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第六章 自白(承前)

 

 捜査本部のデスクに戻る。藪が濃い煎茶を淹れ、みたらし団子を食べていた。

「お疲れ。いい感じじゃん。食べて」

 三日前に南房総から帰ってきた藪は、誓に取り調べを任せたままだが、流れは把握している。飴がいい具合に効いているので、鞭を使うタイミングを図っているのだろう。

「今日は忠虎殺しを否定しなかった」

「初めてですね。いつもは激怒するか、即座に否定していたのに、黙り込んでいました」

「あと一息だな」

 どれか使うか、と藪はスマホで撮影してきた大野の故郷の写真や、卒業した小学校から借りてきた卒業アルバムなどを見せた。

 丸田が入ってきた。

「大野の弁護士が接見希望に来てます。差し入れがあるとかで」

 容疑者の秘密交通権があるので立ち合いはできないが、差し入れがある場合は事前に確認が必要だ。

「差し入れの内容は」

「下着三枚と文庫本です」

「文庫本。珍しいな」

 誓は藪と丸田が出て行くのを見送り、バッグからスマホを出した。今日の午前中に雷神がマニラから帰国すると聞いていた。案の定、着信が残っていたが、五分おきに二十回近く電話をかけてきている。緊急事態のようだ。

 

 誓は曳舟ボクシングジムに向かった。受付でオーナーが出迎える。

「すみませんね、雷神のことで」

 応接室に案内された。雷神は難しい顔でソファに沈んでいた。二か月ぶりに会ったが、よく日に焼けて体もひと回り大きくなった気がした。

「誓さん。ごめんね、忙しいのに」

「一体どうしたの」

「実はガルシア戦の調整が難航している。あっちが、俺の実力不足を言い出したんだ」

 オーナーがコーヒーを出した。

「フィリピンのボクシング興行も、いろんな輩が絡んでいるみたいでね」

 言ったそばからオーナーは言い訳する。

「うちはもうそういうのはないですよ。ここを立ち上げたのは山城拳一さんという元世界チャンプですけど、彼はヤクザになってしまったので、きっぱり縁を切りました」

 オーナーは誓が山城を追うマル暴刑事であることを知らないようだ。

「ガルシアは引退後に飲食店をやって失敗、借金漬けになっているようです。沼にはめ込んだのが、フィリピンマフィアだそうです」

「なんという組織ですか」

「さあ。そいつがガルシアを丸め込んで、日本での興行をふっかけてきているんです。五千万円を要求してきました」

 誓は相場がわからない。

「会場やチケット販売、先方の渡航費や滞在費を全部こっちで持って、なおかつギャラが五千万円です。引退している選手に払う額ではありません。最初の話では、一千万円だった。チケット代や放映権で充分に利益が出るギャラでしたが、五千万円は無理だ」

