるわ。ちょっと厠行ってくる」
立ち上がり、トイレに向かう。
「それは知っとる。親父がいまだにトイレを厠と言うんや」
コオロギの知識はかなり極道よりに傾いていた。兄貴分たちと任侠映画やVシネをよく見るらしい。ヤクザが好む実話系雑誌も、文字はわからずとも捲るので風俗関係の言葉も詳細に知っていた。
意欲が高いコオロギは驚くほどのスピードで知識を身につけていった。ひらがなの練習は自宅でもしているらしく、一週間かからずに美しい字を書くようになった。小学校二年生の漢字は十日で覚え、掛け算は二週間でマスターした。いまは二けたの掛け算ドリルにチャレンジしている。
私が出した宿題をコオロギはちゃんとこなしてから訪ねてきた。いつもは雑用を全てコオロギに押し付けていた親分や姐さんも、勉強している姿を見ると言いにくいらしい。身寄りのないコオロギを学校に通わせなかったという引け目があるのだろう。
コオロギに確認テストをさせている横で、彼が持ってきた実話系雑誌をめくった。ヘアヌード写真ばかりだが、ヤクザの記事などは興味深い。舎弟、直参、エンコなどの任侠用語をコオロギから教えてもらうこともあった。
「ねえ、この風俗レポに出てくる即尺ってなんなん」
コオロギがコーヒーを噴きだした。
「先生は知らんでええやつ」
「教えてや。知りたいわ」
「いや、ほんまに、先生がさせられることはないやろし」
「ほな、わかめ酒ってなに」
「困らせんといてくれよ」
コオロギは真っ赤になっていた。
「今日、夕飯食べていくん?」
「おおきに。先生の手料理、好きやわ」
「いつも姐さんの手料理を食べとるの」
「姐さんは親分と健優と自分の分しか作らん。たまに客人が来たらご馳走を作るけどな」
キッチンに立っていた私は手を止めてしまった。
「あなたはなにを食べとるの」
「自分でパンとか総菜とか買うて食う」
悲壮な表情をしてしまった私に、コオロギは慌てて言う。
「わしは居候や。姐さんの手を煩わせとうないから、十四になってからは食事を断っとる。食うてよと姐さんは言うてくれるんやけど、嫌なんや」
コオロギはぽつりと言った。
「黒田家の家族団らんの中におるのは」
梅雨時なので、扇風機の風を強くして、私はナスを素揚げにした。スライスした玉ねぎとツナをポン酢で合わせたものに浸す。卵焼きと、鶴橋で買ってきたキムチも出すと、コオロギは喜んで食べた。男性用のお碗をコオロギのために買い、酒やたばこはやめさせた。私の家にいる間のコオロギは、学ぶ意欲と食欲をあふれさせた、一人の健康的な男子だった。
学校へ行くと、屁理屈ばかりこねる頭でっかちの男子や、女性教師を小間使いとしか思っていない男性教員たちに囲まれている。余計にコオロギのピュアさがまぶしかった。
学校で教える授業はつまらなかった。私がつまらないのだから、生徒たちはもっとつまらないだろう。再び授業中は騒がしくなりはじめ、保護者からのクレームもまた出てきたが、私は、コオロギを教育し一人前にするというやりがいを見つけた。
小さなちゃぶ台でコオロギと夫婦のように夕食を摂りながら、夏になるころには私は仕事の愚痴をコオロギにこぼすようになった。
「あなたみたいに知る喜びや探求心を持った人に教えたいわ」
「タンキュウシン」
たくあんを噛みながらコオロギは言い、箸を置くと辞書を開いた。ふむと意味を理解すると単語帳に記した。
「俺みたいなんは極道にようけおるで。極道相手の学校を開いたらええのに」
「無理や、進学校の男子生徒ですら持て余しとんのに、ヤクザ相手なんて」
「先生に手ぇ出すのがおったら俺が日本刀で斬ったる」