 雷神が熱心に訴える。

「消費者金融を回ってなんとか五百万円はかき集めてきた。オーナーもあちこち頭を下げて二千万円は調達できそうなんだ」

「ガルシア側には値切って三千万円を提示しようと思っています。あと五百万、桜庭さんが持つことはできませんか」

 金の相談だったのかと拍子抜けする。情報提供者に一括で五百万円は与え過ぎだ。誓の顔色を見て、オーナーが付け足す。

「三千万円ならギリギリ利益は出る。チケットが満席なら、利子をつけて桜庭さんにお返しできるんです」

「ガルシアが来るなんて、これはチケット完売間違いなしだよ。下手な投資より安全なんだ。誓さん、頼む」

 二人はいきなり土下座した。

「僕の将来がかかってる。ガルシアと対戦できたらいい経験になるし、名前も売れるんだ」

「こいつの名前でチケットが売れるようになれば、バイトなんかせずに練習に打ち込める。こいつはベルトを獲る才能がある。なんとか投資してもらえませんか」

 誓は困り果ててしまった。もし断ったら、雷神との関係は終わるだろう。下手をしたら、山城の耳に入る。山城は二度とこのジムに近づかず、完全に尻尾をつかめなくなる。

「時間をください」

「時間がないんです」

 オーナーがかぶせてきた。

「今日の十六時までにガルシア側に結論を伝えないといけない」

 もう十四時半だった。

「どうしてもっと早く相談してくれなかったの」

 誓は雷神を責めた。

「誓さんにはこれまで援助してきてもらったから、最後の最後まで頼るつもりはなかったんだ。でも、もう他に当てがない」

 雷神は再び床に額をこすりつけた。

「あと三十分で銀行が閉まっちゃう。誓さんが決断してくれないと、あと三十分で僕の夢がついえる」

 オーナーも重ねてくる。

「雷神は対戦相手候補に連続して断られて、もう道がない。ガルシア戦は起死回生のチャンスなんです」

「ガルシアとの対戦のために、体重も増やした。フィリピンの強化合宿は死ぬほど辛かったし金もかかったけど、吐くほど食べて筋肉付けて、この日のために全てを捧げてきたんだ。お願い、誓さん」

 誓は首を横に振った。

「興行のギャラを吊り上げてきたのはフィリピンマフィアなんですよね。私がその金を払ったら、反社に金が流れることになります」

 オーナーに尋ねる。

「ガルシアとの興行を持ちかけてきたマフィアの名前を教えてください」

 オーナーが棚から英語の企画書を出した。

「こちらにフィリピンの興行会社の名前と住所がありますが」

「フィリピンマフィアのフロント企業だと思いますが、直接やりとりしているんですか」

「いえ、間に日本人ブローカーが入っています。ヤマガタさんという人で、彼が僕らの交渉相手です」

 フィリピンの日本人ブローカーなど、たいがいが暴力団員だ。しかも銀行が閉まる三十分前に話を持ちかけて急かしてくる。詐欺の手口そのものだ。

「桜庭さんがこんなことを知ってどうするんですか。まるで警察みたいですけど」

 この流れでは正直に名乗るしかなかった。

「私は警視庁の者です」

 オーナーは目を丸くし、雷神を見た。

「このブローカーの実態を調べさせてください。リミットの十六時にあちらから連絡が来るのですか」

「え、ええ」

「私のことは伏せ、振り込みは一週間後になると言ってください。嘘になるので、金の目途がついたことは言わないこと」

 オーナーは納得しかねる様子だ。誓は雷神に訊く。

「ヤマガタの写真はある?」

「一緒に食事をしたときの写真があるよ」

 ガルシアが経営するレストランで記念に撮影したものを、雷神が誓のスマホに送ってくれた。日本食レストランのわりに、内装は派手で中華料理店のように色彩豊かだった。

 ヤマガタは五十代くらいの太った男だ。詰襟の長袖シャツを着て口ひげをたくわえていた。同席者がそろって半袖ハーフパンツなのに、ヤマガタの服装は暑苦しい。腕や首周りの刺青を隠したいのではないかと思った。

「ガルシアとこのとき一緒に食事をしたの」

「いや、会えなかった。彼とは直接、話をしていないよ」

「強化合宿にガルシアは来なかったのね」

「風邪を引いたから来れない、とヤマガタさんが」

 雷神は口ごもってしまった。

「ヤマガタの素性をまずは確かめた方がいい。これは詐欺かもしれない」

「そんなはずはないよ。具体的に後楽園ホールを押さえる話まで出ているのに」

「押さえるのはこちらで、ヤマガタはこんな誰でも作れるような書類を出して金をせびってきているだけよね。ガルシアと直接会えたわけでもなく、彼の店で食事をしただけ」

 雷神は目を吊り上げた。

「そういう話をしているんじゃないよ。誓さんは、五百万円を出してくれるんだよね」

 雷神はガルシア戦に選手生命を懸けているから、その根本を覆す話が頭に入らないようだった。

「これは詐欺の可能性が高いんだよ。金を振り込んだ時点でヤマガタも、マフィアのフロント企業とも音信不通になる」

 オーナーは我に返った様子だ。

「雷神、一旦冷静になろう」

 雷神は駄々をこねる。

「これが詐欺じゃなかったと後からわかったらどうするんだ。僕のチャンスを誓さんは潰すの。応援してくれると言ったじゃないか」

 誓は首を横に振った。

「あきらめて」

「あきらめない」

 雷神は燃えるような瞳で誓を見据えた。

 