じっと見つめられ、私は思わず目を逸らしてしまった。たまにこんなふうにコオロギは熱い視線を私に送ってくる。部屋を訪ねてきたとき私が扉を開けるとぱっと瞳を輝かせ、夕食のあとは満腹になるとうっとり私を見つめる。感情があけすけの瞳を、私は受け止めきれずにいた。
彼は普通の十七歳ではない。暴力と欲望にまみれた世界で大人に揉まれながら成長した。十七歳の未成年とは思えない貫禄があるが、どこか無邪気だ。一方で体は確実に大人の男性であるコオロギに、私は正直、欲情しそうになる瞬間がないでもなかった。
だが私は教師だ。三十路の女が、十七歳の青年に手を出していいはずがない。
「明日、朝が早いんやわ。今日は早う食べて帰ってくれんか」
「ほうか。わかったわ」
私は茶碗を重ねて台所へ逃げた。洗い物をしていると、食べ終わったコオロギが食器を片付けにやってきた。距離をおいて声をかけてくる。ジーンズのポケットに指先をねじこんでいた。
「先生。迷惑やったら言うてな。遠慮せんと」
私は慌てて水を止めた。
「そんなふうには思うてへんよ」
「先生の人生の邪魔はせんよ。俺はヤクザやから、近所の目もあるやろうし」
「別に、誰もなにも言うてへん」
「学校は大丈夫なんか」
「学校からもなにも言われてへんし、学校に行かれへんかった人に勉強をボランティアで教えているだけや。私は道を外れたことはしてへん。そうやって胸張って言うわ」
「ほうか」
コオロギはどこかきまり悪そうに首の後ろをかき、「ほな帰るわ」と自宅を出て行った。それきり二週間、音沙汰がなくなった。
コオロギが来ない二週間は苦痛で仕方なかった。男に期待しないとあれほど念じてきたのに、結局、十七の青年相手に心をよじらせてしまう。
ひとりきりの週末、気晴らしにミナミまで足を延ばした。仲間とつるんだ若者たちが元気に悪さをし、カップルが我が物顔で闊歩する街だ。私はずっとミナミが苦手だったが、コオロギはアメリカ村でよく買い物をするというので、足が向いてしまった。
未来への希望にあふれた若者の街に身をゆだねていると孤独感が増し、どこまで行っても私は一人ぼっちなのだと追い詰められていく。御堂筋を挟んで反対側にあるヨーロッパ通りに逃れた。
イタリア料理店やドイツ料理店が目に入ったがひとりで豪華な食事を摂ったところで余計むなしくなりそうだ。この数カ月、毎晩のようにコオロギと二人で夕飯を食べていた。ひとりの食事が身に沁みて辛い。
どうして急にいなくなったのか、私が冷たくしたからや、と自問自答する。今度彼が情熱的な視線を送ってくれたら全力で受け止めよう。私の人生が滅茶苦茶になっても構わない、もう彼しかいないのだという気持ちになってくる。
レンガ造りの建物の一階に花屋があった。大ぶりで豪華な花が咲き乱れる中、花屋の奥の棚の陰に『仏花』のコーナーがあり、菊の花がいた。私は自分の仄暗い名前が本当に嫌いだった。
ポケベルが鳴る。コオロギだ。10105、いまどこ。連続して0106と入る。待っているという意味だ。アパートに来ている。
私は堺筋でタクシーを拾い、急いで天満のアパートに戻った。今日も高架下の占いセンターは人だかりができている。いつかあそこの占い師に、コオロギとの未来を占ってもらおうか。それでなにかが決断できるのならこれまで避けてきた占いも悪くはない。あそこに行列を作る人たちは、おそらく、なにかの決断の後押しをしてほしいだけなのだ。
アパートの階段を駆け上がった。コオロギは玄関の扉の前で背を丸めてしゃがみ、私を待っていた。
「ごめん、出かけとった」
急いでカギを開けた。
「いや、またベル入れるの遅れた」
コオロギは乾いた笑い声を上げて、ゆるりと立ち上がった。ふらついている。
「風邪でも引いたん。顔色が悪いで」
コオロギは中に入ろうとしたが、どうしてか、躊躇した。
「あのな、先生」
「どうしたの。早く入って。おなかすいとる? お昼ご飯は」
「今日は勉強できそうもないねん」
「別にそれでもええよ」
「体が痛くて勉強に集中できそうもないんや」
「ええから入って」
彼の腕を引いたら、彼は背中を固くこわばらせた。
「親父に、家で寝とけと言われたんや。水くれんか」
ちゃぶ台に背を丸めて座ったコオロギに、コップに注いだ水を出す。コオロギは袋に入った錠剤を一粒取り出し、口に入れた。
「なんの薬」
「痛み止め」
「誰かと喧嘩でもしたん」
先生、とコオロギが、ちゃぶ台の下のじゅうたんをいじくりながら言う。
「わし、もしかしたら曾根崎に長くおられんようになるかもしれん」
「どういうこと。引っ越すん」
コオロギは覚悟を決めたように背筋を伸ばし、しかめっ面で、Tシャツを脱いだ。無駄な贅肉が一切ない痩せた上半身にどきまぎする間もなく、赤く腫れ上がった背中に驚愕した。
「なんやのこれ」
「モンモンの筋彫りや」
刺青の下書きのようなものだろうか。色が入る前だからなんの絵かわかりにくいが、テレビでよく見る桜吹雪や鯉などではない。人物が二人、描かれていた。
「急に親父に呼ばれてよ。連れてかれたんが彫り師のところや。いつかは入れなあかんと思とったけどな、柄を選ばしてくれん」
「勝手に彫られたの」
「なにが彫られとる」
「ようわからん。人が二人おる」
ちょんまげの男が着物姿の男を痛めつけているように見える。
「わしは菊の花にしてくれと頼んだんや」
胸が痛いほどに高鳴った。
「菊の花、どっかに入っとるか」
「入ってへん。これは浮世絵ちゃうかな。勝手に人の背中にこんなもん彫ってええの」
「親父の命令にはさからえん。いずれ跡目を継ぐためにも修業して来い、言わはるし」
いつだったか健優が言った通り、黒憂会をコオロギが継ぐのは間違いないようだった。
「こんなたいそうな刺青を入れることが修業なん」
背中に触れると異様な熱を持っていた。冷やしてやろうと、洗面器に氷水を張り、救急箱から出した清潔なガーゼを浸した。ぺたりと背中に張ってやる。コオロギはビクリと肩を震わせたが、やがて体が弛緩していった。
「おおきに。気持ちええわ」
「まだまだこれから色を入れるんやろ」
「せや。二、三年かかると彫師は言うとった」
「そのたんびにこんなに痛うなるのはかなわんな」
ついこの間まで、無邪気なガキ大将のようだった彼が、この刺青を機に本格的に極道の道に入るのだろう。もともとそこにいたとはいえ、私にとって大きな決断を迫るものになりそうだった。
「先生、わしが怖いか」
「怖ないよ」
「こんな刺青しょってる男が部屋に通うのはまずいやろ。完成したら、もう会わんほうがええな」
「そんなこと言わんといてよ」
「どっちにしたって、わしは曾根崎を出なあかん。吉竹組の特別な十四人に選ばれた」
「なにそれ」
「えらい名誉なことらしいで。親父が小躍りして喜んどった。わしのために宴会を開いたほどや。背中の彫り物が大方出来上がったら地下に潜れと言われとる」
「どういうこと」
「わしが出征すれば親分は吉竹組の若中から幹部になれるらしい。若頭補佐は無理やろけど、慶弔委員とか関西支部長とかな」
私にはさっぱりわからないことだった。
「先生、わしは怖い」
コオロギが呟いた。
「人殺しなんかしとうない」
横目で私を見る。