 誓は雷神が強盗でもしないか心配だったが、一旦、駒込署の捜査本部に戻った。藪はいない。そのデスクに未開封の男性用下着と、遠藤周作の『反逆』という歴史小説が置いてあった。弁護士が持ってきた、大野への差し入れだろう。学のない大野がこんな本を読むだろうか。暗号でも仕込まれていないか、文庫本を捲る。

 丸田が捜査本部に戻ってきた。誓はフィリピン在住の日本人ブローカー、ヤマガタの画像を見せた。

「この男の素性を調べてほしいんですが」

「大野の周辺の男ですか」

「いえ、曳舟ボクシングジムに詐欺を仕掛けてきた男です。ところで藪さんは?」

「大野に鞭を振るいまくってますよ」

 誓は取調室へ向かった。廊下にも大野の怒鳴り声が聞こえてくる。マジックミラー越しに聴取を見た。

「ふざけんな何様のつもりだ、ああッ」

 大野はかつての調子に戻っていた。

「弁護士の差し入れを早く渡せ。なんで没収なんだ」

「下着は渡すって言ってるじゃないか」

「文庫本はどうなる。早くよこせよ」

「あんた読書家じゃないだろう。難しそうな本だったが、読むのか」

「読むに決まってる。アニキが読めと言うなら読むに決まって……」

 大野は慌てて口をつぐんだ。あの文庫本は弁護士を通じて山城から差し入れられたものらしかった。

「やっぱり、山城からの差し入れか。接見のとき弁護士がそう言ったんだな」

 大野は決まり悪そうにそっぽを向いた。

「山城は特定抗争指定が出ている暴力団の幹部、その上警察から行方をくらましている。そんな男が差し入れたものなんか、渡せない」

「俺はあんたが大嫌いだ。どっか行け」

「それは残念。若い方を呼ぼうか」

「あの若い女刑事だってお前の子飼いだろう。金輪際しゃべらない。今日は終わりだ」

 大野は立ち上がり、「連れていけ」と廊下で待機している留置官に怒鳴った。誓は慌てて取調室に入った。

「大野さん、落ち着いてください。ここからは私が引き受けます」

「あっち行け、中年ブスに若いブスを相手にし続けて目が腐ったよ、この野郎」

 藪が書類をまとめながら立ち上がる。

「私がブスならあんたはドブ顔だな」

「なんだとこの野郎」

「藪さん、やめてください」

 藪は誓の腕も振りほどき、さっさと出て行く。誓は大野を落ち着かせて信頼関係を取り戻そうとしたが、無駄だった。

 

 大野と築き上げた関係が崩れてしまい、一週間が経った。すでに薬物売買で起訴されているし再犯だから保釈されることはない。勾留期限の延長を地裁に申し出る必要もないのだが、検事は電話をしてくる。乗鞍も「なにをもたついているんだ」と藪をせっついた。

 藪は今日も捜査本部のデスクでみたらし団子を食べていた。

「私ばっかりせっつかないでほしい。ナシ割はどうなってるの。現場の防カメに大野の姿は映っていたし、窓割って踏み込んでんだよ、汗とか血液とかなかったのか。凶器はどこへ消えたんだ」

 現場からも逃走経路からも証拠は見つかっていない。防犯カメラに侵入者の姿は映っていたが、フルフェイスのヘルメットをかぶっていた。背格好が同じというだけでは、証拠としては弱い。

 誓は、山城が差し入れた文庫本を出した。

「一週間かけて読みましたけど、書き込みやマーキングはどこにもありませんでしたし、暗号になりそうな文章もありません」

 この文庫本の差し入れを没収したことで大野は怒り出したのだ。

「渡していいと思いますけど」

 藪はぎろりと誓をにらんだ。

「あんた、本当に読んだのか」

 藪は誓の手から小説を奪った。

「主人公の荒木村重は謀反を起こして織田信長から追われ続けるんだよ。その間、荒木の周辺の者たちが何百人も殺害された。女房子供も、高野山の高僧までも」

「はい、確かにそう書いてありましたが」

 上座にいた乗鞍が話に入ってきた。

「なんで山城がこんな本を差し入れたのか、わからないか。裏切ったら殺す、どこまでも追いかける、そしてお前の周辺の人間も殺してやるぞと脅しているんだ」

 誓はそこまで深読みできていなかった。

「それは確かにまずいですね」

 大野は報復を恐れ口を閉ざすだろう。

「大野の故郷には年老いた両親が暮らしている。娘があんな亡くなり方をしているのに大野の巻き添えで殺されたら、と恐れて貝になるだろうな」

 乗鞍が言った。誓は憤慨する。

「山城ってこんな卑怯な奴だったんですね。元世界チャンプとは思えない。弟分たちのために指を詰めたかつての任侠心はどこへ行ったんでしょう」

「権力に目がくらんでいるんだ」

 乗鞍の意見に藪も同意した。

「千住が殺害されて、いま向島一家は総長の座が空席だ。次は山城か倉敷か。水面下で権力闘争が始まっているんだろう」

「山城は四代目向島一家総長の座を狙っているということですか」

「手柄として、千住を殺害した町田双蛇会のトップの首がどうしても欲しい。だが自分の手を汚すとムショ行きで跡目を継ぐことはできない。だから子飼いにやらせている」

 一時期はタレントもやっていた。山城は生来の目立ちたがり屋なのかもしれない。

 誓は文庫本を取った。

「この本、やはり大野に渡すべきです。山城が権力に取り憑かれて変わってしまったこと、大野にわからせましょう」

 藪は、どうだろうと首を傾げた。

「山城を語るときの大野の表情を間近で見ていただろう」

 一目惚れした、と嬉しそうに語っていた。

「大野にとって、惚れ込んで人生を捧げた男が、山城なんだ。そんな彼がいまや権力に取り憑かれて弟分たちをいいように使ってる。逆らえば容赦なく殺すクズに成り下がったと認識すれば、大野は傷つくだろ」

「でも事実です。それを伝えて事件の背後関係をゲロさせるべきではないですか」

 藪は誓の目を覗き込んだ。

「加害者にゲロさせる以上に大事なことがある。加害者の心を守ってやることだ」

 茶を淹れてくる、と藪は給湯室に行ってしまった。

「藪さん気持ち悪い。これまであんなに厳しく大野と対峙していたのに」

 乗鞍が噴き出した。文庫本を誓に渡す。

「いまの話を、お前が大野にしろってことだ」

 

 誓は文庫本を持って、取調室に入った。大野は「ようやくかよ」とため息をついた。

「あんたはさすが、話がわかるな。アニキの差し入れ、読ませてくれ」

 誓は上下巻に分かれた文庫本を渡した。大野は目を血走らせ、ページを捲る。内容ではなく、なんらかの書き込みを探しているのだ。人生をかけて惚れた男からのメッセージを欲している。

「その小説を読んだことありますか」

「いや。俺はあんま本は読まない」

「戦国時代の小説です。私も歴史は苦手だから読むのが大変でしたけど、荒木村重が出てくる話らしいです」

 大野の手が止まった。顔面が硬直している。『荒木村重』でヤクザの間ではもう真意が通じるのだろうか。

 大野は文庫本を閉じ、デスクの上に放り出した。

「嘘だ。山城さんがこんなものを差し入れるなんて、う、嘘だ」

 誓は黙って続きを待つ。大野は怒り出した。

「お前ら、俺を嵌めようとしてるな。本当は違う本を持ってきたはずだ。もっとこう、任侠の熱いヤクザ小説とか、俺を激励するような本だよ。そうだろ」

「だから藪さんは差し入れを没収したの。あなたがものすごくショックを受けるとわかっていたから」

 大野の目にみるみる涙がたまっていった。

「私も藪さんも女だけど、男が男に惚れて盃を交わすその重さは、理解しているつもり」

 妹の死を語るときはこらえていたのに、大野の目から涙が落ちた。やはり大野は家族を超える結びつきを山城に持っていたのだろう。

「私は、山城がこんなひどい差し入れをしてあなたを脅しているということを包み隠さず伝えるべきだと藪さんに言ったのよ。そうすれば私たち警察には有利でしょう。あなたは山城との縁を断ち切る覚悟ができる。自白しやすくなるだろうから」

 大野は悔しそうに歯を食いしばっている。

「でも藪さんは、頑なだった。あなたの心を守りたいって言ってた」

 大野は背を丸めて俯いてしまった。二度と顔を上げない。聴取の時間が終わった。

 

 

 

 

(つづく)